中部経済新聞2015年3月31日
中経論壇

春だもの

 大学院の授業中のことです。「子供にとっての遊びは自己表現であると仮定してみると、表現は己の内に捉えた真実の吐露ではないだろうか。例えば、山下清の貼り絵『花火』は……。」と話して、少し間を取ったときです。

 学生が「これですか?」とスマホを差し出した。話の途中で検索したのでしょう。「それです。」と、私は淡々と話を進めましたが、心の中はジェネレーションギャップのパンチを正面からまともに食らったショックを感じていました。
 
 野球で言えばベテラン投手が、少し衰えたとは言えまだまだエースの気分。自信満々に投げ込んだストレートを、新人選手にバットの真芯で打ち返された時に「引退」の言葉がリアルに脳裏をよぎるような、そんな感じだったのかもしれません。

 2年ほど前のことですが、携帯をトイレに落として困った時、「時代に取り残されないよう、これを機会にスマホにしたら……。」と家人に勧められたことがあります。しかし、私にはそんな言葉にはすぐには乗れない理由があるのです。

 それは、電車の中での風景が蘇るのです。いい年の親父が押し黙って親指と人差し指で、ちまちま、ちまちまと小さな画面を操作する姿は、「誇りある我が日本男児の姿ではない」と、私の美学が許さないのです。

 などと言いつつも本音は、「白い便箋に青いインクが似合う」あの青春時代からやっとの思いで卒業し、携帯メール送信になれたばかりなのです。さらにこれにネットが加わるなんて、到底、私には無理な話なのです。

 とはいうものの、アフター・インターネットのあの日の動揺が、トラウマとして蘇ってきます。

 「調べ物は研究室のインターネットで。ラインは先生には軽い。電話とメールができるガラケーで充分です。」と学生は優しさを持ってアドバイスしてくれます。

 必要な情報は親指と人差し指で瞬時に自分の持つ知識の何千倍もの量が正確に目の前に現れる時代に、必死に身につけた知識の量に意味があるのでしょうか。今は、目的のためにその膨大な情報をどう活用するかが問われているのです。

 それにしても、一体この膨大な情報を使いこなす能力は、何によって培われるのでしょう。有効に活用する筋道を、どのようにデザインすればよいのでしょうか。「膨大な情報が瞬時に手に入れられる時代に、どんな情報を取り入れて、何をなすのか」などと、ごちゃごちゃ自分に言い訳しても何も進まない。

 スマホにしようかなあ。春だもの。