…視線を感じる。
時間にしてもう1時間ほど、安田愛美はその視線を感じ続けていた。
教室内、そして今が講義中である事からすればそれは異常と言えるだろう。別に彼女
が教壇に立っているわけでは無いのだから。
だが、彼女はその視線の方を顧みようなどとは思わなかった。自分に視線(殺気と言
っても良い)を浴びせかけている人物は彼女の半径1メートル内に居り、ついでに言う
ならば彼女の友人が発しているからだ。
正体が判って居るのだから別に気にする必要は無い… と言うのはタテマエで、本当
のところは視線を合わせるのが恐かっただけ、なのだ。
「…だから、一言で考古学と言っても何も難しく考えることはなく……」
教壇で良く通る声を発している30台後半から40代前半に見える男性講師。その声
は彼女の知っている声に非常に似通っていた。強いて違いを言うならば、今聞いている
声の方が、若干渋味と重みがあると言うことくらいか。
土曜の2限というある意味特殊な時間帯にも係わらず、教室内には50を超す生徒が
出席している所を見ると、わりと人気があるのだろう。
まあ、半年で履修するというお手軽さも手伝っているのだろうが。
彼女、安田愛美もそれが理由でこの講義を受けている1人なのだが、実のところもう
一つ些細な理由があった。
講師の名前が『綾瀬博史 助教授』となっていたからだ。
プロフィールを見る限り、わりと輝かしい履歴であったが、それが理由ではない。た
だただその名字が『綾瀬』であったからだ。
※
「終わったぁ〜 さて帰ろ」
地獄のような90分が過ぎ、安田愛美はまるで大根役者が台本に書かれた台詞をその
まま読むかのような棒読み口調と共に立ち上がった。
そして実に90分ぶりに隣に座る愛衣に精一杯の笑顔を向け、
「愛衣ちゃんも『Mute』でバイトでしょ? 早く帰った方が良いんじゃない?」
現状を把握するためアクティブソナーを打ってみる。返ってくる反応によっては緊急
回避を行わなければならないからだ。
だがしかし……、
「大丈夫よ。それよりも今日は、愛美と一緒にお茶したい気分なんだ」
愛衣は愛美に緊急回避の間すら与えなかった。
いっけん何でもないセリフの裏には、
『どういう事なのか説明が終わるまで家に帰れると思うなよ』
と言う意味が隠されていたりする。
……こと此処に至って、愛美は事態が誤魔化しきれない所まで来てしまったと言うこ
とを悟った。
「びっくりしたねー まさかお父さんだとは思わなかった」
「企みがすっかりバレて、言いたい事はそれだけか?」
実際の所、本当にびっくりしたのだが、どうも目の前の人物は額面通りには受け取っ
てくれなかったらしい。これは愛美にしてみれば心外だった。
高校1年の時からかれこれ3年の付き合いになるというのに、まさかこんな風に言わ
れようとは……
「あ、それって酷い。まさか本当にそうだとは思わなかったもの。…そうだったら面白
いな、とは思ってたけど」
つまり、現状は愛美にとって『面白いこと』になっているらしい。
「良かったわね。面白いことが現実になって」
反対に愛衣の方は面白く無さそうだ。まんまと愛美にしてやられたと言うこともある
が、3人ほどの女生徒に囲まれている、先程までこの部屋の主だった男性講師が腹立た
しいに違いない。恐らく女の子に囲まれてへらへら笑っている姿がダブっているのだろ
う。
「さすがは親子と言うべきか」
まだそうと決まったワケではないが、これだけ状況証拠が揃っていればまず間違いな
い。何か先が思いやられそうな展開だった。
※
「まあ、だからって別にどうと言う事も無いのよね」
土曜だというのに8割方埋まった学食併設のテラスで(愛美オゴリの)天ぷらうどん
をすすりながら、愛衣は口を開いた。
「あっちはこっちの事なんか知らない訳だし。誰かさんがお節介な真似をしなければ何
も起こりゃしないわよ」
「えー? 上手く取り入って、楽に単位を取得するんじゃないの?」
その誰かさんがにまにまと笑いながら言ってくれる。傍観者としては面白い見せ物に
は違いないので愛美の気持ちも判らなくもない。…が、
「…コーヒーでも飲もうかしら」
もちろん愛美のオゴリで、と言う意味だ。これだけ面白可笑しく今日という日を過ご
せて居るのだから、それぐらいの出費は当然…
「ああ、此処のコーヒーは最悪。自販機で買った物よりはマシかもしれないけどね」
…だろうという思考を遮る声が上から振ってきた。
「(…最悪だ)」
声に出さずに呟く。確認するまでも無い声だったからだ。
「2人共さっき僕の講義に出てたでしょ。ここ良いかな? 1人で食べるのも味気なく
てね」
「あ、はい。どうぞどうぞ」
愛衣が何か言おうとする前に、お人好しの愛美が自分の座っていた椅子を一つずらし
て席を作る。それまで対面だった愛美が横にずれた為、必然的に愛衣と助教授殿が向き
合う位置関係になった。
「あ、悪いね。じゃ、お邪魔しまーす」
何か無性に腹立たしい。
同時刻、八十八学園
ぞわわっ…
「どうした? 龍之介」
「いや、なんか寒気が…」
「そりゃお前、楽しくお弁当している最中に割り込まれた女子連中の殺気じゃないか?
」
「うるさい。あきらこそこんな所で油売ってないで、さっさと部活に行ってしまえ」
「帰宅部のお前が言うセリフか?」
そんな遙か八十八学園で発生した出来事を感知したわけではなかろうが、無性に不機
嫌になった愛衣を、件(くだん)の助教授殿はさして気にした風もなく、
「そのカレーおいしい?」
なんて愛美に聞いていたりする。
「え、まあ… 学食のカレーなんてこんなもんじゃ無いんですか?」
「ははは。ここに来てカレー食べてるのは大抵新入生だよ。大多数の学生はカレーじゃ
なくハヤシライスを注文するね。『カレーは最悪、ハヤシは絶品』ってのは此処(学食)
の定説だよ」
そう言って、自分の目の前にあるハヤシライスを指さす。
「へぇ、そうなんですか。参考になります」
感心したように頷く愛美。対して、興味なさそうにうどんを啜る愛衣。…と、
「叶君のうどんもなかなかだよ。トッピング次第で豪華になる。お奨めはエビ天とコロ
ッケかな」
「……っ」
危うく麺を喉に詰まらせるところだった。既に顔と名前が一致している辺りが恐ろし
いが、彼の父親であることを考えればある意味当然かもしれない。
「え? もう名前覚えてくれたんですか?」
しかし愛美の方は正(+)の意味に取ったらしい。
「さっき自己紹介して貰ったでしょ。アレは僕が君たちの顔と名前を覚える為だよ」
「えー、じゃあ私の事わかります?」
などと和気藹々。愛美はかなり打ち解けてしまったようだ。
「そりゃもう。安田愛美くん、だよね。失礼ながら最初『マナミ』と読んでいたよ」
ちゃんとフルネームで自己紹介した賜だろう。……一方、
「…ところで、そっちの彼女の名前は『アイ』で良いのかな?」
こちらは無愛想と言って差し支えないほどの態度でもって、「叶です」だけで自己紹
介を終えてしまった愛衣に向かって問いかける。
「そう読んで貰って差し支えありません」
これまた、無愛想…を通り越して無礼に近い返事を返す愛衣。これだけ非友好的な態
度を取られると、さすがの助教授殿も怯んだようで、
「やれやれ、どうやら嫌われたらしいね」
そう言って、隣に座る(こちらは友好的な)愛美に向かって苦笑いを向ける。
「いえー、そんな事無いと思いますよ。でも、彼女が今不機嫌なのは、半分以上先生の
所為ですけど」
笑いながらまたも要らない事を口走ってくれる。すかさず鋭い視線を愛美に照射し、
それ以上の情報漏洩を防ぐが、
「…半分ってどういう事?」
助教授殿の疑問は逆に深まったようだ。全部自分の所為だと言われれば納得も出来る
が、残りの半分が自分に関係無いことで理不尽な扱いを受けているならば納得が出来な
い、と言うのが彼の見解らしい。
「構内で教え子をナンパする様な人には当然の対応です」
「じゃなくて、残りの半分の方」
教え子をナンパしている、という事を否定する気は無いらしい。
「実は先生個人のディー(どかっ)」
DNA情報が深く係わっているから半分どころの騒ぎじゃありません。と言いたかっ
たらしい愛美は、志し半ばで愛衣に屠られた。
「極めて個人的な理由です」
テーブル下で行われた限定戦を微塵も感じさせずに、愛衣はきっぱりと言いきると、
「それじゃ、私達はこれで失礼します」
と言って立ち上った。しかし…、
「あ、うん。それじゃまた月曜日に」
助教授殿の隣でひらひらと手を振りながら応えてくれたのは、あろう事か安田愛美。
彼女には『私達』と言ったのが聞こえなかったらしい。いや、聞こえたのかも知れない
が、無視、若しくは拒否されたようだ。
☆
結局…、
「15分程待たせるけどね。とびきりのヤツ入れてあげるよ」
あれから、『学食のコーヒーは不味い』談義が『美味しいコーヒー』談義になり、
「僕が美味しいコーヒーを飲ませてあげよう」と言う話を経て、2人は助教授殿の研究
室に招待される事になった。
研究室と言っても間口2.5メートル、奥行き7メートル程の鰻の寝床みたいな部屋
だ。何も無ければそれなりに広く見えるのかも知れないが、両脇を本棚とか本棚とか本
棚とかに占領されていてかなり圧迫感がある。それでも奥にはこぢんまりとした応接セ
ットが置いてあり、2人はそこに腰掛ける事になった。
「あーあ、マスターに大目玉だわ」
壁に掛けられた時計に目をやり嘆息する愛衣。時間は1時半過ぎ。講義が終わって直
帰すれば昼時の修羅場に間に合う筈で、それを嘆いている……のであれば美しい勤労学
生の話になるのだが、実際は愛美に対する牽制だ。
「そう? 帰れば良かったのに。私、止めなかったよね?」
ちょっと小首を傾げて応えてくれる。確かに止めてはいない。それどころか明らかに
『帰って良いよ』という意思表示まで見せていたのだが、あの状態で愛美を置いて帰る
事など愛衣に出来る筈も無かった。
「あんたを置いて帰ると、ある事ない事憶測展望事実無根、全部ぶちまけるでしょ」
「そんな事ないよ? ちょっと口が滑るかもしれないけど」
じゅうぶん『そんな事』に値する。更に言うならば、
「滑る程度じゃ済まないくせに」
下手をすると地滑りを起こして大惨事を招く恐れがあった。尤も、この場合大惨事に
陥るのは愛美自身なのだが、本人はその事が判っていない様子。キョロキョロと部屋を
眺め回し、
「研究室って言うより、一人暮らししている男の人の部屋みたい」
などと感想を漏らしている。一人暮らしをしている男の部屋を見たことがあるのか、
とツッコミを入れたい所だったが、イメージ的にはこんなものだろう。さすがに足の踏
み場もないほど…、とまではいかなかったが、雑然としているという点では否定のしよ
うがなかった。(この部屋には無いが)ミニキッチンが設置されていて、そこにカップ
麺の空きカップが堆く積まれていたら完璧だ。
2人の真向かいにある長椅子は、毛布と枕の代わりであろうと思われるクッションが
ベッドの雰囲気を醸し出している。家には滅多に帰ってこないという話は聞いていたの
で、多分この部屋に寝泊まりしているのだろう。
意外だったのは、デスクの上にあったフォトスタンド。パッと見では一家4人で撮っ
たように見える写真が挟まれていた。
「きゃー、かわいいっ!」
めざとくそれを見つけた愛美が黄色い声を上げる。
「ねえ、ほらっ!」
さらにフォトスタンドを手に取ると、2人居る子供の男の子を指さして、ずずいと愛
衣に突きつけた。言うまでもなく、そこにはカメラに向かってVサインを出している龍
之介が。
「ね? 可愛いでしょ ね?」
何が言いたいのか(若しくは言わせたいのか)盛んに『可愛い』を連呼する愛美。も
ちろん愛衣が素直に(如何に子供の頃であろうと)龍之介のことを『可愛い』なんて言
うワケが無い。
「本当。かわいい女の子ね。……ご家族ですか?」
『可愛い』の対象者を、おずおずといった風に龍之介の隣に写っている唯にすり替え、
更に愛美の追加攻撃を避ける為に、話を助教授殿に振る愛衣。
「うん。その写真は8年ほど前の奴なんだけどね」
綾瀬は家族であると言うことを否定しなかった。事実を説明すると妙な話になりかね
ないからだろう。この辺までは許容範囲だったのだが、
「その写真は家族で写した最後の写真でね…… その写真を撮って一週間も経たない内
にボク1人を残して事故で……」
そこで何かに耐えるように言葉を切る。何も知らない人間ならば、涙を誘う話だろう。
同時に彼自身が今現在独りである事を激しくアピール出来る話だった。
……何も知らない人間が聞いていたら、の話だが。
「……」
無言の愛衣。そして……、
「…はあ、そうなんですか」
さすがの愛美もこれには呆れたようだ。自分の息子はおろか、他人である母娘2人を
(話の中でとは言え)殺してしまったのだから無理もない。
「いや、ごめん。湿っぽい話になっちゃったね」
ははは、とその湿っぽさ(実際は白けた空気)を払拭するように笑い、助教授殿が2
人の前にカップを置く。言うだけあって、香りだけで近所の学生相手の喫茶店とは違う
モノだと言うことが判る。
気になるのは、そのコーヒーの香りに覚えが無いということだった。瞬間、愛美と愛
衣の目と目が合う。それ程までに明確な香りの差が『憩』のコーヒーとあったのだ。
「これって……」
愛美が愛衣の顔を伺うように口を開く。何故こんなにも違うのか、彼女の好奇心がム
クムクと頭を持ち上げたのだが、その好奇心を満たすには愛衣の許可が要る。
……と思ったのは杞憂だった。
「そうね。美佐子さんのと随分違う」
ぶっ…
その愛衣の言葉に、助教授殿はせっかくのコーヒーを吹き出してしまった。まあ、無
理もない。そんな彼には目もくれず、
「あ、やっぱりそうなんだ。鼻がおかしくなったのかと思った」
げほげほ…
「どっちが上って訳じゃ無いけどね。好みから言えば私はこっちの方が良いかも、って
だけ」
ぜぇぜぇ…
「……あら? どうかなさったんですか? センセ?」
飲み込む間際にコーヒーが気管にでも入ってしまったのか、激しくむせ返る助教授殿。
そして、その助教授殿に微笑みかける愛衣。微笑みと言っても『悪魔の』という形容が
付く。
「い、いや… 失礼」
ハンカチで口元を拭い、なんとか体勢を立て直す助教授殿。事前の情報収集無しに突
撃を行うと手痛い目に遇う、という典型だった。
「へ、へぇ…、2人とも八十八町に住んでるんだ?」
だもんだから、遅まきながら情報収集を開始するのだが、今やイニシアティブは完全
に2人の学生の方にあった。
「私は隣町ですけど、学校は八十八学園でしたから。『憩』には割と通わせて貰ってま
す。あそこって、先生がオーナーさんなんですよね?」
「え、あ、ま、まあ……」
八十八、『憩』、オーナーの三連コンボに声も出ない様子。
「いくらオーナーでも、住み込みで働いてくれている人を事故死させるのはどうかと思
うけどね」
愛衣の追加攻撃。
クリティカル!
助教授殿に83ダメージ!(精神的に)
「い、いや、僕の女房が事故死したのは事実で…」
「存じてますよ。同じ事故で美佐子さんのご主人が亡くなられて、その方が先生のご友
人……」
「君たち、なんでそんな事まで知ってんの?」
サスペンスドラマで追い込まれていく犯人の心境だ。ここで2人が探偵事務所の名刺
(警察手帳でも可)を出せば完璧だった。
「美佐子さんのファンですから」
(なるほど、うまい)
愛衣の切り返しに愛美は素直に感心した。これなら常連客でも知らない情報を知って
いても違和感がない。
「あ、なるほど。 ……で、なんで美佐子くんのファンから、僕が恨まれるわけ?」
ここに至り彼はようやく理解した。愛衣が友好的で無い訳を。もっとも、それが正解
とは限らないが。
「別に恨んでなんかいません。いい加減な人だとは思いますけど」
「くす。息子さんを押しつけて、女子大生をナンパしてちゃ言い訳もできませんね」
なんて事を愛美にまで言われてしまう始末。まだ笑いながら言ってくれているのが救
いと言えば救いだ。
しかしこの一言で、何故こんなにも情報が漏洩してしまったのか綾瀬にも検討がつい
た。美佐子は自分の事情をペラペラ喋る人間では無い。
彼の脳裏に、彼が愛して止まない(誇張あり)息子の笑顔(嘲笑)が浮かんだ。
(あのガキャ…)
「そりゃ君たち、誤解ってヤツだよ。むしろ家を追い出された僕の方が可哀想だと思っ
てくれ」
龍之介がある事ない事吹き込むのなら、こちらも対抗するまでだ、とばかりに助教授
殿は反撃を開始した。
「その写真に写っている男の子の方が僕の息子なんだがね……」
「亡くなったんじゃなかったんですか?」
「……ま、それはそれとして置いといて。そいつが美佐子くんの娘さんをいたく気に入
ってしまってね。例の事故があった時、『この娘と一緒に住むんだーっ!』ってまあ、
泣くわ喚くわ」
「ほぉ…」
「で、子供2人は良いとしても、僕と美佐子くんが一緒に住むのは世間体的にもどうか
と思ってね」
「高校生の男女がひとつ屋根の下で暮らすのは世間体的に問題ない、と?」
「いやー、アイツらは、ほら、もう将来を誓い合ったよーなもんだし。今更責任取らな
い何て言ったら僕が許さないし」
笑いながら爆弾発言を連発する助教授殿。
知らない、と言うことは幸せな事なのかもしれない。安田愛美は心の中でそう思った。
そう思いつつ、何とか言葉を紡ぎ出す。
「それはまた… 私達の聞いた話と随分違いますね」
そうとでも言わないと、この張りつめた空気の中では生きて行けない。
「僕が息子を美佐子くんに押しつけたとかなんとかって言ってるんだろ? 全く…、
“親の心子知らず”とは良く言ったもんだよ。君たちも気をつけてくれよ。これは考古
学にも言えるんだけど、一方からの情報だけを信じて視野狭窄に陥いるのは……」
自分のウソを棚に上げ、話題を得意分野へとすり替えようと謀る助教授殿だが、それ
は愛美に遮られた。
「えっと、つまり龍之介くんが他の女の子に靡いた場合は、先生がお諫めになるって事
ですか?」
「まあ、出来ればそんな事はしたく無いんだけどねぇ」
懐からマイルドセブンを取り出してのんびりと答える助教授殿に、
「そんな事に耳を傾ける息子さんでも無いでしょうに」
愛衣が鋭く突っ込む。
「うーん、それもあるか。じゃあ直接その靡いた女の子に掛け合うか。これこれこーゆ
ー訳で、奴とは別れてくれって。……しかし君、随分とボクの愚息と親しいみたいだね」
「ええ。伊達に付き合っている訳じゃありませんから」
「あ、そうなんだ。道理で……」
5秒経過…
10秒経過……
20秒……
5…
4……
3………
「誰と誰が付き合っているって?」
持ち時間いっぱいで、ようやっと助教授殿が示した反応を、
「私と龍之介が、です」
嘲笑うかのように愛衣は切り返した。既に龍之介の扱いは呼び捨て。更に続けて、
「ちなみに、唯にも友美にも負けるつもりはありませんので悪しからずご了承下さい」
そう言い終えるとサッと立ち上がり、
「約束がありますので、今日はこれで失礼させて頂きます。コーヒー、御馳走様でした」
颯爽と言った感じで愛衣が部屋を去った後、残されたのはその友人Aと部屋の主。
「今の…… マジ?」
「ええ。正式に付き合い始めてまだ1ヶ月ほどらしいんですけど、その前から結構良い
雰囲気でしたし。……よっぽど先生の物言いが頭に来たんだと思いますよ? かなり唯
ちゃんを意識してるみたいですから」
「あ…… そなの」
どうやらまだ脳が正常に機能していないらしい。火を着けたタバコが指に挟んだまま
無為に煙となって立ち上っていく。
「灰、落ちますよ」
「おっと…」
その愛美の一言で綾瀬はようやく我に返る事が出来たのだが、その拍子に5cmほど
の長さになった灰が落ち、床に広がった。それに目を落とし、ふと気付いたように顔を
上げ、妙に畏まった顔で口を開いた。
「ところで、今日は4月1日じゃないよね?」
そんな4月も半ばに差し掛かろうとしている土曜日の午後。
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