中島 晴美 「苦闘する形態V-1」
東京国立近代美術館
金子 賢治

 似たような形のドーム状の球体が次々と膨らんで増殖していったようなフォルム。ドームの付け根からてっぺんへと拡大されていく水玉はそれを強調するためか。それにしてもこの作品の独特で不思議なフォルムはなにを意味しているのだろうか。中島晴美がこうしたフォルムに到達したのは1992年頃のことだった。それまでの中島は陶磁器デザインに手を染めたり、土・陶の現代美術を思考したり、さまざまな変遷を経ている。その起点になったのが走泥社の活動であった。彼が美術大学に入学したのが1969年。当時はまさに走泥社の仕事が最初の高まりの頂点を極めていた頃である。

 50年代中頃に初めて陶の立体造形を創り出した走泥社の作家達は、60年代中頃にはほぼその作風を打ち出し得ていた。そして60年代末から70年代初期に至る熊倉順吉の重厚かつ迫力に満ちた制作が加わることによって、工芸のフィールドから発した立体造形作品の・実践的・倫理的存立基盤を確固たるものにしたのであった。

 中島が走泥社に出会ったのはまさにこの時期である。その立体造形は彼に大きな刺激を与え、わずかな期間の器物作りの後、いきなり立体造形制作へと突き進んで行くのである。走泥社の衝撃がいかに強かったか、当時彼が発表した「作品」(1973年)を見るとよくわかる。この作品はいくつかの柔らかく変形した球体を縦に重ねていったものであるが(径40、高さ125cm)、そこには八木一夫、熊倉順吉らの様式が渾然としてまじりあっている。当時、走泥社の作家たちが成し遂げつつあったのは、土にこだわることから発して、陶芸の伝統的秩序(土の構築―乾燥―施釉―焼成)を自己の芸術的方法として再認識し、「新しい造形の倫理」として確立していくということであった。この1973年の「作品」を見ていると当時の中島が走泥社を通じて感じ取ったのには二つの側面があることがわかる。一つは「用」の否定、陶芸の立体造形化・現代美術化である。もう一つは、この「作品」と「苦闘する形態」とのフォルムの共通性にも観取し得るように、土の扱い方、言い換えれば素材としての土に対するアプローチの仕方である。前者は走泥社の作家たちが作り出した作品の外形への関心であり、その内部で行われた、例えば陶芸の伝統的秩序との衝突のようなことは視野に入っていない。いわば限りなく外形の模倣に近い創造といえようか。

 しかしその一方で、後者に見られるように、彼が後に自覚するようになった土との親和性を求めようとする、はなから土という一つの素材に限定した上ですべてが始まる「陶芸」という芸術の原点に関するいわば無意識的認識、言い換えれば前対象化的(即自的)段階の認識が確かに存在しているということである。
 彼は後にこう語っている。

「こうなると、私がやきものをはじめた原点から、逸脱してしまいます。私の原点は、あの手の中でグニュッとする土の魅力であり、やきもの独特の質感であったはずだ」(1995年)

 しかしこれが造形の出発点として対象化されるにはもう少し時間がかかった。これに比べてよほど自覚的であった陶・土による現代美術の創出の方へと限りなく傾いていくのである。

 曲面と平面、堅いものと柔らかいもの、二次元と三次元、ピラミッドと茶室、物質と精神などなど。これ以降の彼が追及したテーマである。実は前記の「作品」(1973年)も「曲面と平面・直線」という異様なものの出会いということで、その一連のテーマの一つであったという。

 これらは徹頭徹尾、素材を限定しない。テーマさえ実現できれば、つまり概念さえ充足できれば素材などなんでもいいのである。しかしその後で、これらが「土から陶へ」のプロセスに、あるいは「土から陶へ」のプロセスが主要部分を形成する造形に恒常的に変換されねばならない。ここに芸術的創造とは無縁の、あるいは芸術的創造をぶち壊してしまう人間の認識過程における複合的過程の模倣が生じてくるということは、かつて述べた通りである。(註1)

 中島はこうした過程が無限に続いていったとき、ついに「原点からの逸脱」という前記の自覚に至るのである。これ以降は中島が土・陶という素材の意味を回復していく過程であったということができる。1980年「N氏はメンデルを引用して答えた」、1984年「うふふ」、1986年「コスモスの羽根を持つ鳥」などから、1989年「風吹くままにそれぞれの旅立ち」に至る一連の作品は、原点に戻った中島が様々に素材とのつながりを模索したいわば里程標である。

 しかしまたこれら一連の作品で回復された「素材」は「素材」と「素材構築のプロセス」が区別された上での「素材」ではなかった。「素材の見直し」などということはやりたければいくらでもやれる。「素材・素材」と言い立てるだけでは全く無意味である。素材の新しい表情も何もあったものではない。「限定されない素材」の中に無限に取り込まれていくだけである。最も重要なことは「素材」だけではなく「素材の構築のプロセス」を方法の原点に据えることができるか否かである。

 80年代後半、前記の「コスモス・・・」以降の一連の作品はピンク・水玉・突起など、90年代末にかけての中島の作家としてのイメージを決定した重要な作品群である。その特異な形態・表面装飾は、特異であるが故にかえって、回復されつつあった土・陶との統合の過程で、「土から陶へ」のプロセスに対する並々ならぬ対決の姿勢や統御力を中島に与えることになったことを見逃してはならないだろう。後にそれは大きな力を中島に与えるのである。

 その極点が「鞄シリーズ」で、具体的な形を取ることで意識内イメージと陶のフォルムのイメージが限りなく親和しようとしているのである。複合過程の模倣はこれまでになく回避されようとしているのである。だからであろうか、「鞄シリーズ」に終止符を打つの弁は明快である。

 「1989年より、内なる自己をテーマに、鞄シリーズを制作してきた。それは自己の内側にあるロマンチックなものへの執着だけであった様な気がする。生きていることも生きることも、もっとリアルに、もっと真実に迫りきらなければ救われなくなってきた。そんな自問の末、このしシリーズに終止符を打つことにした。今、私は土そのものに自分を見出し、人間の苦闘する内面を表現したい。そしてそれを私の存在証明としたい」(1992年)(註2)

 こうして最近の「苦闘する形態シリーズ」が誕生してくるのである。このシリーズの制作手法、工程は、これまでの複合過程の模倣、あるいは「鞄シリーズ」のそれとも全く違ってきている。

 まず、たいていの場合長さ20センチほどの円筒を作る。その円筒の一部を円形に切り抜き、そこから半球形を立ち上げていく。半球形は様々な大きさをとり、その数も様々である。だがいずれにしても、円筒は何度も切り抜かれ、ほとんどその原形を止めない。そしてその切り抜かれた円形の任意の一つから、突如、別の新しい円筒が立ち上がっていく。そしてまた円形切抜き→半球形→円筒と、繰り返していくのである。

 これらはすべて手捻(輪積み)で制作される。その際、初めにスケッチがあって、それに無理やり土を押し込むのではなく、その反対に、少しずつ土を積んでいき、その過程で一つ一つイメージが変化し膨らんでいくという方法をとっている。その時々の気分・感情と土の手触りが相互浸透し合い、土の構築のプロセスに刻々と乗り移っていくのである。

 つまり「悶えるようにウニウニとねじれながら登っていく感じ」とか、「地をヌタヌタと這いつくばっていく感じ」というふうに、意識のなかの全くの抽象的イメージを手に伝え、土に置き換えていくのである。

 ここでは、「素材」が「素材・技術・プロセス」の一貫した中で捉え直されている。「素材」と「素材のプロセス」が区別され、「素材・技術・プロセス」を通して彼のいう「人間の苦闘する内面」が形にまで高められていくのである。だからそれはあたかも苦闘しているようなフォルムに土を嵌め込んでいくのとは全く違う造形論に基づいている。「土そのものに自分を見いだし」といっているように、苦闘が土の構築のプロセスに何の媒介物もなくそのまま伝えられていき、形になっていくのである。そうした新しい造形の倫理と実践が一段と高い水準で結実したのがこの作品である。土ならではの抑揚のあるフォルムは堂々たる構えと量感をもって観るものに対峙している。

 二年ほど前から彼の作品から水玉がなくなった。水玉なしの作品が初めて窯から出てきた時、彼の息子さんが、「迫力ね―の」とぽつりと言ったそうである。しかしそれ以降彼は、土、釉薬、窯の大きさ、そしてなによりも水玉を取ることによって生ずるフォルムもあり方など、さまざまな思考を巡らせた。そこで辿り着いたのが2000年始めの個展で発表された作品であった、この作品ではいかにも水玉の服を脱いでしまったという感じのなんとも言い難い間の悪さは消え、無装飾の白い表面と緊密に関連した強靭で力強いフォルムが獲得されている。中島はまた新しい高みを見つけたようだ。



(註1)金子「壮大な模倣―『土から陶へ』の認識論No.2」(『現代の眼』505、東京国立近代美術館ニュース、1997年8.9月号)本書(現代陶芸の造形思考)第一部に収録
(註2)中島コメント(「陶 Vol.74」京都書院、1993年)