兄貴と市郎・悩めるバレンタイン



 その日いつものように自分のデスクで仕事していると、午後からの出勤だった右京が俺の隣の椅子(奴の席なんだけど)に座りながら開口一番にこんなことを言った。
「よぉ市郎。ちゃんとチョコの準備はしてあるか?」
「あ?」
 まるで意味のわからない言葉に、思わず手を止めて顔を上げてしまう。ったく、早く書類を仕上げて兄貴のところに持って行きたかったのに――急になに言ってんだ、こいつ。
「チョコ? なんだよそれ?」
「――はあ?」
「『はあ?』じゃねーよ。聞いてきたのはそっちだろ?」
 わけのわからない問いに続き意味不明な反応をされて、苛立って声を荒げながら顔を上げる。すると右京はぽかんと口を開けて俺を凝視していて、その間抜けヅラにますます腹が立った。
 だけど、返ってきた右京の言葉で怒りはすぐに吹き飛んだ。
「今日バレンタインだろ?」
「へ? ……え?」
「その様子だと、すっかり忘れてたみたいだな」
「……マジかよっ!?」
 思わずデカい声を出したら、事務所にいる連中が揃って俺のほうを振り返る。遠藤さんまで驚いたような顔をしていて、慌てて「すんません、なんでもないです」と頭を下げることになった。
「おいおい、落ち着けって」
「落ち着け? これが落ち着いてられるかっ」
「もしかして、若頭にチョコ用意してないのか?」
「ねぇよっ」
 最近忙しくてテレビは見てなかったし、買い物も若い奴らに頼んでたからバレンタインが近いなんて全然知らなかった。若頭は甘いものはあまり食べないから、チョコじゃなくて違うものを用意しようと思ってたのに……まさか何も用意しないまま当日を迎えることになるなんて!
「そんなに落ち込むなって。仕事抜けて買いに行ってくりゃいいだろ?」
「…………これを出したら、兄貴と一緒に親父のところへ行くことになってる。そのまま辰巳組と会食だし」
「そりゃームリっぽいな」
 あっけらかんとした声で言われて、殺意にも似た感情が湧き上がってくる。こいつ……人事だと思って軽く言いやがって!
「ま、今日がバレンタインだって思い出しただけ良かったと思えよ。こうなったら『私を食べて♪』でいいじゃねーか」
「ふっ、ふざけんな! そんなアホな真似できるかっ」
「デカい声出すなって」
 おかしなこと言うお前のせいだろ!? そう言ってやりたかったけど、怒りに任せて口を開いたらまたデカい声になりそうだったからやめた。
 こいつとムダな言い合いをしたって仕方ない。バレンタインを忘れてた自分が悪い。……そうだ、俺が悪かったんだ。
(兄貴たちが会食してる間に買いに行くとか――いや、俺しかついていかないのに、兄貴の傍を離れるわけにはいかないよな。……やっぱりムリか……)
 日頃の感謝の気持ちを伝えるには絶好の機会だったのに。どうして俺はこんなに大事な日を忘れてたんだろう。昔から兄貴に言われてるけど、大事なときほど『詰めが甘い』んだよな……。
「おい、手ぇ止まってるぞ。そんなに悩むなら、やっぱり『私を食べて♪』作戦で――」
「うるせぇ黙ってろっ」
 人が懸命に考えてるってのに、右京の態度は相変わらず俺をからかうようなもので。自分が同じ立場になったら、絶対こんなふうに余裕じゃいられないはずなのに!
 ……いや、こいつのことだから、大して変わらないかもしれないけどさ。
「俺はチョコじゃなくてお前でいいからって言ったけどなー」
「は? なんのことだよ?」
 頭の中ではどうするかを考えたまま、兄貴に迷惑をかけるわけにはいかないと仕事を再開して数分。隣からぼそっと声が聞こえてきて、無視しようかとも思ったけど反射的に聞き返してしまう。
 右京も一応仕事を始めていて、だけど手は動かしたまま驚くようなことを言いやがった。
「チョコやらプレゼントなんざ、店のお姉ちゃんたちから山ほどもらうからな。『他の誰にも真似できないくらい、しっかりご奉仕してくれよ』って言っておいた」
「って……お前、付き合ってる人いたのかっ?」
「さぁな」
「けど、他の誰にもって――」
「お前は特別だって思わせるには有効な言葉だろ?」
「……サイテーだなお前……」
 ナンパな性格のヤツらしいといえばらしい返事にげんなりしてしまう。だけど、今まで誰かだけを贔屓して付き合うなんてことがなかった奴だから、その相手には多少本気なのかもしれない。
 まぁそんなことはどうでもいいけど……去年までのことを考えると、兄貴のところにもたくさんのチョコやプレゼントが届くはずだ。いや、すでに届いているのかもしれない。
(右京が言ってることが本当だとしたら、兄貴も同じように思っているのかも……)
 チョコレートやプレゼントなんかより、他の人たちとは違った形で感謝の気持ちを伝えたほうが嬉しいって、兄貴も思っているんだろうか? 俺が頑張って兄貴を楽しませることができれば、兄貴に喜んでもらえるんだろうか?
「…………とりあえず仕事だ、仕事!」
 右京の言葉に心が揺り動かされかけたところで正気に返り、今はそれどころではないと書類を完成させることに集中した。


 それから約1時間後。俺はようやく仕上がった書類を手に、兄貴がいる事務所の奥の別室に向かった。
 軽くノックすると中から低い声が返ってきて、「失礼します」と断ってから中に入る。部屋に一人でいた兄貴はデスクに向かって仕事をしていて、凛々しい姿に心臓が跳ね上がる。
 いつまで経っても兄貴のカッコ良さは『見慣れる』ってことがない。いつだって俺をドキドキさせて、(この人のことが大好きだ)って自覚させられちまうんだ。
「遅くなってすみませんでした。先月の新規参入店舗と撤退店舗の一覧です」
「ああ。――――いいだろう、あとで遠藤に渡しておけ」
 俺の作った書類をすぐに確認してくれた兄貴は、それを再び俺の手に返してくると椅子から立ち上がった。そうだ、これから親父の家に行かなきゃいけないんだった。
「すぐに出られるか?」
「はい、大丈夫です。 トシに車回させますんで、少しお待ちください」
 ハンガーにかけてあった上着を手に兄貴の背後に回り、俺よりずっと逞しい背中に着せ掛ける。そのときになって、唐突に右京とした話を思い出した。
「――あ!」
「どうかしたか?」
「い、いえっ! あの、少々お待ちください!」
 変な声を上げたのを聞かれてしまい、不審な顔をしていた兄貴にあいまいな返事をして慌てて部屋を飛び出してしまう。そのまま遠藤さんに書類を渡しに行き、トシに車を動かすよう指示して自分の席に戻って――改めてどうしようか考えた。
(どうする? どう考えてもこれから買いに行くのはムリだ。絶対ムリだ)
(でも、せっかくのバレンタインなんだから、何もしないまま終わらせたくない!)
(てことは…………やっぱり…………)
「市郎? どうかしたか?」
 出かける準備をしつつ必死に思考をめぐらせていると、右京が声をかけてきた。すぐにでも事務所を出なければいけないんだからこいつと話してる時間はない。だけど……
「……ちょっと聞いていいか」
「なんだよ?」
「お前は特別な子に、何をされたら嬉しいと思うんだよ?」
 これ以上1人で悩んでいてもいい案は浮かびそうになく、恥を忍んで単刀直入に聞いてみた。
 右京は最初はなんのことだかわからなかったようだが、それがさっきの会話のことについてだと気づいたらしくニヤリと笑いながら答えてくれる。
「いつもより数倍エロい顔で、ねっとりしっぽりずっぽずぽのフェラでもしてやりゃーいいんじゃね?」
「おま……っ! 変態みてぇなこと言うな!」
「変態? 男だったら誰でも喜ぶことだろーが。お前だって、若頭にしてもらって喜んでんだろ?」
「うっっ!」
「ほらな。いつもよりだっくだくにツユ垂れ流して頑張ればいいんだって」
「〜〜〜〜!」
 どうしてこいつは羞恥心もなくエロいことが言えるんだ。聞いてるほうが恥ずかしいぜ!
 何か言い返してやりたかったけど、こういう話題で右京に口で勝つのは難しく唇を震わせていると突然俺の携帯が鳴った。
「――はいっ?」
『兄貴っすか? 車、正面に回しましたけど……』
「すぐ行くから待ってろ!」
『あっ、はいっ』
 俺の反応が予想外のものだったんだろう、トシはすぐに電話を切ってしまう。そこで激しく取り乱している自分に気づき、気分を落ち着かせるために大きく深呼吸した。
「……行って来る」
「おお。今夜は足腰ガッタガタになるまで頑張れよー」
 最後のセリフは聞こえなかったフリで聞き流し、足早に若頭の元へ向かう。
『ずっぽずぽのフェラで』『だっくだくにツユ垂れ流して』――そんなことで兄貴が喜ぶって、あいつは本気で思ってるのか? ていうか、感謝の気持ちを伝えたいのに本当にそんなことで伝わるんだろうか?
(それで充分って言うなら……それくらい俺だって頑張ればできなくないだろうし……あの兄貴を満足させられるかはわかんねぇけど……)
 今まで俺が兄貴にしてきたアレやコレが頭の中をぐるぐると回る。兄貴のテクニックには当然及ばないけど、それでも少しは成長してるはずだ。エロモード全開でやればなんとかなるかも――って、右京に言われた通りのことをするつもりか、俺!?
「市郎? どうかしたか?」
「えっ、わっ!!」
 部屋のドアをノックしようとしたら目の前に兄貴がいて(迎えに行くのが遅かったし、何かあったと思ったのかもしれない)、またしてもアホっぽい声を上げてしまった。
(ヤベェ。兄貴の顔まともに見れねぇ!)
 あんな話をして、さらにエロいことばっか考えてたせいで顔がどんどん熱くなってくる。こんな顔してたら兄貴に心配かけちまう。わかってるけど、すぐに冷静になんかなれそうにねぇよ!
(落ち着け俺! そうだ、どうするかさっさと決めちまえばいいんだ! どうする、ヤんのか? ヤッちまうのか!?)
「市郎?」
「はいっ、頑張りますっっ!!」
 脳ミソが沸騰しそうなほど考えているところに声を掛けられ、俺は兄貴に向かって決意を表明するような返事をしていた。
「……何をだ」
「あ…………」
 意味不明な態度をとりまくってる俺を、兄貴はいつものクールな表情で見下ろしていて。俺は、エロいことを考えてあたふたしてる自分を心底バカだなって思ったんだった。


 ……その夜、兄貴が喜んでくれたかどうかは…………俺が翌日出勤できなかったのを踏まえて想像してくれ。


男ってこんなものなんですよきっと(笑)


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