「中島晴美作品にみる現代陶芸の構造と国際性」
外舘和子(茨城県陶芸美術館副主任学芸員)


1. 中島晴美の現在 -その国際的評価の高まり

1950年生まれの中島晴美は今年52歳。多治見市陶磁器意匠研究所で後進の指導にあたる一方、殊にここ近年の作家としての活躍振りには目覚ましいものがある。
2000年には滋賀県立陶芸の森創作研修館のアーティスト・イン・レジデンスに招聘され、灰釉の大作(註1)を制作、2001年には茨城県陶芸美術館の「現代陶芸の精鋭」展で新作を発表している。
海外での活動にも積極的で、昨年12月から今年3月にかけてオランダのヨーロピアン・セラミック・ワークセンター(EKWC)に招聘されて初めての磁器に挑み、その成果はベルギーのギャラリー・セントラム・フッド・ウエルクにおける個展で公開、さらに同国のクノック・カルチャー・センターにおけるグループ展でも紹介されることになっている。また、マレーシア、インドネシアにおける現代日本工芸展(国際交流基金主催)での反響や、ドイツのダイヒトアハーレン・ハンブルクにおける企画展への出品と、作品に対する評価は充分に国際レベルに達してきた。


昨今の日本国内の経済不況とは裏腹に、現在日本で最も国際的競争力ないし指導力を持つ人材の一人となっている。海外でリーダーシップをとることのできる陶芸家であることは、オランダEKWCにおける3ヵ月の滞在制作の様子を見ても充分理解されよう(註2)。
本稿は、そのように国際的な評価の高まる中島晴美の陶芸がどのように成立しているのか、その構造を幾つかの視点から再考するものである。中島の作品が海外でも注目される理由の一端を明らかにしてみたいのである。



2. 中島晴美の「セラミック・スカラプチャー(陶芸造形)」-あるベルギー人との対話から

2002年3月3日、中島の作品をはじめとする日本の現代陶芸を欧州で紹介していきたいというベルギーの画廊の女性と話した中で興味深いことがあった(註3)。彼女は現代の陶造形を、「産業陶器は別として」という前提で、(1)器、(2)オブジェ風の器、(3)セラミック・スカラプチャー、(4)スカラプチャー・メイド・オブ・クレイの4種から成るとし、(1)から(3)までが陶芸の範疇であり、(4)はその外側、つまり土でできてはいるが陶芸ではない造形であると説明したのである。ここで筆者の関心は2つある。
一つはセラミック・スカラプチャーとスカラプチャー・メイド・オブ・クレイを彼女がはっきり区別していることである。ここで彼女の言う「セラミック・スカラプチャー」を安易に「陶彫」などと直訳してはならない。この「セラミック・スカラプチャー」はいわば日本の陶芸的な造形あるいは日本でしばしば「オブジェ」といわれる陶芸に相当する。「陶彫」に相当するのは、彼女の説明に基づけば(4)の「スカラプチャー・メイド・オブ・クレイ」の方である。
土の造形を、陶芸的なものとそうでないものとに分けて認識している点は、日本の近年の陶芸造形論(註4)にも通ずるところがあろう。


さらに興味を引いた点は、(3)「セラミック・スカラプチャー」と(4)「スカラプチャー・メイド・オブ・クレイ」の区別の基準である。彼女によれば、(3)は「スキン」つまり、肌や表面が重要であり、一方(4)は(3)に比べて「肌」の重要性は低く、「フォルム」そのものが問題なのだと説明した。彼女が英語のネィティヴでなくヨーロッパ人であることを考慮すれば、「スキン」とは多分に比喩的な言い回しであることも考えられる。普通は「サーフェス(表面)」というところを、質感や触覚的要素も含め、いわば日本語でいう「肌合い」に近い使い方で比喩的にスキンと言ったのであろう。
それにしても、彼女の言葉を参考にすると、日本の造形性豊かな陶芸、例えば深見陶治や井上雅之の作品が欧米でしばしば「セラミック・スカラプチャー」として紹介されるのは、それらが必ずしも日本で言う狭義の「彫刻」として理解されているからではなく、陶芸的な造形ないし造形的な陶芸、少なくとも陶芸の範疇で認識されたうえで「スカラプチャー」と表現されている場合もありえるということが分かる。
勿論、彼女の言葉の使い方によって「セラミック・スカラプチャー」の意味を一般化することはできないし、文脈によっては「セラミック・スカラプチャー」が別な意味やニュアンスで使われることはあり得るが、常にスカラプチャー=(狭義の)彫刻であるとは限らないということは押さえておく必要があろう。あるいは「スカラプチャー」が日本で言う広義の「彫刻」の如く、「立体造形」に近い意味で使われることがあるということかもしれない。この辺りの言葉のズレについては、ヨーロッパの評論を読む際など、注意すべきであろう。


では中島作品は、(1)から(4)のいずれに当たると思うのかと彼女に尋ねたところ、(3)の「セラミック・スカラプチャー(陶芸造形、と訳しておく)」であるという。つまりこのベルギー人は、中島の造形を彫刻や他の造形としてではなく、彼女なりに"陶芸らしさ"を見いだしたうえで評価しているのである。
但し、彼女の言う「陶芸らしさ」の基準、つまり「肌」か「かたち」かというポイントは、やや雑ぱくであることも否めない。なぜなら、陶芸のみならず彫刻をはじめあらゆる造形において(絵画など平面さえも含む)、「肌」は重要な要素であるからだ。例えば、マティエール(絵肌)というものが絵画の要素としてごく一般的に取り上げられ、あるいはまた90年代半ばにブロンズ彫刻の表面の仕上げや色の問題に関わる美術館学芸員のワーキング・グループが形成されるなど、彫刻においても表面の重要性が改めて認識されつつある。
彫刻などに比べ、肌がかたちより重要だから陶芸であるというのではなく、肌がかたちと最も緊密に不可分に成立する造形であるという意味で陶芸的なのである、と考える方が妥当であろう。



3. 「苦闘する形態」における紐作りの磁器の意味


陶芸は、可塑的な土を重力に逆らって立ち上げ、最終的にそれを焼成するという特性上、土を"側で"立ち上げるという原則がある。フォルムの形成に対する側、つまり土の壁の厚みや内容を常に検討しながらつくらねばならないのである。彫刻が芯の造形、ムクの量塊であるのに対し、陶芸が空を孕んだ側の造形であるという構造上の基本的性格とはそのような意味でもある。
この陶芸的な造形において、今回、目黒陶芸館にも並ぶ「紐作りの磁器」は、どのような意味をもつのであろうか。


中島が現在取り組んでいる紐作りの磁器は、オランダのEKWCで始められた。従来、陶土で成形し白化粧していたものを、白い磁土で直接成形し始めたものである。生地そのものをより直接的な色彩要素とするようになったのである。いわば「化粧」を止めて、「素肌」で勝負する方向への転換である。
陶土よりもへたり易く、切れ易い磁土を立ち上げていくため、中島は磁土にトイレットぺーパーとグラスファイバー、及び磁器粉20%を混ぜ、それまで横に積み上げていたものを縦に積み上げていった。「縦に」とは作家によれば、成形中の作品を上から見て土壁が5層程に重なって見えるような積み方であるという。つまり立ち上げていく土の生理や厚みを吟味しながらの"側"の構築である。


陶芸造形は、"縦"にも"横"にも構築する。ここでいう「横」とは、立体としての嵩ではなく、構築する"側"の厚み、即ち土や釉薬の厚みである。陶芸の場合、この縦と横双方のバランスを取りながら進めなければ土は立ち上がらず焼成に至ることができない。磁土成形は中島の新たな「苦闘」の始まりである。
作家によれば、日本で入手できる磁器粉の種類はオランダに比べ少ないという。今回、目黒陶芸館に並ぶ「苦闘する形態」のうちの新作も、EKWCで使用したものよりも目の細かい日本の磁器粉と格闘した作品である。それらは、「ウニウニ」「ヌタヌタ」「ポヨンポヨン」といった作家自身の感覚的なリズム感ある言葉のイメージに沿って土を立ち上げる中島の手法に、磁土ならではの伸びやかさ、軽やかさが加わり、"連続と変容の造形"としての形態感が一層よく示されるようになった。また、磁器土本来の微かな透明感を帯びた濁りのない白さそのものが表面の地色に直結することで、水玉のブルーとのコントラストを一層際立たせている(註5)。
結果、中島作品の最大の魅力である生き生きとした躍動感やムーブマン、あたかも細胞が増殖、拡大、成長するような生命感はひときわ高められている。中島の陶芸は、素材、手法、表現内容が限りなく合致した構造的な美しさへと向かっているのである。



4. 水玉再考

陶芸造形の"側"における最も外側、つまり表面の問題について、もう少し詳細に検討することにしよう。ベルギーの彼女が言う「肌」と最も直接関係する部分でもある。
海外では、陶芸に限らずしばしば派手なもの、目立つものが好まれる傾向がある。確かに中島作品は、快活なフォルムと併せ、白地にブルーの水玉が存在感を強調する。しかしそれは単なる派手さや奇を衒った類のインパクトではない。中島作品に対する「プラスチックのような」とか「ポップアート風の」といった批評は、余りに表層的と言わざるを得ない。


水玉の歴史を振り返ってみよう。
中島作品における水玉の登場は、1987年頃のことである。陶土に白化粧、施釉本焼成の後、転写紙の水玉をピンセットで一枚ずつ貼っていく。中島の陶芸はここでも「苦闘」を続けるのである。再度焼成すると呉須部分が沈み込み、順序の上では「上絵」であるにも拘わらず「下絵」のような効果をもたらし、フォルムとの一体感が強調される。所謂イングレーズという技法である。当初はピンクや白との色彩バランスから黒に発色するドットの転写紙を使用していた。カバンなどをモティーフとした頃の作品がそれである。
しかし、黒はイングレーズの効果(沈み込んで見える一体感)が乏しかったという。1990年代の初めに、作品が半球の増殖のような現在の傾向へと変化するに伴い、ドットはブルーに変化する。きっかけは「白にコバルト」というやきものにおいては伝統的な美意識であったという。が、中島の青い水玉は、陶芸ならではのフォルムを追求する中で、またイングレーズという技法の効果を検討する中で、次第に中島の造形と一体化していったものである。"白地にブルー"が拡大成長するバイオモルフィックなイメージを増強し、そのイメージがさらに、膨らみに沿った水玉サイズの変化を生じさせた。


つまり、中島の水玉は、素材、技法、プロセスとのインタラクティブな関係の中で発見され確立されていった確固たる造形要素なのである。パターンとしての水玉、パターンとしてのやきものを越えた、中島の独創的な表現としての自律した陶芸がそこにある。
ちなみに焼成前の水玉は、オーバーコートの黄が被り「グリーン」に見える。作家の周辺の人々は眼にしていようが、筆者の主観を差し引いても、中島の作品にグリーンはしっくりこない。作品はいかにも未完という風にみえる。この段階ではまだ、中島のドットになっていないのである。フォルムとの一体感の乏しさに加え、生命形態的なイメージに必ずしもそぐわないからである。焼成して水玉の呉須が沈み込み、かたちと一体となったヴィヴィッドなブルーになって初めて、動勢と活力に満ちた中島固有の水玉造形となる。


また、黒いドットの頃は転写紙そのものを作家自身で制作していたが、フォルムの膨らみに合わせ青いドットのサイズ変化をつける頃から、業者に特注した転写紙を使用するようになった。そのことで膨大な水玉を必要なだけフォルムに応じて自在に使用することができ、また、水玉の各サイズそれぞれの規格化が一種のオートマティズムを生み、作品の動的なフォルムを一層明快で力強いものにしている。
転写紙を用いたイングレーズという手法は、印刷に類する技術と下絵風の効果にかかわる、産業的な量産の陶磁器に関係する手法である。それは、中島が勤務する多治見市陶磁器意匠研究所を中心に美濃地方で1969年頃に普及し始めたものだ(註6)。産地の力を個人の純粋な自己表現へと展開する在り方(勿論その逆もある)は、日本の陶芸の強みでもある。中島が現在の研究所に勤務することとなったのは、熊倉順吉の薦めによるという。「オブジェをつくるなら、食べることはきちっと確保」し、「公務員は(略)遅刻だけはするな」(註7)という熊倉の助言は、単に生活の保障だけを意図したものではなかろう。「公務員」にもいろいろあるが、熊倉はほかでもない「多治見市陶磁器意匠研究所」という美濃の陶磁器現場の要ともいえる勤務先をわざわざ指定しているのである。そうした産地や産業とのかかわりが、陶芸の個人作家にとって制作の上でも意味を持つことを熊倉が経験的に知っていたことは多分に堆測できる。熊倉自身、信楽の窯業試験場でデザイン指導に携わるなど、産地や産業と密接にかかわりつつ、一方で強烈な「個」的表現を展開した作家であるからだ。


また、中島作品に影響を与えたもう一人の重要な陶芸家に、大阪芸術大学で師事した柳原睦夫がいる。中島の述懐によれば、熊倉の場合と同様、作品についての「具体的な」指導は何一つなかったが、「やきものであること」の意味、および「模倣で終わらないこと」の2点については、終始考えさせられたという(註8)。柳原のこのような考え方は、大阪芸術大学で学ぶ若手たちに脈々と伝えられているが、中島の水玉造形はその柳原の陶芸観(註9)を最も正当に実現しているものの一つでもある。
中島の作品の背後には、そうしたやきもの大国日本の地盤を背景とする優れた陶芸家たちの歴史的な知恵の継承も潜んでいる。中島の水玉は、極めて陶芸的な文脈の中で成立したうえで独創性へと変換されてきたものなのである。



5. おわりに

中島晴美は、産地の力をはじめ日本陶芸のバックグラウンドを最も建設的に活かし、純粋な自己表現としての陶芸的な造形を確立している作家の一人である。
その作品は、例えば侘び、寂び、禅のイメージといった、ともすればステレオタイプの「日本的」資質によるものではなく、むしろそれらと対極に近い、生命肯定的なオプティミズムに満ちたものである。前者が"陰"であり"静"を示すならば、中島の作品は"陽"であり"動"である。そこにはやきものとは何かを追求し続ける粘りと活力、単なる派手さを求めるのではない中島の陶芸道がある。この作家は、日本の陶芸の底力を自身の創造性へと変換することで、冒頭のような国際的評価を得るに至っているのである。陶芸によって、新しい日本人像を世界に発信しつつあるといってもよい。逆に言えば、日本の陶芸とは、そのような可能性を大いに秘めたジャンルであるということだ。中島晴美は、その堂々たる陶芸的な造形によって、今後も「苦闘」を続けていくに相違ない。



註1 中島の師の一人、熊倉順吉の作品にみられる黄伊羅保風を意識して制作したという。

註2 外舘「オランダの陶芸事情」『陶説』2002年6月参照。

註3 ベルギーのギャラリー・セントラム・フッド・ウエルクにおけるオーナーのタニア・ドウ・ブルイケール女史への筆者インタビュー。

註4 金子賢治の所謂「工芸的造形」論に代表される。氏の論は『現代陶芸の造形思考』阿部出版、2001にまとめられている。ほかに外舘「美術としての陶芸-あるいは陶芸という造形」『現代陶芸の精鋭』茨城県陶芸美術館、2001参照。但し、この拙稿中「美術」とは個人作家の表現としての視覚芸術を指す。

註5 EKWCではへたりを回避するため酸化焼成し、地はアイボリーがかった白であったが、目黒陶芸館に並ぶ新作は還元焼成により青みがかった白地となっている。

註6 『多治見市史』ぎょうせい1987、『平成12年度業務報告』多治見市意匠研究所2000参照。

註7 中島晴美インタビュー『手の仕事』4、1994

註8 筆者インタビュー2002年7月26日

註9 柳原睦夫による講演会「アメリカ現代陶芸を語る」2002年8月3日(京都国立近代美術館)で、柳原はやきものの色について、アメリカ陶芸等にしばしば見られるペイントによる着色と、焼成による質的変化を伴った陶芸ならではの色との違いを明確に意識していることなどを述べている。このようなやきものの造形要素としての色や「加飾」については、2003年1月25日〜3月16日開催の「現代陶芸の華」(茨城県陶芸美術館)図録テキストにてより詳細に考察する予定である。



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