クリシュナムルティ 毎朝、彼の弟子たちに説教をしていた教師の素敵な逸話があります、ある日、彼が説教壇に上がって話し始めようとすると、鳥が窓辺にやって来て、そこで囀り始めました、そして、教師は静かになりました、そして、その鳥が飛び去ると、彼は言いました、“宜しいでしょうか、説教は終わりです”と。私は我々が同じようにできたら良いのにと願います!
質問者 なぜあなたはそうできないのですか?
クリシュナムルティ 我々はそれを行っています! これが我々の囀りです。そのようにあなたは耳を傾けることができます。
我々は、先日、思考の重要性と思考の余すことのない非重要性のことを話していました、つまり、思考は大いなる行動をもたらし、そして、それ自身の領域内には自由の限界があり、そして、余すことなく条件づけを解かれた精神の状態があることを話していました。そのように、もし我々が、今朝、条件づけの問題を検討できるなら、表面的文化的な条件づけだけではなく、なぜ条件づけが生じるのかも検討できるなら、そして、条件づけされない、それを超えている精神の質とは何かを検討できるなら...なぜなら、我々は、愛とは何であるのかを明らかにするために、このことをかなり深く検討しなければならないからです。そして、愛とは何かを理解するとき、恐らく、我々は死の余すことのない意義を理解できるでしょう。
そのように、最初に、我々は、もしあなたも話し手と一緒に歩を進めるなら、この条件づけの問題を一緒に取り組みます、そして、精神が余すことなく完全にこの条件づけから自由になりうるのかどうか自分自身で明らかにします。人は見て取ることができます、そして、それはかなり明らかです、我々がいかに表面的に文化や社会や我々の周辺のプロパガンダによって条件づけされているのかを。ナショナリティの条件づけ、特定の宗教や宗派の条件づけ、教育による条件づけ、環境的な影響による条件づけ、人はそれをかなりはっきりと観察できて、それに気づけます。私は思います、それはかなり明白で、かなり単純なことであると、ほとんどの人間が、どの国やどの人種に属していようと、あるいは、いかなる特定の文化や宗教的プロパガンダの下にあろうと、人々は条件づけされていると、形づけられていると、鋳型にはめられていると、そのような特定のパターンに嵌め込まれていると。人は自分自身の中にそれを見て取ることができます。そして、人はかなり容易にそれらを脇へ退けることができます。
それから、より深い条件づけがあります、生に対するその攻撃的な姿勢です。攻撃性は支配感覚や力や地位や威信の追求をも意味していて、それは更にもっと難しい問題です、そして、人は、それから完全に自由になるために、そのことを非常に、非常に深く検討する必要があります、なぜなら、それは非常に微妙な問題であり、それは異なる様相を呈するからです。人は、自分は攻撃的ではないと思うかもしれませんが、人が何らかの結論や意見や価値評価を言語的にも非言語的にも抱くと、そこに断定的な感覚が生じて、それが次第に攻撃的に、暴力的になります。人はそのことを自分自身の中に見て取ることができます。
ここで言っても宜しいでしょうか、どうかメモを取らないで下さい。それはあなたの周りの他の人たちの迷惑になるだけではなく、あなたがメモを取っていると、あなたは耳を傾けることができなくて、あなた自身を観察できません。それはあなたが部屋に戻って考えてみようと思うことではありません、我々が行っていることは、我々が、今、この瞬間に、歩を進めながら観察していることです。お願いします。そのように、人は恐らくあなたをそのように行うよう強制できないので、我々はあなたにお願いします、メモを取らないで下さいと、なぜなら、それは妨げになるからです、あなた自身のためにも。そしてまた、どうかテープレコーダーを持ち出さないで下さい、宜しいでしょうか、マイクロホンを持ち出すと、それもまた他の人たちの迷惑になります。
その攻撃的な条件づけに気づくことです、つまり、人が使うその正に攻撃的という言葉です、あなたはその言葉を非常に穏やかに言うかもしれませんが、その言葉の背後には何らかの快感があります、そこには何らかの断定的な、支配的な、強迫的な思いが潜みます、そして、それが暴力的になるとき、それは非常に露骨になります。宜しいでしょうか、それが我々の条件づけです。その攻撃的な条件づけが、人がそれを人の動物性から獲得していようと、あるいは、人がそれを自分自身の断定的な快感から手にしていようと、攻撃的になります。そのことを人は発見する必要があります、なぜなら、それが我々の条件づけの一部だからです。人はその言葉の余すことのない意味で攻撃的でしょうか? 攻撃性、その言葉は一歩前に踏み出すことを意味します。
そして、我々の条件づけの一つが比較することです、あなたが立派と思うこと、あるいは、ヒーローと考えること、あるいは、何らかの記憶と、あなた自身の中で、あなたがそうでありたいと思うことを現にある通りのあなたと比較することです。比較しての、断定的な追求もまた我々の条件づけです。そしてまた、それも途方もなく微妙な何かです。私は自分自身を私よりも少し利発な誰かと、少し聡明な誰かと、少し身体的に美しい、均整の取れた誰かなどと比較します、密かに、あるいは、公然と。そのように、人は絶えず比較しながら独り言を言っています。比較していると―どうか、あなた自身の中でこのことを観察して下さい―比較していると、断定的になるだけではなく、攻撃的な形を取るだけではなく、成就する感覚も生じます、従って、その中には欲求不満も生じます。あなたが成就できないとき、欲求不満が生じます,そして、劣等感が生じます。私は願います、我々が歩を進めているとき、あなたもそうしていることを。攻撃的な条件づけがあるだけではなく、子供の時から、我々の全ての教育、我々の全て教育制度はそれに基づいています、つまり、比較することです、もっと成績を上げることです、試験です、あなた自身をあなたよりもずっと賢い子と比較することです、その戦いが続きます。そして、そのように比較する中に、妬みや嫉妬が生じて、あらゆる争いが生じます。
比較することは計ることを意味します、つまり、私は私自身を私が思う現にある通りの私と計っています、私が思うより良い何かと、より大きい何かと、より立派な何かと計っています。違いますか? どうか、このことを一緒に取り組んで下さい、あなたが耳を傾けて私が話すのではなく、どうか、我々は共に、一緒に歩を進めて下さい、このことを理解するために一緒に歩んで下さい。なぜなら、あなたは見て取るからです、我々の条件づけは途方もなく深いと、そして、非常に微妙な何かであると。そして、人は問います、精神はこの条件づけから解放されうるのかと。そうすると、社会的な条件づけを見て取ります、その文化です、競争的なそれです、いつも計っているそれです。精神が計ることを行っている限り、それは比較しているに違いありません、その計ることが、そのルールが、そのメジャーが自前のものであろうと、社会によってあなたに与えられたものであろうと、それがあなたの周辺の文化であろうと何であろうと。どうか、私と一緒にそのことを検討して下さい、あなたは分かるでしょう、それは途方もなく興味をそそる、とても興味深いことであると。
そうすると、恐れや快楽の条件づけだけではありません。とても暑いですね? 我々が言っていたように、恐れと快楽の条件づけもあります。その報いと罰、その倫理と宗教的な構造に基づきます、そして、それによって我々は条件づけされているなどです。宜しいでしょうか、なぜ我々は条件づけられるのでしょうか? あなたは我々を条件づけてきた様々な外面的な影響を我々が見て取るのが分かります、そして、内面的に条件づけられることを自発的に要求することが分かります―条件づけを受け入れることです。なぜでしょうか? なぜ精神は条件づけられる必要があるのでしょうか、なぜそれはそれ自身が条件づけられることを許してきたのでしょうか? それらの条件づけの背後にある要因とは何でしょうか? あなたはそれらのことがお分かりでしょうか? なぜでしょうか? なぜ私は、特定の国や文化の中に生まれ、自分自身をヒンドゥー教徒と称し、あらゆる迷信や伝統やその他の全てを身に付けるのでしょうか、それは実際に明らかなことです、家族によって、社会によって、その儀式によって、これをしなさい、あれをしてはいけませんと言う特定のブラフマン階級の絶え間ない何らかの繰り返しによって―何らかの繰り返しです、それが絶え間なく叩き込まれます、それは西洋でも起こります、現在の寛容社会でも起こります―寛容社会にはそれ自身の条件づけがあります―長髪、短髪、あれこれの服装、やぼったいもの、新規のもの、ブルジョア的なもの、お分かりですね。そこで、人は問います、なぜ精神や心、その全活動は、なぜそれは条件づけを受け入れるのかと、外面的な条件づけ、外面的な影響だけではなく、内面的にも形づけられることを要求するのかと。その背後に横たわる衝動とは何でしょうか? あなたはお分かりでしょうか? あなたは、それは何だと思いますか? どうか私に答えないで下さい、我々は少し後でそのことを議論します。あなたは絶えずその条件づけを要求して黙認したり、認めたり抵抗したりしている要因とは何だと思いますか? 明らかな理由は、人は見て取ることができます、人は安全であること、安心することを欲するのです、ある特定の何かを行っている共同体の中で、ある特定のパターンに従っている共同体の中で、そう欲するのです。もしあなたがそのパターンに従わないなら、そうすると、あなたは職を失うでしょう、あなたはお金を手にしないでしょう、あなたは社会的に期待される人間とは見做されないかもしれないなどです。そこで、そのことに対する反乱が生じます、そして、そのような反乱はそれ自身の条件づけを形作ります―それを全ての若い人たちが今経験しています。そうすると、その衝動とは何でしょうか―どうか、このことに耳を傾けて下さい、そして、一緒にこのことを検討して下さい―なぜ我々はそのように行っているのでしょうか? その要因とは何でしょうか? あなたはこのことを明らかしなければなりません。もしあなたがそれを自分自身で発見しないなら、あなたはいつも何らかの形で条件づけされるでしょう、ポジティブにもネガティブにも。
子供の時から、我々が生まれて死ぬまで、このプロセスは続きます。あなたはそれに反抗するかもしれません、あなたは他の条件づけに逃げようとするかもしれません、僧院へ引きこもるか、何らかの活動に身を投じるか、あるいは、人によっては黙想に献身的になるか、哲学にそうするか、お分かりでしょうか、それは同じ働きです、生涯を通して―なぜでしょうか? 絶えず様々な条件づけの形にそれ自身を適応させる働きの仕組みとは何でしょうか? 宜しいですか?
先へ進めても宜しいでしょうか、あなたはその問いが明瞭でしょうか? 私はその問いを明瞭にしていますか? 思考はいつも条件づけされているに違いありません、何らかの自由があるかもしれない領域の中でさえも。思考はいつも絶え間なく条件づけされています、なぜなら、思考は過去の反応だからです、思考は記憶の反応だからです。従って、思考が働いているとき、適応しているとき、活動しているとき、思考は機械的になります、思考はいつも機械的です、そして、条件づけはいつも機械的です。それは非常に容易に何らかのパターンに、何らかの隘路に納まるので、あなたはあなたが生きていると考えます、その隘路の中で途轍もなく活動的になっていると考えます―それが共産主義者としての隘路であろうと、何らかの活動家としての隘路であろうと、カトリック教徒としての隘路であろうと、あれやこれやの隘路であろうと、なぜなら、それはこの上なく容易なことだからです、この上なく機械的な行為だからです。そして、我々は思います、我々は生きていると。思考は、その領域の中で、ある程度の限られた自由を手にするけれども、それの行うあらゆることは機械的です。結局のところ、月へ行くことは極めて機械的です、あなたは幾世紀にもわたって収集蓄積されたあらゆる知識を手にして、そのことを考えて、あなたはそれを追究しえます、それを更にもっともっと技術的に、機械的に行って、あなたはついに月に降り立ちます、あるいは、深海に潜るなどします。精神は隘路に納まることを欲します、機械的であることを欲します、そして、そこに安心や安全性を見出します、そこには心乱すものはありません、私はそうしようと決めました、そして、私はそれを追究します、私はそれが正しいと考えます、そして、私はそれを追究します、そして、それが私の再び感じることです。そのように、精神と頭脳は機械的な働きを要求します、繰り返しうる活動を要求します、その中に安全性があります。違いますか? あなた自身を見て下さい、どれほど多くの習慣を我々は手にしているのかを、身体的にも、心理的にも、知的習慣においても、情動的習慣においても。そして、それがそれを打ち破る最も困難なことの一つです、なぜなら、機械的に生きることは社会的に奨励されているだけではなく、我々一人ひとりによっても励まされているからです、なぜなら、それが最も容易な生き方だからです。
そのように、思考は機械的であり、繰り返しなので、いかなる形の条件づけも追究して受け入れます、そして、そのことがそれに機械的な活動を保証します。哲学者が現れ、新しい理論を発明します、経済的なそれであれ、社会的なそれであれ、数学的なそれであれ、あれこれを発明します、そして、我々哀れな愚かな人間がその隘路を受け入れて、それに従います。我々の社会、我々の文化、我々の宗教的な鼓舞など、あらゆるものが、機械的に機能することを欲する精神を奨励するように働きます。そのような仕組みの中に何らかの刺激的な感覚が醸成されます。あなたがミサに参加すると、何らかの情熱、何らかの興奮、情動主義が醸成されます。そして、それが生のパターンになります。私はあなたがこれまで試みたことがあるのかどうか知りません―一度試して下さい、そうすると、あなたはその面白さが分かるでしょう―棒切れあるいは石か何か、何か古いものを一つ手にして、それに少し形を施し、それを暖炉の上に置き、それに、毎朝、花を添えます。そうすると、ひと月のうちに、あなたはそのことが習慣になっているのが、それが宗教的なシンボルになっているのが分かります、あなたが自分自身をそれと一体化しているのが分かります、その棒切れと、その石と、その小像あるいは他の何かのシンボルと一体化しているのが分かります。
そのように、思考は―どうか、その美を見て下さい、そうすると、あなたは、あなたがそのことを見て取るとき、何が起こるのか分かるでしょう―思考はいつも条件づけされています、従って、思考はいつも機械的です。思考は記憶の反応であるので、過去の反応であるので、そして、その反応はそれらの異体を出ないので、思考は機械的です。人は職業として技術的なことを教えられてきています、そして、あなたはそれに何かを加えたり、少し何かを取り除いたりしています、しかし、あなたはそのラインの中に置かれています―もしあなたが医者などなら。そのように、思考は―どうか、このことを見て取って下さい―何らかの領域の中の思考は依然としてある程度自由です、それは発明できます、しかし、それは依然として何らかの仕組みの中です、何らかの技術的なそれです。そのように、あなたがそのことを見て取るとき、言葉でではなく、知的にではなく、実際にそう感じるとき―あなたは私の意味することを理解します。宜しいですか、あなたがあの列車の音を聞くとき、あなたの全身がそれに気づきます、あなたは、あなたの耳で、あなたの精神で、あなたの頭脳で、あらゆるもので、あなたはそれに耳を傾けています―あるいは、それに抵抗しています。そして、子供の時から、我々は条件づけられています、そして、思考はその条件づけに従います、それはとても容易なことで、とても機械的です。
それでは、精神はそれ自身をその条件づけから解放できるでしょうか? それが育んできた習慣だけではなく、何らかの知的な何か、情動的な何かだけではなく、何らかの意見や判断、お分かりでしょうか、何らかの態度や価値観だけではなく、精神はそれ自身をあらゆるその条件づけから解放できるでしょうか? それは、精神が思考から完全に解放されうるのか、という意味です。強張らないで下さい、私に飛び掛からないで下さい。なぜなら、もしこのことが完全に理解されないなら、私が話そうとしている次のことは意味をなさないからです。その理解は次の問いに向かいます、それは避けられません、もしあなたがそれを検討するなら。
もし思考が機械的なら、もし思考が否応なく精神を順応させるなら、従って、条件づけさせるなら、そうすると、愛とは何でしょうか? お分かりでしょうか? 愛は思考の産物でしょうか? 愛は社会によって、その文化によって、人がその中に生まれた宗教によって、国家によって、条件づけされるのでしょうか? あなたはこれらのことがお分かりでしょうか? それは思考が実際に条件づけされているのかどうかを、機械的であるのかどうかを、条件づけの要因であるのかどうかを自分自身に問うた後で生じる避けがたい問いかけです。そこで、我々が愛とは何かの問いを検討すると、探究すると、見て見ると―愛は思考でしょうか? 愛は思考によって育まれるのでしょうか、思考によって養われるのでしょうか、思考に依存するのでしょうか? 宜しいでしょうか?
それでは、愛とは何でしょうか? 心に留めておいて下さい、表現はそれが表現しようとするその当のものではありません、言葉はそれが伝えようとするその当のものではありません。精神は思考の機械的な活動から自由になって愛とは何かを明らかにすることができるでしょうか? ほとんどの我々にとって、愛はセックスと連想されるか、等しいとされます。それは条件づけの一つの形です。あなたがこの本当に非常に複雑で、難解な、途方もなく美しいものを検討しているとき、人はその言葉が精神をどのように条件づけてきたのかを明らかにしなければなりません。宜しいでしょうか? 我々は殺しません、ベトナムへ行きません、あるいは、他のどこかへ殺しに行きません、しかし、我々は動物を殺すことを厭いません、我々は他の人について残酷なことを言うのを厭いません、他の人についてのゴッシプや醜さを厭いません、それでも、我々は愛について語ります。宜しいでしょうか、もしあなたがあなたの食べる動物を殺す必要があるとすると、あなた自身が農場へ出向いて、それを殺すとすると、あるいは、その醜さを見るとすると、あなたはその食べ物を、その動物を食べるのでしょうか? 私はそれを非常に疑います。しかし、あなたは屠殺者が殺すのを厭いません、そして、それを食べます、そして、そこには大いなる偽善が潜んでいます。
そこで、人は問います、愛とは何かだけではなく、慈しみとは何かを。全キリスト教文化の中では、動物には魂はありません、それらはあなたが食べるために神によって地上に差し出されています、そして、あなたがインドのある地方へ行くと、そこでは殺すことは間違いになります、ハエでさえ、動物やあらゆるものがそうなります、そこで、あなたは最小の屠殺を行います、そして、人々は過度にその対極へ向かいます。それもまたその条件づけの一部です。あなたは非生体解剖論者を目にしますが、その人たちはそれでも驚くべき毛皮を身に着けています。あなたは二重の偽善が横行しているのを知ります。それでは、慈しみとは何かを明かにしようとすると、慈しむことを、言葉ではなく、実際に熱気を帯びて慈しむことを明らかにしようとすると、それはどういう意味でしょうか? 慈しみとは習慣的なことでしょうか、思考的なことでしょうか、親切で、礼儀正しく、優しく、思いやりのあることを機械的に繰り返すことでしょうか? お分かりでしょうか? それでは、慈しみとは何でしょうか? 精神は―どうか、このことに耳を傾けて下さい―その条件づけや機械的な繰り返しや計ることを旨とする思考の活動に囚われた精神は、そのような精神は果たして慈しむことができるでしょうか? それはそれについて語ることができます、それは社会改革できます、社会活動できます、哀れな路傍の異教徒に親切にできるなどです―それは慈しみでしょうか? 思考が命じるとき、思考が活動するとき、慈しみの余地がありえるでしょうか―慈しみは動機とは無縁の行為です、利己心や、いかなる恐怖心、いかなる快楽とも無縁の行為です。そこで、人は問います、愛は快楽でしょうかと。宜しいでしょうか、答えて下さい。
質問者 はい。
クリシュナムルティ あなたは分かります! あなたは言います、はいと。宜しいでしょう、セックスは快楽です、勿論です。
質問者 セックスではありません、愛です。
クリシュナムルティ ちょっと待って下さい、待って下さい、待って下さい。
質問者 年がら年中セックスについて言わないで下さい。
クリシュナムルティ 私は年がら年中セックスについて言っていません。
質問者 年がら年中あなたはセックス、セックス、セックスと言います。
クリシュナムルティ 宜しいでしょうか、宜しいでしょうか、待って下さい、待って下さい。
質問者 愛は淫らな女。それがあなたの年がら年中考えることです、淫らな女、セックスです。あなたは動物を殺すことに異を唱えます、あなたの履いている革靴はそれらではないのでしょうか?
クリシュナムルティ 宜しいでしょうか、我々はそのことを検討しました。宜しいでしょうか、ちょっと待って下さい。
質問者 あーっ、あなたはずっと話していて、あなたは私に決して話させません。
クリシュナムルティ 勿論、そんなことはありません。
質問者 黙りなさい。私にも言い分があります、あなただけではありません。これらは議論です、違いますか、私に話させて下さい。
クリシュナムルティ 我々は暴力の中の快楽を取り上げます、我々は何かを成就する中の快楽を取り上げます、我々は何かを断定する中の快楽を取り上げます、我々は攻撃性の中にある快楽を取り上げます、暴力のあらゆる形の中のそれらです。そしてまた、我々は人が何者かであるという快楽も取り上げます。全て思考の産物です、計る産物です―私はこれです、私はそれになるでしょう。何かについて考えている思考は―それがそれに快楽を与えてきました―それが繰り返されることを欲します。それでは、それら全て、それは愛でしょうか? 快楽は、我々が話している意味で、何らかの経験の繰り返しでしょうか、何らかの成就の繰り返しやその追求でしょうか、攻撃的な態度、主張、恐れの対極の何かでしょうか、それら全ては愛でしょうか? そうすると、どのように精神は、ある種の習慣に囚われたそれは、その連想や計ることや比較を旨として、それらがあらゆる条件づけを生み出す、そのような精神は、どのようにして愛とは何かを知るのでしょうか? 宜しいでしょうか、私は―人は言うかもしれません、愛はこれです、あれです、それです、それらはみな思考の産物です、思考の結果です。そして、それが我々の生です。絶え間ない争いの生、そして、攻撃性、何らかの満足のための殺戮、何らかの義務のための、快楽のためのそれ、それが我々の生きると称することです、その恐れ、罰、苦痛、悲しみを伴うそれです、それら全てが生きることです。そして、我々はそれにしがみつきます、そして、思考で切り取られたその領域の中で、我々は逃亡を図ります、あるいは、もっと生産的な、もっと創造的な、もっと何かの別の領域を見つけようとします、そして、それもまた思考によって作り出されます。どうか、我々の行っていることを見て取って下さい、我々はお互いに何かを押し付けているのではありません、実際に進行していることを観察して下さい。
そうすると、そのような問いから、そのような観察から、次の問いが生じます、死とは何かです。死ぬとはどういう意味でしょうか? それはこの上なく驚くべき経験に違いありません。我々はこのことをサディスティックな理由で言っているのではありません、あるいは、人は本能的に自殺を欲する訳ではありません、そうではなく、それは完全に消滅する何かに違いありません。お分かりでしょうか? 活動していたものが、争っていたものが、格闘していたものが、混乱していたものが、悲しみが、そして、あらゆる気がかりな絶望が、欲求不満が、我々が生と称するそれらが突然消滅します。名を成そうとしている人が、独断的な人が、暴力的な人が、宜しいでしょうか―絶たれます。私はあなたが気づいていないのかどうか知りません、心理的に継続するいかなるものも機械的になると、繰り返しになると、心理的に継続するものが消滅するときにのみ、全く新しい何かが生まれると。あなたはそれを自分自身の中に見て取ることができます。創造は現にあるものの、あるいは、あったものの継続ではなく、その消滅です。あなたは理解しましたか? もし私が、もし人間が、人は婆羅門であると、人はキリスト教徒であると、人は仏教徒であると、人は共産主義者であると、人は社会主義者であると、宜しいでしょうか、様々な馬鹿げた類のことを繰り返し主張するなら、人は決して新しい何かを見つけることはできません。それら全ての“勢い”が消滅するときにのみ、新しい何かが生まれます。
そのように、人は心理的に死ぬことができますか? あなたは私の質問を理解しますか? 既知を死んでやり過ごすのです、これまでのことを死んでやり過ごすのです、あなたの望むようになるためではありません―消滅です、既知から解放されるのです。結局、それが死とは何かです、つまり、身体組織は死にます、自然に、哀れにも、それは酷使されてきました、乱暴に扱われてきました、種痘を施されてきました、欲求不満を起こさせてきました、あらゆる種類のものを食べてきました、嗜好次第です、飲酒してきました、宜しいでしょうか、あなたの生き方です、そして、あなたはあなたが死ぬまでそうするのです。そして、身体は、事故で、年老いて、病で、その内と外の絶え間ない情動的な戦いの緊張の下、それ自身を捻じ曲げて、醜くして、死にます。そして、その死ぬことの中に自己憐憫が生じるだけではなく―どうか、それを観察して下さい―他の誰かが死ぬときにも自己憐憫が生じます、あなたが愛すると考える誰かが死ぬとき、我々の悲しみと称するものが生じます、その悲しみの中に大いなる恐れが生じませんか、なぜなら、あなたは一人取り残されたからです、あなたには頼りにする誰もいません、誰もあなたに慰安を与えられません、そうすると、その中に大いなる自己憐憫が生じます、死んでしまったその人のためだけではなく、あなた自身のためのそれです。
―1970年7月28日 ザーネン
参考:krishnamurti Podcast;Aggression4