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allein in Deutchland

97年9月24日 7日目
ベルリン 時代のモザイク

Sバーンに漂う東ドイツの残り香

9月24日ベルリン。旅行は後半戦に入る。目が覚めると、大きな紙コップになみなみとコーヒーが注がれている。こういうサービスはうれしい。道路が渋滞しているのを見ながら、終点のシャルロッテンブルグ(Berlin-Charlottennburg)駅で降りる。

筆者が乗っていたICNに限らず、97年当時ベルリンに乗り入れる長距離列車はかつてのベルリン都心までは乗り入れず、都心に行くにはSバーンを使わなければならなかった。しかし、シャルロッテンブルグ駅の汚い地下通路をくぐって乗り換えたSバーン電車、車内の椅子は木張りの上に電気は白熱灯。「これはただごとではない」と何やら怪しい予感を感じるうちに、突然車内の赤ランプがついてブザーが鳴り響いた。すわ非常事態かと緊張が走るが、これはドアを閉める合図。程なく電車は大音響と共に走り出した。日本の電車ではほとんど使われなくなった「釣掛式」という原始的な駆動機構である。ドアも開けるときは力を込めて手で引っ張らないと開かない。およそ世界の最先端を行く国の鉄道とは思えないが、これは第2時大戦の終戦後、東西を問わずベルリン周辺の国鉄・Sバーンは全て東ドイツ国鉄(旧ドイツ帝国鉄道の継承会社)に引き継がれたことによるためである。興味ある人はこちらをご覧下さい。車内の様子などをまとめてあります。

ベルリン市内観光

zoo(動物園)駅(当時、旧西ドイツ方面に出る列車はzoo駅が起終点だった)に戻って荷物を預けて、再びSバーンに乗り「(菩提樹の下)」という駅に降りる。「Unter den Linden」とは「ブランデンブルグ門」を起点とする菩提樹の並木が連なる大通りの名前である。ブランデンブルグ門といえば東西ベルリン分裂の象徴であったが、今では自由に出入り出来るうえ、約10年前までベルリンを分割していた「ベルリンの壁」は跡形もなく消え去っている。

ベルリンは東西で断絶していた都市基盤の復旧工事が進められている上に、旧西ドイツの首都であるボンから首都機能が引っ越してくることから、現在も各所で大規模な工事が進められている。そのせいか少しく町の中は埃っぽく、同時に白く霞んで見える。建設マニア(そんなの聞いた事ないぞ)や建設業に携わったことがある人にはたまらなく面白いところであろう(「地球の歩き方」によると、現にベルリンには「建設現場ばかりを案内する」ツアーがある)。

ベルリンには、戦争で破壊されたアンハルター駅付属の機関区の施設を改造した「交通技術博物館」がある。ここは機関区の施設を活用して実物車両の展示を行っているが、その中にユダヤ人を収容所に送り込んだ貨車が留置されていた。狭い貨車内に入ってみると薄暗い。第2次大戦当時はこの中にユダヤ人が詰め込まれて収容所に送られていた。その悲劇はまともな人間が引き起こしたものとは思われない。

博物館を出てそのまま歩くとアンハルター駅の建物正面だけが残されている公園に出る。ベルリンにはこのように戦争の爪痕が至るところに残されている。

第2次大戦で破壊されたアンハルター駅の残骸を裏から見る。地下のSバーン乗り場から出てくるとこのような風景が見られる。かつては線路が引かれ蒸気機関車が出入りしていたであろう右手は芝生の張られた公園になっていた。

ベルリンは人口300万の大都市のはずであるが、非常に緑が多い。本当の都心でないところでは、駅のすぐ周辺から緑が広がっている。しかし、ところどころで廃墟と化した煉瓦造りの建物が黒くくすんで朽ち、その上に緑色の雑草が生い茂るという光景を何カ所かで見た。これらは第2次大戦やベルリン封鎖の産物であろう。この黒と焦茶と緑のコントラストに、人類滅亡後の地球を見た気がした。

西から東へ

Zoo駅に戻り、昼食をKa De Weというデパート最上階のセルフサービスの食堂で取る。こちらのデパートや駅などではセルフサービスのレストランが多い。「セルフサービス」という言葉から考えれば少しく高価な食事であるが、このレストランはビルの最上階にあり店内は非常に明るい。ここからベルリン市内の2階建て路線バスの最前部を陣取って東に向かう。ところどころに意匠が凝っている古びたUバーンの高架駅が残っており、「大ベルリン」の面影を感じさせられる。30〜40分後「Good Morning」と運転手に起こされた時には終点に着いていた。ここから先はUバーン、Sバーンを乗り継いでシェーネワイデ(Schoenenweide)という駅に着いた。どこが東西ドイツの国境なのか、よく分からないままであったが、ここシェーネワイデは明らかに東側のはずである。

ここにはベルリンの路面電車が残存しているということで試乗してみようと思った。乗り込んで窓の外を見ていると、駅前なのに店が少ない。本来、駅前などは人が集まって自然発生的に市ができて商業が発展するようなものだが、もと社会主義国のためだろうかそれがない。また駅から離れたところの町並みは素寒貧としており、土の露出量も多い。煉瓦造りの工場がもうもうと煙突から煙を吐き出しているのを見ると「未だ東独健在か?」と思えてくるのである。ベルリン市内の公共交通(地下鉄・市電・バス)については、こちらにもまとめてあります。

リヒテンベルグ(Berlin-Lichtenberg)駅到着。ここは旧東ベルリンのターミナル駅であるが、横断地下道がいきなり駅構内のコンコースになっており、改札もないままホームに上がれる。しかし時間はもう5時を回っているはずなのに列車の発車案内は午後3時の列車のまま。ここからSバーンでZoo駅に戻る。ホームの柱の鉄骨は枯れた風情を見せ、何か飲み物を思って自動販売機にお金を突っ込むが自動販売機が壊れているため商品が出てこない。やはり「東独感」を味わうことができる駅である。

この日1日動いた範囲

夜は安静に

夜、オペラなどを見に行くこともできるが、どうも出かける面倒を払って見るほどのものか、と思ってしまう。結局、ベルリンの夜はホームで夜行待ちをしながら日記を付けて時間を潰した。車内照明が切れたSバーン電車が昼間の半分の長さになって走って行く。チューリッヒまで行くCNL(ドイツとスイス・オーストリアの間を結ぶ国際夜行列車)を見送り、フランクフルト行き夜行列車の入線を待つ。

フランクフルト行きD1554号夜行急行列車が入線してきた。車内は寝台車、クシェット(簡易寝台車)が1両ずつ、あとは座席車である。クシェットを今朝ベルリンで予約したが、実は筆者は寝台車を使うのはこれが生まれて初めてである。クシェットというのはコンパートメントの中に寝棚を設けただけのもので、ちょうど日本のB寝台車(3段)に類似しているが、個々の寝台を仕切るカーテンはない。明日は早く起きなければならないのでさっさと布団に潜り込んで横になる。ドイツ人の女性が何やらいうが分からないので聞き流していると、コンパートメントの中の男性がみんな出ていった。「もしかして着替えか?ヤバイ」と思ったが、彼女は意に介さずいきなり服に手をかけて着替え始めた。もう今から出ようとしても手遅れなので、布団をかぶったままでいた。

カーテンに残る「DR」マークが雄弁に出生を語る通り、この列車は旧DRの車両を中心に構成されている(だからこそ在来車両で運転される急行である「D」が列車番号についている)。コンパートメントの一つはリネン室と化しており、スタッフ室の中ではミトローパ(鉄道専門のサービス会社)の人がミニバーを開いていた。窮屈な3段寝台では頭がつっかえるといっても寝てしまえば関係ない。ぐっすり眠ることができた。

続き(9.25:ブレーメンを自転車で走ってからライン川を眺める)


更新日 2005.1.26
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