目黒陶芸展 リーフレット

 「解ってない」と言われた。私は走泥社の同人たちの陶による立体造形作品に心を揺さぶられ、陶芸の造形の道を選んだ。そして、走泥社の重鎮であった熊倉順吉に勧められ、多治見市陶磁器意匠研究所の職員となった。熊倉先生の「土と火によって生まれ出る陶器の宿命的姿に、可能性と不可知性を求める態度」との言葉に自分を見出し、支えられ、保守的な美濃の地でラディカルに突っ張って制作してきた。しかし、職場でも作家活動でも「解ってない」と先輩方から異端児あつかいだった。

 美濃の先輩作家のデザイン処理の効いた調度品のような、言い換えれば「売り絵」のようなオブジェにうんざりしながらも、それでも他者の評価を期待していた。公平な審査があると勘違いしていた朝日新聞社主催の公募展は連戦連敗である。私は好きなことと、評価されることの狭間で混乱していた。そんな孤立無援の時代に応援してくれる人がいた。

 当時の目黒陶芸館は田んぼの真ん中にあり、車庫を改造した小さな空間であった。
「売れなくてもいいよ。面白いのをやってよ。まあ、元々うちは売れないけどね」「見に来る人の反応なんて気にしなくていいよ。好きにやってよ。まあ、元々うちは誰も観に来ないけどね」と目黒伸良さんは笑って誘ってくれたが、本当に誰も来なかった。それでも搬出の日、目黒さんが一つ買ってくれた。

 今回は「中島さんの作品は、僕が一番沢山もっているからね。10回まではやってよ」と目黒さんが誘ってくれて、9回目の個展である。
私のことを解ってくれる人がいるというだけで、心折れずにひたすら作り続けた若い時代を思い出す。

 それは、年を重ね経験を積むうち「陶による表現」などと大見得を切りながらも大衆に媚、デザイン処理の効いた「売り絵」を作っているのは私ではないか、仲間と共に「明日の工芸」を切り開くのだと恥ずかしげもなく言った

若き日を忘れ、陶芸界の日常性に埋没していったのは「この私」ではないか、と自分を恥じることに繋がった。

 「初心に帰る」と、ゆるんだ精神と老体に鞭打って制作しました。
ぜひ、ご高覧願いたい。

2018年 10月10日 中島晴美