中部経済新聞2014年11月4日
中経論壇 

わがままに制作すること 

 生きていることを自覚して生きるのが人間ならば、その精神活動はそれを他者に表現することで実現します。しかし、それは合理的な表現だけでは成し得ません。理屈で説明できないことも抱えているのが人間です。 芸術が不条理を背景にしてあるとするならば、私たち陶芸作家はそれを作品で表現することになります。 

 粘土の持つ性質は人間の本能を刺激します。それは人間のこころの奥底に持つ不条理を引きずり出すともいえます。作家はその刺激を「人間らしさ」と捉え有機的な形態を作る原動力とするのか、または反対に知恵と理性で本能に抵抗し工学的な形態を理想とするのかを自分の心に問いかけます。言いかえれば、本音を優先した時に起こる「他者との摩擦」を避けるために作った規則に頼るのか、またはこころの赴くままにわがままを通すのかという問いです。本音と建前の矛盾にどこで折り合いをつけるのか、その問いの答えが作品かもしれません。それは本能と理性との内なる葛藤の末に出た結論ともいえます。そこにこそ作家の倫理観があぶりだされるような気がします。

 だからこそ現代陶芸作家の作品には、本能に抵抗し、または受け入れ、理想や期待、その果てに生まれる悲しみや苦しみ喜びが表現されていなければならないのでしょう。それが「今」を生きる作家の現実の制作姿勢となります。たとえ粘土の魅力を抑えたために、形態が硬くなっても、「今」を生きる理想を堂々と主張する作品はできないものか?はたまた本音を前面に出し、時に他人との摩擦を起こしたとしても、自己に忠実なあまり独りよがりでわがままといわれても、本音の作品はできないものでしょうか?

 私たちの倫理観の背景には、人間の抱える普遍の本性が存在し、陶芸での表現には現実の今の作家の生き方が生に反映されるとわたしは思います。そこを読み解くときに、または感じるところに陶芸の魅力があるのでは無いでしょうか。

 そんな自問の末、結局生きることの自覚、精神活動は、「自分のためだけに自己を開示すること」でしかないとの思いに行き当たり、共振してくれる他者を求めるのです。もしそこに共振してくれる他者が現れたとしたならば、その時こそ初めて私の「わがままな制作」が私個人のわがままを突き抜けて、人間の持つ不条理に問いかける作品となるのでしょうか。

 今の私は、ただわがままに制作し続けるしかないと思うのです。