季刊雑誌「手の仕事」VOL4
【焼き物野郎の肖像】―中島晴美

後ろのポケットの中身を探しているんだ
<聞く人>小出朝生・・・・・・季刊雑誌「手の仕事」編集長


走泥社展は強烈だった

 さて、今回はびびってもらおう。

 中島晴美さんは、今、現代陶芸の分野で最も注目される作家の一人だ。とくに、最近の活動は活発で、いろいろなところで話題となっている。それはインタビューを読んでもらえばわかるが、中島さん自身の中で、作品に対する考え方が大きく変わったことが影響しているようだ。その話は現代陶芸を理解する手ががりとなるのではないかと思う。また、インタビューの中で八木一夫とか熊倉順吉とかいう名前が出てくるが、知らない人は調べて欲しい。この人たちが、現代陶芸の分野でどういった存在なのかがわかれば、びびってしまうに違いない。

 中島さんは作家という顔とは別に、多治見市陶磁器意匠研究所の先生という、もうひとつの顔をもっている。この研究所は、陶芸を学びたい若い人が全国から集まってくるところで、毎年、技術者やデザイナー、作家などを世に送り出している。そういった若い人たちへのメッセージも話されているが、それらは陶磁器と関係ない僕らの心にも響いてくる。びびらないで聞いてほしい。そう、そう、本当はびびらないことが大切なんだ。びびってたら何も始まらない。

 さて、それでは中島さんの迫力に負けないように、いきましょうか。




中島  中学のときは成績も良くて、いい子だったんだ。だけど、高校に入ったら、いきなり落ちこぼれてね。そのとき、おれは昔から美術が得意だったなと、ふと思ったわけ。市民展で賞をとったこともあるし(笑) そういうことが、頭にピッと閃いたわけ。ガキはガキなりに、自分を正統化させるのが得意じゃない。だから、本当に美術が好きだったかどうかはわからんけど、美術をやり始めたのよ。

 でも、そこでまたガキは考えるわけよ。画家じゃ食べられないな、と。(笑) じゃあ、デザインだという感じで、大阪芸術大学のデザイン科に入った。

 大学に入ったころは、ちょうど学生運動が盛んなころでさ、完璧に染まったのよ。今思うと、焼きものをやり始めたのは、そのころの経験が大きいな。デザインというのはチームプレーでしょ。だから、おれは違うなと思った。何でもいいから、ぶちなぐりたいという衝動があるときに、デザインはできなかった。そのとき初めて、自分が生まれ育った美濃という地域が焼きものの街であることに気づいたわけ。それで、茶碗や湯飲みや壷を、ひたすらロクロでひくようになった。

 そんなあるとき、友達と一緒に走泥社展を見に行ったのよ。もう、まいった。まいったて、そんなもん。すごいショック。ほんとまいった。だって、それまで焼きものというものは茶碗だと思っていたやつが、突然、八木一夫に熊倉順吉に鈴木治やぜ。

 焼きものを選んだのは、へんにチームワークを組まんでいいからという理由にすぎなかったし、卒業したら田舎に帰って、志野とか織部を焼こうと思っていたやつがよ、突然、走泥社を見たんだから、そりゃ強烈だよ。

 その後、柳原睦夫先生の個展なんかも見て、もうオブジェしかないと思った。もう、だめよ。(笑) ところが、おれだけじゃない。クラスの全員が一斉にオブジェをつくりだした。(笑)

 今は現代陶芸の作品を見る機会がいくらでもあるから、そんなことはないだろうけど、僕らの時代には、走泥社は強烈だった。

 それで、卒業してもオブジェをつくれる環境にいたかったから信楽にいった。


信楽ではどんな仕事をしていたんですか。


中島  植木鉢なんかをつくっていたメーカーのデザイン室に就職したんだけど、そこのデザイン室はできたばかりで、いきなり、部下が二人もいた。

 信楽には、年一回行われる陶器祭りがあって、その中で、各メーカーが作品を出品するコンペが開催されていた。そのコンペで金賞をとることは、信楽の中ではものすごく名誉なことなわけ。ぼくの就職したメーカーは新参者だったから、どうしてもその賞がほしかった。だから、ぼくはかなり期待されて入ったのよ。

 それで、ストリートファニチャーを作って、そのコンペに出品したんだけど、下馬評では絶対に金賞だという評判がたってた。だから、会社の方も期待して受金賞祝いの準備まで整えていた。(笑) だけど、ふたをあけてみると、金賞どころか、ケツから二、三番目の賞がきた。金賞は滋賀タイルというメーカーの作品がとった。当時、その滋賀タイルには、嘱託として熊倉順吉がいたんだけど、コンペの審査員もやっていたのよ。

 ところが、陶器祭りが始まると八木一夫が見にきてね、ぼくの作品をおもしろいと褒めたんだ。それで八木一夫を囲む会みたいなところへ突然呼ばれた。そこで、八木一夫がどこの大学を出てきたのかと聞くから、大阪芸大ですと答えると、「オモシロイ大学出てきたなあ。しかし、オモシロイ大学出てきたわりには、あの作品はよかったよ」と言ってくれた。

 そのあと、一人で飲みに行ったとき、偶然、熊倉順吉に会ったのよ。そしたら「あの作品を八木さんが褒めたそうだな」と、ちょっと変な感じで話しかけられた。やっぱり八木さんはスーパースターだから、熊倉順吉も少し気になったみたい。でも、そこから熊倉先生との付き合いが始まったのよ。

 今の多治見市陶磁器意匠研究所にきたのも、熊倉先生にいけといわれたからだしね。オブジェをつくるなら、食べることはきちっと確保して、純粋に制作しつづけろと説教された。「公務員は遅刻さえしなければいい。みんなに好かれて、遅刻だけはするな」と言われた。(笑)


熊倉順吉という人は、どんな人だったんですか?


中島  とんでもない人だった。(笑) なんかあると、すぐ手紙を書くのよ。むかっとくると、手紙がくる。返事をすぐに書かないと、また手紙がくる。返事を書くと、また手紙がくる。(笑) 熊倉先生からきた手紙は、ものすごい量になる。

 一度なんか、ぼくが意匠研究所の出張でイタリアに行く前日に電話がかかってきて、「イタリアは泥棒が多いから気をつけなさい」。電話をきるとまたすぐかかってきて「言い忘れたけど、腰にパスポートを入れていけ」(笑)


こういう言い方は失礼かもしれないけど、ものすごく可愛らしい人ですね。 中島さんにとっては、父親のような存在だったのですか。


 父親よりも面倒くさかったなあ。作品については、何も教えてくれなかったけど、礼儀や案内状・手紙の出し方、展覧会は誰に見てもらわなければいけないかといったことを教えられた。結局、ものをつくることは、教えたからといって、いいものができるわけじゃないし、教えることなんて何もないのよ。してやれることといったら、作品が正統に評価される環境を整えるくらいのことでさ。ほんと、作品については何も教えてもらわなかったなあ。

 おもしろかったのは、切手の話。熊倉先生に、展覧会をやりますのでよろしくお願いしますとDMを渡したのよ。そしたら、「まあ、熊倉には手で渡しておけば、それでいいか」と言うわけ。何が言いたいのか全然わからなくてね。(笑)すると、「本来は手渡すだけじゃなくて、切手、それも記念切手をはって、手紙を添えて、もう一度郵送するのが礼儀や」と言われた。次から先生がぼくにくれるDMには、すべて記念切手をはってきた。自分で言ったことで、自分の首を絞めている。(笑)でも、そうゆう熊倉先生に教えてもらったことに、今は本当に感謝している。


中島さんは、今は逆に教える立場にあるのですが、自分が経験してきたときとの違いを感じることはありませんか。


中島  スタイルからはいってきているのが多いね。山にこもって、ものをつくる人生を歩みたいとか、自分で作ったもので収入を得て生活がしたいというのは、スタイルだと思うんだよ。自分を表現したいという気持ちを第一に考えている連中は少ないね。

 しかし、そのことを柳原睦夫先生に言ったら、「わかりますけと、中島君、気をつけなければいけないよ。自分に酔っていくという意味では、そうゆうスタイルから入っていくことも大事なんだから。ものづくりをわかっていなくても、ひたすらロクロをひきつづけていると、何か見えてきます。バカにしちゃいけませんよ」と言われた。いえてる部分もあるなと思った。

 でも、売るために何でもやってしまうのはダメじゃないかな。こんなもの売るくらいなら新聞配達でもやりますという気概をもたんと、生き残れんと思う。作家なんて、ごろごろいるからね。そういうポリシーがないなら、こんなひもじい思いをして、ものをつくることないだろ。

 それと、いい仲間といい議論をしていかないと絶対にだめだね。自分を確認するためにもね。ある意味では、そういう仲間に出会うために、展覧会を行うといっていいかもしれない。なかなか、自分で自分の良さはわからないものなんだよ。だから、君の良さはここだよと言ってくれる仲間と会うことは、ものすごく大切なんだ。ものづくりは、己の正体を探し求めることでもあるわけだからさ。

 柳原先生が「私の役割は、あなたの気づかないあなたの良さを教えてあげることなんです。あなたの探しているものは、あなたの後ろのポケットの中に入っているよと教えてあげること、だたそれだけなんです」と言っていたな。


土じゃなければいけないんだ

一般の人は、なかなか現代陶芸という分野は、とっつきにくいと思うのですが、何か理解するための手ががりはありませんか。


中島  おもしろくない展覧会もいっぱいあるじゃない。おもしろくなければ、おもしろくないでいいのよ。それを無理にわかろうとして深読みするからややこしくなる。

 ただ、たくさん見ていると次第にわかってくる。一人の作家を継続して見ていると、絶対にわかるようになる。不思議なことにね。


 中島さん自身は、現在どういう思いで作品をつくっているのですか。

中島  以前は、造形のモノサシでものを見ていたから、抹茶茶碗のようなものは、自分の中で排除していた。焼きがどうのこうのと問題にするのはいやだった。それよりも、造形的にどうだということを問題にしていた。だから、土はたまたま素材として使っているだけという感じだった。

 でも、最近、つきあう人が悪いせいか、彼らとの話の中で、いろいろつっこまれたり、洗脳されたりしているうちに、どうも違うなと思うようになったのよ。現代アートのモノサシだけに頼っていたら、理解できないものがあると気づいた。焼きものには、焼きものの美意識、あるいは日本人の美意識というものがあるんだよ。ぼくがやっているのは現代アートではなく、現代陶芸なわけ。焼きものじゃなければいけないし、土じゃなければいけないんだと気づいた。


どうして土じゃなければいけないんですか


中島  難しいねえ。たとえば、若干おかちめんこで、足が太くて、性格も歪んでいるけど、惚れちゃうことってあるじゃない。その魅力をなかなか言葉で言い表すことはできないけど、ぼくが最初に走泥社の作品に引かれたのは、そういう言葉にできない魅力を感じたからだと思う。

 その最初に感じた魅力を忘れて、目の可愛い子や足のすらっととした子を探したり、歪んでいる性格をまっすぐにしようということばかりを、これまではやっていたような気がする。でも、違うんや。ぼくはあの憎たらしいところまで含めて魅力を感じたんだ。だから、憎たらしいところをとっぱらってしまったら、惚れた理由そのものがなくなってしまうわけよ。なんとなく、わかるかな。


よくわかります。


中島  焼きものをやりはじめた理由は、造形的にきれいだとかいう理由じゃないんだ。焼きものじゃなければならない何かがあったんだよ。それをいつの間にか、忘れていた。最近になってやっと、ぼくが魅力を感じたこと、感じつづけていることは、そのへんにあったなと気づいた。


じゃあ、中島さんにとって、今は、ひとつの変革期と言ってもいいのですね。


中島  今、そのへんのことがスッキリして、なんかやたらつくりたい気分なんだ。だから、これまでは何をつくろうかと悩むことが多かったけど、今はそんなことは全然ない。つくりたいものがいっぱいある。


作品はどんな技法でつくるんですか。


中島  みんなびっくりするけど、手びねりでつくる。内側のトゲの部分は、以前は型でつくっていたけど、今はロクロでつくっている。やはり、焼きものの感じを残そうと思うからね。

 昔はきっちり絵をかいて、エスキースをつくって、焼きあがりも想像してつくっていた。今は、土の意味とか、工芸的なことを考えているから、土の生理に沿うようにつくっている。だから、今は、きちっと作戦はたてずに、イメージを大切につくりだしている。

 以前は現代美術みたいなことをやりたかったから、焼きものにもたれることをものすごく嫌っていた。今は、土肌を考えて、みたいなことをやっている。なんか、伝統工芸みたい(笑)

 でも。今はつくっていて気持ちいいし、つくりたいものが次から次へと出てくる。これまではつらい面もあったからね。


ということは、現代陶芸でも、けっして伝統的な陶芸とは無縁ではないということですね。


中島  そりゃぁ、現代陶芸も縄文時代からつづく陶芸の文脈の中にあることは確かだよ。けっして、突然生まれてきたものではない。

 ただ、ぼくは再現だけしていくような後ろ向きの仕事はしたくないからね。やはり、前に進んでいく仕事、自己主張するような仕事をしたい。

 今は伝統工芸にものすごく興味がある。伝統工芸の中にも前向きな新しい仕事をしている人もたくさんいるしね。だから、そのへんを勉強すると、自分の作品も活きてくると思う。結局、いろんな仕事をやっている人がいるけど、ものをつくる精神みたいなものは、そんなに違いはないからね。

 重要なのは、本物か本物でないかの違いだけだと思う。それらしいやつというのは、ごろごろいるからね。ものをつくらなければならない必然を、自分の中に持っていないやつの作品を見てもしょうがないものな。根拠のない文章を読んでもしょうがないのと同じだよ。そういうのを見せられることも、読まされるのも一番困るよな。これこそ公害だと思わんか。そうでしょう?もっとも、ぼくも公害をまき散らしてきたけどね。(笑)

 流行を追っかけて、こっちの方が受けるからという感じで、ものをつくっても、絶対にあかんと思う。生活からにじみ出るものでないと、あかんよな。やっぱり、おいしいコーヒー飲んでないやつが、いいカップなんてできんよ。


でも、本物であることというのは、そう簡単なことではないのではないですか。


中島  たとえば、音楽でも、ほんのちょっとの違いが、その曲の良さをものすごく左右するらしいんだ。ぼくのようにちょっと音楽に鈍い人間にとってみれば、多少、テンポが遅かろうが、早かろうが、細かいことなんてどうでもいいと思うけど、音楽をつくっている連中は、そのほんの少しの違いにこだわるわけよ。それで、実際、完成した曲を聞いてみると、やっぱりものすごい差があることがわかる。いいものと悪いものを二つ並べて聞いてみると、やっぱりものすごい差があることがわかる。その違いが歴然としている。

 それとおなじでさ、ぼくも作品をつくるときに、ものすごくこだわる部分がある。ほかの人にとってみればどうでもいいような点にこだわる。でも、それは作家にとって大切なところだし、実際、完成した作品には大きな差が出てくる。そういった表現に対するこだわりを持っているかどうかが、大切じゃないかな。

 つまり、難しいとか易しいという問題じゃないんだ。表現に対するこだわりをもっているかどうかの問題なんだよ。そのへんにこだわっているか、それとも、スタイルにこだわっているかの違いは、致命的な差だと思うな。


その表現に対するこだわりが、その人のオリジナリティとも関連すると考えていいのでしょうか。


中島  確かにね。ただ、最初からオリジナリティのことを考える必要はないと思う。北大路魯山人が「すべてのものはイミテーションだ」と言っているけど、ちょっといえてると思う。たとえば、海を見たことがない人は、海のことなんてわかんないだろ。何かを見て、吸収して、それから何かを表現するわけだからね。

 だから、最初は、感動したものの影響のもとで作品をつくりだすから、どうしても似てくる。あるいは、教えてもらった先生の作品に似たものをつくりだすのよ。だけど、そのうちに、自分の世界との違いがわかってきて、その人らしくなってくる。


中島さんもそうでしたか。


中島  ぼくなんか完全にそうだった。柳原先生の作品に水玉模様のついたものがあるわけ。自分では、それほど意識していないけど。どこかで影響を受けているんだろうな。

 だから、ぼくは最初から真似するなとは言わない。まったくのオリジナリティなんて、最初からあるわけないんだから。むしろ、影響されない人間なんてにぶいぜ。誰かの影響を受けて、のめりこんで、そっくりなものをつくるくらいの感性がないとダメじゃないかな。


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