社会福祉関係者の方々へのご案内
  長年いろいろな講演や人生相談など手がけてきた先生です。昭和32年に日本で始めた「いのちの電話」の第1号の相談者です。それから全国に広がって何万もの相談者が生まれました。
自己開発研究所の所長として活動しながら、2006年から「NPO法人PLA(パートナーシップアンドリスニングアソシエーション」を立ち上げ、社会福祉協議会関係者の傾聴ボランティアの養成講習を行っておられます。全国に出かけて行き、講習を行いながら活動されておられる先生です。
 20年以上、お世話になっております。私が公益財団法人すぎのこ文化振興会に在籍していたときの理事で、それから、ずっと先生のHPや講習資料の作成、月刊誌「新電気」に連載されていた記事、約20年分を製本にしたりして、いろいろな部分でお手伝いしたことで、長年お付き合いとなりました。
 このたび、先生から別紙資料を頂きましたので、HPに載せました。関係者の方に何らかのPRができればと思います。
 現在は、首都圏中心に活動されていますが、最近は、広島や福岡まで依頼があり出かけておられます。社内教育や医療関係者の講習(慶応大学教授と看護学について研究中)など、多岐にわたっておられます。
是非、ご利用くださいませ。
 ユーソン企画代表 有村


 
  さざなみ創立十周年記念講演(2016年9月24日) 
  『時代が求める傾聴ボランティアとは』 

      NPO法人 パートナーシップ アンド リスニング アソシエション理事長  後庵 正治     


 私は今日ひとつのタイトルとして、「人は他者と関わることで人となる」という言葉を選びました。私たちは誰かと関わらずして生きるということはない。必ず生まれた時から母の手、父の手、他者の手を借りてこの世に誕生し、また、向き合って生きてい きます。そして、必ず私たちはここを去っていきます。その時に 必ず誰かの世話になります。

 よく老人ホームに行きますと特に男性ですが、俺は誰の世話にもなってこなかったという人がいます。本当かしらと思いますが、その人は一生懸命それを言いたい。だけれども、とても寂 しそうな顔をしている。そのそばにそっと寄り添いながら、手を さすったりしますと、「実はね」と言って、いろんな人との関わりを聞かせてくれます。そのような時、私たちは誰かと関わらずして生きていくことはできない。

 そこであるデータがあります。アメリカのある病院で入院した人の6ヶ月後の統計が出ています。脳が破裂したり、脳に障害を持つということが瞬間的に起こる脳溢血や心筋梗塞などといった重篤な症状の方が救急で入院をした時、その人の親しい人がいち早く駆けつけて傍らにいたり、声を掛けたりさすったりすると、半数の人が生き返ってくるというデータです。残念ながら誰もその人を見舞うこともなく、ただそのままという場合は亡くなっていくそうです。

 もうひとつ日本のデータがあります。去年日本の長寿県は長野県でした。 長野県が大事にしていることが、ある新聞に出ていました。それは、一番は人間関係を保つ。社会とのつながり、社会参加が長寿、いうなれば健康であるということに関係してくるそうです。肉体的な健康ばかりでなく精神的な健康も含めてであります。あとは、塩分を控える、タバコをやめる、酒を控える、適度な運動をするとなっていました。

私が注目したのは、人間関係を保つ、つながりを持つことです。長生きすることがいいのか私にはわかりません。私は、2014年に直腸癌にかかりました。52年前には結核にかかりました。だから右の肺がありません。しかし、その時に、私を励ましに、仲間や家族や知り合いの方々が毎日のように来てくれました。そして最も勇気づけられたのがメールです。病院の中では電話ができませんので、携帯メールが毎日のように届きました。それに返事を書かなければいけないと思うと、元気になってくる。直腸癌になった時がそうでした。いかに私たちは他者と関わることが自分を引き立ててくれるということが分かってくる。

 ミヒャエル・エンデが書いた「モモ」という本があります。その中で、10才になるモモという女の子が大人たちの話をただ静かに聴いている、耳を傾けている話が延々と描かれています。時に憂いを持ち、時に諍いをし、時にストレスをためた大人たちがモモという少女と向き合って、ただ聴いてもらうだけでも心が爽やかになっていくという物語です。注意深く耳を傾けてくれることによって、いかに心が洗われ整理されていくかという物語ですが、人間の心の在り方を謳(うた)っているのかと思います。

 最近こんな言葉が無くなりました。皆さんの中では使っていらっしゃると思いますが、若い人たちの中ではありません。「おかげさまで」という言葉、最近聴きませんね。葉書を書いたり手紙を書いたりするときは、何々さんのおかげさまでと書くことはあるが、直接いうことはない。ところが今年はブラジルでオリンピックがありました。そうして、優勝した若者たちのインタビュウーを聞いていると、すべての青年男女が何々さんたちのおかげですとか、感謝していますとか、彼らが決して一人では今日までこられなかったという感謝の気持ちを伝えている。私はそれを聞いて、すごく安心しましたし、ちゃんとここに日本の心が残っているというふうに感じました。

 人は誰かと関わらずして生きることはできない。それも温もりのある関わりを持つことが大切だと思います。そういう中で傾聴ボランティアというのは生まれてまいりました。1987年カリフォルニア州サンタマリアの福祉センターで生まれたと言われています。50歳以上の方がシニアピアとして、老人ホームを訪ね、お互い同じような年代同士でお話を聴くことで気持ちも晴れていく。そこからスタートしたと言われています。日本に入ってきたのは1990年代です。

 次に傾聴ボランティアの働きについて話します。私がP.L.Aを立ち上げたのは2005年4月です。仲間に呼びかけて創り上げたのが、パートナーシップ アンド リスニング アソシェーション、聴く人を育てるという内容の専門集団です。この基になっている人材は「いのちの電話」という東京で初めて1971年にスタートした人たちで、一緒に立ち上げ現在に至っています。傾聴ということについて、私たちと一緒に学んだ人たちが2015年末、延べ2万5千人を超えました。そして、老人ホーム、ディケア、病院、地域のサロン、認知症の方々のカフェとどんどん活動先が広がってきています。その間も活動をまとめ、去年本を作りました。ここには傾聴と実践について成功した例、失敗した例が書かれています。今や全国に広がりをもっておりまして、この近場では西多摩地区で講座が先月終わりました。昨日は長崎大学から問い合わせがありました。それらは聴くことが大切だという現れかなと思います。

 次のテーマに移ります。不確実な時代に生きる私たち。今日のテーマはここに関係するかと思います。私たちは明日が約束されているようですが、約束はされていません。毎日、日本の社会では3000人(平成二十六年厚生労働省発表)以上の方々が亡くなっています。そして、それぞれ置かれた状況において、まさしく不確実な時代を生きているという現実があります。それぞれ置かれた状況の中で、ストレスが溜まり、心のしこり、思うようにいかない、誰かにそれを聴いてほしいという人たちが増えている。
 それぞれの物語があります。そういう方々の「気持ちを受け止めてほしい」と、私たちが活動する先の老人ホームの方々の多くは心の中を寂しくさせて生活しています。誰かに私のことを受け止めてほしい、認めてほしいと思わない人はいないと思います。誰もが時として輝き、有終の美を飾っていた時期もあるでしょう。また、時として不安に駆られて生きてきた人たちも沢山いると思います。そういう中に、私たち傾聴ボランティアがお尋ねして心を通わせる、そういう時間が持てたらどんなにか幸せかと思います。

 誰もが老いていく。必ず老いていく。誰でもいつまでも若々しくありたいし、老いたくない。残念ながらそれは叶えられない。先日の新聞を見ましたら、全国で65歳以上が27.4%となったそうです。東京都の場合、女性は3割が65歳以上。あと10年経ったら、どこを見てもよろよろして、杖をついて歩いている人ばかりという状況が現実になると思います。しかし、見た目はそうかもしれませんが、心の中はどうなんだろう。心の中は寂しかったり、そして自分のことを認めてほしいと思ったり、様々な思いを持っていると想像します。
 自分のことを考えれば、そこまで生きたくないな、早くお迎えがこないかな。皆さんこういう話を聞いているでしょう。「もういいいの早く迎えがきてほしいの」と言われたら、みなさんどう言うんですか。「もうじき来ますから」と言うんでしょうか(笑)。そんなことを言われたらガクッと来ますね。いくらそう思ったからといって、そういうふうに言われたら困ってしまう。「そうよね、確かにそうよね」と言いながら寄り添ってくれる人を求めているのではないでしょうか。そういう中にあって、傾聴ボランティアを目指す人たち、傾聴ボランティをする喜びとは何だろうと考えてみました。

  ひとつには、「隣人(となりびと)となる」ということではないかなと思います。「隣人となる」とはどういうことかと言うと「ザ・サマリタンズ=良き隣人」という表現でイギリスで生まれた言葉です。基になる言葉は、新約聖書のルカによる福音書10章29節から37節に載っている話から引用されていると言われています。どういう内容かというと、山道で盗賊に襲われた人がいた。3人の人がそこを通りかかるが、身なりが素敵で地位も高いユダヤ時代に選ばれた民レビ人と祭司の二人は知らん顔して通っていく。もう一人、当時の身分制度で一番低く一番苦しさを知っているサマリア人が通る。盗賊にあった男性をかわいそうに思ったサマリア人は、宿に連れて行き介抱してあげた。この中で「一番の隣人は誰ですか」とイエス様が訪ねる場面がこの例え話です。これが隣人という言葉を言わしめた。ボランティアとは何ですかと聞くと、いろんな例え、原則がありますが、アメリカ、ヨーロッパではその箇所からとっています。よければ新約聖書を紐解いてください。

 そして、ボランティアをする喜びとは、これまでとは異なる行動をすることで刺激を受け、新しい出会いをすることかもわかりません。ボランティアをしたいという人、それも傾聴ボランティアをしたいという人はある意味世話好きな人です。しかしそんな易しいものではない。そして、勉強もしなければいけない。それもしっかり12時間半勉強してもらわないと、傾聴ボランティアになってもらっては困る。なぜかというと、相手の人格を聴くからです。ある程度の知識が必要です。そして、今までは仕事や関係しているところや同じような環境下の人たちと出会ってきましたが、そうでない人たち、今まで出会ったことのないような役割の人たち、そういう人たちと新たに出会っていく。そういう中にあって、新しい刺激が与えられます。刺激を与えられるということは、自分の脳が活性化されるということ。新しいことを発見できます。60年生きようが、70年、80年生きようが、私は73年生きてきても知らないことがたくさんあります。ですから出会った人に教えてもらいます。そうすると、そこで広い知識を味わった気分になる。そしてますますそれを知ろうとするから、変わっていく。だから出会うということは大切なことです。楽しいことでもあります。

 次に重要なことは、自分自身と出会うということ。私の専門にしてきたことは「人間学」です。人間学とは一言で言うとその人がそのひとらしく生きることを研究する学問の一つです。そして、他者と出会い必ず新しい発見が自分の中に生まれてくる。それは柔らかい心、柔軟な心が生まれてくるということでもある。そうすると気持ちが若返るんです。傾聴ボランティアはどんなボランティアよりも素晴らしいと思っています。ですから、よくぞ皆さんこれを選ばれて、10年も続けてこられるのは並大抵のことではありません。何回も「もう辞めた」という思いになられたことでしょう。私も40年以上やってきて、何回も人に会うのが嫌だと思った日がありました。厄介なことに、そのことを人に喋れない。守秘義務がありますから。語れないことはしんどいことです。だから自分の中で消化していく。いろんな自分に出会うことは間違いないのです。

 3つ目は、「一期一会」の関係だということです。傾聴ボランティアは引きずらない。ですから、自分が自己確立していくことがなければ傾聴ボランティアはつまずいていきます。この「一期一会」は、自分を若返らせる要因でもある。引きずらない、こだわらない。そういう自分を創っていくことが傾聴ボランティアになる喜びとしてあります。

 4つ目が体を動かすということです。言うなれば会いに行かなければならない、体を動かさなければならない。皆さんは東京都民ですよね。70歳を過ぎると都内の乗り物のパスが申請できる。みんな体を動かしましょう。そして、体を動かすことは認知症状の予防になるし、健康寿命が延びる。誰かに会いに行きましょうと思えば、必ず体が動く。あの人に会える、あの人に会おうと自分を向かわせていく。そういうこととして傾聴ボランティアをする喜びが生まれます。

 5つ目として、社会への目が広がっていく。私たちは、習慣性の動物です。どういうことかと言うと、朝起きたらどこに言って、何をやって、そこで組み立てて、かえってくるということを繰り返す。その例は、私が施設を訪ねた時、学校の先生であった人が、私と会うと必ず「君は何年何組の担当かね」と聞く。その人の世界は常にその世界で動いている。良い悪いではなく習慣の中で暮らしている。ところが傾聴ボランティアは、いろいろな人と巡り会うわけですから、自分の枠を外さないと対応が難しくなってきます。そういう中にあって、社会への目が広がってくる喜びがあります。

 6つ目は、自らが行うこと。ボランティアとはそういうものです。活動を続けていくうちに柔軟性が生まれます。その柔軟性は今まで知らなかったことを知るエネルギーにもなっていく。傾聴ボランティアをやる、行動する、アクションを起こすことが自分の喜び、自分の生き方の発展につながってきます。

 『さざなみ』は優秀なグループです。どういうことかと言いますと、皆さんがとても前向きなです。全国でも年2回フォローアップ研修を行っているグループは少ない。研修を続けていく際に「さざなみ」の見なさからテーマの要望をいただき、それに応えて研修をおこないます。「さざなみ」からは、いろんな引き出しを頂いています。感謝です。日本に傾聴ボランティアが入ってきて25年足らずですから、理想的な運営とは何かを模索しているところです。きっと、「さざなみ」がそれらを示してくれることでしょう。

 次に、傾聴ボランティアをするために何を学ぶかということです。まずひとつは基本姿勢を学ぶ。人を理解するためには何が大切か、その学問的なものを学んでいきます。そして、自己理解を深めます。2つ目は、具体的に他者を受け止める技能を、実際に通して学んでいきます。3つ目は人間性を磨く。どういうことかと言うと、自分の中にある優しさを掘り起こす。私たちは日々自分を中心に生きています。しかし、傾聴ボランティアはそうではありません。他者を中心として対応するということです。それっは相手に対する優しさがないとできません。頭の中では分かっていても、実際に関わろうとすると容易ではありません。それを、学習を通して、少しずつ学んで身に着けていく内容を私たちは提供してきました。身に着いているかは、ご本人の感性と対応次第ですから私にはわかりません。私のほうはただお伝えしているだけです。しかし、現実にこのグループが10年経ってここまで成長してきたことは、素晴らしい成長を遂げている証明であると、私は自信を持ってお伝えします。

 さて、今後のことですが、私は今回のテーマを頂いた時、最初に浮かびますのは、これから一人出会う人たちのケア、その人をどう支えるかということです。福祉の現場に置き換えて考えて見ますと、今、在宅で一人暮らし、年老いたお二人が暮らしているケースが増えている。なぜかというと施設に入れる余裕がない。そうすると、贅沢で老いて病に入るわけですから、在宅ケアが始まる。今から40年程前、1970年代ですが、佐藤智さんというライフケアシステムを立ち上げた方が東村山市にあった東京赤十字病院で勤められていたその方が私に教えてくださいました。「歳を取ると言うことは、交響楽に例えると終楽章を奏でながら下山していく旅人である。そして、老人には無限の可能性がある。その人がその人らしくありたい、そこを支援していこう。そして最後の時まで生き続けるものであり、個性的なものである。一人ひとり違う、一人ひとり物語があることを傾聴ボランティアはしっかりと受け止めていく。受け止めてもらった方は、自分は生きてきてよかったと前に向いて生きる力を得る」。こんなことも言っています。「老人は主人公だ、私たちが在宅で訪ねた時は、その方がそこのご主人なんだ。私たちは客分なんだ」。
 
 先日、西多摩地区で講座がありました。その時取材が来ていました。9月5日(2016年)の西多摩新聞1面に奥多摩町の記事が出ています。その記事の中で講座を受けて、こんなことに気が付いたという人がいました。「教えたりアドバイスすることが親切だと思っていたが、決してそうではなく、待つことや沈黙も大事だと感じました。つい私たちは相手にアドバイスや意見を寓するような気持ちになりがちです。そうではないんです。相手が主人公なんだからそれを尊重する、持つことが大事だと気付きました」と仰っている。良いところに気が付いたと思います。
 そして、私たち傾聴ボランティアは、将来にわたっては、いろんな考え方、いろんな感じ方、いろんな思い、思想、人種など、それを多様性と言いますが、それを受け止められる自分を育てていくことです。そして、これは私個人の考えですが、ケアについても傾聴ボランティアはなくてはならない。ケアする一人として福祉関係や保健師、看護師、施設の方々と共同し合ってやっていく。そういう方々になっていくのではないかと思います。

 これから傾聴ボランティアは、時代になくてはならない存在です。最近、各地の社協から連絡があるのは、あらゆるボランティアに傾聴が必要だからです。「傾聴ボランティアを育てるところまではいかないが、ボランティアをするための一人としてどう他者と向き合うか、そのことを学びたいんですが、そんな講義もできますか」という話が数件ありました。そのようにして、どんどん求められているのは今の現実を表しているのかなと思います。
 最後に、昭島市は最初3年間、市の社会福祉協議会が取り組んでくださいました。その後「さざなみ」が助成金を頂いて、やってくださった。その後から現在まで、市のご理解が深まって、そして現在に繋がってきています。この近隣では、私たちが関わりを持っておりますのは、日野市、国立市、国分寺市、福生市、瑞穂町、青梅市、日の出町、あきる野市、奥多摩町と広がりを見せております。とてもありがたい、うれしいことだと思います。
 以上をもちまして私の話とさせていただきます。ありがとうございました。