紳士服はアオイで・その後
仕事熱心な俺の専属スタイリスト
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「やべー、絶対遅れるっ」 歩き慣れた道を必死に走りながら、俺、一之瀬新は待ち合わせ場所へと急いでいた。 社会人になって早2ヶ月。そろそろ新しい生活にも慣れてきた俺を、行きつけ(?)のスーツ屋の店員さんである滝澤さんが誘ってくれたのである。 「息抜きに海へ行かないか?」 ドライブしに行こうよ、と言って微笑んだ彼の顔は、未だに目に焼き付いている。 滝澤秀明さん。27歳。俺の家の近所にある紳士服『アオイ』で副店長として働いている彼は、就職が決まってスーツを買いに行ったときからずっと、俺に似合うスーツを選んでくれている良きアドバイザーだ。 アドバイス以外にもいろいろされちゃったりしてるんだけど……って、そんなことはどうでもいいんだけどっ。 「わっ、滝澤さんの車がある!」 道を挟んで見えた待ち合わせ場所、『アオイ』の駐車場に、滝澤さんの愛車のセルシオが止まっているのを確認して、俺の歩調はさらにスピードアップした。 「滝澤さん!!」 「ああ、新。おはよう」 「すみません、遅くなっちゃって」 「私も今来たところだよ。気にしないでくれ」 いつもの爽やかな笑顔を向けられて、思わず赤面する俺。ホント、滝澤さんの美貌は見慣れるってことがない。 「じゃあ行こうか」 「はい!」 勢い込んで返事をした俺に、助手席のドアを開けて俺を乗せてくれる滝澤さん。大人の男って感じで、すごくかっこいい……。 初めて乗る滝澤さんの車の中は、滝澤さんにぴったりの爽やかな香りがした。いつも彼がつけている香水よりも少しだけ軽めの匂い。車のための芳香剤って匂いでもないし、これはなんの匂いなんだろう。 「予定通り海でいいかな」 車内をきょろきょろと観察しているあいだに運転席に座った滝澤さんは、エンジンをかけてサングラスをかけ、俺に聞いてきた。 「あっ、はい」 いつも優し気な笑みを浮かべている目が隠れて、ワイルドな雰囲気になった滝澤さんに、俺の声は緊張で固まった。 そういえば、滝澤さんのスーツ以外の姿を見るのは初めてだ。いつも会うのはお互いの仕事帰りだったり、『アオイ』の店内だったから。 (なんか……どきどきするっ) まるで知らない人と一緒にいるみたいな──俺、人見知り激しいから。 「どうしたの?」 黙りこくった俺に、滝澤さんが笑いを帯びた声をかけてきた。 「えっ?」 「今日はやけに静かだね。もしかして、車に酔っちゃう方?」 「いっいえ! そんなことは、ない、です」 それに滝澤さんの運転はスムーズで、車酔いのひどい人でもたぶん酔わないですむだろう。こんなに車の運転がうまい人、俺は初めてかもしれない。 「会社の方はどう? 順調?」 思いっきり黙ってしまった俺を気づかうように、滝澤さんは柔らかい声で話しかけてくる。 「あ、はい。最近やっと慣れてきたって感じで」 「上司とか先輩で嫌な人はいない? いつも君を叱ってくるような、さ」 「そうですね。みんな厳しいけど……でも、イヤミを言ったりする人はいないし。俺、一流企業ってもっとぴりぴりした空気が漂ってると思ってたけど、全然そんなことなくて、仕事しやすい環境でよかったです。上司も先輩もいい人ばっかりだし」 これは嘘でも冗談でもなんでもなくて、俺の会社は本当に人間関係に恵まれてると思う。 俺と同期で就職した奴らの中には、ストレスが原因で辞めた奴がすでに何人かいるって話だし、それを聞くと俺はつくづくツイてたって思うよ。仕事の方も、今は先輩たちの営業サポートがほとんどだから、胃が痛くなるようなことはほどんどないし。 「今は仕事するのが楽しいです。あ、でも、ときどき辞めたいって思うこともありますけどね」 「何か失敗したときとか?」 「ええ、そうです。滝澤さんはそんなこと……なかったですか?」 聞いてから、バカなことを聞いたかなと後悔した。滝澤さんほどの人だったら、なんだって問題なくこなしていくだろうから。 だけど、 「あったね、昔は」 何かを思い出してるような、過去を振り返るような感じで言われたから、意外だなって思うのと同時に滝澤さんでもそんなときがあったんだとわかってなぜかほっとした。 だって完璧すぎる人って、俺とは釣り合わないような気がするからさ。あー、滝澤さんとは見た目から釣り合ってない気がするけど……。 「滝澤さんは、ずっとアオイに勤めてるんですか?」 「ああ。大学卒業と同時に入社したから、今年で6年目かな」 「あの、大学はどちらを……」 「K大だよ」 って、超一流大学じゃん!! (やっぱり頭もいいんだ……) きっとみんなの憧れの的だったんだろう。モテたんだろうな、女にも……男にも。 「昔から紳士服関係の仕事に就きたくてね。入社した当時はマーケティング部に配属を希望して、そこで頑張っていたんだけれど、何か物足りなくてね。実際にお客さまの顔を見て仕事をしたくて、店鋪担当になったんだ」 「そうなんですか……」 「店鋪担当になってよかったと思ってるよ。やりがいがあるし、思わぬ出会いがあるからね。新との出会いのように」 「えっ!?」 深みのある声でそう言われ、反射的に運転席を見てしまう俺。サングラスのせいで目は見えなかったけど、滝澤さんの口元は色っぽく歪められていた。 思わずその口元に見とれてはっと正気に戻った俺は、露骨に顔を背けてしまう。 (あ……危ない危ない) 滝澤さんの笑顔はクセモノだ。じっと見ているとそのまま魂を吸い込まれてしまうんじゃないかって気がする。いや、マジで。 今までに何度か彼の笑顔に見とれて、ここじゃ言えないようなことにまで及んでしまったことがあるし……あくまで、言えないけどなっ。 赤くなった顔を見られないようにずっと窓の外を見てたけど、小さく笑う声がして、俺の考えてることはバレてるんだとさらに顔が熱くなった。 「このあいだ選んだスーツの調子はどう?」 俺の緊張がひどくなったことに気づいたらしい滝澤さんは、すぐに話題を変えてくれる。こういう気配りみたいなものも、滝澤さんはすごくうまいんだ。 「あ、すごくいいです。動きやすいし、厚すぎたり薄すぎたりしないでちょうどいいし」 「あれはうちの自信作だからね。暖かい場所では体温を外に逃がし、反対に肌寒い場所では熱を逃がさない。生地にちょっとした工夫があるんだ」 「どんな工夫ですか?」 「それは内緒。企業秘密ってやつかな」 人指し指を口元にあて、しーっと小さく口を尖らせて笑う。どんなポーズも決まってしまう人だ。 「もう少し暑くなってきたら、薄手の清涼スーツを用意するべきかもしれないね。まだ一枚も持っていないんだろう?」 「はい。また買いに行きますんで、そのときはよろしくお願いします」 「任せてくれていいよ。君に似合うスーツは、私が自信を持って探しておくから」 頼もしい言葉に、俺は自然と笑っていた。 滝澤さんが選んでくれたスーツは、成人式のときのを抜かすと現在4着ある。新社会人の平均で多いのか少ないのかわからないけど、滝澤さんがスーツに合わせて選んでくれたYシャツやネクタイのおかげで、実際持っている以上の数に見えていることだろう。 「俺、社内の人たちに、スーツを着こなせてるって言われてるんですよ」 「そうなのかい?」 「シャツやネクタイがちゃんとスーツに合ってて、ちょうどよく似合ってるって。だから俺、自慢しちゃいましたよ。『俺には専属のスタイリストがいるんだ』って」 そのときのことを思い出し、嬉しさのあまり口元が緩む。 あれは入社して2週間くらい経ってからのことだと思う。いつも一緒に外回りに行っている先輩が、突然俺の全身を見回して言ったんだ。 『おまえ、いつもそつなくスーツ着こなしてるよな』 その場にいたみんなもそれを聞いて口々にそうだよなーと言ってくれて、俺は滝澤さんのことを話したくて仕方なくなってしまった。 『いつも行っているスーツ屋にすごく頼りになる店員さんがいるんですよ。彼に任せれば、自分にぴったりのスーツを見つけてくれると思いますよ』 自分のことじゃないのに、あんなに誇らしい気分になったのは初めてだ。 「みんなに、滝澤さんが働いている店を紹介してくれって言われましたけど、それは断っておきました。これ以上滝澤さんが忙しくなって、俺のスーツを選んでくれる時間がなくなったら困るから」 すごく自分勝手なことを言ってる自覚はあったけど、こう言っても滝澤さんは気を悪くしないって俺にはわかってた。むしろ、喜んでくれるって。 「滝澤さんは、俺だけのスタイリストだから……」 いつもだったら恥ずかしくてとても口にできないようなセリフを言えるのは、ドライブっていうシチュエーションのせいなんだろうか。 滝澤さんのほうに視線を向けると、サングラスを外した滝澤さんの笑顔がそこにはあった。 「嬉しいよ」 ちょうど赤信号で止まった車は、前に大型トラックがいるおかげでほとんど人には見えない状態だ。 俺は、自分が何かを期待して滝澤さんを見つめていることに気づいていた。だけどその視線を外すことはできなくて。 ゆっくりと、滝澤さんの顔が俺に近づいてくる。俺は少しだけ首を伸ばし、滝澤さんのほうに顔を向けた。 「ん……」 重なった唇はとても暖かくて、俺の胸はじんと痺れた。 滝澤さんの唇が触れるその感触が、俺はたまらなく好きなのかもしれない。 「…………」 お互いの唇が離れたあと、俺はすぐに俯いてしまう。目の前の綺麗な人とキスしたなんて考えただけで、ヤバいくらい体温が上がってしまうから。 「困ったな……」 俺の首筋に手を伸ばした滝澤さんは、やんわりと揉むように手を動かしながらため息をついた。 「え……?」 滝澤さんの手の動きを夢うつつの状態で追いながら、反射的に問い返す俺。滝澤さんの手は、いつもすごくHだ……。 「海まで我慢しようと思っていたのに、どうやら無理らしい」 「なに、が……?」 「新のことを今すぐ可愛がってあげたくなってしまったんだよ。こんなに可愛い新は貴重だからね」 信号が青に変わってゆっくりと走り出した車は、このまま直進すればもう少しで高速道路に入るといったところで細い脇道へと進路を変更した。 「滝澤さん? どこへ行くんですか?」 「フィッティングルームだよ」 「え?」 「久しぶりに新の採寸をしなければね。夏用のスーツを作るのに必要だから」 って言ったって、『アオイ』に引き返すにはかなり来すぎてるし……。 「どこか他の店鋪のアオイに行くんですか?」 試着室だけ借りて──なんてできるのか知らないけど、滝澤さんだったらそれもできるのかもしれない。 だけど俺の予想はまるっきり的外れだったらしい。 「アオイじゃないよ」 「え? それじゃどこに……」 「ああ、あそこでいいだろう」 そう言って滝澤さんの運転する車が入って行ったのは、なんと高級ホテルの入り口で! 「たっ、滝澤さん!?」 予想外の展開に、俺の頭は一気にパニックを起こす。なんで、どうして、高級ホテル!? 「新の全身をくまなく採寸するんだから、広い部屋でなければね」 楽しそうに笑った滝澤さんはホテルの玄関に車を止めると、そこにいたホテルマンに「駐車場に入れておいてくれ」とあとを任せ、助手席側に周りこんでドアを開けた。 「さあ、降りて」 手を引かれ、促されるままに車を降りる俺。これっていったい……どういうこと? 「滝澤さん? 海は?」 思わずとんちんかんなことを聞く俺。混乱すると、何が問題なのか見極めることもできなくなるんだな。 「また次の機会にしよう。海辺で可愛がってあげるのも愉しみだったんだけどね」 フロントで手早く部屋の手配を済ませると、部屋までの案内を断ってさっさとエレベーターに乗り込んでしまう滝沢さん。俺たち以外に乗客がいないエレベーターは、一気に目的の場所まで上っていく。 (これって、やっぱり……そういうこと?) もしかして俺、滝沢さんのこと誘ってたとか? そんなつもりは全然なかったんだけどっ!(キスはしてもらいたかったけど……) そりゃ滝沢さんに全身触られるのは気持ちいいから嫌いじゃないけど……だけど、こ、心の準備が!! 「滝沢さんっ、あの……」 腰に回された手がゆっくりと動くのを感じながら、焦った声を上げる。だけど俺の焦りなんて意に介せずって感じで、滝沢さんは極上の笑みを俺に向けてきた。 「今日は丸一日かけて採寸してあげるから……愉しみにしておいで」 大好きな顔にそんなことを言われて、断る奴がいるなら会ってみたい! 「は、はい……。よろしく、お願いします」 俺の口は、滝沢さんの採寸を、嬉々として受け入れる返事をしていたんだった。 (だって滝沢さんって、すごくいい仕事してくれるんだもんっ) そして俺は働く滝沢さんが好きなんだから、拒めるわけがないんだよな! 言い訳じみた言葉を胸の中で繰り返しつつ、それでも部屋に入って滝沢さんの採寸が始まれば、俺の思考は滝沢さんのことで埋め尽くされてしまうのだった。──働く姿も魅力的な、俺がこの世で一番好きな人のことで。 そしてその日、俺は滝沢さんの宣言どおり全身をくまなく採寸されて。 「いい仕事をした」と満足げな滝沢さんの傍らで、『専属のスタイリストがいるってホント幸せだな……』と心の中で呟いていたんだった。 |
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