わたしのデッサン集「デーマとヴァリエーション」を制作している時、わたしは鉛筆が画用紙の上で辿った道は、どこか暗闇の中で手探りで道を探している人のしぐさに似たところがある。わたしの言いたいのは、わたしの道は前もって何ひとつわかっていないということだ。わたしは導かれるのであって、わたしが導くのではない。わたしはモデルの対象の一点から他の一点へと移ってゆく。そのほかの一点を、わたしはいつもただひとり見ているのであり、つづいてわたしのペンが赴くほかの点とは無関係に見ているのである。わたしをもっぱら導くのは、わたしの眼が見据える外部よりもむしろ、内部の躍動である。その内部の躍動が形成されるにつれて、わたしはそれを表現するが、その瞬間、わたしにとってもっと重要なのは、まずわたしが辿ってゆかねばならぬ夜のなかのかすかな光である。──だが、ひとたび辿り着くと、わたしはまたほかの光をみつけて、それにむかってさらに進んでゆくことになる。そこへ辿りつく道をつねに見つけながら。
ちょうど、蜘蛛がいちばん好都合と思った突出部に糸を投げ(あるいは引っ掛け?)そこからつぎに見つけたほかのところに糸を投げ、一点から一点へと網を張ってゆくように。 わたしの習作デッサン集「テーマ」の制作についていえば、わたしの制作行為はそれほどはっきりとはわたしに見えない。というのは、それはひじょうに複雑で、ひじょうに意図的だから。この「ひじょうに意図的」というのは、いちばん重要なものを洞察するのにおおきな邪魔となる。──この「ひじょうに意図的」というのは、本態がはっきりと現われるのを妨げるからである。
わたしが感興にのってデッサンしているとき、もしもモデルがわたしに時間を尋ね、わたしがそれに注意をむけると、わたしはいやになり、デッサンはだめになる。ちがった仕事、習作のときなど、わたしは会話をつづけることがあるが、わたしは多少ともぼんやりした話で会話を運ぶ。それはそのときのわたしの仕事には役立たない。その場合でも、ひとがわたしに時間を尋ねれば、ほかの世界から──自分の仕事の世界から出てゆく。
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