陽が西の山にすっぽりと身を隠すと、辺りは急速に藍に染まり始めた。それに呼応
するかのように、外灯がポツリポツリと灯り始める。
桜子が座るベンチの近くにある外灯も藍の浸食を防ぐべく、規定の照度を提供して
いた。その外灯が映しだしたものだろう、2つの影が俯いた桜子の前で佇んでいた。
「桜子……」
静かに呼び掛けたのは美弥だろう。その声に慌ててぐしぐしと目元を両手で拭い顔
を上げる桜子。2人に向けたその目は泣き腫らして瞼が赤くなっていた。それでも無
理矢理に笑顔を目の前の友人に作り、
「あはは… フラれちゃった」
その微笑んだ目からまた大粒の涙がこぼれ落ちる。
ぎりっ……
泣きながら微笑む桜子を見、美弥は自分の唇を痛いほど噛み締めた。結局自分が想
像していた通りになった訳だが、もちろんそれを喜ぶ気には到底なれない。今彼女の
頭を占めているのは、桜子をこんな目に遭わせた人間の事だった。
龍之介がこの場を去って10分と経っていない。走っていけば駅前辺りで捕まえる
事が出来るかも知れない。
衝動的にそう思った。思ったと同時に足が動いた。だが、
「美弥」
その声が動き掛けた美弥の足を止めた。
「何処行くの?」
「決まってるでしょ、アイツを取っ捕まえて、連れ戻して、桜子に土下座させてやン
のよっ!」
振り返ってその声の主に、摩耶に捲し立てる。
「そんなコトして誰が喜ぶの?」
誰も喜ばない。そんな事はわかっていた。けれどもそうせずにはいられなかったの
だ。
「だって…、だって酷いよこんなの! アイツ、その気が無いのに桜子をからかう為
に来たようなもんじゃない。そんなの許せない」
ただ単にふるなら、今日の誘いに乗らなければ良いだけの事なのだ。それなのにそ
うはせず、桜子をぬか喜びさせた上で嘲笑うかのように突き放した。
許せる訳がなかった。
「少し落ち着きなさいよ。多分、彼が今日来たのには、それなりの訳があったからよ。
そうでしょ?」
桜子の隣に腰掛け、静かに尋ねる摩耶に、
「……うん」
小さく桜子は頷いた。
「出来ればあの娘のことは黙ってて欲しい、そう言われたんじゃない?」
「どう…して……」
まるですぐ側で聞いていたように言い当てる摩耶に桜子は目を見張った。それに対
し摩耶はちょっとバツが悪そうに、
「まあ…、私が聞いた話を総合してちょっと考えると、多分そうなんじゃないかなっ
て……。よっぽどその娘の事が大切なのね」
言葉を継いだ。と言うことはつまり……
「じゃ、あんた最初からこうなるとわかってて!?」
いきり立つ美弥だが、摩耶は冷静な口調でもって、
「だから言ったでしょ。『桜子がどうしてもって言うなら』って。それともあの状態
で、ずっと引きずったままの方が良かったっての?」
「だからってあんたね〜」
怨念を込めたような声で摩耶に掴みかかろうとした美弥だが、言われてみれば確か
にそうだ。あのままうじうじ1ヶ月も2ヶ月もやられたんじゃ堪らない。
「……桜子はどうなのよ? こんな仕打ちを受けて」
龍之介と摩耶、どちらに受けた仕打ちかは限定しなかったが。
「ぐす… フラれたばっかでそんなトコまで頭が回らない」
「じゃ、諦めはついた?」
摩耶が優しく問う。
「……あそこまでハッキリ言われたら、諦めるしかないわよぅ」
もちろん摩耶達に桜子が何処までハッキリ言われたかはわからない。それでも、大
体想像はつく。尤も、大筋では間違っていないが、根本的な処で間違っていたのだが。
「だってさ。良かったね、美弥」
にっこりと自分に向かって微笑む摩耶に、美弥は狼狽えた。
「な、なんで私が……」
「だってぇ〜、デートの最中ずぅっと綾瀬君の悪口ばっかり言ってさ。心配だったん
でしょ? 桜子が取られちゃうの」
冗談っぽく言う摩耶に、
「なっ… だ、だからアレは… その、つまり…… いずれ桜子が不幸になると可哀
想だと思って……」
本人の居る前で面と向かって言うのは恥ずかしいのか、やや頬を染め、そっぽを向
くように…。そんな彼女に、
「ありがと。美弥」
やっと桜子の顔に無理のない笑みが浮かんだ。そして、
「でも、私ノーマルだからね」
ちょっと眉を顰めてみせる。その意味するところが分かったのだろう。
「ばっ、馬鹿な事言わないでよっ。仮に私が男の子だったとしても、桜子みたいな胸
ぺったんはお断りよ」
真っ赤になって否定する。真っ赤になる辺りが怪しい処だが、桜子にとって聞き捨
てならないのはその断り方だ。
「なによぉ、同じAのくせに」
ちなみに『A』はカップサイズの事だ。
「ふ、ふん… トップでは78だもんね、私は」
ちなみに桜子は76。だが、トップバストとアンダーバストの差がカップサイズ―
いわゆる「おっぱい」の大きさになるので、これはあまり威張れるモノではない。
「はいはい。お互いの傷に塩を擦り込み合うのはやめようね」
そんな2人を抱きかかえるようにして摩耶が止めに入る。ちなみに彼女のトップは
88という、2人にしてみれば破滅的、壊滅的な大きさを誇っていた。余談だがサイ
ズはDである。
「……存在しているだけで塩を擦り込まれているみたいだわ」
とは美弥の弁だが、委細かまわず摩耶が続ける。
「そんな事よりなんか食べてこ。フラレた時にはヤケ食いが定番だって言うし」
「デリカシーが無いよ。摩耶」
『フラレた』を連呼する摩耶に桜子が恨みがましく言ってみるが、
「おあいにく様。私は色気より食い気なんでね♪」
あくまでも明るく返す摩耶。これが彼女なりの励まし方なのだという事はもちろん
桜子にもわかっていた。
「じゃさ、『なにわ屋』にしよ。本格関西風お好み焼き。一度食べてみたかったよねぇ」
「いいわね〜。私一度お好み焼き定食ってのを食べてみたかったのよ」
統一見解がでたらしく、すたすたと飲食店街へ歩き始める美弥と摩耶。
「あ、待ってよ2人共」
慌てて桜子が声を掛けるも『関西風って焼きそばが入ってるヤツだっけ?』『そりゃ
広島風でしょ』とかなんとかお好み焼き論議を始めていた。
「もぉーーー」
一瞬頬を膨らませる桜子だが、すぐにその顔が柔らかくなり、
「待ってよー、私も行くんだから」
2人の後を追う。
追いかけて――
―――追いついて、両手を2人の肩に回して……
「……ありがと」
囁くような声。
「ばーか」
照れたようにそっぽを向く美弥。
「いい経験……したよね?」
優しく問う摩耶。
「うん……」
立ち止まった3つの影が再び動き出すまで、暫くの時間が必要だった。
※如月駅前
いわゆる繁華街にあたる如月町は、午後7時という時間でも……いや、午後7時と
いう時間だからこそ人でごった返していた。これが週末だったらもっと非道いコトに
なっていたかもしれない。日曜日だからこの程度で済んでいるのだ。
そう思っても、券売機に並ぶ人の列が消えて無くなる訳ではない。
「帰るんでしょ?」
溜息を吐きつつ長い列の最後尾に並んだ龍之介に、そんなセリフと共に一枚の切符
が差し出された。
「偶然だな。買い物か?」
別段驚いた風もなく応え、友美が差し出してくれた切符を受け取る。
「別に全部が全部偶然ってわけじゃないんだけどね」
確かにあのファーストフード店で出会ったのは偶然だったが、此処で会ったのは偶
然でも何でもなかった。かといってずっと2人を尾行していたわけでもない。いずみ
と別れてからずっと待っていただけだ。
2時間くらい……
「ふーん」
友美の妙な言い回しを気にする事なく、ポケットを探り小銭を取り出す。270円
しかなかった。
「1割引という事でひとつ」
おどけた調子で握った小銭を手渡す龍之介に、
「あきれた。どうやって帰るつもりだったの?」
八十八町までは、歩いて帰れない距離ではないが、2時間半程度は覚悟しなければ
ならない距離だ。しかし龍之介の答えは単純明快だった。
「小銭がそれだけしか無かったんだよ。夏目センセを両替するのは忍びない」
屁理屈を並べ立てながら自動改札を抜けて行く龍之介の後を友美が追う。ホームに
電車が入っているらしく、わらわらと乗客達が階段を下りてくるところだった。
程なくして発車を知らせるメロディが鳴り響く。いつもの龍之介なら乗り遅れまい
と駆け出すところだが、何故かのんびりと階段を上がっていた。
「いいの?」
と問う友美に、
「別に最終電車って訳じゃないだろ。10分もすりゃ次が来る」
達観したような龍之介。
「少しは大人になったのね ……ひょっとして、彼女が出来たからかしら?」
自分でも驚くくらい自然に、そして冷静に聞けた。
「なんだ…… 見てたのか」
振り向きもしないで応える龍之介。
「まあ…ね。ところでこういった場合、幼馴染みとしては祝福した方が良いのかしら?」
口から出る言葉とは裏腹に、友美の胸中は張り裂けんばかりだった。こんな時にま
で偽りの言葉が吐けてしまう自分に腹立ちすら覚える。かと言って、思ったことをそ
のまま口に出してまうほど子供でも無い。……そう出来ればどれほど楽だったろう。
しかし、龍之介の答えは友美の想像を裏切り、
「別に祝って貰うほどの事じゃ無いと思うぞ。フラレたんだから」
「え!?」
一瞬聞き間違えたのかと思った。お昼にファーストフード店で見かけた桜子の顔は
友美から見ても羨ましいほど輝いていた。自分が龍之介と一緒に居るとき、同じよう
な表情をしているのではないか? と思うくらいに……。
それ故、龍之介の方が振られたというのは信じられなかった。振ったと言われた方
がまだ納得が行く。
(ひょっとして…… そうなの?)
胸の内で呟いてみる。もちろんそれは龍之介に伝わることはないので、
「うーむ、やっぱり押しが強すぎたかなぁ。結構……いや、かなり可愛かったんだが。
惜しいことをした」
白々しい言い訳。だからこそ友美にはその態度の裏にある、言外の意味が読みとれ
た。
『そういう事にして置いてくれ』
それを理解した瞬間、スーッと胸に支えていた何かが消えて無くなっていく感覚を
友美は覚えた。ホッとしたのだ。何しろ半ば以上失恋を覚悟したのだから。
「そうね。あれだけ学校で無茶な事をすれば敬遠されても仕方ないわね」
だが、その感覚を無理矢理押さえ込み、友美は冷静に答えた。龍之介の意を汲んで。
「うるさいな。きっと何処かに俺のユーモアセンスを理解してくれる女の子が居るは
ずだ」
「ひょっとして、そういった娘が見つかるまであんな事を続けるつもりなの?」
「アレは別にユーモアセンスを理解してくれる女の子を探すためにやっているわけじゃ
ないぞ。単純に面白いからだ」
「それって、あのテの悪戯に『そんなあなたが素敵』って言ってくれる娘を探してるっ
て事?」
「まあな」
話を合わせている内に、随分と横道に逸れてしまった。
「それじゃ当分は無理ね。そんな奇特な娘がいるとは思えないもの」
(自分を含めたごく少数を除いては)と心の中で付け加える。もちろんあんな悪戯を
しでかしている龍之介が好きな訳ではないのだが。
「失敬な。桜子ちゃんは『面白かった』と言ってくれたんだぞ」
「ふーん……」
と鼻を鳴らし、いかにも小馬鹿にしたような目で龍之介を見やる。
「あ、なんだその馬鹿にしたような目は」
当然の如く敏感に反応する龍之介。
「別に馬鹿になんかしてないわ。じゃあなんで振られたのかな…って思っただけ」
「そりゃお前、『好きな人がいる』って言われちまったら引くしかないだろ」
その龍之介の言葉が終わらぬ内に、友美の身体がびくんと震え、足が止まった。あ
る程度の想像が付いていたとはいえ、本人の口から直接それが出るとやはり動揺する。
その振られた理由そのものが、龍之介が桜子を振った理由であるに違いないからだ。
「そう…… なんだ」
それでもその動揺を悟られないように言葉を返す友美。今の龍之介の言葉が本当な
らば……
(相手の娘は誰なの?)
それこそ聞いたところで絶対に答えが返って来ない質問だろう。
それでも、龍之介に好きな娘がいて、彼にはその娘以外と付き合う気が無いと言う
ことはわかった。あとはわからないことだらけ。その娘が誰なのかはもちろん、今現
在付き合っているのかもわからない。
だが、前者はともかくとして、後者は実感できないというのが正直なところだ。何
しろ学校では友美本人と付き合っているという噂がまかり通っている。放課後だって
何が楽しいか知らないが、学校に居残りあっちこっちに出没しては風紀委員をからかっ
て遊んでいるし、そうで無いときは『Mute』に出入りしているらしい。
もちろん年がら年中誰かが龍之介に張り付いている訳ではないから断定は出来ない
が、この間隙をぬって女の子と付き合っているなら大したものだ。
ただ1人の例外を除いて……
「唯ちゃん……」
「あん?」
ぽつりと呟いたその声に龍之介が反応した。
「え? あ… ゆ、唯ちゃんならわかってくれるわよ無条件に、多分」
咄嗟に言い繕う。無条件にユーモアセンスを理解してくれる、という意味で言った
つもりだったが、明らかに失言だった。詰まるところ、『唯ちゃんなら彼女になって
くれるわよ』という意味になってしまうからだ。
怒られる。そう思って一瞬首を竦めかけた友美だが、
「ばーか」
龍之介の口調はさして変わっていなかった。軽くあしらうように言うと、再び背を
向けて歩き出す。
時間が中途半端なためか、降りる人間は多くても、乗る人間は少ないらしい。人影
が疎らなホーム。家族連れにしても恋人、友人同士で遊びに来ているにしても、夕食
を採って帰るからだろうか。
「そういう友美はどうなんだ?」
乗降口を示す線の場所で立ち止まると同時だった。本気で聞いている、というワケ
ではなさそうだ。そのくらいは声だけでわかる。からかい半分で『彼女になってくん
ない?』と聞いているのだろう。
友美はひとつ溜息を吐くと、
「わかってないようだから言ってあげるけど、あなたのそのユーモアとやらのお陰で、
私がどんな目に遭っているか知ってる?」
ちょっと睨むように言ってやる。
「風紀だろ? いーじゃん入ってやりゃ。んで、俺に情報を流してくれ」
どうやら確信犯らしかった。
「私は本を静かに読むために図書委員になったのよ」
「ああ、そりゃご愁傷様……じゃ無くてだな、俺が言いたいのは……」
言いかけた龍之介の腕に、ふわりと友美の腕が巻き付く。そして一言
「いいわよ」
「はぇ?」
間抜けな声を上げる龍之介。強烈なカウンターパンチを食らったような気分だろう。
「私、別に龍之介君のこと嫌いじゃないし……」
龍之介の目を覗き込むようにして言ってくれる。
「……家に着くぐらいまでの間は“彼女”になってあげても」
期間限定だった。
「…………」
「………」
「あーびっくりした…… いやー友美も成長したよなぁ。昔はこの手の冗談は全然ダ
メだったのに」
「誰かさんに鍛えられているからじゃないかしら」
そう答えられる自分が少し悲しかった。感情を表に出せた昔の方が良かったかも知
れない、と。しかし、相手の方は感情丸出しだった。
「いや、ホントに成長したよ。特にこう俺の左腕に当たる部分とかが……」
感情と言うよりは煩悩と言う方が正しいかも知れないが。
きゅうっ
「痛いって。悪かった、もう言いません」
腕を思いっきり抓られたらしい。それでも相変わらず腕は組んだまま。この辺も成
長した証拠だろうか。
「だったら少しはそれらしくしてね。私だって女の子なんだから」
「はいはい。無事にお宅へ送り届けますよ。どうせ隣だしな。なんなら別れ際にキス
のひとつでもしてやろうか」
「龍之介君にその度胸があれば、どうぞ」
「……なんか調子狂うな。誰かの悪い影響を受けてるんじゃないか?」
某所でレポートと格闘している筈の人間を思い浮かべる龍之介だが、
「16年近く幼馴染みやっている男の子の所為ね、きっと」
似た者同士ということか。
「幼馴染み……ね」
何処か苦笑気味に呟く。先ほど桜子に『単なる幼馴染みじゃない』と言った事を思
い返したのだろう。
「……何か言った?」
その呟きが聞こえなかったのか、訝しげに問い返す友美。
「いや、別に……」
口にしたところで、何もならないので適当に誤魔化すことにした。
(曖昧にして置いた方が良い事だってあるしな)
左腕に心地よい温かさを感じつつ、そんなことを思う。そして、左肘に当たる胸の
柔らかさに、
(約束だからちゃんと友美は家に送り届けなきゃいかんよな、取り敢えず『Mute』
に報告しに行くのは明日にしよう)
(……いや、決して疚しい理由からじゃ無くてだな)
心の中で言い訳する辺りに哀愁を感じる綾瀬龍之介、15歳の初夏であった。
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