中日新聞夕刊
あすの現代陶芸のために
中島晴美

 ある大学の陶磁科で講義をしたときのことである。講義を終え、帰ろうとしたとき「作品を観てほしい」と、女子学生に呼び止められた。他大学の学生に講評などとはおこがましいが、陶芸作家の先輩としては逃げるわけにはいかない。大学院の実習室の作業台には、数点のオブジェが並べられていた。
 「この作品と、こちらの作品はまったく別物だね」といきなり切り出したのは、帰ろうとする私を呼び止めてまで確かめたい、彼女のやきものに対する拘りのようなものが、その数点の作品から読み取れなかったからである。
 「あなたが作るのだから、何を創ってもあなたの匂いがしないと」と続けると、彼女は腕組みをしながら「なるほど」と頷いた。「友達じゃないんだから」とたしなめながら、「この作品も要素が多すぎるね」と続けた、その時である。後輩の学生が、「私は良いと思います」と切り込んできた。
 こうなると教員としても作家としても受けて立つしかない。工芸論は望むところである。根拠を問うと「グニャグニャした土の感じが良い」と答えた。「それでは、そちらの棚にある磁器の緊張感のある作品は、どう評価するのか?」との問いに、学生は返事に詰まった。
 後輩の学生が「良い」と言ったのは、根拠があっての「良い」ではなく、「私は好きです」と言うことではなかったのか。「良い」と「好き」は違う。好き嫌いで美術を読み解くなら、美術教育など成り立たない。普遍の美があることを前提としているからこそ、教育などと言えるのである。
 呼び止めてまで聞きたかった問いが「どれが好きですか」と言うことならば、私はわざわざ実習室になど立ち寄らなかったであろう。長年制作を通して工芸の造形を追究している先輩だからこそ、意見を求めたのではないのか。もしそうならば、そういう関係を前提で質問すべきである、と少しきつめにたしなめたのである。
 日本の工芸の伝統は、徒弟制度で守られ受け継がれてきた側面も確かにあると、私は思っている。それは、工芸には師匠や先輩いから口移しでしか受け継ぐことのできない、「技術のその後ろにあるもの」を見抜くことがもっとも大切なことだと考えるからだ。
 学者が事実を積み上げて真理を追究するならば、芸術家は虚構を積み上げて真理に迫るのである。しかし、私は森羅万象において事実の積み上げだけでは迫りきれない真理、超えられない壁があると思えて仕方がない。
 学者も芸術家の作品の中に「内なる自己」を見るであろうし、芸術家も、歴史に鍛えられながら残ってきた作品の中から、真理に迫ろうとする研究者の知恵を借りないと、超えられぬ壁を感じるであろう。制作を通して自分の心の中を覗き、歴史の証明を通して普遍に迫る。それが制作の原点だと思うがどうだろう。
 西洋の近代芸術概念を拠りどころとするのではなく、日本の伝統にある工芸的なモノの作り方と、素材を土に限定すると決めた動機を、自己に問いかけることなくして、陶芸での表現なぞありえない。上面の、目に見える陶芸らしさの追求や、市場に媚びた口当たりのいい作品が、魂をゆさぶることなどありえない。創らなければ、創り続けなければ自己の存在を確認できぬ、やむにやまれぬ衝動の源は、作者自身の心の内にあるのだ。肺腑をえぐる問いかけをしてくれ。それは作家である私の姿勢と作品への批判である。真摯に受け止め、対等な立場で答えを投げ返すつもりだ。制作を通して、創ることと生きることを考えようではないか。