遅咲きの菊*悠遠・本文紹介





 私は弓原寛史。執筆業を生業としている五十過ぎの中年だ。
 特筆すべき特徴など何一つ持ち合わせていない私だったが、現在は人に進んで話せない事情を抱えている……と言えるかもしれない。
 妻と死別し、一人息子の寛人が結婚してから小さな一軒家に一人で住んでいた私に大きな転機が訪れたのは数年前のこと。ふと思い立ち近所で行われていた祭りに参加しようと出かけたのだが、その道中で出会った人物が私の人生を大きく変えた。
 前述した通り、これといって魅力の欠片もない私に興味を持った一人の青年が、私に未知の経験を――口に出せないような、その……肉体的な経験を与えてくれたことがきっかけとなり、彼と深い関係になって、現在はほぼ一緒に暮らしている。
 同性の、しかも寛人よりも若い青年とこんな関係になるなんて、未だに夢でも見ているような気持ちになることがある。けれど彼が――田村弘平という存在が傍にいてくれる事実が、すべて現実のことなのだと実感させてくれている。
 ただ無気力に日々を暮らしていた私に、自分が生きる意味を……生きる喜びのようなものを与えてくれた彼には心から感謝している。
 気恥ずかしいし、改めて口にするのもおかしい気がして言葉に出して言ったことはないけれど、彼と過ごすこの日常が私にとっての幸福だ。

 ――そんな日常を脅かす日がやって来るとは、私は少しも考えていなかった。


「先生は、定期的に人間ドックとか受けてますか?」
 いつものように私の家まで原稿を取りに来てくれた片桐君――私がお世話になっている出版社の編集者である――とお茶を飲んでいたとき、突然彼がそんなことを言った。
 今までしたことがない話題に、急にどうしたのかと気になって返事をする前に尋ねると、彼はしゅんと肩を落としてしまった。
「実は僕、会社の健康診断で初めて引っかかっちゃったんです……」
「え?」
 驚いてよくよく話を聞いたところ、毎年会社で行っている健康診断で胃に小さな潰瘍ができているのが見つかったという。幸い発見が早かったこともあり投薬治療で完治すると言われたようだが、身体には自信があったらしい彼は相当ショックを受けたらしい。
「子供の頃から身体だけは丈夫だったんですよ。先輩方から『いつか絶対胃を壊す』と言われてはいましたけど……まさか本当に自分が胃を悪くするなんて思いませんでした」
 編集者の仕事は不規則な生活になりやすい。今まで私の担当をしてくれた人たちも皆頻繁に『胃が痛い』と言っていたが、まだ二十代の片桐君が彼らと同じことになるとは――彼同様まるで予想していなかった私も驚いてしまった。
 そしてそんなことがあったせいなのか、片桐君は彼よりずっと高齢の私の体調が気になったのだろう。突然の問いにはそんな理由があったのか。
「人間ドックか……。そういえばここ数年はやってないなぁ」
 妻のことがあってから寛人がしきりに勧めてきたため、何年かは行っていた。だが仕事が順調になるほど時間が取れなくなり、いつしか自分の身体のことを考える余裕もなくなっていた。
 今まで大病を患うことがなかったのは幸いといえるかもしれないな。そんなことをつらつらと考えていると、鋭い声で非難されてしまう。
「駄目ですよ弓原先生! どんなに調子が良くても、年に一度は検査してもらうべきですっ!」
 片桐君は大きく首を振り、必死とも取れる形相で言った。その姿がまるで昔の寛人を見ているようで、思わず笑いそうになったがなんとかごまかし、
「確かに片桐君の言う通りだね」
 と返すと、彼は深く頷きながらさらに続けた。
「そうですよ! 先生がお忙しいのは弊社のせいですけど、締切を多少融通するくらいのことはできますから! 近いうちに、すみからすみまで徹底的に調べてもらってください!」
 彼のあまりの剣幕に、曖昧な返事でその場を凌ごうと思っていた気持ちがほんの少し動かされ……その晩、私は片桐君と交わした会話を弘平に話したのだった。


冒頭シーンです。


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