| (街角の史跡) 京の大仏をめぐって 渡辺俊三 |
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| 秀吉・大仏・瓦町・正面−−この四つの言葉のかかわりが、最近になって、やっと分かりました。今日は、その事を書いてみようと思います。 「正面」というのは、「河原町正面」という地名を初めて聞いたときから、なにに対しての正面かなと、疑問に思っていたことばで、「瓦町」というのは、私が生まれ育ったところが、深草の瓦町というところで、東山区にも、「東瓦町」とかがあるのに、興味を持っていたものです。 |
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| さて、私の勤務している小学校まで、京阪七条駅から、七条通りを東に歩いて行ってみましょう。。私の疑問がとけて、四つの言葉の関わりが分かるのです。 土曜日の午後などとくに、駅から東への七条通りは、京女の生徒や観光客で、にぎやかです。「三十三間堂」のところまでくると、「大仏前交番」という看板に出くわします。はじめてこの看板を見たとき、「大仏前」て、なに、と思いました。その奥に、大仏殿の遺跡があるなんて知らなかったものですから。 |
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(大仏前交番という看板が見える) |
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その看板がある交差点を、北に曲がると、博物館の改築された門の横からずうっと、北へつづく大石垣が目に入ります。びっくりしますよ。こんな街の中に、お城の石垣のような、大きな石積みがあるのですから。それが北へ400メートルほども続いているのです。その北の端にいくと、1メートル程の路地をへだてただけで、14軒の民家が、大石を前にして、並んでいます。とほうもない遺跡が、住居にとけこんでいるのです。 |
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| この大石垣が、大仏殿の名残だったのです。そして大仏殿へ通じる東西の道が、「正面通」として、今も残っているのです。「正面湯」というおふろやさんもあります。 | |
| 秀吉は、ここに奈良の大仏をしのぐ、京の大仏をつくったのです。大石運びにかりだされた当時の何百万という民衆は、どんな思いで石を運んだのでしょうね。 何回となくこわれた大仏は、江戸時代に半身木像大仏となり、1973年の火災で、焼けてなくなっていたのです。つい最近まであったのですね。 |
![]() (豊国神社jかから見た正面通り) |
| 深草の瓦町にも寺本さんという瓦屋さんが今でも一軒残っていて、桃山城の鬼瓦を焼いたと、子どもの頃、きいていました。「瓦町」が、秀吉を通して、むすびついたのです。 ちなみに、今の清水焼のもとをたどると、その深草焼とも関わっているらしいです。また、深草墨染の伏見大仏が、今では、日本一の木像大仏ではないかといわれています。"," こうして、秀吉・大仏・瓦町・正面が、私にとって幻の、京の大仏をなかだちにして、むすびついたのです。 |
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| 方広寺のつり鐘、耳塚と朝鮮通信使、紙巻たばこの発祥地、寅さんの舞台、馬町空襲……渋谷通を歩いての学校への道すがらの話をもうすこし続けたかったのですが、紙面のほうが、尽きました。 | ![]() |
| 参照「東山修道歴史散歩」 | 豊国神社の巨石 |