中部経済新聞2015年2月3日
中経論壇

「飽きたことなど一度も無い」

 作品発表には大まかに個展とグループ展とある。個展は自分の世界を自由に展開する反面、結果はすべて自己責任である。グループ展は作品評価が相対的になるため、出品者同士で微妙な力関係が働くが、どうしても輝く作品と足を引っ張る作品ができる。その他の作品はなんとなく会場風景になじんでしまうのが通常である。ここは本気でがんばって「輝く」を狙うか「自分を消して」会場になじむ作戦に出るのか悩みどころである。誤解を招かないように言っておくと、あくまでも私の場合である。

 先日、久しぶりに地元でのグループ展に参加した。地元での発表は、また別な心理が働く。それは、他者との相対ではなく、自分の過去の作品との相対で見られるから緊張するのである。

 「この人、いつも水玉ばっかやなあ。同じことばっかやって飽きんのかなあ」
 「こんな大きなもの、置き場所だけで家の人は大変やなあ」
 「どうやって食べとるんやろ。売れるんやろか?」

 背中で私の作品批評が聞こえる。たまたま会場に居合わせてしまったのが運の付き、勿論(もちろん)こんな時こそ「自分を消す」しかない。

 確かに、売れて庭に鯉が泳いでいるわけではない。確かに、家族は大変だっただろう。確かに、休耕田の雑草の中に大きな作品がごろごろしている。その通りである。

 かつて、職場の先輩に「前作に囚(とら)われず、絶えず新しいものを求めろ」と作品の批評をされたことがある。私は黙って聴いていたが、心の中で反論していた。

 「それは絶えず新しいものを求めるモダニズム風のあなたの芸術観であって、私は、私の時間軸と空間軸で制作しているから飽きたことなど一度も無い。あなたには同じに見えるかもしれないが、今日の私は昨日の私とは違う。私は、昨日から今日の時間の経過の中を生きて制作している」と、生意気この上ない若造であった。

 しかし、今も私はここだけは譲るわけにはいかない。それは、私が陶の造形を始めた動機がそこにあるからである。粘土の可塑性と焼成を使って、内なる私の本音や不条理を引きずり出すことに制作の喜びと、生きる目的を見出し、一生を通して制作を続ける決心をした20代の自分がそこにあるからだ。

 私の作品は私の生きた時間でありたい。私の作品の変遷は私の生きた軌跡でありたい。できることなら、私の明日の作品が、私の明日の理想を具現化する作品になって欲しい。そんな遥かなる夢を見て制作を続けているのです。