桜下の束縛
おうげのそくばく



「どうした如月。こんな時間に」
 湯浴みを済ませてから急いで来たのか、まだ少し雫の残る髪をなびかせて、綾瀬は如月が待つ桜の丘までやってきた。
 すっかり花を落とした桜の大木は、日本のこれからを示すかのように芽吹きはじめている。
「……お呼び立てして申し訳ありません、綾瀬様」
 如月は綾瀬に背を向け、桜の幹に手をついたまま静かに言うと、それきりまた黙り込む。
「それはいいが……どうした、何かあったのか?」
 いつもとは少し様子の違う如月に、綾瀬は歩を進めて近寄った。
 最近では見慣れた感のある如月の着流し姿に、自分にはない逞しさを見て、綾瀬は我知らず深く息をついていた。自分にもこれくらいの男らしさがあったなら……辿っていた人生はもっと違ったものになっていただろうに。
「…………」
「何か悩み事でもあるのか? 私でよければ話を聞くが……」
「……そうではありません」
 綾瀬の言葉に首を振り、如月はふいに綾瀬のほうへ振り返った。
 月明かりに反射した如月の目が一瞬、鋭く光る。それに反応して、綾瀬は歩みを止めた。
「如月……?」
 静寂を、綾瀬の心なしか不安げな声が破る。
 そのとき──突然、如月が動いた。
 素早い身のこなしで綾瀬までの距離を詰めると、綾瀬の白く細い腕を力任せに掴む。
「つっ……! なっ、よせ、如月!!」
 咄嗟のことに、思考が追いつかない。掴まれた腕の痛みにただ顔をしかめただけだった。
 綾瀬は腕を力強く振り、なんとか拘束を解こうともがく。だが綾瀬を捕らえた如月の手は、決して力を緩めようとはしなかった。
「どうしたんだ、如月!! 気でも狂ったのか!?」
 空いているほうの手を振り回し、如月の体に何度となくぶつける。明らかにいつもと様子の違う如月に、綾瀬はいいようのない恐怖感に襲われはじめていた。
「ええ、そうかもしれません」
 いつもよりも低く聞こえる声で、如月が呟く。
「あなたと出会ったあの日……あの満月の夜から、私の心は狂いはじめてしまったんだ!」
「やめっっ……!」
 掴んでいた綾瀬の腕をぐっと自分のほうに寄せ、細い体を力任せに抱く。ずっとこうしたかった、ずっとこの方をこの腕の中に囲いたかったのだと、己の中の欲望を強く感じた。
「はなっ…せ! きさらぎっっ!!」
「離しません。どんなに拒まれても……」
(離せるわけがない。こんなにも愛しい方をこの腕に抱いているのに!)
 急かされる。追い詰めて、自分のものにしてしまわなければという思いに、二度とはやってこないだろう好機を惜しむ気持ちに、如月は止まれなくなっていた。
「きさ……っっ!」
 自分の名を非難めいた声音で呼ばれるのが耐え切れず、その唇を唇で塞いでいた。間近に迫った綾瀬の瞳が、驚愕に大きく見開かれる。
 触れてしまえば歯止めはなくなったも同じだった。如月は綾瀬の身体を抱く腕にさらに力をこめ、彼を逃がしてしまわないようにさらに深く口づける。
 何事かを叫ぼうと口を開きかけたところへすかさず舌をねじこみ、逃げまどう舌を必死に捕らえる。柔らかい舌の感触に、さらに綾瀬の身体に溺れようとした。
 そのとき突然、如月の身体を必死に押し退けようとしていた腕から力が抜けた。綾瀬の喉がひゅうっと音をたて、ぜっぜっと息を乱しはじめる。
「──綾瀬様!?」
 力をなくし、崩れ落ちるように倒れこんだ身体を、地面につくまえに如月の腕が抱き上げる。膝を折って自分の腕の中に綾瀬を横たえると、綾瀬は苦しさのためか背を丸めた。
 最近ではあまり見ることのなかったその様子に一瞬狼狽え、すぐに喘息の徴候だと気づいた如月は、綾瀬の胸元を探り最新の呼吸誘発剤を取り出して綾瀬の口に当てがった。
「ゆっくり呼吸をしてください! ……そうです、ゆっくり……」
 少しずつ平静を取り戻していく身体に安堵を覚え、綾瀬の体調を気遣うことも忘れてしまった自分の自制心のなさを深く恥じた。
「申し訳ありませんでした……綾瀬様」
 しばらくは動くことも話すこともできずにいた綾瀬だったが、突然の不調にも慣れているため回復も早かった。自分の身体を抱き支えている如月の腕に手を伸ばし、微弱に握る。
「もう……大丈夫だ」
 それでもその顔色はすぐには元に戻らない。もともと白い肌が蒼白く見え、如月は謝罪の言葉を重ねずにはいられなかった。
「本当に……申し訳ありませんでした…………」
「もう、いいから……」
 それ以上言うな、と緩く首を振り目を閉じて、さらに何事かを言いたげな如月を黙らせる。
 先程までの自分達の争いが嘘のように、辺りは静寂に包まれた。
「……覚えていらっしゃいますか? 我々が初めて出会った日のことを」
 息の整いつつある綾瀬を見下ろしながら、如月は懐かしい日に思いを馳せぽつりと呟いた。
「そう、あれは……桜が満開に咲いている季節だった。私がふらりとこの場所へやってくると、桜の木の下に一人の青年が立っていて……月明かりの下で少しずつ散りはじめていた桜を仰いでいる姿は、まるで一枚の絵のようだった。
 あなたは私の気配に気づいていながら振り返らなかった。私もそれ以上動くことができなかった。……あなたの姿がとても美しくて、近づくことができなかったのだ」
 今でも目の裏に焼き付いている。──青年の頬に流れていた涙の跡さえも。
「やがてあなたは口を開いた。『なぜ美しいものは散り急ぐのでしょう。私たちにこんなにも大きな躍動感を感じさせてくれるのに……その姿を長く目に留めておいてはくれない』」
「────」
「『あなたも散り急ぐ桜なのですか?』と問われ、私はなんと答えればいいのかわからなかった。あなたが私に求めている言葉がなんなのかわからなくて……」
「……けれどおまえはこう言った。『いいえ、私は桜ではありません。美しく輝くこともできなければ潔く散ることもできぬ身。あなたを勇気づけることも適いません』と」
 その晩のことを思い出し、目の前の青年の言葉を頭の中で反芻した。
 月の明かりに照らされた、生きる力に満ち満ちた力強い目に、自分は強く惹かれたのではなかっただろうか。
「他になんと言っていいのかわからなかったのです。私には何一つ語る資格などなかったから……」
「だがおまえの言葉で、私は救われた気分になったのだ」
 自分を捕らえている力が緩んだことに気づき、手を動かして反対にその手を握る。びくっと震えた全身を、今度は自分が捕らえる番だとばかりに力を込めた。
「あのときの私は、兄の訃報を受け入れることができなくて……私の唯一の生きる道である舞を忘れてしまっていた。自分のように戦いから逃げているものには、彼等の最期はあまりに綺麗で──正直、生きるということがたまらなく辛いこととしか感じられなかった」
 幼い頃から身体の弱かった自分。そのせいか周りに一芸に秀でた人間に育て上げようと考慮され、一日の大半を費やして舞を舞うようになった。そしていつしか舞うことが生業となり、身体のことも相まって徴兵にも行かずに済んでしまったという自責の念が、今でも綾瀬の心に棘となって刺さっているのだ。
「そんな私に、おまえは逃げた自分というものを隠そうともしなかった。見ず知らずの私に本当のことを話して、非国民だと言われることも恐くはないと……眼差しがそう語っていた」
 戦場から逃げてきたのだと、あっけらかんとして言った如月。埃まみれの服や身体に、その言葉が嘘ではないのだとすぐにわかった。
「あなたにはすべて包み隠さず話したかったんです。あなたならきっとそのままの私を受け止めてくれると、そう思えたから……」
 美しい綾瀬。自分の目の見せる幻覚かと、にわかには信じられなかった。だが幻覚が自分の頬の汚れを拭ってなどくれないだろうと、とっさに手を伸ばして綾瀬の体温を確かめてしまったのだった。
 ──そのときから、この美しい人に自分は惹かれて止まなかったのだ……。
「あなたが私を拾ってくださったおかげで、私は毎日を平穏に過ごせるようになった」
 綾瀬の付き人として雇われることになり、なんの条件も出されずに綾瀬の家へ置いてもらえるようになってからかれこれ数年が経つ。この辺りの風習にも慣れ、第二の故郷と言ってもいいほど、如月はこの土地に愛着を持てるようになっていた。
 しかし今でも、自分の行いは許されるものではないのだという思いに胸を押しつぶしそうになるときがある。──周囲の声が聞こえてきたときなどは、特に。
 自分のことを噂する声が気にならないはずはなかった。周りは自分を快く受け入れているわけではないと、そんなことは最初からわかっていた。それでもこの土地でこれだけ長い間生活できたのは、綾瀬がここにいたからだ。
「綾瀬様、私は……あなたに救われたのです」
 一生口にするつもりなどなかった本音が、一度箍が外れてしまったせいかするりと口をついて出てしまう。
 本当の自分は、綾瀬に思われているほど強くも潔くもないのだと、弱い心が呻き声を上げた。
「どんなに周りに非難されても、虐げられても、あなたが私を勇気づけてくれたから……ここまで生きてこられた。少しでもあなたの役に立っているならば、自分はここで生きていてもいいと──」
 込み上げてくるもので上等な着物を汚すことはできないと、必死で堪えようとする。だがそれは適わず、溢れた涙は綾瀬の着物の肩口へと吸い込まれていく。
「あなたがいてくれたから……ここで生きていこうと、そう思えたのです」
「如月……」
 震えてどうしようもない身体を、綾瀬の腕がそっと抱く。この身体はこんなにも苦しんでいたのだと、如月の感情が伝わってくるようで胸が締め付けられるように痛んだ。
 如月のような屈強な男がなぜ綾瀬の傍にいるのか、周囲は常に彼を訝しむような目を向けた。直接口に出す者はいなかったが、如月に対していい印象を持つ者はほとんどいなかった。
 終戦を迎えて幾年か経った今なお、如月はこの地では背徳者としか見られていない。それを知っていて、綾瀬は如月を離そうとしなかった。
 もっと彼が楽に生活できる土地があったはずなのに、自分は彼を手離そうとしなかったのだ。
 自分の傲慢さが今になってありありと感じられ、その罪の重さに綾瀬は愕然とした。
 やがて落ち着きを取り戻した如月が、綾瀬の肩口から顔を上げた。
「このような無礼を……申し訳ありませんでした」
 名残惜しみつつも綾瀬の身体から手を離そうとして、その身体が小さく震えているのに気づく。
「綾瀬様?」
 俯いたまま顔を上げようとしない綾瀬に、自分の無礼の数々に彼は激しく怒っているのだと考え、腕の中の温もりを手離して素早い動きで後ろに飛び退り、謝罪の言葉と共に土下座をした。
 ──だが、いつまでたっても綾瀬は声を発しない。
 沈黙に耐えかねた如月が恐る恐る顔を上げると、
「……綾瀬、様?」
 綾瀬の頬を、自分と同じ光の筋が幾筋も流れているのに気づき、如月は呆然と綾瀬の顔に見入った。
 いつでも気丈な姿を崩さない綾瀬の涙を見るのは、これが初めてだった。
「……すまない、如月」
 視線を上げ、濡れたままの顔を拭こうともせずに綾瀬は如月と目を合わせた。
「おまえを……苦しめていたのは、私だったんだな」
「綾瀬──」
「争いのない土地へ行きたいと言っていたおまえを、こんな場所に止めたまま……」
「それは……」
「私の身勝手のせいで……おまえを傷つけていたのに──」
 両手で顔を覆い、洩れてしまう嗚咽を堪えようとする綾瀬の姿に、如月は信じられないものを見たようにただ唖然と立ち竦んでいた。
 綾瀬はその心に溜まっていた本音を吐き出すように、ゆっくりと話し出した。
「おまえが私の前に現れて……私と同じように苦しんでいると知った時点で、本当の意味で私は救われたと思ってしまったのかもしれない」
「え……」
「おまえがいれば、私の苦しみも半減されるのではないかと──おまえが私の苦しみも背負ってくれるのではないかと、そんな勝手なことを思ってしまったのかもしれない。……いや、思ってしまったのだ」
「────」
「おまえはおまえ自身の苦しみを、一人で耐えようとしていたのに……私はおまえに、それまで以上の苦痛を背負えと言っていたのだな」
「いいえ、そんなことは──」
「おまえの優しさに甘えて、私だけが楽になって……一人だけ救われようとしていたのだ」
 言葉にすると、さらに自分の罪の深さに気づかされる。綾瀬の体は震えが止まらなかった。
「すまなかった、如月……」
 顔を覆ったままの綾瀬に、迷いながらも如月は近づき、その細い肩に触れる。
 とん、と胸に落ちてきた綾瀬の頭を引き寄せ、その背に再び手を伸ばした。
「違います」
 全身を震わせ、自尊心を繕おうともせずただ涙する綾瀬に、如月は言い聞かせるように口を開いた。
「違うのです、綾瀬様。確かに私は戦場から逃げてきたとき、戦いなどとは関わりのない場所へ行きたいと思っていた。だがあなたに会ったとき……あなたに惹かれはじめたときから、あなたの傍で生きたいと思ってしまったのです」
 俯いたままの綾瀬の顔をそっと上向かせ、涙で濡れそぼった頬をそっと拭う。
「あなたが苦しんでいることに気づいたときから、その苦しみをすべて取り除きたいと思っていた。すべてが無理ならば半分でも……それが適わないのならほんの欠片でもいい、あなたを煩わせているものを遠ざけたいと、そう願っていた」
「きさ…らぎ……」
「あなたの苦しみが少しでも減ったのであれば──それでどんなに私自身が傷ついても、本望だと思っています。あなたから与えられたものなど、痛みにも苦しみにもなりません」
 視線を合わせ、自分の心の内を全て曝け出す。いつからか綾瀬本人に伝えたいと思っていたものが、堰を切ったように溢れ出した。
「愛しています、あなたを……。あなただけを愛している」
 両の手に精一杯の力を込めて、愛しい人の肩を抱き締めた。
「あなたを愛するようになって、ようやく生きる意義を見つけられました。私の魂は……あなたを守り続けたいと、そう言っています」
「如月──」
 綾瀬の腕がそっと如月の背に回る。躊躇うように這わされた手は、やがて如月の衣服をぎゅっと掴んだ。
「……変わらないな」
 如月の胸に頭をもたせ、心音を聞くとはなしに聞いていた綾瀬は、その音に誘われるように口を開いた。
「おまえの心臓の音……私が出先から戻るとき、車の中で聞いている音だ」
 激しい稽古や舞台を終え家へ帰る道すがら、疲れ切った体は休息を求め、深い眠りをもたらしてくれるのはいつもこの音だった。
「この音を聞くと、私は安心するんだ。休んでもいいと、そう言われている気分になる」
「綾瀬様……」
「……私にも……この音が大切なのかもしれないな」
 大切だからこそ、離すことなど思いつきもしなかったのかもしれない。
 綾瀬は自身の感情を、今ようやく悟ったような気がした。
「離れないでくれ、如月。ずっと私の傍にいろ」
 如月にしがみつくようにぐっと手に力を込めた綾瀬が、熱を込めた声でそう洩らす。
「綾瀬様──」
「いや、おまえが私の傍を離れたいと言っても…私はもう、おまえを離してはやれない。────おまえが、なにより大事な存在だと気づいてしまったから……」
「……綾瀬様っ…!」
 如月の力強い腕が、さらに綾瀬をかき抱く。密着した身体が隙間もないほど重なりあったとき、二人の唇も自然と重なりあっていた。
 深く深く、熱い想いを伝えあう接吻は、長い時間を埋めるように長く続けられた。
「離れるな……如月」
「離れません、一生……永遠に、あなただけを愛していきます」

 互いの想いを確かめあう二人に、いつまでも月の光は降り注いでいた。


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