「今度はこっち」
めでたく卵三個の処理が終わった俺の目の前に、今度は薄力粉とマグカップの親玉
みたいな容器が置かれる。どうやら篩(ふるい)に掛けろと言う事らしい。
「3回ね」
3回篩(ふるい)に掛けろと言っているらしいが、
「3回!? めんどくさいから1回にしようぜ」
俺はそう提案した。はっきり言って何のために篩(ふるい)に掛けるのかがいまい
ち分からないのだ。それを3回も繰り返すのは馬鹿馬鹿しい事この上ない。
だが唯の奴は
「かわいそう友美ちゃん。誕生日を忘れられた上、プレゼントにも手を抜かれて……」
だから友美の誕生日を忘れていた訳じゃ無いと言うに…… しかしここで反論して
みても、
『じゃあ、なんでお金がないの?』
という答えが返ってくるのは目に見えている。俺は諦めて篩(ふるい)器のスイッ
チに指を……
あれ……?
……無い。
スイッチが無いのである。
「おい、唯。こいつ壊れてるぞ」
恐らくスイッチが脱落かなんかしたのだろう。これでは篩(ふるい)に掛けられな
い。思わず緩んでしまいそうになる顔を引き締め、
「しょうがないから、このまま入れちまおうぜ」
どうせ粉は混ぜ合わせてしまうのだ。篩(ふるい)に掛けられていようがいまいが、
関係ないだろう。
しかし……、
そんな淡い期待は唯の次の行動で粉々に叩きつぶされた。唯の奴は俺の手から無言
で篩(ふるい)器を取り上げると、柄に当たる部分を一度、握りしめた。
すると……
ガシャ…
そんな音がして、容器の下から僅かに粉がパラパラと舞い落ちる。
「ま、まさか……」
そのまさかだった。篩(ふるい)器までもが手動だったのだ。
「こんなもん、何処にあったんだ!?」
俺は叫ばずには居られなかった。何しろ一度握ってあの程度の粉しか出て来ないの
である。容器一杯になった薄力粉を3度もやらされたら夜が明けてしまう。
「この前見つけたの。お兄ちゃんのお母さんが使ってたみたいね。これでやるとね、
舌触りが凄く良くなるんだよ」
(いらんもん遺していきやがって……)
胸の中で亡きお袋に悪態を吐いてみる。もちろん返答などあるわけもないのだが。
ガシャガシャガシャガシャ……
こうして、何も言い返す気力が無くなった俺は、もうひたすら篩(ふるい)器の柄
を繰り返し握り続けるしかなかった。
ガシャガシャガシャ…
ガシャガシャガシャガシャ…
ガシャガシャガシャガシャガシャ…
一晩掛かって……
そんな訳が無く、結局3度の篩(ふるい)も20分程度で無事終えることが出来た。
考えてみれば1度目より2度目、2度目より3度目と回を重ねる毎に、粒子が細かく
なり、篩(ふるい)にかける時間が短くなって来る筈なのだ。
で……
先程処理した卵黄に、篩(ふるい)に掛けた薄力粉をバサバサ入れる。
「あんまり混ぜすぎないのがコツだよ」
唯の指示に従い、さっくりと混ぜ合わせる。
「はい、仕上げ」
そして残ったメレンゲが加えられ、これまたさっくりと…
「出来た? じゃ、これに流し込んで」
予め処理が施してあった型に、生地を流し込む。一応俺が粉を篩(ふる)っている
間に、唯もそれなりの事をしていたらしい。
「180℃で取り敢えず25分ね」
オーブンの目盛りを180と25に合わせ、蓋を閉める。
ゴゥゥゥン…
唸りを上げるオーブンの音を耳にし、
「んがぁ〜〜〜… 終わったぁ〜〜 」
俺は思いっ切り伸びをした。これで開放される。そう思ったからだ。
……だが、
「次は生クリームをホイップして」
またも俺の前に新たなボウルが現れた。中には牛乳みたいなモノ(生クリーム)が
漂っている。もちろん手動の泡立て器付だ。
(……もうどうにでもしてくれ)
俺は再びヤケになって泡立て器をふるった。合間を縫ってさっきと同じように唯が
砂糖やブランデーを入れてくるが、俺の気合いの為か砂糖もブランデーもアッという
間にクリ−ムに溶け込んで行く。
その事に些細な幸せを抱いた瞬間、
「ストップ、ストップ。あんまりやりすぎると固くなり過ぎちゃうよ」
なんだ、せっかくノって来たのに…… 色々と面倒くさいんだな。
唯は俺の手から泡立て器を奪い取ると、それに付いたクリームを指ですくい取り口
に運ぶ。
「ん、おいし」
「どれ?」
俺は唯みたいにセコくないので、堂々とボウルに手を伸ばした。別に甘いモノが好
きというわけでは無いのだが、90%以上は俺の労働力なので、当然の権利だろう。
ところがだ、
「あぁ! 駄目っ!」
という声と同時に、ボウルに伸ばした手がぺしっと叩かれた。
「なんだよ、俺が作ったのに味見もさせないとはどういう了見だ」
「味見しちゃいけないとは言わないけど、ボウルの中に直接手を突っ込むのは止めて」
失礼な。まるで俺の手がバイ菌だらけだと言いた気な顔をしやがって。
見ると、唯の奴はまたも泡立て器からクリームをこそげ取ろうとしている。
「(いじきたないヤツ…)」
俺はそんな真似はとっくに卒業したので、何か言ってやろうと口を開きかけた……
のだが……
「はい、あ〜ん」
その俺の目の前に、絶妙なタイミングでクリームの付いた指が突き出された。
「何の真似だ」
いや、大体想像は付くが、そんな恥ずかしい真似が出来るかっ!
「あっそう。いらないんだ」
そう言って唯が指を引っ込めようとする。
……あんまり認めたくないのだが、俺という人間は結構あまのじゃくな所があるよ
うだ。「どうぞ」と言われれば拒否し、「駄目」と言われると歯向かいたくなる。
この時もそうだった。…というより、何となく唯に小馬鹿にされたようで悔しかっ
たのだ。
俺は唯が引っ込めた手を強引に引き寄せ、指に付いたクリームを舐め取ってやった。
「きゃぁっ!」
自分から「あ〜ん」とか言って置いて悲鳴を上げるとわ……、まだまだ唯も青いな。
まあ、これで少しは思い知っただろう。
などと考えている俺とは対照的に、唯のヤツは半ばパニック状態で俺の手を振り解
こうとしていた。そんなに嫌か? 指が俺の口に含まれているのが。
……まあ、お仕置きとしてはもう十分だし、第一口の中を傷つけられては適わん。
そう思い、パッと手を離したのが悪かった。それが俺の手を振り解こうと、唯が思
い切り手を引いたタイミングと重なって仕舞ったのだ。
バァン!
その時の音を文字で表すとこんな感じだろう。唯の手の甲が、派手にシンクの縁を
叩いた音だった。
「痛っ!」
悲鳴を上げ、手を押さえてうずくまる唯。やべっ! ふざけ過ぎたか。
「わ、悪ぃ。大丈夫か?」
慌てて腰を落とし、うずくまった唯を伺う。
「……〜っ」
痛みを堪えているのか返事もしない。かなり派手な音がしたのでひょっとしたら骨
に何らかのダメージを与えてしまったのかもしれない。
「怪我したのか? 見せてみろ」
2度目の俺の問に、ようやく唯はゆるゆると顔を上げた。痛みの所為か涙目になっ
ている。肝心の手の甲はと言うと……
「……なんだ、大した事無いじゃないか」
俺はホッと息を吐いた。ちょっと大きめに薄皮が剥けている程度だ。
「大した事無く無いよ。すっごく痛いんだから……」
拗ねたような声。
まあ、あれだけ派手な音がしたんだから、痛くない訳無いか……。再び唯の手に目
を落とすと、皮が剥けた所から徐々に赤い色が滲み始めていた。
「大した事無ぇって、この程度…… なめときゃ治る」
あんまり深く考えないで、俺は唯の傷口に口づけしていた。そのまま上目遣いに、
『な?』という意味で唯に目を向ける……と、
唯のヤツ、耳まで真っ赤。そういや、手の甲に口づけって確かお伽噺やなんかで……
いや、落ち着け。何もそんな意味でキスしてる訳じゃ……って、キスじゃ無ぇ!
まずい、俺が動揺してどうする。
俺は平静を装い、唯の手から口を離し…… そこでハタと目が合ってしまった。唯
は相変わらず耳まで真っ赤。俺はと言うと……、顔がカッカするのは気の所為だろう。
しかし、ここで目を逸らすのは如何にも態(わざ)とらしい。などと考えている内
に、唯が顎を心持ち俺の方に上げた ……ような気がした。
「(こ、これわ……)」
TRRR……
頭の中で警鐘が鳴り響いた。このまま行ったら(何処にだよ?)立派な不実男の出
来上がりだ。
TRRRR……
唯の目が潤んで見えるのは……、手が痛いからだなきっと。唇が妙に艶っぽく見え
るのも気の所為……って何処を見ている、俺。
TRRRR……
い、いかん、このままではイカン! 身体が勝手に俺の意志に反する可能性、大!
いや、言い訳で無くて……
あ〜、こんな時、外から電話とかが掛かってきて、場を壊すとかしてくれれば……
TRRRR……
「………」←俺
「………」←唯
TRRRR……
……って、鳴ってるじゃないか。
TRRRR……
「(た、助かった……)」
思う間もなく唯から離れ、急いで電話器に向かう。誰だか分からないが、絶妙なタ
イミングだ。俺は電話の主に感謝しつつ受話器を取った。
「はい。喫茶『憩』」
以前は「綾瀬」と名乗っていたのだが、高校に通うようになってから『憩』で統一
している。これなら変な誤解をされずに済むからだ。
半拍も置かず、受話器の向こうから声が……
「あ、龍之介? あたしだけど……」
(げげっ!)
危うく叫ぶところだった。電話の主は、声だけで分かる。愛衣だ!
「じ、事故だ、事故! それにまだ未遂だ!」
咄嗟に口から出てしまっていた。ひょっとして俺って莫迦?
「事故? 未遂? なによそれ」
案の定というか、愛衣が訝しげに聞き返してくる。覆水盆に返らず…… しかし望
みは捨てまい。
俺は最大限の努力を払い、平静を取り繕った声で
「あ…いや、こっちの話。今ちょっと明日の準備をしててさ… ほら、友美の誕生日
だろ? それの……」
誤魔化せるだろうか? 俺は祈るような気持ちで愛衣の声を待った。
「……ま、いいか。唯は?」
僅かな間を置いて唯を要求してきた。その僅かな間が妙に気になったが、聞き返す
わけにも行かない。
「唯、お前にだってよ」
救急箱を持ち出して、中を漁っている唯に受話器を差し出してやる。瞬間左手に持
つ受話器の質量が増した気がした。そしてまたも俺は自分の迂闊さを呪うのだった。
もう少し時間差を置いて、唯に渡すべきだった…… 多分近くに唯が居た事がバレ
てしまっただろう。
「誰?」
聞き返す唯に、最早俺は、
「出りゃわかる」
とだけ言って受話器を押しつけるしか無かった。
☆
「(だけどなぁ、なんでこうビクビクせにゃならんのだ? 一緒に住んでいるんだか
ら、近くに唯が居たっておかしい事じゃないだろう)」
背後で交わされる一方的な会話(電話だから仕方がないが)に耳をそばだてながら
自問自答してみる。
大体、別に疚しい事をしていた訳じゃない。 ……よな? 断定できん所が悲しい
が……。
「(しかし恐ろしいほどのタイミングだ。まさか外にいて一部始終を見てたんじゃな
かろうな?)」
そんな訳は無いと思いつつも、窓の外に目を向ける俺。かなり情けない。
「お兄ちゃん」
唐突に背後から声。まあ、唯しか居ないが、気配を消して俺の背後に付くとは……
腕を上げたじゃないか。
「なんだ?」
振り返ると、目の前に受話器。
「変わってだって」
何故か知らんが、上機嫌の唯。反対に受話器を受け取った俺は、それこそ恐る恐る
受話器に話し掛けた。
「も、もしもし?」
何故どもる、俺。
「こら」
いきなり来たか。怒ってる ……って声じゃ無さそうだが。
「な、なんだよ」
「何が“事故”で“未遂”なのかな?」
やっぱり聞き流してはくれなかったらしい。
「い、いや、それは話せば長く……」
言い繕う俺の声に、愛衣の声が被さる。
「あんまり…… 心配させないでよ」
心配? 愛衣が? ……何を?
……って、アホか俺は。1つしか無いだろうが!
「すまん……」
そう言うしか無いだろう。男らしく言い訳はしない。
「私に謝ってもしょうがないでしょ、唯に謝りなさいよ」
……はい?
なんで唯に……
「ちゃんと医者について行って上げなさいよ。アンタの所為で怪我した様なもんなん
でしょ?」
………。
「……聞いてる?」
「聞いてます……」
心配って唯の怪我の事かよ。ホッとしたような、残念の様な……いや、別に怒られ
る事を期待した訳じゃ無いんだが…… マゾじゃないし。
「……それだけ。じゃ、おやすみ」
「ああ…」
生返事を返す俺。受話器の向こうでプツリと小さく切断音。
「叶さん、何だって?」
受話器をフックに戻すと声。
「あ?“ちゃんと医者に行くように見張ってろ”だってよ」
ちょっと違う気もしないではないが、まあいいだろう。
「で? 愛衣のヤツはお前に何の用だったんだ?」
唯に用事なんて珍しい。……って言うか、此処に電話を掛けてくる事自体珍しいよ
な。
「うん? ……誕生日のプレゼントをね、頼んだの。で、それが届いたって電話」
そういや自分以外の家族は外国だって言ってたな。なるほど、舶来モノのプレゼン
トとは唯もなかなか洒落た事をするじゃないか。
「でね、聞いて聞いて。向こうにはこぉ〜…んなに大きなヌイグルミがあるんだよ」
二抱え…、いや三抱えくらいの大きさを、身体いっぱい使ってヌイグルミの大きさ
を表現してくれる。
……呆れた。
「それって友美が迷惑なんじゃないか?」
いくら友美の家が広いとは言っても、そんなにデカくちゃ置き場に困るだろう。そ
れに、友美がヌイグルミを抱き枕にするとも思えん。おまけにプレゼントじゃ捨てる
に捨てられまい。
「あ、友美ちゃんには、ちゃんとアンティークな置き時計を選んだよ」
ふ〜ん…… ま、時計ならそう困るもんでもないな。ウチにも親父が滞在している
国の時間に合わせた時計があるし。
………?
なら何でそんなヌイグルミの化け物の話なんか……
「楽しみだなぁ、今度の誕生日」
俺の目を意味ありげに見る唯 ……って、待てい!
ひょっとして俺がそれを唯に
プレゼントするのか?
わざわざ輸入して? 大体、それっていくらするんだ。そんなに大きけりゃ、さぞ
かし値段の方も……
「大丈夫だよ。今、円高だし」
読むな! 俺の心を。大体、今円高でも半年後にはどうなるか分かったモンじゃな
い。それにそこまで言うって事は、やっぱりそれなりに値が張るモノなのだろう。
「ふっ。高校生にもなってヌイグルミとわ…… 相変わらずお子様だな」
しかしそんな挑発も、唯には通じなかった。
「約束」
「ぐっ…」
「したよね?」
は、ハメられた……
ちん!
と鳴ったレンジの音が、最終ラウンド終了のゴングの音に聞こえた。エラく高いケー
キになりそうだ。友美には本気で感謝して貰わねばなるまい。
しかし……
……どっちかつーたら、愛衣の方に思いっ切り感謝してもらいたいんだけどな。
【了】
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