朋也(下)・本文紹介




§ 8月1日 §

 目が覚めたとき、いつもと違う感覚が身体に走るのを感じた。
「…………?」
 重い瞼を抉じ開けつつ、違和感の原因を確かめようと身体を動かす。すると全身に奇妙な解放感が走り、布団を捲って言葉を失った。──なぜか私は下着一枚の状態で眠っていたのだ。
「どうしたんだ、これはっ?」
 焦って起き上がり、眠りに着く前の記憶を必死に探る。だが驚くほどあっさりとある出来事が脳裏に浮かんだ。
(そうだ……昨夜私は──)
 全身を包む気だるさ。腰に走る疲労感。随分久しぶりの感覚だが、忘れることなく覚えているこれは間違いなく昨夜の行為の余韻だろう。
 昨夜、私はこの部屋を訪ねてきた【トモ】と、医者と患者以上の関係を持ってしまった。自分の存在意義を見出そうと必死な様子の【トモ】を、拒みきることができなかったのだ。
 ……いや。そう言ってしまえば聞こえはいいが、結局は本能の欲望に抗えなかっただけなのかもしれない。まるで逡巡せずに、私は朋也の身体を貪ってしまったのだから。
 同性で未成年で……しかも、自分の患者とそんな関係を持ってしまうとは。やはり私には医師としての自覚が足りなすぎるのかもしれない。
 そのときになってようやく、部屋に自分以外の人の気配がないことに気づいた。
「トモはどうしたんだ……?」
 私が眠る前に気を失うように眠っていた【トモ】は、しがみつくように私の身体に両腕を巻きつけていた。そのため身体を離すのも忍びなく、されるがままの状態で眠ったのだが──。
 ベッドの下に散らばっている衣服を確認したものの、落ちているのは私の着ていたものだけで。ということは彼は私より先に起きたのだろう。
 気まずい思いをしなくて済んだことには安堵したが、しかしすぐに新たな不安が胸をよぎる。
(朋也に会ったらどんな顔をしたらいいんだろう……)
【トモ】はもちろんだが、他の交代人格に会っても冷静でいられる自信はない。だからといって、このまま朋也に会わずにいることはできない。この部屋を出て行ったのがどの人格なのか確認しなければならないだろう。
【トモ】ならば先に起きたとしても部屋を出て行くことは考え難い。ということは、昨夜の経緯を知らない人格が裸のような格好で寝ていた自分たちに驚いたに違いない。

 時計を確認し、朝食の時間が迫っていることに気づき急いで支度した。


「おはようございます、桂木様」
 重い足取りで食堂へ行くと、部屋に入った私に気づいた矢島氏が声を掛けてくれる。だが私はそれに答えることはできなかった。
「おはようございます、桂木さん」
 思わぬ光景にドアの前で立ち尽くしていた私に、食事を開始していた人物がにこやかに声を掛けてくる。──そう、部屋には矢島氏の他に朋也がいたのだ。
「おはよう……」
 戸惑いがそのまま声音に出てしまい、複雑な心境を気取られたかと思わず朋也の顔色を窺ってしまう。だが彼は私のことなど少しも気にした様子はなく、優雅な動きで食事を続けていた。
 目の前にいる朋也は間違いなく『ホスト人格』の【朋也】だ。私を知っている交代人格で、私が来るのを待たずに食事をするのは彼しかいない。
(一番会いたくない人格だったんだがな……)
 しかし、そう思ったところでこの場から退散することもできないだろう。そんなことをすれば私に対する【朋也】の心証はますます下降するだけだ。
 部屋に漂う緊張感に気圧されぬよう平静を装い、【朋也】の向かいの席に座って早速食事を開始する。それを確認して矢島氏が紅茶を持ってきてくれたとき、凛とした声が部屋に響いた。
「矢島さん」
「は、はい、なんでしょうか?」
「テーブルがちょっと寂しいから、花を摘んできてくれる? できれば向日葵以外の……そうだな、グロリオサがいいんじゃないかな」
「は……」
「悪いけど、すぐに行ってきて」
「──かしこまりました。それでは少し失礼をさせていただきます」
 矢島氏は突然の提案に困惑した様子だったが、【朋也】の有無を言わせぬ『命令』に静々と頭を下げると、素早く、だが音を立てずに部屋から出て行った。
 途端に訪れる沈黙。食器の擦れる音だけが気まずさを煽るように妙に大きくこだまする。
(何か話しかけるべきか……だが、何を話せばいい?)
 正面の顔をまともに見ることすらできないのに、普段通り話すことなどできるはずがない。自分でもそれがわかっているだけに口を開けず、ただ黙々と食事を続けた。
 これまでの行動パターンを考えると【朋也】は私の存在を黙認したまま順調に食事を済ませて自室へ戻るだろう。いつもは私が話しかけて短い会話が成立していたのだ、私が口を開かなければこのまま沈黙が続くということでもある。
 ところがこの日に限っては、思いがけず【朋也】のほうがアクションを起こした。食事を続ける手を止めずに急に笑い始めたのだ。
「……何が、おかしいんだ?」
 くすくすと小さな笑い声を洩らし続ける【朋也】を無視することはできずに聞くと、伏せていた顔を上げた【朋也】は意味深な笑みを浮かべたまま口を開いた。
「いえ。あなたの困った顔は素敵だなと思いまして」
「────っ」
「そんなに動揺しないでください」
 柔らかい声で紡がれた言葉に、一時何も言えなくなる。私の直感は、【朋也】にすべて知られているのだと訴えてきていて、その事実を踏まえた上で何を言えばいいのかわからなかったのだ。


下巻冒頭部分です。


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