「おはようございまーす! 中村でーす!」
朝食を済ませ今日の仕事を確認していると、いつものように玄関のドアが勢いよく開けられてそんな声が聞こえた。
「上がりますねー!」
俺の了解は必要とせず、勝手に上がってくるのもいつものことだ。
居間でコーヒーを飲んでいた俺は見ていた書類から目を放し、ソファの横に立てかけておいた杖を床に置いた。
俺が仕事部屋に向かうより先にこの家に来るのは、あいつしかいない。
「はよっす! 起きてましたか、遥さん?」
大型のクーラーボックスほどあるケースを肩に担いで満面の笑みを見せたのは、俺の幼馴染みでもある中村洋介だった。
「見ればわかるだろう。毎朝毎朝……どうしてお前はそんなに元気なんだ?」
「元気だけが取り得っすから! あ、俺もコーヒー頂いていいっすか?」
またしても俺の返事を待たずにいそいそと台所へ向かう大きな身体を苦笑しながら見つめつつ、俺は無意識に右足を擦っていた。
「あー! 遥さん、今日も朝食パンだったんですか!? ダメですよ、朝はご飯じゃないと! 力出ないっすよ!?」
流しに置きっぱなしだった皿を見たのか、洋介はまるで一人暮らしの息子を心配する母親のようなことを言いながら居間に戻ってくる。もちろん手にはいつの間にか愛用するようになっていたコーヒーカップを持って。
「いいんだよ。俺の腹にはパンが合ってるんだ」
「まーたそんな理屈にならないようなことを……。歯科技工士だって身体が資本なんですからね! ちゃんと朝からモリモリ食べなくちゃダメですよ!」
「はいはい……」
毎朝のように聞く洋介の小言に慣れてしまっている俺は、書類に目を戻して投げやりに返事をする。そんな俺の態度に、おどけた様子で洋介が肩を竦めたのが目の端に移った。
こんなやり取りも、今では日常の一コマのようなものになっている。だから洋介が、口で言うほどには俺の食生活を変えさせようとしていないのも俺はわかっている。
「今日はどちらに届けたらいいんすか?」
「橋詰歯科医院だ。とりあえず急ぎの分だけ出来上がったから、残りは……今週中になんとか仕上げると伝えておいてくれ」
「わかりました。──じゃあ、これが昨日頼まれた分です。足りますかね?」
洋介がこの家に来る一番の理由──俺の仕事に必要不可欠な材料の入ったケースを開けると、ソファに座っていた俺に中身を確認させようとケースを近づけてくる。
俺はケースの中を覗くつもりで屈もうとして──体勢的に無理を感じてソファに背を戻した。
曲がらない右足が邪魔をして、身を乗り出してケースを覗き込むことができなかったのだ。
「頼んだ量を持ってきてくれていれば足りるはずだ」
「じゃあ大丈夫っす。少し増量して持ってきたんで」
洋介は俺の動きを見て見ないふりで流すと、完成した製品が入った別のケースを肩に担いで立ち上がった。
「お昼はちゃんと食べてくださいね? 遥さん、平気でメシ抜くから」
「いいから、早く届けてくれ」
「はーい。それじゃ、今日も一日張り切ってまいりましょう! 行ってきま〜っす!!」
底無しのパワーを全身から漲らせて、はち切れんばかりの笑みと共に洋介は部屋から出て行く。
「おじゃましましたー!」
少しだけ遠ざかった声はそう言うと、入ってきたときとは正反対に音を立てないようにドアを閉めていった。
嵐が去ったあとの部屋の中は静かすぎて、俺は使い慣れた杖を手にとって仕事部屋へと向かった。
俺の名は峰村遥。年は28。職業は歯科技工士だ。
歯科技工士というものを知らない人もいると思うが、要は歯医者から依頼された入れ歯や差し歯を製作するのが主な仕事だ。道具さえ揃っていれば家でもできる仕事で(多くの歯科技工士は自宅で仕事をしているが)、俺のように自由に動くことがままならない人間には適した職業であるといえるだろう。
俺は両親が年老いてからの子供だったため、成人前に父が他界し、3年前には母も逝った。子供は俺一人だったし、俺にはこの家と父の仕事道具が残された。俺の父も歯科技工士をしていたのだ。
今俺が使っている道具はすべて父譲りのものだ。長年父が使っていた道具は、俺にとってどれも使いやすいものばかりである。もしかしたらそれは、子供の頃から父が使っているところを見てきたからかもしれない。
足が不自由でも仕事はそれなりに選ぶことができたが、それでも歯科技工士になろうと決めたのは、父の影響が多大にあるような気がする。俺は父を尊敬してしていたから。
いつも父が忙しそうに仕事をしている様子を見るのが好きだったし、いろいろな道具を操っている様子は俺の目に眩しいくらいに映っていた気がする。
父の愛着していた道具は、今や俺にとっても大事なものになっていた。
そして、そんな俺たち歯科技工士にとって道具と同じくらい欠かせないのが『材料屋』だ。
彼らは俺たちの注文に応じて、入れ歯や差し歯の材料を必要な分だけ家に届けてくれる。通常は注文した日の次の日あたりに持ってきてくれるが、急ぎの場合はその日のうちに持ってきてくれることもある(店によって違うんだろうけど、俺が利用しているところはそうしてくれている)。
俺が世話になっているのは、中村材料店。生前父も利用していたところで、付き合いもだいぶ長くなる。
俺の家からわりと近い場所にあり、現在は洋介が父親の跡を継いで店を切り盛りしている。
俺の父と洋介の父親は昔から仲が良く、4つ下の洋介とは年が近かったこともあってよく一緒に遊んだものだった。その延長からか、洋介は高校生になってからも、用がなくても俺の家に来ていた。
──とはいっても、お互い仕事をするようになってからは、仕事の関係で毎日来るようになっているのだが。
「なんだこれ……」
洋介が置いていったケースを仕事部屋まで運び、中身を確かめようと早速開けてみると、アルミホイルのようなもので包まれたこぶし大ほどの丸いものが3つ入っていた。さっき洋介がケースを開いたときは気づかなかった。
嗅ぎなれない匂いが鼻をつき、不審に思って1つを手に取ると、それはなぜか温かくて。
「──おにぎりか?」
ようやく思い当たるものが頭に浮かび、おもむろにホイルを開いてみると、それはやはりおにぎりだった。
「なんでこんなものが……?」
たぶん洋介のお袋さんが作ったのだろうそれを3つともケースから出すと、ケースの側面に紙切れが張りついているのに気づく。
おにぎりの温もりが移ったその紙には、
『お昼もちゃんと食べること!』
汚い字でそう書かれていて、俺は思わず笑いを洩らしていた。
優しくて気遣い屋の洋介。面倒くさがりの俺のことをよくわかっていて、こんなふうにときどき差し入れをしてくれる。
「気ぃ遣うことなんかないのにな……」
温かいおにぎりを手にしたまま、俺は自分の右足に視線を落とした。
俺の右足は動かない。膝と足首がほとんど曲がらず、かといって右足で立とうとすると踏ん張ることができずに崩れ落ちてしまうので、杖を使わなければ立ち上がることも歩くこともままならない。
気候によっては痺れや痙攣を起こしたりもするため、一月以上外に出られないときもある(出ようと思えば出られないこともないが、どうしてもという用事がなければ無理には出ない。もともと出無精なのだ)。
運動といえば軽くストレッチするのが限度。不安定な右足では車の運転もできないため、移動はもっぱらタクシーを利用している(洋介が暇なときは乗せてもらっているが)。
食料の買い出しすら俺の身体には負担が大きく、一人暮らしになってからは、頼んだものを家まで届けてもらうことのできるサービスが欠かせなくなってしまっていた。
それに杖を使わずに立ち続けることも俺にとってはかなりの重労働で、米を研いだり包丁を使ったりガス台の前に立ったりするのがおっくうで、気づけばパンばかりを食べるようになっていた。
洗濯は全自動の洗濯機と乾燥機を使うから案外楽なのだが、掃除ばかりは手を抜くこともできずにいつも四苦八苦している。
仕事部屋は清潔に保たねばならないため、他の部屋がどんなに汚れていても仕事部屋の掃除は常に最優先にしている。仕事が忙しいときは仕事部屋の掃除しかできないので他の空間は殺人的汚さになってしまうのが悩みの種だ。
母が死んで一人になってからは、家の中のことをすべて自分でやらなければならなくなってしまい、今までどれだけ他人に頼って生活してきたのか嫌というほど思い知らされてしまった。
そして今も……こうして洋介の優しさに甘えながら、俺は生活している。
この足は生まれつきのものではなく、18のときに遭遇した事故のためにこうなった。
俺が高校3年で、洋介が中学2年のとき。学校帰りに偶然会った俺たちが川沿いを歩いていたとき、それは起きた。
猛スピードで暴走してきた車から洋介を助けようとして──洋介の身体を突き飛ばした反動で俺の身体が車の前に投げ出され……。
──気づいたときには、俺の右足は動かなくなっていた。痛みだけは感じることができるただの『棒』となってしまっていたのだ。
いろいろな検査の結果、『もう治らない』そう判断されて。けれど医者の言葉にショックを受けたのは、当の本人である俺よりも周囲の人間だった。
特に洋介は、俺の足が治らないと知ったその日から、俺のために自分の時間を削るようになった。
熱心に打ち込んでいたサッカー部をやめて、友達の誘いも断るようになって……何よりも俺の用事を優先して考えるようになってしまったのだ。
怪我を負ったのはあいつのせいではないのに……車を避け切れなかった俺の自己責任なのに、あいつは今でも俺に罪の意識を感じている。──俺の動かない右足に。
洋介は俺の家に材料を届けに来るついでに、完成した製品を歯医者に届けてくれるようになった。もちろんそれを言い出したのは洋介だ。
本来歯科技工士は、完成した製品を直接歯医者へ持っていき次の仕事を引き受けてくる。だが俺の場合、その行程をすべて洋介に任せてしまっているため、歯医者との綿密な打ち合わせは専ら電話とファックスで行っている。
顔を突き合わせて話をするのが当たり前で、そのことについて俺に不快感を持っている歯科医もいると思う。が、俺に直接そう言ってくる人がいないのは、洋介が彼らの不信感を募らせない程度に口添えをしてくれているからだろう。
本当ならば、材料屋は週に2、3回程度しか技工士の家には来ないのだが、俺は洋介を毎日のように家に通わせていて……こんなにも洋介に頼って生活している自分自身がときどき情けなくもなる。
だけど俺はあいつの助けを拒めない。──あいつが俺の生活の一部みたいに、必要不可欠なものになりつつあるから。
俺は、自分のためだけにあいつの優しさを利用しているのかもしれない。
あいつがいなくなって困るのは……確実に俺の方なのだ。
|