『The Arts of Ceramizing―PartT:MINO』カタログ
中島晴美の新たなる挑戦
―苦闘する形態から自己の内なる形態へ―
立花 昭

 昨秋、中島晴美は多年にわたり後進の指導にあたっていた多治見市陶磁器意匠研究所から、愛知教育大学の教授へと転身した。国立大学は法人化に伴い大学間の競争が激化するなかで、生き残るための手段として個性化が不可欠といわれており、そこに中島の力量と実績が必要とされたのである。同時に、作品制作においても新たな環境と刺激を得ながら次なる展開をみせており、世界を視座に据えた一層の飛躍が期待されている。

 工芸的造形の受容
 中島の今日における作陶のスタンスは実に明快である。それは素材・技術・プロセスの密接な関わりによって生み出される工芸的造形を、作家として真摯に理解し、頑ななまでに実践しようとするものだ。このことは「土練りの際や行き詰まったときによく思い返される」というように、作家の原点を明確にし、制作における糧ともなっているのであり、つまりは巧に利用しているともいえよう。
 1989年当時の中島は鞄をモチーフとした作品を発表し、第二回国際陶磁器展美濃で銅賞をおさめるなど一定の評価を得ていた。ところが、このシリーズはわずか5作品で終止符を打つこととなり、その理由について「今、私は自己の内側にあるロマンティックなものへの執着に区切りをつけ、土そのものに自分を見いだし・・・」と追憶している。すなわち、従前のエスキースを作った後に、それを基として制作していく方法により、具象的な形状を追い続けてスパイラルに陥ることや、単に形へと当てはめていくような作業的制作に束縛されることから脱しようとしたのである。また、このとき出会ったのが先の工芸論であり、それが恩師である熊倉順吉や柳原睦夫によって体現的に教えられたものと、軌を一にすると気づいたことも、自身の制作を見つめ直すきっかけとなっている。こうして、形ありきで土を操っていくようなテクニックの集成とは全く異なる、新しい造形へと突き進んでいったのである。
 ゆえに鞄の制作をきっぱりやめると同時に、エスキースを使用した具象的な形状を放棄し、再スタートを切った。やめることからはじめたのであり、それが『苦闘する形態』の濫觴である。初作品は1992年の第三回国際陶磁器展美濃で入選、続く1995年の第四回展では金賞を受賞し、名実ともに国際的なレベルにまで到達した。

 苦闘する形態から次なる形態へ
 『苦闘する形態』において、もはや不可分ともなっている青色の水玉文様。それらは本焼ののち上絵同様に絵付けをおこない、再度焼成することで釉にシンクインすると言った特性を持つ、イングレーズの転写によるものである。中島が勤務していた意匠研究所でも、かつて実用化に向けた研究が積極的におこなわれており、当初は自ら印刷したものを使用していた。また、水玉の青色については染付けを意識したものであるという。ただし、これは呉須の藍色ではなくコバルトのブルーを意味するのであり、明治初期に酸化コバルトが美濃に導入されると、有田のイミテーションに始まり転写技法を駆使することで量産化の道をたどることとなった、美濃の産地を象徴するブルーなのである。このように中島は美濃の作家であることを自認し、「となりにあるものを使った」というとおり、産地ならではの身近に存在する技術・技法をも、有機的に自身の制作へ取り込んでいこうとする寛容さを持っている。
 一方、そのフォルムについては、、実際の制作現場において「ウニウニ」「ヌタヌタ」「ポヨンポヨン」、あるいは「ムチムチ」「ギュギュッ」「もっとピッ」といった感覚的な言葉をともなってイメージが定着され、土の形状へと置きかえられていく。こうした工程において特筆すべきは、実に素早くおこなわれる手びねりであり、一連の反復によるリズムが気韻生動ともいえる表情を作り出している。
 そしてこのだひ、およそ15年間継承した『苦闘する形態』から新たに『自己の内なる形態』へと歩を進め、今回の展覧会で初出品されることとなった。一見『苦闘する形態』の範疇とも見えるが、「クッと反転」させるためには、従来の言葉によるイメージのみでは如何ともしがたい壁があり、試行錯誤が続いた。内が外となり外が内となる。また、外側のみに施されていた水玉が、内となった部分へ押し流されるように連続していく。まさにメビウスの輪であり、エッシャーの騙し絵のようでもある。加えて、一昨年のオランダにおける滞在制作中に磁土の使用をはじめており、その透光性と純白さが「側」を表裏一体として扱うこれらの作品において、ひときわ効果的に作用している。

 中島の新たなる挑戦は、苦闘を超克することでついに姿を見せはじめた自己の内面について、潜在的なポテンシャルを多分に秘めた磁土を使って構築していくことである。言い換えれば、陶土のころに比べ成形や焼成において苦心惨憺しながらも、磁土の可塑性を含む生理を自らの精神と技量によって極限まで引き出そうとすることだ。そしてもう一つは、外国嫌いを改めて、近年自ら日本を飛び出すことによって得た国際的な評価の高まりを、さらにその純然たる個性をもって広めていくことであろう。