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名古屋に来て、長いこと一度お参りしようと思っておりましたが、この度訪ねることにしました。徳川幕府による薩摩藩に対する普請強要でありました。薩摩藩は疲弊しているにもかかわらず、資金放出を狙った命でありました。薩摩では戦を覚悟しておりましたが、家老の平田が、この怒りを川による洪水に向け、同じ日本人を助けようではないかということで、受けることになったと言います。薩摩藩家老平田靱負(ひらたゆきえ)を責任者とし約1000名の藩士と地元の人々約1000名により、約一年にかかる工事を行うこととなりました。 手伝いとは全く違い、すべて薩摩藩にて行うものでした。宿舎も壊れた小屋を与えられ、修理し役館として直しながら行ったようです。順調に仕事が進むと、幕府の役人が少しのことに難癖付け計画を変更したり、村人を使い、夜壊したたりするいじめを行い、責任を感じた薩摩の侍は、切腹したようです。また幕府は、切腹はお家断絶とするなど葬儀も行ってはならないとか。よって地元のお寺も埋葬を引き受けてくれなかったようですが、数件の寺が密かに受けてくれたため、現在もそのお寺にお墓がありました。長い間、伏せられていたため、明治まで世に知らされていない状況でしたが、地元の方々は非常に感謝されていたため、このような施設を建てて薩摩義士の慰霊をされております。 参考にYOUTubeにある動画で見ていただいた方がわかり易いと思います。 |
YouTube 参考 千本松原のメッセージ@ 9分50秒 参考 千本松原のメッセージA11分35秒 参考 千本松原のメッセージB 7分36秒 参考 木曽三川河口部の治水に命を賭した薩摩藩士たち (概要)2分36秒 |
治水神社由緒 | ||||
治水神社 江戸時代の中頃、徳川幕府は、木曽三川の水害で悩む濃尾平野西南部の住民を救うため、薩摩藩にお手伝い普請を命じました。 薩摩藩士らは、経験したことのない水の流れに苦しみながら、この地方の住民のため、多大な犠牲を払い、万難を排して工事を見事完成させました。 平田靱負(ひらたゆきえ)薩摩藩家老を工事の総責任者として、この工事に当たり、幕府の検分が終わった宝暦五年五月二十五日、平田は多くの犠牲者をだし、予想外の出費を余儀なくさせられた責任を一身に引き受けて、美濃大牧(みのおおまき)の役館で命終されたのです。 薩摩藩の経済を破綻させたこの悲劇の大工事は、永く伏せられていました。明治維新後、三重県多度町に住む西田喜兵衛は、深い人間愛に基づいたこの事実を世間に知らせ、慰霊と顕彰に邁進し、明治三十三年に「宝暦治水之碑」が時の総理大臣山県有朋公を迎えて油島千本松原に建立されました。その後、地元の人々の報恩感謝の熱い思いにより、現在の地に平田靱負をご祭神として、この大工事を完成させた薩摩藩士の功績を讃え、平田靱負の遺徳を偲び、犠牲となった多くの藩士達を慰霊し、併せてこの地域一帯が水害を免れるよう祈って、治水神社が創建されました。(治水神社資料参照) |
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平田靱負正輔(ゆきえまさすけ) | 治水神社 | |||
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国営木曽三川公園 入り口と駐車場 | ||||
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浄土宗天照寺(薩摩義士3名の墓と資料館) | 薩摩義士役館跡の慰霊碑(鹿児島県人東郷元帥書) | |||
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平田靱負銅像(自害跡に立つ) | 治水神社境内にて | |||
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