まさに『天変地異』というやつだ。
いや、『有為転変』というべきか!?
なんにせよ、予期せぬ出来事に私の思考は大パニックを起こしていた。
──いったい何がどうしてこんなことになっているんだ!?
連休を控えた金曜の終業時。誰もが足早に会社を後にしていった。
私はと言えば、馴染みの飲み屋があるわけではないから寄る場所はないし、かといって家に帰っても特にやることもなく。
きりのいいところまでやってしまおう……と自分自身に言い訳をしながら、いつものように1人残って仕事をしていた(これは私にとっては『よくあること』なのである)。
そして気づけばとっぷり日は暮れ、(そろそろ帰るか……)と席から立ち上がったとき。
自分の仕事ぶりに満足していたためか、いつもならば家でしかしない鼻歌を歌っていた私に、突然声をかけてきた者がいたのだ。
『──へえ、柴田さんでも鼻歌なんて歌うんですね』
私以外誰もいないはずの空間に響いたよく通る声。
突然のことにぎょっと振り返ってしまったが、冷やかすような調子のその声の主を、私は顔を見なくても誰だかわかってしまった。
『歌、けっこうお上手なんですね。……なんだか意外だな』
『き、貴様……っ!』
女性社員には人気があるらしい整った顔が、わざとらしい笑みを浮かべている様を見たとき、私は全身の血が頭に向かって駈け上っていくのを感じた。
この世で1番嫌いな奴に弱みを握られてしまったような気もした。
浅はかな行動を取った自分を呪った。
────が、すべて後の祭り。
『今度一緒にカラオケ行きましょうよ。──ていうか、これから行きませんか? 実はここから近い場所で女の子たちと飲んでるんですけど、忘れ物してたことに気づいて戻ってきたんですよ。きっと彼女たちも柴田さんが来たら喜びますし、どうですか?』
聞きもしていないのにそんなことをベラベラとしゃべり、「ね、いいでしょう?」と強引に連れて行こうとする。
仕事人間の私は女子社員に嫌われている。そんなことは自分で百も承知なんだ。ぬけぬけとそんなでたらめを言わないでほしい。
『悪いが今日は見たいテレビ番組があるんだ』
もちろんデマだったが、口実としてはその程度のものでいいだろう。こいつも本気で誘っているわけではないだろうしと、家に持って帰る書類をまとめていると。
『え〜〜行かないんですかー!? 行きましょうよ、ね、柴田さん!』
大きな声で大げさに騒ぎ始め、私の周りをうろちょろし始めたのだ!
『なっ……』
思いもよらぬ展開に私は呆気にとられてそいつを見つめてしまった。普段会社で「クール」だの「爽やか」だのと騒がれている奴が、こんなふうに子供っぽい態度をとるとは思わなかったので。
『行きましょうよ〜〜』
駄々っ子のように私の腕に腕を絡めてきたそいつは、私と自分とがどれだけ仲が悪いのか忘れ去ってしまったようにベタベタしてきて。
『────────っっっっ!!!!』
スーツの下の皮膚がぞぞぞっと鳥肌を立て、私は反射的にそいつの腕を振り払って飛び退いた。
『なっ……なんなんだ、いったい!?』
信じられない暴挙を受けて、ショックのあまり声が裏返ってしまう。全身が異常なほど震え、それを隠すためにデスクに身体をもたせかけて縁【へり】を強く握った。
……そう。その男は、常日頃から一挙一動が私の神経を逆撫でするような奴だった。いや、本人はいたって普通にしているつもりなのだろう。だが、私にとっては不快極まりないのだ。
こいつの口から発せられる単語の1つから!
こいつの気障ったらしい動作の1つまで!
ありとあらゆるものが気に触り、ちらっと視界の端にその姿が映ってしまっただけでその日1日憂鬱になってしまうほどなのだ!!
こいつの存在自体が有害だ!! と言い切ってしまえるほど、私はこいつを毛嫌いしていた。──そう、平たく言えば私はこいつが「大嫌い」なのだ!!!!!!
今や社内でも有名な噂として誰もが知っている事実となっているが、実際嫌いなものは仕方がない。世の中には『どうしても自分とは合わない性格』の奴がごまんといるのだから、同じ会社の中にそういう奴がいたとしてもおかしくないだろう。
────そんな奴がなぜ、ここまで私を構おうとするのか!?
『ふざけるのもいい加減にしろ!』
私の反応にそいつは目を丸くしたが、すぐに薄気味悪い満面の笑みで私をじーっと見つめてきて。
『柴田さん、今まで友達同士でスキンシップとったりしたことないんですか? そんなに驚くなんて思わなかったんで……変なことしちゃってすみません』
口先だけの謝罪など、「謝った」のうちには入らないだろう!? しかも、見た目から「固い奴」という印象を持たれる私に対して『友達同士でスキンシップ──』など、わざわざ聞くようなことではない!!
完全に私を馬鹿にしくさったその態度が憎らしくて、返事もせずにそいつを睨みつける。
すると、そいつは私の視線を真正面から受け止めて──やがて、一歩、また一歩と私に近づいてきた。
『そんなに睨まなくても…………そんな顔もなんだか可愛いですね』
『かっ…………!!!!』
可愛いだと!? い、いったい何をどう考えたらそういう言葉を思いつくんだ!?
私がそんな柄ではないことをあいつは知っているというのに(しかも男にとって『可愛い』は褒め言葉ではない!!)──嫌がらせもここまでくると悪質な「社内いじめ」といえるだろう。
『貴様……、私を侮辱する気か!?』
我慢も限界に達した私が大きな声を上げると、お互いの吐息がかかる距離まで歩いてきたそいつは、こっちが薄気味悪くなるような顔で笑って。
『そんなわけないですよ。だって俺は、いつだって柴田さんと仲良くしたいって思ってるんですから』
どこかのんびりとした口調がそう言うと、私の全身を突然大きな衝撃が襲い──一瞬薄れた意識が回復したときには、私の身体はそいつの腕の中に閉じ込められていた。
煌々と電気が照っている室内は、エアコンの音が反響している。私の荒くなった息は、その音に掻き消されてこいつには聞こえていない。…………はずだ。
激しく混乱している脳を必死に起動させ、現在の状況をどうするべきなのか考えようとする。
私たちは自他共に認める『犬猿の仲』なんだ。こいつはどうか知らんが、私は心の底から本気でこいつが嫌いなんだ。
それがなぜ、終業時間もとっくに過ぎた会社で、デスクに押し倒すような格好でこいつが私を羽交い締めにしているのか!?(こうなった瞬間のことは、脳が処理しきれずにリセットしてしまったようで覚えていない)
「そんなにすごい顏しなくてもいいのに。柴田さん、本当に俺のことが嫌いなんですね」
(わかっているなら早く離れろ!! 私の身体をデスクに押しつけるなっっっ!!)
「そんなに震えちゃって。大丈夫ですよ、取って食おうってわけじゃないですから」
(当たり前だ!!!!)
そいつの無礼な物言いに、心の中で激しく罵倒する。本当は唾を飛ばしながらでもそいつの脳みそまでしっかり届くような大声で叫びたいのだが、驚きのあまり声が出ないのだ(情けない!)。
私の目の前にずずいっと整った顔を近づけてきているそいつに、思考能力の低下した私は、じっと固まったまま動けず。
腸【はらわた】が煮えくりかえるような心地で、そいつを睨み続けることしかできなかった。
しかし、そんな私の顔をじっと見ていたそいつは、ふぅっと小さく息をついてこんな見当違いの台詞を吐いたのだ!!
「……だから、そんなに可愛い顔しないでくださいってば」
貴様の目は節穴【ふしあな】か!? どこをどう見たら、私が可愛く見えるというのだ!?
(──いや、こいつの言動にいちいち反応することはないんだ。こいつは私をからかって楽しんでいるんだからなっ)
そうは思うものの、どうしたって腹が立つ。自分とライバル関係にある人間にここまでこけにされてへらへら笑っていられるほど、私は落ちぶれてはいないのだ!!
「は、なせ……っっ!!」
喉の奥から声を絞り出し、なんとかそいつの身体を引き離そうと腕に力を込めてみる。……が、どれだけ強く押さえつけられているのか、私の身体はそいつの身体の下からびくとも動かなかった。
そいつはもがく私をおもしろそうな顔で見つめ、さも楽し気に口元を歪める。
「そんなに過剰反応を示すってことは、柴田さん、よっぽど俺のこと意識してるんですね」
「──!?!?」
「俺もずっと柴田さんのこと意識してましたけどね。──きっと、あなたと同じ感情で」
そう言ってにこやかに笑うそいつに、脳の血管がぶちぶちと音を立てて切れた(気がした)。
なんなんだこいつは!! なぜわざわざ私を怒らせるようなことを言うんだっっ!?
「だっ……だったら、お前も私を激しく嫌ってるってことだろう!? こんな屈辱的なことでなくても、私のプライドを傷つける方法はいくらでも────!!」
上から見上げられるという恥辱的な体勢のまま、声を限りに叫ぶ。い、いかん、目と鼻から水が垂れてきそうだ……っ。
そんな私の情けない姿に、そいつは勝ち誇ったような笑みで爽やか(このあたりが心底腹立だしい)に暴言を吐きまくった。
「嫌だなぁ。なんで俺があなたのプライドを傷つけないといけないんですか? 確かにいろいろと干渉されてウザかったけど」
「うざっ……!?」
「最初はね、いっつも俺と張り合おうとするあなたがうるさくて仕方なかったんです。ことあるごとに俺に突っかかってきて、俺は別に昇進とか売上成績なんてどうだってよかったのに、あなたはいつも自分と俺とを比較して怒ったり勝ち誇ったりしてみせてくれて」
(な……なんだそれは!? 私は、か、会社のために頑張っていただけだぞ!? 互いに競い合って業績を伸ばし、会社のさらなる発展を────っ)
「だけどそのうちに、俺のことで表情をころころ変えるあなたが可愛く思えてきて……俺に負けないように一生懸命仕事する姿や、俺よりほんの少しだけ成績が悪かったときに肩を落としてる姿──ときどき俺を睨みつけてくるその顔も、楽しみになってきて」
(わっ、私がお前ごときのことで一喜一憂していただとっ!? そんな、そんなことは有り得ないぞっっ!!)
「あなたのいろいろな反応が見たくて、俺、わざと仕事の手を抜いたり、頑張って業績上げたりしてたんですよ。気付かなかったですか?」
「な……なんだと!?」
(気付かなかった……というよりも、わ、私が必死になっているときに、そんなことをしてたのか、こいつは!? なんて奴だ!!!!)
私の心はそいつの言葉で千々に乱れ、もはや修復不可能なところまできていた。
だがそんな私に、そいつはさらに追い討ちをかけるような言葉と──そして不可解な行動をとったのだ!
「あなたが嫌悪だと思っている感情は、本当は別のものなんですよ……柴田さん」
そんな意味不明な言葉と共にぐぐっと顔を近づけてきて……そう、まるで、まるで顔と顔を重ね合わせるように────って、それ以上近づいてきたら顔がぁあああ!!!!
「柴田さん……」
(そんな掠れたような声で私を呼ばないでくれ!! そ、そんな顔を私に近づけないでくれ〜〜!!)
嫌いな人間に身体を近づけられて平気なほど、私は出来た人間ではない!!
(というか、なんだ!? このままでは顔が、顔がくっついてしまうだろうっっ!!!!)
──と思った瞬間、私の視界は真っ暗になっていた。
そして、
「んぬぅ!?」
(こっ………………これは、なんだ?)
生温かくて、そしてむにゅむにゅっとした柔らかいものが──私の唇に押し当てられている?
いや、『押し当てられている』というより……『押しつけられている』といった感じだが──これはいったいなんだというんだ?
拘束された身体を動かすことはできず、だが真っ暗だった視界に肌色を見ることができて、私の脳はある可能性を示唆した。
私は今あの男に抱き締められている。
抱き締められて、顔が近づいてきて──目の前が真っ暗になったと思ったら、唇に感触を感じた。
…………これは、まさか。
(ま……まさか!?)
「んぅっ?」
押しつけられたものが邪魔をして、声を発することも出来ない。
やはりこれは──────俗に言う『接吻(さ、最近はキスと言うらしいがっ)』なのでは、ないか?
(キ……キス、されている?)
それが、私にとって生まれて初めてのキスだということに気づくまで、たっぷり数十秒を費やし。
はっと我に返ったそのときも、そいつは私の唇を塞いだままだった。
「っ……っ、んっ」
抱きつかれたままの身体が痛くて、全身を捻るように身じろぎすると、唇に押しつけられていたものがようやく離れる。
そしてそいつは自分の唇に手を持っていき、小さく撫でながら奇行の感想を口にした。
「やっぱり柔らかかったですね、柴田さんの唇……」
(『やっぱり』!? やっぱりってなんだ、やっぱりって!! 前からずっとそう思ってたってことか!?)
前からずっと、私の唇を奪いたいと思ってたってことか〜〜!?
私の思考はもはやショート寸前だ。いや、とっくにショートしてしまっているのだろう。
そうでなければ、こ、こんな屈辱的な状況で、こいつの顔に見入ってしまうなんて考えられない!!
なんだというんだ。なぜ、貪られていた唇から身体が火照り始めているんだっっっ!?
いったいなんなんだ、こいつは!?
私が放心状態でそいつを見ると、爽やかな笑みでしっかりと私の目を捉えたまま、そいつは言った。
「好きですよ、柴田さん」
女を魅了する作り物のような顔が、さっきまで私の唇に合わされていた唇が──それまで私には縁のなかった言葉を囁いてくる。
「俺はあなたが好きなんです。ずっと前から柴田さんのことが好きだったんですよ」
(そんな男前な顔を近づけてきて、そんなに熱のこもった声で囁かないでくれぇ〜〜!!!!)
私の心の叫びを、そいつが組み取ってくれることもなく。
「柴田さんも俺のこと……嫌いじゃないでしょ?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜っっ」
『確信大アリ』と顔にはっきり書いて私を見つめるそいつに、私はもう何も言えなかった。
────確かに。
確かに、初対面からあんなにも存在が気になったのは……直感で『こいつには負けたくない』と思った奴は、私の28年間の人生の中でこいつが初めてだった。
姿を見ると苛立つのはわかっているのに、なぜか出勤するたびに気になって……お互い外回りに行く機会が多いため、確実にこいつがいる出勤直後にこいつの席を確認する癖がついてしまったのも──。
だっ、だが、だからといってなぜそれが、『私はこいつのことが好き』ということになるんだ!?
そもそも『恋愛感情』なんてものは、もっとロマンティックな状況で生まれるものではないのか!?
「森下……っ」
普段は滅多に口にしないそいつの名前を呼んだ途端、いつもと違う感情が胸に競りあがってきて──いつもだったら鳥肌が立つほど嫌悪感を感じるはずなのに──苦しいような、鼓動が高まったような気がした。
こいつの言葉を肯定するつもりはない。
ないが、否定する気にもならないのは……なぜなのだろう?
名前を呼んだものの、続けて何を言えばいいのかわからず黙りこくってしまった私に森下は再び笑いかけてきて、デスクに崩れ落ちたままだった私の身体を無理矢理立たせると、またしても突拍子もないことを言い出した。
「じゃあ、2人の想いが通じ合った記念に飲みに行きましょう!」
「はっ!?」
「さぁさぁ早く! あ、なんならこのまま俺の家に行きますか? そのほうがゆっくりできますしね!」
「なっ……なにぃ〜〜〜〜!?」
「じゃあ行きましょう! 嬉しいな、あなたが俺の家に来てくれるなんて!」
私の返事など聞かず、私の腕に腕を絡めた森下は、私の鞄を掴むとそのままドアへと直進した。
ずるずると引きずられる形で会社から引きずり出された私は、急転直下な出来事の連発に、もはやまともな思考能力を発揮することができなくなっていた。
なんなんだ、この展開は!? なぜ、どうしてこんな話になっているんだ!?
そ、そもそも私のこの感情は、好きとか……こ、こいつを好きとか好きじゃないとか……そ、そんなものとは違うんだ!! ────た、たぶん!!
ああっ、でもっ、嫌なはずなのに、こいつなんて心の底から嫌いなはずなのに──この胸の高鳴りは!? どうして顔が赤くなるのを抑えられないんだぁああ!?
「楽しみですよ、柴田さん。あなたの酔っぱらった姿……きっと食べちゃいたいくらいに可愛いんだろうなぁ……」
「食べっ!?」
「今夜はたくさん飲みましょうね」
不吉なことを吐きまくりながら私を連行して行く森下に、私の心臓は『びくびく』なのか『ドキドキ』なのか自分でもわからない不穏な動きで激しく打ちつけていた。
──これから私の身に何が起きるというのだ〜〜〜〜!?!?!?
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