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特集コラム

その1:JR真岡線最後の1日

真岡線・真岡鐡道とは?

キハ20型 折本〜久下田間(1987〜88 折本〜久下田)

 

真岡線とは下館(茨城県筑西市)-茂木(栃木県芳賀郡茂木町)の間を結ぶ、全長41.9kmの鉄道す。国鉄再建の一環として廃止対象路線になり、昭和63年4月に第三セクター鉄道(官公庁が出資する株式会社)に移管されました。

 

真岡線を走った車両

真岡線の列車は、長らく昭和30年代に製造されたキハ20型、25型で運行されていました。しかし国鉄民営化を控えた昭和60年秋、他路線からキハ45型(写真)やキハ28型が導入され、一部車両の取り替えが行われました(そのころ小学5年生だった作者は「真岡線もようやく近代化」と思ったものです)。この時、キハ25型が国鉄線から全車両引退した、と聞いています。

JR真岡線の最終日

 

真岡鐡道への移行を控えた1988年3月、それまで行われていた水戸線小山までの直通運転を取りやめ、4両(?)の気動車が下館−茂木間を行き来するだけの運航になりました。列車のない昼間時間帯を使って真岡鐵道のレールバスの試運転が行われるようになりました。作者も、中学校の体育の時間に試運転を見かけましたが、そのユーモラスなデザイン(2匹の鳥が羽を広げている)に驚き、呆れた記憶があります。

全く列車が運転されない昼間時間帯は、第三セクターの新型気動車の試運転が行われたりしていました。

そして、1988年4月10日、JR真岡線の最終日は、廃止記念のヘッドマークをつけた列車なども見られました。この写真は最終日に撮った下り最終列車の写真です(22時18分、折本駅)。最終列車はキハ20 247の単行でした。別に鉄道自体が廃止されるわけではありませんので、最終列車を見に来る人はほとんどいませんでした。

車内です。やはり最終列車ということもあって、車内は混んでいます。側面にはかつて使っていた「真岡行」の方向板(この当時は全列車とも常時「真岡線」と表示された方向板を使用)を掲げ、車内には万国旗が張り巡らされています。しかし、中途半端な装飾はかえってわびしさをかき立てるような気がします。 

この写真は、最終列車がホームのある2番線から構内側線の奥に移動する入れ換え作業を撮ったもので、このキハ20 247はこれ以降エンジンに火が入ることはありませんでした。

最終列車が終着駅である真岡に着くのと入れ違いに、最後まで真岡線で使用された残り3両からなる回送列車が下館に向けて発車してゆきました。これらのうちキハ45型は水郡線に戻り、引き続き数年間使用されています。

その隣では、明日から使用される真岡鐡道のレールバスがドアを開け、エンジンを回して試運転を行っていました。

 

真岡鐡道最初の1日

明けて4月11日朝5時半、同じ線路の上を、明るい色の小振りなレールバスが走り始めました。真岡鐡道では運行時刻を根本的に見直し、今まで列車の無かった昼間時間帯も、1時間に1本の頻度で列車を走らせるようになり、沿線の利便性は向上しました。その一方、編成は短編成が主力になり、最大でも3両(臨時で4両編成が組まれる場合もある)となりました。

真岡鐵道の車両として導入されたモオカ63型は、当初8両、追加で2両、平成5年には1両の計11両が導入されましたが、2002年度より廃車が始まっております。

その後、福島県と新潟県に保存してあった蒸気機関車を復元して走らせているのはご存知のとおりです。

 

Reference(参考文献)

  1. 大町雅美『栃木県鉄道史話』落合書店
  2. 鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」1988年7月号
  3. 交友社「鉄道ファン」1987年8月号、


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更新日 2005.05.01
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