ひとりじゃない

構想・打鍵:Zeke

 この作品はフィクションであり(株)ELFの作品「同級生2」の作品世界を使用しております。
 尚、ここに登場する、人物、名称、土地、出来事、名称等は実際に存在するものではありません。



 その身長に似合わず、篠原いずみは泳ぐのが得意だった。小さい頃は水が大の苦手で、
髪を洗うだけで大騒ぎになったのを両親が憂い、スイミングスクールに放り込んだのだ。
 スイミングスクール自体は他の稽古事が忙しくなり、中学に上がる前に辞めてしまっ
たのだが、結果として当初の目的である水の苦手は克服でき、おまけとして千メートル
くらいは平気で泳げる術を身に着けられた。
「うーんっ…、やっぱ来てよかったー」
 ゆったりとしたクロールから、くるりと身体を反転させ仰向けのまま波に身を任せて
みる。潮の流れが緩やかなおかげで、相当沖に出て来ても不安が無かった。現に彼女の
他にも疎(まば)らではあるが人がいる。恐らくそれなりに泳ぎに自信がある人達なの
だろう。
 その一種ロータリークラブ的な集団に近付きつつある泳者があった。しかしながらそ
の泳ぎはどこかぎこちなく、どう贔屓目に見てもこのクラブの会員に足り得る資格を有
しているとは思えなかった。
 その様を見たいずみがすぐさま泳ぎ寄る。友美だった。
「足、攣ったのか?」
 泳ぎのぎこちなさから、その原因が何であるのか見当を付けるくらいの知識は当然あっ
た。
「え? あ、うん。攣るって程じゃないけど。ちょっと引きつるような感じかな。大し
たこと無いから大丈夫」
 大丈夫と言ってはいるが、本当に大丈夫なのかかなり怪しい。それに場所が場所だ。
プールや浜辺の近くとは訳が違う。
「ちょっと痛いぞ」
 攣ったと思われる方の足の指を引っ張る。手加減したつもりだが、痛みの為か友美の
表情が歪んだ。
「いやだなぁ。ちょっと泳いだ位で足が攣るなんて… 運動不足かしら?」
 その痛みを紛らわすためなのか、軽口を叩く。
「見かけによらず負けず嫌いなんだな、友美は。ちょっとって距離じゃ無いだろ。ま、
運動不足ってのは言えてると思うけど」
 足の指を引っ張るのを止め、ふくらはぎのマッサージに切り替えたいずみが、前半は
苦笑気味に、後半は茶化し気味に言った。彼女の所属する弓道部でもランニングを始め
とする筋トレは基礎というか基本だ。いくら友美がスポーツ万能少女(だった)とは言
え、毎日トレーニングを続けているいずみと同列には語れまい。
 語れないのだが、
「え、やだ… 余計な脂肪が付いちゃってる?」
 友美が心配したのは別系列の事柄だった。なにしろ、ふくらはぎと言ったら脂肪の巣
窟。肥満の道はふくらはぎか二の腕からと言っても過言ではないのだ。
「な・ん・の・心配をしてるんだ。そんな事より、戻る時の事を心配した方がいいぞ。
まあ、幸い周りは泳ぎに自信がありそうな人達ばかりだし、友美になら大喜びで手を貸
してくれるだろうけど?」
 別に意地悪で言っているわけではない。実際、このまま泳いで帰るのは危険だといず
みは判断していた。
「そ、そんな大した事ないわ。マッサージのおかげで大分楽になったし」
「ダメだって。まだ違和感があるだろ? 片方を庇って泳ぐと必ず無理が出てくるし、
腓(こむら)返りでも起こしたら大変だ」
 別に腓返り自体は大した問題ではない。その猛烈な痛みでパニックに陥り、溺れかね
ないのが大変なのだ。
「で、でも…」
 明らかにおよび腰な友美。それも当然と言えば当然で、手を貸して貰うという事はつ
まり、お肌とお肌の触れ合いが前提となってしまうからだ。加えて身に着けているのは
水着一枚。おまけに相手が男性となれば上半身は裸。戸惑うなという方が無理だろう。
「いいじゃないか。大義名分があって男の人に抱きつけるんだぞ。代わって欲しいくら
いだ」
「だ、抱き付くだなんてそんな…」
 いずみの無責任な発言に益々動揺する友美。なにか代替策は無いものかと首を左右に
巡らすが、確認できるのは男性ばかり。後はぼやけてよく見えないが、ゴムボートらし
き物体が…
「い、いずみちゃん。あれってボートじゃないかしら?」
 天の助けとばかりにゴムボートらしき物体を指さすが、
「ボート? ドコに? 全然見えないなぁ」
 必死な友美を余所にいずみは見当違いの方を見てしらばっくれた。そう、しらばっく
れたのだ。
「ひどい! ボートが来てるの知っててあんな事言ったのね」
 一方、ここに至って自分がからかわれたと知った友美はおかんむりだった。
「あははは。その程度の余裕はあるって事だよ」
 そう言い残し、逃げるようにいずみは件のボートに向かって泳いでいった。

 そのいずみが向かったボートの上では、漕ぎ疲れた男子が2人がくたばっていた。
「思えば遠くへ来たもんだ」
 浜辺の方を顧みると、人が芥子粒のようにしか見えない。
「20分も漕げばね。こんな人の疎(まば)らな場所で女の子を引っ掛けるの?」
 唯と綾子の手を逃れ…というか愛想を尽かされ、調子をくれてこんな所まで来てしまっ
た。そんな樹の冷ややかな視線を受け流し、
「ふ。これだから素人は… いいか? こんな具合に沖の方まで波が穏やかだと、つい
つい調子に乗って沖に出てしまったは良いが、体力を使いきって戻れなくなった女の子
が居ないとも限らないだろうが」
「居ないとも限らないって… それほとんどゼロって事じゃ…」
 そこへタイミング良く女性の声。
「すみませーん、友達が足を攣っちゃって。ご迷惑じゃなければ浜まで乗せていって貰
えませんか?」
 あまりのタイミングの良さに船上の2人が顔を見合わせる程だった。
「ほれ見ろほれ見ろ」
「すごい‥‥ 偶然」
「偶然とはなんだ。神の意志と言え」
 ひそひそと会話を交わす。
「あのー‥‥」
 返事が無い事に不安を覚えたのか、もう一度声が掛かる。その後の龍之介の対応は早
かった。
「はいはいはい、それはお困りでしょう。無駄に広いボートですから大歓げ‥‥」
 ボートから身を乗りだしつつ答えかけ、
「「あ‥‥」」
 ハモった。
「なんだ、お前等だったのか。ならこんな外交用の声なんか使うんじゃなかった」
「そりゃこっちのセリフだ。何処から声出してんだよ」
 そのぐらい普段のいずみの声とはギャップがあった。外交用と言うだけはある。
「声帯からに決まってるだろ。ま、お前のボートなら友美も遠慮なく乗れるだろうから
そう言う意味ではよかったよな」
 後段は独り言に近かったが、龍之介にはしっかりと聞こえたらしい。
「なにっ! 足が攣ったってのは友美の事だったのか!? そういう事は早く言え!」
 オールを引っ掴み、慌てて漕ぎ出そうとする龍之介に、
「なんだよ、友美の事になると態度が変わるな」
 いずみが冷やかしを飛ばす。が、
「当たり前だろ! 俺はまだ宿題を1個も解いてないんだ! ここで貸しを作っておけ
ば今年も安泰じゃないか」
 という(本意は不明だが)分かり易すぎるほど分かり易い答が返ってきた。

 他方、数十メートル先で行われて居るであろう交渉をボヤッとした視界越しに見てい
た友美は、いずみがボートに乗り込んだ事を確認した後、そよそよと泳いでそのボート
に近付いた。正直なところ、見ず知らずの人間のボートに乗り込むといういずみの行動
はちょっと軽率すぎると思っていたのだが、
「大丈夫か? 頑張るのは良いけど無理は良くないぞ」
 ボート上から掛けられた聞き慣れた声で納得した。見上げると、白馬の騎士(ホワイ
トナイト)登場とばかりに笑顔で手を差し伸べる龍之介がいた。
 やや後ろでにやにや笑いをするいずみが気になったが、自ら招いた危機的状況の心細
さも手伝って素直にその手を取る友美。だがその直後に悲劇は起きた。
 龍之介の腕に友美のほぼ全体重が掛かったその瞬間、龍之介がその手を“ぱっ”と離
したのだ。

 ざっぱーん!

「あ、あり得ない…」
 そのあまりの非道さに、絶句する樹。それを余所に、
「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とし、這い上がってきた子供だけを育てるという…」
 友美が落ちた名残の波紋を腕組みをして見下ろし、事も無げに言う龍之介。
「この状況下でいらん事をするな!」
 すかさずいずみが龍之介の頭をオールではたく。“すぱーん”と小気味良い音がした。
「いいのよ、いずみ。油断した私も悪かったんだから」
 浮かび上がってその様子を見た友美が自力でボートに這い上がつつ、いずみを見上げ
にっこりと微笑んだ。微笑んではいたがいずみを「いずみ」と呼び捨てにしている辺り
が…
「ところで知ってる? 獅子が我が子を千尋の谷に落とすのは、将来自分の地位を脅か
す存在を間引く為だっていう説もあるらしいわよ? 龍之介くんは気を付けてね」
 親ライオンは這い上がってきた子ライオンに駆逐される危険があるぞ、とあからさま
に言っているようなものだった。
「うお、友美らしからぬ過激な切り返し。強くなったなぁ、俺は嬉しいぞ」
「随分と鍛えられたからね。誰かさんに」
 あはははは という2人の笑い声が、潮気を帯びた風に乗って波間に消えていった。
同乗していた残りの2人は笑い事じゃなかったが。

 そんなこんなで、
「さて、天気も大分怪しくなってきたし、さっさと引き上げるか」
 山の天気は変わりやすいというが、海の天気もまた変わりやすい。ほんの数分の内に
雲が空の大半を覆っている、なんて事も珍しくはない。実際、彼等が浜から漕ぎ出した
ときには遙か遠くにしか見えなかった入道雲が、今や空の蒼の半分を覆おうとしていた。
「さっきまであんなに晴れていたのに…」
 友美がその空を見上げやや青ざめた顔で呟く。改めて自分の軽率さにゾッとしたのだ
ろう。その意を汲み取ったいずみが、‘気にするな’という風に友美の背中をポンポン
叩き、
「あんまり深く考えるなよ …ん?」
 慰めの言葉を掛けるいずみの眉間にシワがよった。暫しある一点を見つめた後、その
一点を指さす。
「なあ、あそこ… 何か見えないか?」
「いや、大丈夫だ。はみ出て無いぞ?」
 それを受けていずみのアノ部分を凝視する龍之介。
「ど、ど、何処を見てるんだよっ!」
「だってアソコを見…(ばちーん)ひでぶっ!」
 言い切る前に平手打ちを喰らう。まあ、当然だろう。
「サーフボードっぽく見えるけど…」
 その横で理性の人、都築樹がいずみの指し示した物を見つけていた。波間に漂ってい
るそれは、時折波に隠れて見えたり見えなかったりしている。
「ああ、人が乗っている様に見えたんだけど…」
 自信無さ気に呟くいずみだが、
「乗っていると言うより、かろうじてしがみついてるっていう風に見えるな」
 復活した龍之介がそれを肯定した。
「よーし、助けに行くぞ。これを機にお近づきになれるかもしれない」
 嬉々としてボートを漕ぎ出す龍之介。
「乗ってる人って、女の人なの?」
 サーフボード(らしき物)すら見つけられなかった友美がいずみに質すが、
「いや、私じゃそこまでは解らなかったんだけど…」
「…龍之介くんの事だから頭の中で勝手に補正したか、天性の才能で見抜いたのかもし
れないわね」
「あのな、人助けに男も女もあるか。それに万が一ケガをして動けない状態だったら、
助けた俺達は英雄だぞ?」
「前半部分には同意するけど、英雄ってのは英雄になろうと思った時点で失格らしいぞ。
某悪徳弁護士が言ってた」
「誰だよそれわ」
 などとやり合っている内にもゴムボートはそのサーフボードらしき物に近付き、次第
に状況が判るようになってきた。
 遠目に見た通り、確かにその上に人が居た。いや、居たと言うより倒れていた。真っ
赤なワンピースの水着に赤茶けたロングの髪から、龍之介が期待した通り女性である事
も判別がつくように…
「お、おい… あれって」
「洋子!?」
 見覚えのあるその姿に、いずみと友美がほぼ同時に声を上げた。友美の方は悲鳴に近
い。
「龍之介くん、急いで!」
 その切迫した声で事情を察したのか、2人の漕ぎ手にも力が入りボートが僅かに加速
したのがいずみにも判った。そして声を張り上げる。
「洋子! おい、洋子ってば!」
 しかし、ボード上の洋子はピクリとも動かない。嫌な胸騒ぎがする。
「おーい、んな所で寝てたら風邪ひくぞ」
 といういずみの不安をぶち壊すような龍之介の呼び掛け。それでも返事はなかった。
「うーん、俺達を引っ掛けるためにやっているワケじゃ無さそうだな。もうちょっと寄
せて運び込むか」
「どういう経緯で倒れているか判らないから慎重にね。出来ればあまり動かさないよう
に」
「やれやれ、簡単に言ってくれるよ。樹、手ぇ貸せ」
 ブツブツ言いながらも、試行錯誤の末、何とか気を失った洋子をボートに移した。そ
の後自らも自力でボートに這い上がった。

「ぜぇぜぇ、全く手間掛けさせやがって… どうだ?」
 一言に移すと言っても、どういった経緯で気を失ったか判らない人間1人を動かそう
と言うのだから、さすがの龍之介も気を遣ったという事だろう。呼吸を整えつつ洋子を
診ている友美に訊ねる。
「一応脈と呼吸は確認できたけど…… 意識が無いのが心配だわ。とにかく急いで戻り
ましょう」
 人命救助の経験も知識も無い彼らにしてみれば、それは全く妥当と言える結論だろう。
「そうだな。もういつ降ってきてもおかしく無さそうだし…」
 そう言って龍之介が見上げた空に、空の青はもう無かった。樹は逆に灰色と化した海
面に目を落とした。海が青いのは空の青を映しているから青い、という誰かの言葉が頭
を掠めた。実際には、

≫日光が大気中の微粒子でレイリー散乱されるため、波長の短い青い光ほど散乱されや
≫すいので散乱光が青い空となって見える
 とか、
≫海の表面による空の光の反射と、赤が吸収されて青が残った透過光が水の中の物質に
≫散乱され、あるいは散乱の過程でより緑色に偏移して目に届く光とが混ざっている
 からだとか頭がスポンジになりそうな諸説があるようだが、どちらにしても太陽光が
遮られれば海の色は…

 がくん
 不意に激しくボートが揺れた。空が雲で埋め尽くされ、少々風が出てきたとは言え、
海面はまだ凪に近い状態だ。波がボートを揺らした訳ではないだろう。
「おい、急に立ち上がるなよ。ビックリするじゃないか」
 揺れの原因は龍之介が勢いよく立ち上がった所為らしかった。それを咎めるいずみの
声。だが、当の龍之介はその声が耳に入っていないかのように、海面を凝視していた。
「どうしたんだよ? まだ誰か居るのか?」
 あまりに真剣なその表情に、いずみも倣って同じ方向へ目を凝らす。だが何も見えな
い。
「何処だよ、見えないぞ」
「居ないからおかしいんだよ!」
「はぁ?」
「あ、そうか。このボードの持ち主…」
 間抜けな返事をするいずみと、その可能性に気付く樹。だが、
「ちがう! 愛衣がどこかに居るはずだ。探せ!」
 何らかの理由で気を失った洋子をボードの上に引っ張り上げたのが愛衣であろう事は
2人にも容易に想像が着く(なにしろ一緒に行動していたのだから)。更に言うなら、
その後愛衣がどういった行動を採るかも想像が着いた。
「叶先輩? 確かに洋子と一緒だったかも知れないけど…… 助けを呼ぶために浜に向
かったんじゃないか?」
 これが愛衣がこの場に居ない最も確率の高い可能性だろう。だが、龍之介はその確率
を否定するように海面を凝視している。
「…何か根拠があるの?」
 根拠はある。愛衣がこんな不安定な状態の洋子を置いて行く筈がない。だが、その背
中に向けて聞く友美の声に振り向いた龍之介の顔は、先程の険しい表情は消え失せてい
た。
「あ、いや全然。まあ、万が一遭難なんて事になってたら厄介だからな。早いトコ戻っ
て状況を確認しなきゃならない事は確かだ」
 うんうんと頷き、次いで屈み込んでオールを拾い上つつ、他人事のように言った。そ
んな龍之介の態度に、友美は何か釈然としない物を感じたが、頭を占めていた天候の事
や洋子の事がその感覚を忘れさせた。いずみは、ひょっとしたらボードの持ち主が漂っ
ているんじゃないか、と灰色に近い海面を凝視していて、その事に気付きもしなかった。
 樹だけが、神妙な顔をした龍之介に2本のオールを手渡された時に気付いた。目の前
の友人は自分の肩にポンと手を置くと、まるで授業を抜け出す時に代返を頼むような口
調でこう言ったのだ。
「樹… 悪ぃけど、後のこと頼むわ」
 そして三たびボートが大きく揺れた。続いて水しぶきの音。

「だからぁ、急に揺らすなって言って…」
 いずみの窘める声が途切れる。理由は窘める対象者が、居なければならない場所に居
なかったからで、何故居なくなったのかを理解したのは、飛び込んだ龍之介が海面に浮
かび上がった時だった。
「な、何を考えてんだ、早く上がって来い!」
 その罵声が届くより早く、龍之介の姿は海中に没した。その結果、矛先は樹に向けら
れる事になるのだが、彼は「僕に言われても」と軽く肩をすくめてそう言った後、
「ま、はっきりしてるのは、要救助者が少なくとも1人出来たって事かな?」
「なにを呑気な事を…」
 常々呑気なヤツだとは思っていたが、こんな時まで… といずみは言葉を継ぎたかっ
たのだが、そんなのは序の口だった。
「いや、そうそう呑気にはしてられない。早いトコ浜に戻ってこの事を知らせなくちゃ」
 突拍子もない発言に、いずみは「はぁ?」という顔をしたまま固まった。
「あ、悪いけど反対舷漕いでくれない。こっちだけ漕いでも回るだけだから」
 そう言って樹がオールを差し出してきた時点で、いずみの呆れは怒りに変わった。
「なに言ってるんだ、あいつを見捨てるつもりか?」
 噛み付かんばかりの勢いで樹に詰め寄る。その形相に身を引きつつ、
「いや、でも此処に留まっていたら、僕らも遭難しかねないよ? 第一、龍之介だって
助けを呼びに行くことを示唆していたし」
「だからって、明らかに『居る』と分かっている奴を見捨てて行けるか! 大体なんで
お前が仕切ってるんだよ!?」
 どう考えても友美の方が適任だろ、と言いたげな表情をいずみは見せていたが、それ
を意にも介さず樹は答えた。
「僕が男だからって理由じゃ理由にならないかな?」
「そんな前時代的な理由が認められるかっ!?」
「それじゃ年功序列なら文句ないでしょ。4月生まれだから僕が最年長の筈だよ」
 どうあっても主導権を渡そうとしない、つまりこの場から引き上げる事しか考えてい
ない樹に、いずみは心底頭に来た。
「ふざけるな、戻りたかったら泳いで帰れば良いだろ。私はアイツが戻ってくるまで…」
 待つぞ、宣言しようとするが、
「冗談でしょ。それに、そんな事して万が一君らが遭難したら、非難を一身に浴びる僕
だよ?」
「な…」
 絶句…。いずみは生まれて初めて、本当の意味で『絶句』という言葉を体感した。そ
れは「こいつ、こんな奴だったのか…」という意味でだろう。
 正直な話、いずみは、『都築 樹』という男の子と、どういう経緯で知り合ったか覚
えが無かった。クラスも違うし、通っていた中学も違う。
 最初に紹介されたのは友美からだったか、それとも龍之介からだっただろうか? そ
の前からちょくちょく自分達のクラスに来ていたし、部活も隣の剣道部だったから顔だ
けは知っていた。自分が高く買っているあきらや龍之介といった男子と親しく付き合い、
(自分の)親友と言える友美からも信頼されている。唯や綾子、あの洋子にすら気さく
に声を掛け、掛けられる男の子。
 だからこそ、いずみも深く考えず友達付き合いをして来たのだ。しかし今の樹の言葉
は、その信頼を裏切るに十分だった。
「わかったよ。よく分かった」
 自分が出す事ができる目一杯低い声で、侮蔑、軽蔑その他諸々の負の念を込めて、い
ずみは樹に答えた。
「やっぱりお前には従えない。男だとか年功序列だとか言って主導権を取りたがる奴な
んかには…」
 今、このボート上にいるのは4人。気を失っている洋子を除いて3人。民主主義国家
的に多数決を取るようにすれば文句は言えまい。
「だから…」
 多数決にしよう。そう言いかけた直前、
「龍くんっ!」
 その声、というか叫びがいずみの背後で上がった。振り返りながらいずみの思ったこ
とは、「へぇ、友美って綾瀬のことを『龍くん』って呼んでたんだ」という他愛の無い
事だった。
 その友美が、ボートから身を乗り出さんばかりに海面の一点を見つめていた。瞬間的
にその方向へ目を向ける… が、見えない。裸眼である友美より、はるかに目が良い筈
なのに、いずみには友美が注視する場所に何があるのか見えなかった。
 必死に目を凝らす。眼球の焦点が合う。
 見えた。海面から顔を出し、付いた雫を払うようにプルプルと振っている姿が。だが、
無精気味に伸ばした前髪が邪魔なのかそれを書き上げた後、大きく息を吸い込む仕草を
見せて、その姿はまた見えなくなった。
 その間、少なくともいずみが龍之介の姿を見つけてからの十数秒間、彼は一度もボー
トの方を、こちらの方向を見ることは無かった。待っている彼らに対して、何のアピー
ルも無かった。それが何を意味するのか、いずみには大体想像がついた。それでも『待
つ』という考えに変わりは無かった。

 そんな彼等の胸の内などとは関係なく天候は悪化の一途を辿り、遂には太鼓の追い出
しの様な雷鳴が、遠くの方で轟き始めた。
 それが合図だったかのように、いずみは無言で差し出されているオールを受け取ると、
これまた無言で浜辺に向かって海水を掻き始めた。
 もくもくと、無言で。
 彼女の考えを変えさせたのは、もちろん雷が原因ではない。
 無言ではあったが、いずみは心の中で自分を責め続けていた。

 くそ、くそ、なんてバカなんだ私は。多数決? 多数決だって? 結果は解りきって
るじゃないか。「戻る」が2で「留まる」は1だ。「留まる」は私が入れる1だけだ。
こんな状況で友美が「留まる」を選ぶわけが無いじゃないか!
 だけどそんな事は些細な事だ。最大級に愚かなのは、『その決断を友美自身にさせる』
という事。そんな事をさせてもし万一の事があったら彼女はこの先、この事で自分を責
め続けるに違いない。下手をすると一生涯責め続けるだろう。
 そして恥ずべきは、自分を貶めてまで『友美に』その決断させまいとした樹に、侮蔑
と軽蔑の眼差しを向けてしまった事。『非難を一身に浴びるから戻る』なんて言ってい
たクセに、綾瀬龍之介という人間に何か遇ったときは、それこそ間違いなく『非難を一
身に浴びる』事を覚悟していたんだろう。
 
 今の彼等が考えるべき事は、一分一秒でも早く浜に戻り、この事をライフセーバーな
り管理事務所に知らせ、救助を要請する事だった。


 
 人間というのは通常浮くものではあるが、それは肺の中に十分な量の空気があればの
話で、それが無い場合は沈んでいく。だから今の愛衣は、酸素を取り込むという理由よ
りも、浮力を維持するために呼吸をしているようなものだった。いや、出来れば肺の中
に空気を溜めたまま止めたいくらいだ。もちろん生命を維持するという理由からそれは
不可能で、どこか矛盾を感じさせる。
 ただ波に身を任せているだけだと言うのに、疲労が蓄積されていく。不規則に顔を洗
う波に、呼吸を乱されているからだ。その乱れた呼吸の合間にも容赦なく波が襲い、飲
みたくもない海水を何度も飲むハメになっていた。
 酸欠と疲労で意識が朦朧としてくる。気が付くと海の中に沈みかけていて、藻掻くよ
うに海面に顔を出すなんて事を繰り返していた。だが、その沈み行く際の心地良さは、
眠りに入る直前の心地良さに似て、その逆らい難いのも事実だった。もちろんその先に
あるのは『眠り』ではなく『死』だが。
「いい加減、もう生き汚いかな…」
 もう何度沈みかけて、何度藻掻き上がった分からない。自分でも無様なくらい生に執
着しているなと思った。海面に顔を出して生き足掻いているよりも、海に沈んでいる時
の方が楽だと言うのに。
 また海の中にいた。その証拠に、呼吸を強いられる海上よりも遙かに心地よい。目を
薄っら開けると3〜4m上に海面があった。
(ああ、もうダメだ…)
 もうこの深さから浮かび上がれる体力も浮力も彼女には残されていなかった。残され
ていたのは僅かな意識だけで、その意識すら十数秒も無い筈だ。その僅かな時間で愛衣
が思った事は異国の地に居る家族の事。今は冬なので、この休みにはスノウィーマウン
テンズで雪と戯れる予定を立てていた。それが許される病状と聞いていた。雪ダルマ作っ
て、かまくら作って、ソリで滑るくらいは出来る…
 水圧が胸を、肺を押し潰し、なけなしの浮力をも彼女から奪おうとしていた。
(ごめん、舞衣。せめて私の…)
 分まで生きて、というのが彼女の最後の意識だった。

 意識になる筈だった。
 水深およそ6m、水圧約1.6気圧。わずか地上の6割増しの圧力。それでも愛衣に
は肺から押し出されようとするエアを止める気力は無かった。
 だが、それは内的要因で外部からは別だった。水圧をものともしない力強さで、エア
が送り込まれてくる。僅かに浮力が得られたが、その浮力以上の力が彼女を海上へ導い
た。

 外界に出た瞬間、愛衣は激しく咳き込んだ。呼吸が整うまで暫くの時間を要したが、
支えられている所為か随分と楽に呼吸が出来る。
「よ、洋子は?」
 ぜぇぜぇと荒れる息をなんとか整えると、愛衣は一番最初にそれを聞いた。
「ボードの上でヘソ出して寝てたのをゴムボートで回収したぞ。今頃浜辺に着いた頃じゃ
ないか?」
 事も無げにそう答えた声に、愛衣は「そう…」と安堵の溜息をついた後、
「で、なんで龍之介がここに居るわけ?」
 色々な意味での『何故』があったが、取りわけ一番の疑問は、洋子を回収したゴムボー
トとやらで何故戻らなかったのか、だった。
「あいつを乗せたらボートが定員オーバーになったんで仕方なかったんだよ」
「なんで私がこの場所に居るって分かったの?」
「愛衣ならあんな状態の洋子を絶対放って置かないと思ったからな。ああ、こりゃ何か
あったなって思ったんだ。なかなか良い読みだったろ?」
 微妙に争点がズレているが、大体納得がいった。
「ちなみに沈んでいく愛衣を見つけられたは偶然でも何でもなく、愛の成せる業と言っ
ておこう。俺に助けを求めたろ?」
 偶然かどうかはさておき、見つけられたのは正に奇跡と言えるだろう。その奇跡を起
こした興奮からなのか、龍之介は世にも恥ずかしいセリフを口にした。
「話を総合すると、私を助けに来たって風に聞こえるんだけど…」
「悪い、あんまり期待しないでくれ。身ひとつで飛び込んだから自力で帰るしか無い。
ボートはさっき言った通り先に帰した」
 少なく見積もっても浜までは700〜800メートルはある筈だ。この波でこの距離
は決して楽な行程では無い。ましてや、
「痛っ!」
 龍之介が不用意に掴んだ左手に激痛が走り、愛衣は悲鳴を上げた。
「え…、あ、ケガしてんのか?」
「ん…、多分折れてはいないと思うけど」
 海面上に出されたその左腕を見ると、それと分かるほど腫れ上がっていた。


 海水浴場の入り口脇に立てられたポールに遊泳禁止を表すフラッグが掲げられようと
していた。微風に揺れるその赤旗と高くなり始めた波を交互に見た後、唯は左手に巻か
れたダイバーズウォッチに目を落とした。龍之介と樹が出て行って30分経つか経たな
いかと言うところだった。
 拡声器を持った作業服姿の男性が、海から上がるよう促している。にも係わらず11
人中6人の所在が掴めない事態に愛美は焦りを覚えていた。視線を浜の隅々まで巡らせ
て海から上がってくる海水浴客を1人1人をチェックする。と、
「ああ、あのボートそうですよ。いずみと水野も一緒みたいです」
 愛美の隣で同じ作業をしていたあきらが、指さしながら声を上げた。
「え、本当?」
 その方角を見てボートの形状を確認すると愛美はホッと胸を撫で下ろした。一番心配
していたのが友美といずみだったからだ。龍之介と樹はゴムボートに乗って出て行った
のを知っていたし、愛衣と洋子はトラックで轢いても死にそうに無い。
「ただ… 妙ですね。龍之介の姿が見あたらない…」
 などと不謹慎な事を考えたのがいけなかったのか、増やさなくても良い未帰還者を増
やしてしまった。尤も、龍之介ならばそれこそ戦車で踏みつぶしても死にそうに無かっ
たが。
「まあ、ヤツのことだから我々の死角に身を隠している可能性もあるわけですが」
 そんな事をして何の意味があるのだろう? と思ったが、意味を為さない事に無駄な
労力を注ぎ込む事を厭わないのが龍之介の龍之介たる所以である、というのを愛美も認
識しつつあった。何れにしてもその辺りの事情も確認する必要はあるので、2人はボー
トを浜に上げるのを助ける為に駆け出した。

 ざぶざぶと波を掻き分け進んでいくと、いずみがオールを掻きつつ声を張り上げてい
るのが分かった。ただ波の音でその声は酷く聞き取りにくい。
「えー、何だってー?」
 同様にあきらが声を張り上げて聞き返すが、こちらの声も届いているかどうか怪しい。
断片的に聞こえてくる単語を繋ぎ合わせると、
「叶さん戻ってますか?」
 になるという事が解ったのは、愛美がボートに取り付いた後だった。
「え、まだ戻って来て無いけど。それより龍之介くんは?」
 という愛美の問いには樹が答えた。
「取り敢えず浜に上がってから。けが人が居るんです」
 そう言われて初めて、愛美はボートの中に寝かされている洋子に気付いた。
「ど、どうしたの? ケガって何処を?」
「わかりません。気を失っているんですけど、原因までは…」
 自身もボートを降りて手で引きながら、樹は状況を簡単に説明した。既に足が付く深
さで、海水は腰の辺りだった。
「それでこの事を知らせに叶さんが戻って来ているんじゃ無いかと思ったんですけど」
「じゃ、まさか龍之介くんは居るか居ないか分からないのに助けに行っちゃったってワ
ケ?」
「ごめんなさい。あいつを待たずに戻ってきた責任は僕にあります。これからすぐに戻っ
て…」
「ダメよ! 絶対にダメ」
 樹の覚悟を、愛美は間髪入れずに否認した。
「君の採った行動はベストよ。よく3人を連れ戻してくれた」
「私も… お前の選択は正しいと思う… さっきはあんな事言ったけど…。唯には私か
ら説明させてくれ」
 恐らく最も辛い報告になるであろう作業をいずみが買って出るが、愛美は軽く首を振
ると
「それも私が伝えるわ、マスターにも…。だから、いずみちゃんは友美ちゃんの側に付
いていてあげて」
 小声でいずみに伝えた。愛美にそう言わせるほど、今の友美は憔悴しきっていた。
「樹くんとあきら君は救急車と、それから2人が戻って来ていない事を伝えて」
 テキパキと指示を出す愛美に3人はちょっと意表を突かれた。普段の行動をから彼等
が推し量った愛美は「どーしよどーしよ」とオタオタする姿だったからだ。
「ほら早く!」
 ぴしりと言われ、オタオタと駆け出す男子2人。それを見ていずみは肩の荷が少し下
りたような気がした。事態は良い方向へ向かって居らず、むしろ愛衣の所在が判らない
事が確定したので悪くなったと言っても良いだろう。
 それでも救いはあった。龍之介の読みが当たった事。その目的が愛衣の助け出す事に
あった事。これは、ただ単に2人の遭難者を出したと云う事とは天と地ほどの差があっ
た。

※
「う…」
 鈍い頭痛に、呻き声を1つ上げて目を開けた洋子は、心配そうに自分の顔を覗き込む
唯に少し困惑した。何がどうなっているかさっぱり分からなかった。
「洋子ちゃん…。良かった」
 同時に不安気だった唯の顔が少し綻ぶ。
「大丈夫? 今救急車喚んで貰ったから」
「救急…って、私どうなったんだ?」
 事態が飲み込めずにいた洋子も『救急車』という単語には少なからず驚いた。ゆっく
り起き上がりながら記憶を辿ろうとしたが、軽い頭痛にその両方が遮られる。
「あ、まだ動いちゃダメだよ。洋子ちゃんね、沖合でウィンドサーフィンのボードの上
で気を失って倒れている所を樹くん達に助けられたんだよ。覚えてない?」
 覚えてない? と聞かれても気を失っている時の事など覚えているわけがない覚えて
いるのは、思い出さなければならないのは、それ以前の事だろう。
「確か… 『海の家』でカレーを食ってから…」
 最初に思い出すのが食べ物の事なのが女の子らしくは無かったが、これは洋子が運ば
れて寝かされていたのが『海の家』にある長椅子である事が関係していた。要はカレー
の匂いがしていたのだ。そこから先を思い出すのは容易だった。と言うより、思い出す
よりも速く、洋子の脳裏にその情景が次から次へとフラッシュバックのように蘇った。
『海の家』での会話、沖合の岩場まで競った事、岩場でのやり取り、そして波に煽られ
た巨大な何かが愛衣に襲いかかろうとしている情景… それらの事が3秒も要さずに浮
かんでは消えていった。
「愛衣姉はっ!?」
 次の瞬間、洋子は痛みも忘れて跳ね起きた。自分が助けられたのだから当然愛衣も無
事だろう、とは考えなかった。もし無事ならなぜ自分の側に居ないのか?
「まだ… 戻ってないわ」
 言い難そうに答えたのは、唯の隣に腰掛ける綾子だった。
「戻ってない… って私を助けた連中は何をやってたんだよ!」
「近くには見あたらなかったって… それで……」
「なんだよそれ… 全然分かんないよ… なんでもっと良く探してくれなかったんだよ」
 何が分からないのか洋子自身にも解らなかった。或いは理解したくなかっただけなの
かもしれない。
「洋子… 気持ちは分かる…なんて言ったら怒るかもしれないけど、都築君や友美の前
でそんな事言わないで… この音、聞こえるでしょう?」
 バラバラとトタン屋根を叩く音が雨の激しさを物語っていた。
「もし都築君が洋子達を連れて帰ってきてくれなかったら、私達6人分の心配をしなきゃ
ならなかったんだよ?」
 という綾子ですら、樹の非情な判断に絶句した。彼女が冷静さを保てたのは傍らに唯
が居たからに他ならない。憔悴しきった友美に付きっきりで励ましの言葉をかけ続ける
いずみを見て、自分は唯の側に居なければならない、と感じたからだ。
 その時唯は、強張った笑顔を自分に向けてこう言ったのだ。
「大丈夫だよ」

 そして今また、狼狽える洋子に向かってその言葉を繰り返した。ただし先程のような
強張った笑顔ではなく、それは不安の欠片も覗かせない笑顔だった。
「大丈夫。きっとお兄ちゃんが助けてくれるから」
 その唯の言葉に、またも洋子は思考停止に陥った。
「なんで… 綾瀬が……」
「友美やいずみが止める間もなく海へドボン。どうかしてるわ」
 無思慮な行動を取った龍之介に向かって綾子がなじるようにそれを引き継いだ。その
無思慮な行為が一縷の望みとなっているのも確かだったが、二重遭難の愚を犯しかけて
いるのもまた事実だった。
「それって、愛衣姉を助けるために?」
「そうだよ。だから大丈夫。洋子ちゃんはもう暫く安静にしてて」
「なんで…」
 大丈夫なんて言い切れるんだろう、と洋子は思った。自分は愛衣の事が心配で胸が潰
れそうだというのに、唯は龍之介の事が心配では無いのか、と。
 片や姉妹のように、片や兄妹ように、洋子と唯の立場は酷似している。
(だから、なのか…)
 同じ立場の人間が不安そうな顔をしていたら、より一層不安が深くなる。不安で堪ら
ないのを耐えるよりは、ポジティブ思考で良い方へ良い方へ考えた方が、それを信じて
いれば…
 前向きに考えれば、そう悲観した事態では無いような気がしてきた。何と言っても海
を漂っているのは唯や友美ではなく、バイタリティーの塊のような龍之介と愛衣なのだ。
 意外と今頃は荒れ狂う波をモノともせずに、こちらを目指しているかもしれない。

※
 その洋子の想像は半分当たって、半分外れていた。確かに2人は浜辺を目指して泳い
でいたし、波のうねりも天候の割には高くなかった。だがそれはあくまで『天候の割に』
であって、決して泳ぎ易いという意味では無い。それ故体力の消耗も激しく、特に愛衣
は限界を超えていた。龍之介よりも長い時間波に翻弄され、飲まされた海水は体力消耗
に拍車を掛ける。加えて腕のケガ。今の彼女は完全に龍之介のお荷物だった。
 一方の龍之介も、最初の頃は愛衣に声を掛けて時折意識を失い掛ける彼女を励まして
いたが、今はケガをした腕に刺激を与える事をそれに代えていた。その方が覚醒度が高
く、なにより話し掛けるよりも楽なのだ。逆に言えば、そういう楽をしたくなる程状況
が好ましくなかった。ちょっとでも気を抜くと波を被り、塩分の摂取を強要される。
 龍之介に後悔は無かったが、その考えが少々甘かったというのは認めていた。予定で
はこれ程うねりが高くなる前に愛衣を見つけ、浜に戻る筈だったのだ。当たり前だが、
その予定に根拠は無かった。どっちにしても、愛衣を見つけるまで戻るつもりは無かっ
たが。
 とは言え、海底を沈み掛けていた愛衣を救い出した時の高揚した気分は、波のうねり
と降り出した雨に徐々に削り取られていき、今はただ助かる事を信じて前を進む事だけ
を考えていた。

「さっき…」
 不意に耳元で掠れた声がした。
「洋子に… 言っちゃった」
「あんまり喋んなよ。また海水飲むぞ」
 上手くタイミングを取らないと喋るのも一苦労なのだ。だが、愛衣は喋り続けた。
「いいの… 最後かもしれないんだから」
「…今のは聞かなかった事にしてやる。洋子がなんだって?」
「19にもなって…男っ気が無いとか…色々言われたから…ちょっと頭に来ちゃって…
付き合ってるって…龍之介と…」
「で?」
「もの凄い形相で…私に飛びかかってきた」
「でもそれは愛衣を守る為だった」
「飛びかかって来たのは…事実」
「なら後で、直接本人に、聞いてみるんだな」
 それが不可能に近いくらい困難である事を愛衣は自覚していた。少なくとも自分が聞
くことは…
「龍之介が 聞いてよ」
 これならば確率が飛躍的に跳ね上がる筈だった。その真意が伝わったのか、龍之介は
空いている右腕を愛衣の腰に回し、僅かに力を込めた。
「あのなぁ… 自分の幼馴染みだろ? 自分で聞けよ」
 それは何があっても離さない、という意思表示だった。
「じゃあ…今度…友美に紹介して…俺の恋人だって…」
 直後2人のバランスが崩れた。とは言えそれは今まで何度かあった事だったので、龍
之介の建て直しは慣れたものだった。問題はバランスの崩れた原因が波のうねりでは無
く、重量バランスの変化によるものだった事だ。
「そらみろ、喋りすぎて余計な体力を使うからだ」
 ぐったりと顔の半分を海水に浸した愛衣を抱き寄せ、顔に波が掛からない楽な体勢を
取らせる。もちろんその間は泳ぐ事はおろか、その体勢を維持するだけでも辛い。真っ
青だった愛衣の顔が、ぜぇぜぇと呼吸を整える内に血色が戻って来た。この体勢を維持
しつつ泳ぐことが出来れば、と思ったがどうしようもない。海の上をスナック菓子の袋
にしがみついて漂流するコマーシャルが有ったが、ちょうどそんな気分だった。大体ペ
ットボトル2本分、4リットル程度の空気で1人分の浮力が得られるらしいが、都合良
くそんなものが浮かんでいるわけが無かった。海面上には無限に近い空気が有るという
のに、それを留める術が無く、身体が沈んでいくことが皮肉だった。
「そう言えば…」
 僅かに回復した事で、また愛衣が口を開いた。
「だから喋んなって。黙って少しでも体力の回復に努めてくれ」
 龍之介の声は懇願に近かった。自分の体力消耗以上に、愛衣の消耗の方が心配だった。
「まだ… 言ってなかったよね…」
「わかった、後でいくらでも聞いてやる。頼むから今は…」
 それに対し愛衣はゆっくりと、倒れ込むように龍之介の耳元に口を寄せ、

「好きだよ… 龍之介」

 意識が消えかかる間際に、そう囁いた。
 直後、まるでそう言い終えるのを待っていたかのように、大きなうねりが二人を飲み
込んだ。


 …つづく



 

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