ザ・オヤジ受8



 家にこもっていることが多いせいか、人が集まる場所というのはどうも苦手だ。――特に、こういった席は。
「弓原先生、大丈夫ですか? お疲れのようですが」
 ウーロン茶の入ったグラスを手に壁際でぼんやりしていると突然声をかけられ、はっと顔を上げる。そこにはいつも世話になっている編集長の姿があった。
 今日は年に一度開催される飛翔出版の忘年会で、某ホテルの会場に来ていた。いつも世話になっているのだから直接挨拶させてもらおうと、毎年この日だけは参加させてもらっていたが――年々足を運ぶのが億劫になっているのは年のせいだろうか。
「あ……すみません、ぼんやりしていて」
「これだけ人が多い場所ですから無理もないですよ。わざわざご足労いただき申し訳ありませんでした」
「そんなこと……いつもお世話になっているのに普段ご挨拶もできませんし、こういった席に招いていただいて感謝していますよ」
「そう言っていただけると、こちらも招待して良かったと思えますが。片桐が無理を言ったんじゃないですか?」
「はは、無理にだなんて……」
 実のところ、片桐君に熱心に誘われたから今年も参加を決定したのだが……そんな事を正直に話したら、あとで片桐君がどんなことを言われてしまうかわからないため、苦笑しつつ否定した。
「あっ、弓原先生〜!」
 そのまま編集長と談笑していると、元気いっぱいの声とともに私たちに駆け寄って来た人物がいた。先程話題に上った片桐君だ。
「先生、今年もありがとうございました! 来年もまたよろしくお願いします!」
 編集長から年内の仕事がようやく落ち着いたと聞いたところだったが、片桐君の様子からするとそれは本当のことなんだろう。
「こちらこそ、今年もいろいろありがとう。来年もよろしくね」
「はいっ! 一緒に頑張りましょう!」
 ニコニコ笑いながらガッツポーズする姿をたのもしく見つめつつ、自分は彼のようには頑張れないだろうと内心思っていた。
 寄る年にはかなわないということか。……あまり考えたくはないが。
「先生、あちらで一緒に飲みませんか? おいしいワインがたくさんあるらしいですよ」
 片桐君はある方向を指差しながら、目を輝かせて私を誘ってくれる。
「おい。そんなこと言って、実はお前が飲みたいだけだろ?」
 編集長は厳しめの声で言ったもののその表情は穏やかで、本気で諌めているわけではないのがわかる。だが、片桐君の誘いに乗るのはためらわれた。
「すまないね片桐君、私はワインはあまり得意ではなくて……」
「えっ、そうなんですか? じゃあ別の物にしましょうか。日本酒や焼酎、ウイスキーなんかもありますから」
「いや、あのね――」
「先生方の労を労う席でもあるんですから、存分に堪能して行ってくださいよ! さあ行きましょう!」
 丁重にお断りしようとしたものの、こちらの話に耳を傾けていない彼には私の声は聞こえなかったらしい。
 こうして、半ば強制的に所狭しとグラスの置かれたテーブルに連れて行かれ、不本意ながらアルコールを飲むことになった。
「ささ、先生どうぞ!」
「あ、ありがとう……」
「僕、やっぱりワイン持って来ますね! 先生も1杯飲みましょう!」
「ええっ? いや、本当に私は――」
「1杯くらい平気ですよ! ね、先生っ」
「……じゃあ、1杯だけね」
「はいっ!」
 ……しかし、きっちり断れない優柔不断な性格のせいでこんな調子でいろいろな酒を飲まされてしまい、勧められるままに杯を重ねてしまって――。
 気づいたときには、私は自分の状態がわからなくなるほどしたたかに酔っ払っていたのだ。


「せんせぇ、携帯鳴ってますよぉ〜」
「ふぇ? あ、ほんとだぁ」
 片桐君の言葉に、どこか聞き慣れた音が上着のポケットからしていると気づき、そこに入れてあった銀色の小型電話を取り出す。
 普段ほとんど使用しないため未だに操作がよくわからないのだが、それでも賑やかな音が途切れる前に電話に出ることはできた。
「ふぁいっ、もしもしぃっ?」
『――酔ってんのか』
「んぇ?」
 耳に当てた機械からはっきり響いてきた低めの声。その声に、情けない返事を返してから相手が誰だか思い当たる。
「こーへぇ? どぉしたの?」
 口を開くたびにアルコールが酷く匂い、呑みすぎていることを自覚する。うまく回っていない口調が自分でもおかしくて、自然に口元が緩んでしまう。
 だが陽気な私の態度とは裏腹に、電話から聞こえてくる声は勤めて冷静だった。
『今どこだ?』
「いま……どこかなぁ?」
「二次会にむかうところですよ、先生ぇ!」
「そっか。二次会だって〜えへへへっ」
『…………』
 私の隣に立っていた片桐君が、私たちの会話を聞いていたのか助け船を出してくれる。だが私の返事に、弘平は無言のままだった。
「こぉへ〜?」
『……そこで待ってろ』
「へっ?」
『ホテルを出ないでそこで待ってろ。20分くらいで着くから必ずロビーにいろよ』
「なっ、なんでぇっ?」
 口早に言った弘平に驚き聞き返したものの、私の問いに答えることなく電話はすでに切れていた。
「なんでぇ……?」
「せんせー、たむらさんなんですってぇ〜?」
 口の中で呟きながら不慣れな動きで電話を切ると、片桐君がにこにこ笑いながら聞いてくる。
「うーん……ここに迎えに来るって。急にどーしたんだろーね」
「えっ……!?」
「ご飯、たりなかったのかなぁ。いつもと同じくらい作ってきたんだけどなー。……片桐くん?どぉかした?」
 弘平の機嫌が悪かった原因を考えていると、騒がしいくらいだった片桐君が静かになっていた。アルコールのせいで真っ赤だった顔は急激に青ざめている。
「どうしたの? 気持ち悪くなってきた?」
「せ、先生……田村さん、迎えに来るんですか?」
「え? うん、そうみたい。どうしよう、これから二次会なのにね」
 ここに来るまでは二次会に参加する気などまったくなかったが、酒が入り気分が高揚していたせいか片桐君の誘いに乗ってみようという気になっていた私には、弘平の言葉は戸惑うものだった。
「彼も一緒に、っていうわけにはいかないよね? ……片桐君?」
 冗談のつもりで言ったものの、片桐君は固まったままだった。いったいどうしたというのだろう?
「片桐くーん?」
 呆然としたままの彼の顔の前で手を振ってみると、はっと我に返ったらしい片桐君はロボットのように首をギギギと私のほうに向けて言った。
「先生……先生はここで、田村さんをお待ちになったほうがいいと思います」
「――え?」
「先生が二次会に参加されないのは残念ですが、せっかく田村さんが来てくださるなら帰ったほうがいいと思いますよ!」
「な、なんで? どうしたの急に?」
 青ざめた顔のまま同じことを繰り返した彼は忙しない動きでキョロキョロと辺りを見回し、肩が大きく上下するほどの息を吐いた。――まるで安堵したように。
「先生、田村さんはすぐに来られるんですか?」
「えっと、20分くらいって言ってたかな……。ロビーで待ってろって」
「そうですか。じゃあこっちにいらしてください」
 たった今まで呂律が回らないほど酔っていたはずなのに、私をロビーへと案内してくれる片桐君の口調はしっかりしていて、その足取りもしっかりしていた。
「僕は二次会に向かいますけど、先生はここで座ってお待ちになってください」
「え……片桐君、行っちゃうのかい?」
 私がソファに座ったのを確認すると、再び辺りを見回しながら片桐君はそう言って。その言葉に心細い気持ちになり、思わず聞き返してしまう。
 そんな私に片桐君は困ったような顔になり、そわそわしつつ申し訳なさそうな表情で言った。
「あ、あの、田村さんが来るのを先生と一緒に待ちたいんですが、そろそろ行かないと編集長に怒られてしまいますので……」
「ああ、そっか。そうだよね……」
「田村さんにご挨拶できないのは残念ですし、先生をお一人にするのは本当に心苦しいんですが――」
「ううん。私のほうこそ、困らせるようなことを言ってすまなかったね」
 確かに彼の言うとおり、他の人たちは私たちより先に二次会会場へ向かっていた。私はともかく、もてなす側の片桐君がいつまでも会場に行かないのはまずいだろう。
「じゃあ、皆さんによろしくと伝えておいてもらえるかな。急に行けなくなって申し訳ありませんって」
「はい、もちろんお伝えしておきます! では弓原先生、近いうちにまたご連絡しますのでよろしくお願いします」
「うん、わかった。来年もまたよろしくね」
「こちらこそ! では、失礼します!!」
 最後は力強く叫び、片桐君は脱兎のごとく走り去っていった。何かに追われているのか、それとも何かから逃げるように。本当に、いったいどうしたんだろう?
「ふ〜……」
 1人になるとふいにまた酔いが襲ってきて、柔らかいソファに身体を預けて目を瞑る。どれだけ呑んだのか覚えてはいないが、周囲に勧められるままいろいろなものを呑んだのだからここまで酔うのは当然だろう。
 唯一の救いは、弘平からの電話で多少醒めたってことだろうか。……それでもまだ十分酔いが残っているが。
「こんなになるまで呑んだのかって怒られてしまうかな……」
 彼が仕事に出かけていくときには『今日は呑まないから』と言っておいたのに、さっきの電話で酔っていることはばれてしまっているだろう。
 彼を待つ間に少しでも正気が戻ってくることを祈るしかないなと思いながら、熱い息をついた。


「――――おい」
 周囲の喧騒を聞きながら身体の力を抜いていると、突然頭上から声をかけられて身体が大きく跳ね上がる。どうやら気づかぬうちにうとうとしていたらしい。
「あ、弘平……」
「大丈夫か? 気持ち悪いのか?」
「ううん、大丈夫。ちょっと呑みすぎちゃったんだけどね」
 ソファに凭れている様子がぐったりしているように見えたのか、眉間に皺を寄せながら顔を覗き込んできた弘平に照れ笑いしながら立ち上がる。ふらついてしまうかもと不安だったが、両足で踏ん張ったところすんなり立つことができてほっとする。
「他の奴らは?」
「もう二次会に行ったよ。電話が来たときには片桐君が一緒にいたけど、彼も会場に行ったし」
「……あいつが一緒だったのか」
「え?」
「いや、なんでもない」
 何か言った気がして聞き返したものの弘平は私の問いには答えず、「帰るぞ」と言い私の腕を掴むとそのまま歩き出した。酔っている私に気を遣ってくれたのか、普段の歩調よりもゆっくりと。
「来るの、早かったね」
 周囲の視線が集まっているような気がして(あくまで気のせいだと思うが)、なんとなく照れくさくて前を歩く弘平に声をかけると、振り返りはしなかったものの答えてくれる。
「たまたま仕事が長引いて、まだ帰ってなかったから」
「え? じゃあ、まだ夕飯食べてないのかい?」
「ああ」
「そうだったんだ……ごめんね、わざわざ帰る前に寄ってもらっちゃって。仕事は? 終わったのかい?」
「ああ、終わった」
「そっか。帰ったらすぐに夕飯の支度するからね。あ、それとも先にお風呂の用意をしたほうがいいかな」
 弘平の思いがけない返事に自分ばかりが楽しい時間を過ごしていたことが申し訳なくなり、せめて1日の労をねぎらってあげたいと希望を聞いてみた。
 しかし弘平は私をちらっと振り返り、
「そんなこと気にするな。あんたは帰ったらすぐに寝ろ」
 と言ったのだ。
「ど、どうしてだい? もう酔いは醒めたし、大丈夫だよっ?」
(もしかしたら、さっきの電話で醜態を演じてしまったのを気にしている? でも、一眠りしたおかげでまるっきり酔いも醒めているんだが……)
 羽目を外した私に対して怒っているのかと思い、必死に弁明を試みる。しかし返ってきたのは予想もしていなかったものだった。
「一眠りしたら付き合ってもらうから、俺がメシ食ってフロ入ってる間に熟睡しとけってことだよ」
「え? ――――あ…………うん」
 告げられた言葉に含まれた意味に思い当たり、反射的に頬が熱くなる。これはつまり……『夜のお誘い』ということで間違いないんだろう。
 なぜ急にそんな気になったのかはわからないが、このところお互いに忙しかったため久しぶりに甘い時間が過ごせるのかもしれないという期待に胸が高鳴っていく。連日のように求められるのは辛いが、「そういったこと」をしない日々が続くのも味気なかったりするものだ。
(だとしたら、弘平の言うとおり少し眠って体力を回復したほうがいいのかも……)
 数時間後のことに思いを馳せて無言になった私の手を引いたまま外に出た弘平は、だがそこで待機していたタクシーに近づきながら不穏な言葉を口にした。
「どうしてあんなに泥酔してたのか、その理由を聞かせてもらうからな」
「えっ?」
「呑まないって言ってたわりに、だいぶ気持ちよくなってたみたいじゃねぇか。誰にあそこまで呑まされたのかきっちり話してくれよ」
「え? ――ええっっ!?」
 精悍な顔に浮かんだ不敵な笑みに、別に疾しいことがあったわけではないのにそれまでより激しく心臓がどっどっと踊っていく。ああ、やはりまだ酔っているのだろうか?
 先にタクシーに乗り込んだ弘平に引きずられるように乗車させられた私は、うまく働かない思考で家に帰ってからのことをあれこれ考えて嫌な汗をかいていた。


 その晩のことは……記憶に止めておくにはあまりにも恥ずかしいことばかりで、もうよく覚えていない。


片桐君が逃げたのはなぜか、わかりますよね?(笑)


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