中部経済新聞2015年3月3日
中経論壇 

あばた が えくぼ

 かつて美濃焼きの中心地である多治見市の陶磁器意匠研究所(意匠研)に勤務したことがある。意匠研は、地場産業の後継者育成を目的に設立された公設研究機関であったため、設立当初の研修生は地元製陶業の後継者がほとんどであった。しかし、私が勤務した時代は高度成長の只中で、その様相も大きく変わり始めていた。

 自分の生き方を見つめる中で陶芸家を志す者や、組織での仕事が苦手で、手に職を持ち自力で生きる手段として陶芸を選んだ者まで、他府県から入所希望者が殺到した。しかし設立の目的から言って、業界の思惑と入所希望者の期待との齟齬(そご)が生まれ始めていたころでもあった。

 私は教員になった今も意匠研で年に数回講義をしているが、ここ数年に研修生に大きな変化が見られる。それは、陶磁器で「生活の道具」を作りたいと初めから陶磁器デザインを希望する者や、芸術大学陶芸科を卒業した後に入所を希望する者が多くなったことである。
それは、私が二十代の時に陶芸を選んだ動機を想起させ、心の奥底に燻(くすぶ)っている「やきもので無ければならなかった理由」をもう一度考えてみる機会となった。

 陶磁器デザインは、突き詰めればプロダクトデザインに集約されてしまうはずなのに、陶磁器デザインとしてある理由。表現の素材として考える時、木の椀は工芸品であり、木で作った立体造形は彫刻なのに、陶器は、碗も立体造形も工芸の枠に入る理由。

 確たる自覚も無く心を突き動かされ、引きずり込まれるように陶芸を選んでしまったその魅力の正体は一体何であったのか。

 それは、土で立ち上げ、焼成することで、人間の本性が織り込まれていくであろう、土の可塑性を「絶対化」したからこそ立ち現れてくる不条理を抱えた形態に、言い換えれば、生活の道具を作っても、表現をしても、土の可塑性によってひきずりだされる人間の本性があらわになる陶磁器の形態に惹かれたからではないのか? 素材を土に限定し、経験と技術を通して形をたちあげ、焼成した時に立ち現れるものの正体は、素材と相対的に冷静に対峙する様な生易しさでは計り知れない魂のざわめきではなかったのか?
自分の心の中を覗(のぞ)くことで、自分のアイデンティティを保つこと、それが生身の人間の欲求だとすれば、道具や表現を突き抜けた陶芸への期待もそこにある。

 それは、惚れてしまったら「あばたもえくぼ」であるが、「あばた が えくぼ」とも言えるのではないかとの自問です。