中部経済新聞2014年10月7日
中経論壇 

粘土に現れるこころ模様

 先日、岐阜県現代陶芸美術館で開かれた「大地の子供たち展」の陶芸作品審査会に招かれました。会場を埋め尽くす千点を超す小・中学生の作品の後ろには、美術教育に関わる先生方の情熱や苦労のあとが見え隠れして熱気に満ちています。

 しかし目を凝らしてみると、その熱気とは別に作品には新鮮さが無く退屈です。これは一体どうしたことかと戸惑いながらの審査となりました。私たち大人に摺りこまれた価値観が子供の心に影響しているのでしょうか。素直に土と向かい合っているとは思えないのです。もう少し踏み込んで言えば、この難しい時代を生きている彼らの精神の生の姿がそこに感じられないのです。

 粘土の持つ性質は、人の手に触れると有機的な形態を生みます。有機物(生物)は成長、増殖し、時に変容しますから、粘土は人間のこころ模様を、言い換えれば生物の本能を引きずり出しやすい素材とも言えます。素材が人間のこころの奥底を引き出すとすれば、常識に囚われない幼い子供が無邪気に触れるだけでも原始のこころを呼び覚まします。だからこそ、大人は幼い子供の作る作品に本能を背景とした本音を見出し感動します。しかし、私の関心はもっぱら粘土の生な部分に抵抗し、自分なりの倫理観を作りたいと思い始めた小学校高学年と中学生の作品です。
  
 人間は成長と共に自我が芽生え、社会に対する自分のこころの位置を確認し始めると、粘土の作る有機的な生の部分に抵抗したいとの願望が生まれてきます。それは、動物的感情を背景にした表現に対して、理性、知性で理想を表現したいとの願望です。本能に反発し、理性で自分なりの倫理観を持ち始めた時、粘土遊びが表現として発言し始めます。そのときこそ彼らの今を生きる精神を映し出すのです。

 粘土での図画工作の授業は、私たち大人が彼らの声なき心の声に耳を傾け、本音を読み取り未来に繋(つな)ぐと言う責任を果たす意味で、最も適した素材であるのかもしれません。