季刊『陶磁郎』43
教えるという立場から
中島晴美

 「生きがいを探すより、職探せ」。朝刊の書評で、この一文に目が留まった。
 長年勤めた多治見市陶磁器意匠研究所(以下、意匠研)を辞し、愛知教育大学造形文化コースに赴任して間もない私は、心穏やかでいられない。
 意匠研はもともと、地場産業の後継者育成を目的に設立された公設研究機関である。設立当初の研究生は、地元製陶業の後継者がほとんどであった。
 だが、高度成長の時代になるとその様相が変った。自分の一生、自分のあり方を見つめる中で陶芸家になりたいと志す者、また単に手に職を持ちたいという者まで、他府県から高学歴の入所希望者が殺到した。
 そして最近は、また新たな変化が見られる。陶磁器で「生活の道具」を作りたい、と初めから素材を限定して、スタジオクラフトや陶磁器デザインを希望する若者が増えてきているのだ。



 意匠研で人材育成を担当してきた二七年間、時代の空気に敏感で、いろいろな価値観を持った、多くの若者たちと出会ってきた。彼らは地場産業の伝統を背景にした技術、流通を学び、作家として、あるいは陶磁器デザイナーとしてデビューしていった。板橋廣美、加藤委を筆頭に、川上智子、酒井博司、加藤智也、柴田雅光、佐藤雅之、猪倉高志、古川敬之、伊藤秀人、安田幸正など。
そして最近も、雑誌などをにぎわし、意匠研のイメージを一変させた若手のホープたちがいる。新里明士、横山拓也、加藤仁香、川端健太郎、青木良太、大江憲一など・・・・・・。数え上げたら、きりが無い。



 私が若かった頃、共に励んだ仲間たちは、皆、美濃の窯焼きの後継ぎである。彼らは家業の自社製品をデザイン開発するところから制作に目覚め、個人作家と家業を共存させた。
 かつて走泥社の作家が、「生活の道具」を作りながら造形作品を作ったように、また酒を酌み交わして陶芸の未来を語り明かしたように、若い製陶工場の社長たちは、ゴルフのクラブを持つ代わりに工芸論を戦わせ、夜な夜な制作に励んだ。柴田雅光は大量生産の技術を個人製作に持ち込んで、撥水による柴田混沌色を生み出した。酒井博司はローラーマシンの隣にガス窯を作り、年間五〇回を超える焼成実験を繰り返し、酒井志野を作り上げた。加藤智也は民芸の里・高田町で、昼間はすり鉢を作りながら、夜中にあの大作を黙々と捻り上げている。
 一方若い世代であるが、彼らは焼き物とは無縁のところからこの世界に入ってきた。初めから素材を限定することに迷いや矛盾はなく、陶での制作に関心が高かった。「焼き物は経験の産業。センスだけで通用するのは値段の手頃な若い内だけ」との先輩諸氏の助言もなんのその、素材の魅力を引き出すデザインセンスで存在感を見せている。



 愛知教育大学に赴任した当初、学生の「ロクロができないと食べていかれない」との、あまりに時代に鈍感で素朴な疑問に、答えに詰まった。大学でやる授業は、職業訓練ではない。それは、自分にとって陶芸とは何かと自問し、陶で「表現」することと「生活の道具」を作ることの意味を考え、そして、焼き物を通して社会と繋がることである。
 三〇年も前、信楽で独立を考えていた私に、熊倉順吉先生は「陶で造形をやるなら生活を安定させろ」と、意匠研の職員になることを勧めた。先生には、私に「生活の道具」を作り、それを経済の支えにする能力が無いと映ったのであろう。



 今年、大学院の安藤麻衣子と近本まゆみ、四年生の村上真衣が現役で国際展、全国展に入選した。いよいよ陶芸界にプチデビューである。
 しかし、入選したところで何も変らない。更なる大きな難題が見えるだけである。老婆心ながら私は言わなければならない。「出ることより、残ること」と。先生になれる者は先生になれ。家業のある者は家業を継いで、一日でも一年でも長く焼き物と付き合うこと。それが、自分と土、焼成のプロセスと一体となって自分の人生を作る。自己主張や理想は、そんな日常の中に織り込んでいけばいい。
 時代は陶芸作家に逆風である。デザインセンスのある者、時代を読み取るセンスのある者だけが、「生活の道具」を作ることで経済が支えられる。
 学生諸君、「職を探して、生きがいさがせ」