「あーあ、飼いたかったなぁ。」
ため息混じりに唯が呟く。結局猫は返しに行く途中で、猫を探していた飼い主が見
つかり、「お礼を」の言葉を丁重に断り帰途についていた。
「そんな事言うと、トムとジェリーがヤキモチ焼くぞ。」
「オリオンとアルテミスだってば。」
友美が訂正を求める。オリオンとアルテミスとは、友美の家で今年生まれた子犬の
ことで、いつもアルテミスがオリオンを追っかけ回していることから、龍之介はトム
とジェリーと呼んでいた。
「オニオンだろうがアルミホイルだろうが、どっちでもいいよ。大体、家は喫茶店や
ってるんだから、生き物飼うのは難しいんだ。ところで‥‥」
龍之介がピタリと足を止め振り返る。
「どうして乱暴者がついて来るんだ?」
「誰が乱暴者なんだ? 問題児。」
「お前以外に誰がいるって言うんだ、乱暴者。」
「ふん、お前に用がある訳じゃないよ。唯‥‥だっけ? ちょっと付き合ってくれな
いか?」
「え?」
唐突な申し出に唯が一歩後ずさる。
「別に取って食おうって訳じゃない。ちょっと会わせたい人がいるんだ。」
洋子は唯を見据えて言っているのに対し、唯の方は龍之介の方を伺うように見る。
その態度に、洋子も誰に許可を求めるべきか理解したようだ。
「綾瀬、いいだろ?」
「俺に聞くな、俺に‥‥」
「お前に聞いた方が、話が早くて済みそうだからだ。」
「‥‥好きにすればいいだろ。」
「その代わり私達も一緒で良いかしら?」
あまりに素っ気ない龍之介の言葉を友美が引き継ぐ。こうでもしないと話が進まな
いと思ったのだろう。
「達って何だ、達って。俺は行かな‥‥」
言葉を切ったのは、唯が“じっ”と見つめていたからだけでは無く、その行動にも
原因があった。おもむろに手を唇に持っていくその行為が‥‥
その目は『しゃべっちゃうよ。』と語っているように龍之介には見えた。選択の余
地は無かった。
☆ ☆
「ありがとうございました。」
抑揚のない言葉を、店を出ていくお客に投げる。
こんな中途半端な時間にも係わらず、まだ2組のお客がテーブルを陣取り、おしゃ
べりを続けていた。
愛衣はトレーを抱え、今出て行ったお客のテーブルに向かう。
「働けど働けど‥‥か」
別に生計を立てる為に働いている訳では無いのだが、自然と口に出てしまう。
親は不自由しない程度の生活費は送ってくれているし、マンションは元々家族で住
んでいたものだ。ただ、バイクの維持費くらいは自分で稼ぎたいと思ったし、そこま
で甘えるつもりもなかった。
一人で家にいると気が滅入るのも理由のひとつだったが‥‥。
彼女にとって今現在、会話が出来る人間というのは限られていた。ここ『Mute』
のマスター、そして幼い頃から家族付き合いをしていた‥‥
カランカラン!
「愛衣姉、愛衣姉!」
カウベルの音に続いて、その家族付き合いをしている、そして彼女の幼なじみ‥‥
いや、妹に近い存在である女の子が息せき切って転がり込んで来た。
「洋子、仕事中だよ。」
叱るように睨み付けるが、洋子は全く気にせず、
「そんなことよりさ。ほらこいつ、そっくりだろ?」
洋子が唯の肩を抱くようにして、愛衣の前に押し出す。しかし‥‥
「あれ、二人とも知り合いだったの?」
当然のことだが、洋子が期待したほどに愛衣は驚かなかった。
☆
「面白くない。」
カウンターに座り、ぶすっとした顔で洋子がオレンジジュースのストローに口をつ
ける。
「なにが?」
カウンター内で洗い物を続ける愛衣が聞き返す。
「もっと驚くと思ったのに‥‥」
「驚いたわよ。土曜日に初めて会ったときは‥‥」
「‥‥土曜日って、先週ですか?」
友美が二人の会話に割って入る。どうやら未だに気になっているらしい。
「な、なんで唯を見て驚く必要があるんだよ。」
それを遮るかのように龍之介が質問をかぶせたが、愛衣はあざ笑うかのように龍之
介を無視し、
「そ。あなたと来たのが水曜だから、最初はとんでもない奴だと思ったけどね。
もっとも‥‥」
唯と友美、それに綾子を順に見回し、最後に龍之介をジト目で睨む。
「‥‥今でもその評価は大して変わっていないけど。」
「私はただの幼なじみですっ!」
愛衣が向けた視線の意味を察した友美が真っ先に否定する。‥‥と
「えっ! 友美と綾瀬君って付き合ってるんじゃないの?」
第三者故に勝手な憶測をそのまま口に出してしまう綾子。
「綾ちゃん‥‥何処からそんな話が出て来たんだよ。」
「え‥‥だって二人は行く末を固く契った振り分け髪の頃からの筒井筒の仲だって噂
よ。それに唯が‥‥」
私のせいじゃないよとばかりに唯へ視線を向ける。
「唯、お前何を綾ちゃんに言ったんだ?」
「ゆ、唯は別になにも‥‥」
「小さい頃に、水野さんをお嫁さんにするって言ったんでしょ?」
笑いを堪えるように綾子が続ける。
「ね、その後どうなったの?」
「その後ってなんだよ。」
仏頂面を綾子に向ける龍之介。
「唯にもプロポーズしたんでしょ。それが水野さんに見つかって‥‥」
「へえー。そりゃ私も興味があるな。」
洋子がニヤニヤ笑い、龍之介を見る。愛衣に至っては、龍之介に背を向け肩を震わ
せていた。笑いを必死に堪えているのだろう。
「‥‥忘れた。」
とぼける龍之介。だが綾子は容赦ない。
「ふーん。綾瀬君てそーゆー人だったんだ。二人をお嫁さんにするっていう約束も忘
れちゃうんだ。」
「唯! てめぇ‥‥」
「だって本当のことだもん。」
唯が龍之介の怒りを受け流すようにカップに口を付ける。
「ぷっ‥‥」
遂に愛衣が堪えきれずに吹き出した。
それにつられるように洋子が、笑いを堪えながら話していた綾子が弾かれたように
笑い声を上げる。
その笑いは5分程途切れることなく続いた。
☆
「で‥‥唯がなんだって?」
笑いの渦が収まったのを見計らい、龍之介が切り出す。
「似てるんだよ。」
洋子が自分の鞄を開けながら答える。
「誰に?」
答える代わりに、鞄から取り出したバインダーノートをカウンターの上で開く。
真っ先に声を上げたのは友美だった。
「唯ちゃん!?」
その透明のフィルムシートに挟まれていたは、3人の女の子が微笑む一葉の写真で、
その中の一人が唯にそっくり、というより唯そのものだった。‥‥リボンをしていな
いことを除けば。
「本当だ、唯によく似てる。」
友美の驚きより綾子の声は幾分冷静だった。が‥‥龍之介は、
「そうかぁ? 全然似て無いぞ。」
さすがに一緒に暮らしていると微妙な違いが分かる‥‥と言うわけではなかった。
「写真の娘の方がずっと可愛い‥‥いてててっ!」
で、これは唯が龍之介の腕を抓(つね)った結果。
「今から二年くらい前の写真だよ。」
「へぇー。で、この右端に写ってる男の子みたいのが洋子か?」
「ボーイッシュと言え。」
「じゃ、この真ん中に写ってるのはもしかして‥‥」
全員の視線がカウンター内の愛衣に集まるが、当の愛衣は興味無さ気に洗い物を続
けている。
「ま、そういう訳だ。ちなみにこいつの名前は舞う衣で『舞衣』。私達と同い年だ」
「舞う衣? 愛しい衣ってのもどっかで聞いたな。」
「そりゃ、愛衣姉の事だろ。二人は姉妹なんだよ。」
洋子と愛衣を除いた全員の視線が再び写真の上に注がれる。
「そう言われれば似てるわ。いかにもお姉さんと妹って感じ。」
感心したように綾子が呟く。
友美は愛衣と唯を見比べ、龍之介は
「良かったなぁ。姉ちゃんに似なくて‥‥」
と余計なことを言う。
「言ってくれるじゃない。」
龍之介を睨み付け、一瞬トレーを構えるが、思い直したかのように友美の方を見て、
「幼なじみなのよね?」
と聞く。
「“ただの”です。」
その友美の答えに愛衣がニンマリと笑う。
再び龍之介を見‥‥そこで龍之介は愛衣が企んでいる事を察した。
(ただの幼なじみなら、唯ちゃんにキスした事を言っちゃってもいいかしら?)
こんな言葉が愛衣の表情から読みとれた。
「ま‥‥まあ、写真と実物とじゃかなり違うよな。その証拠に愛衣は‥‥」
「呼び捨て。」
鋭い指摘が飛ぶ。
「‥‥先輩は実物の方が全然‥‥カワイイ‥‥し。」
事実上の敗北宣言。
「無理しなくてもいいわよ。」
「い‥‥いや、本当にそう思ってるって。‥‥あ、急用思い出した。俺帰るわ。」
席を立ち上がる龍之介。次いで唯が立ち上がる。しかし、当然着いてくると思われ
たもう一人が席を立たない。
「友美、帰るぞ。」
「先に帰ってて。私、もう少しここにいるから。‥‥さっき何を言おうとしたんです
か?」
龍之介と唯の方を見もせずに、愛衣へ問い掛ける。
しかし、今まで龍之介にとって疫病神でしかなかった綾子が、今度ばかりは龍之介
に味方した。
「ねえねえ、私達と同い年って事は‥‥・今は?」
自分が蒔いた火種が業火となる前に話題を変えようと思ったのか、それとも単なる
好奇心からか洋子に訊ねる。
「それは‥‥」
「ちょっとワケ有りで、外国暮らし。」
言い淀む洋子の言葉を愛衣が引き継いだ。
「ワケってなんです?」
「宮城さん。」(作者註:綾子の名字)
突っ込んで聞こうとする綾子を友美が制す。
「それは私達が聞いていい範疇を超えてるわ。」
愛衣はともかく、洋子の表情が友美の言葉を肯定していた。
☆ ☆
「でも良く似てたよなぁ。」
洋子を除いた4人が店を出、愛衣がその後片づけを始めると、洋子がため息ともつ
かない声を吐き出す。
「いくら似てても、あの娘は舞衣じゃないよ。」
「そりゃそうだけどさ‥‥舞衣の容態はどうなのさ?」
「入院してるんだから元気って訳にはいかないけどね‥‥ま、変わりないみたいよ。
今のところはね。」
「良くはなってないんだ‥‥。」
「根本的な問題があるからね。」
「‥‥。」
「そんなしけた顔しないの。約束したんでしょ、ずっと待ってるって。舞衣だって絶
対元気になるって言ったんでしょ。」
「でも‥‥」
「『でも』じゃないの。私だってあの娘がこの町に帰ってこれるように残ってるんだ
から‥‥信じて待つの。それにね、今の状態でも長ければ5年は生きられるって」
「5年!? なんだ。私は後数ヶ月くらいしか無いと思ってた。」
急に洋子の声が明るくなる。
「あんたね‥‥」
カランカラン
何かを言いかけた愛衣を遮るようにカウベルが来客を告げる。そろそろ混み始める
時間だった。
「ここ、煙草いいの?」
そのお客が左手をあげ、煙草を持つ仕草で尋ねる。
「窓際の3席が喫煙席になります。」
愛衣の答えに洋子が『えっ』というような顔をしたが、愛衣の方は気にせずオーダー
を取りに行ってしまう。
不思議そうな顔でカウンターを見回す洋子、以前来た時には2席に1つはあった灰
皿が見あたらない。
「マスター、スペシャル2(ツー)です。」
戻ってきた愛衣が厨房にオーダーを告げ、本人はそのままドリンクの作成に入る。
「ここ、禁煙にしたの?」
洋子が疑問をそのまま愛衣へぶつける。
「禁煙じゃなくて、分煙よ。」
「でもこのカウンターは禁煙なんだろ? 愛衣姉が煙草吸え無くなるんじゃないか?」
「いいのよ。私やめたから。」
グラスを並べながら淡々と答える愛衣とは対照的に、
「え――――っ! だって‥‥‥‥。」
「だって‥‥なによ?」
グラスにグレープフルーツジュースを注ぐ。
「‥‥愛衣姉が煙草吸ってるトコ、カッコ良かったのに‥‥私ももう少ししたら‥‥」
愛衣は黙ったままグラスをトレーに乗せ、お客の待つテーブルへ向かう‥‥と、不
意に振り向き、
「洋子。」
顔を上げた洋子に、トレーを持っていない手を上げ、指で作った銃を向ける。
「今から煙草なんか吸ってると‥‥」
片目を閉じて狙いを定める。
「丈夫な赤ちゃんが産めなくなるぞ。」
バン! と、手首を上げ撃つ仕草。
『はあ?』という顔をする洋子に、クルリと背を向けると、
「お待たせしました。」
普段より少し明るい声で、愛衣はテーブルの方へ歩き出した。
☆ ☆
それから数時間後‥‥
「ただいま。」
声に出して言ってみるが、それに返答は無かった。もう半年前からだ。
4人で住んでいた時にはやや手狭に感じたマンションだが、一人で住んでいると、
無意味な広さだけが目に付く。
背後の玄関扉が閉まると周囲は闇に包まれた。そのまま廊下を進み居間‥‥いや、
今は20数帖のワンルームと化した部屋のドアを開ける。
一人暮らしを始めた頃はちゃんと自分の部屋とLDKを使い分けていたのだが、そ
れが不経済だと気付くのにそう時間は掛からなかった。
家族団欒等に必要と思われるソファやガラステーブルを自分の部屋に移し、ベッド
を持ってきて、寝起きするようにしてしまった。
闇の中でポットのランプ、ビデオのタイマー時計が浮かび上がり彼女を迎える。
そして目に入ったのが、明滅を繰り返す電話のランプ。
一瞬嫌な考えが頭を過ぎったが、すぐに打ち消す。3日前に元気な声を聞いたばか
りだ。
『一件デス』
無機質な電子の声が暗闇に響く。
ピー
『もしもし安田です。バイトお疲れさまでした。‥‥えーと、放課後に決まった事を
報告しておきますね。』
ふぅっ と息をつく。最初に振り払ったのは、妹の容態の急変を告げる電話を想像
したからだ。
「そう言えば電話番号教えたんだっけ‥‥。」
クラス内の緊急連絡網を見れば電話番号など書いてあるのだが、少なくともこの電
話は自分が電話番号を教えたから掛けてきたのだろう。
明らかに愛衣は愛美に対し、領域を開放していた。
それから約10分‥‥集合場所と時間、見学場所、果てはおやつはいくらまでで、
バナナはおやつに入らない、なんて事まで報告していた。もっとも、最後のおやつ云
々は男子生徒の冗談だったらしいが‥‥
「留守番電話にそんな事まで入れなくていいよ。」
そう言いつつ、自分が留守番電話を相手に独り言を言っているのだと云うことに気
付き思わず苦笑する。
『‥‥っと、以上です。別に明日でも良かったんですけど、折角教えて頂いた電話番
号なので掛けてみました。でもまだ帰ってないんですね。‥‥それじゃ、お休みな
さい。また、明日学校で。』
ピー 『10時12分デス。』
最後に合成音が電話が切れた時間を読み上げる。愛美が喋っていた時間を考えると、
どうやら10時かっきり掛けてきたようだ。
「律儀な娘‥‥」
が、その愛衣にしても10分間電話の前で座り込んで居たのだから、人のことは言
えない。
「ん〜〜っ!」
大きく伸びをして立ち上がり、電気を点ける。暗い部屋の窓からから夜景を眺める
のも良いが、今の電話の後ではあまりに似合わない気がした。
ふと落とした視線に電話帳の間に挟まった紙が目に止まる。
『平成2年度 八十八学園1年C組 緊急連絡網』
何気にそれを取り出し、名前を探す。
あった‥‥
受話器を上げ、そこで手が止めた。ほんの一瞬考え、受話器をフックに戻す。
「‥‥らしくないな。」
たしかに彼女らしくなかった。少なくとも高校に入ってから半年、同級生に電話な
ど掛けた事は無い。いや、掛けようとした事すらなかった筈だ。
彼女の中で何かが変わり始めていた。
妹そっくりな女の子、その兄代わりの男の子、そしてお節介な同級生。彼らが愛衣
の今日を変えた。
昨日と違う今日、それは今日と違う明日が来る事を彼女に感じさせた。
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