名前を呼んで・本文紹介




『プルルルルッ・プルルルルッ』
 全身の汗が引いても身体を動かす気にならなかった俺の耳に、聞き慣れた電子音が響いてきた。
「うるせぇ……」
 ベッドの下に脱ぎ捨てた上着のポケットから鳴っているのだろう音が耳障りで、俺は伏せていた枕にさらに深く顔を埋めた。そこで電子音は一度途切れ、ほっとした──のも束の間、再び同じ音が鳴り響き始めた。
 この時間にこんなにしつこく電話してくる相手は一人しか思いつかない。だとしたらこのまま放っておいても諦めるころはないだろう。以前にも何度か同じようなことがあったため容易に想像がつき、仕方なくベッドの上で身体を滑らせ床にある上着に手を伸ばした。
「……はい、もしもし」
 声の出しすぎで変に掠れた声しか出なかったけど、通話ボタンを押す前に確認した相手には遠慮する必要はないと思いきり不機嫌に応答する。するとやっぱり電話の相手は俺の態度なんか気にした様子もなく、どこか間延びしたような声で話しかけてきた。
『よぉ。もしかしてお楽しみ中だったか?』
「……わかってるならしつこく電話してくるなよ」
『悪ぃ悪ぃ』
 ちっとも悪いと思っていない口調。俺はベッドの上でごろりと仰向けになりながらデカい溜息をついた。汗ばんだ肌が少し気持ち悪い。
 こいつが電話してくるってことは、用件は聞くまでもない。だけどこのまま話していてあいつが戻ってきたら面倒だ。
「で、なんの用?」
『今からどうだ?』
「ムリ。そんな余裕ない」
 たった今まで二時間がかりのセックスをしていた身体にそんな体力は残っていないと即答で断る。……つまり電話を掛けてきた男の目的はそういった類の誘いだった。
 だが面倒なことに、そいつは簡単に引き下がるような性格をしていなかった。
『頼むよー、一回だけでもいいからさ』
「一回でいいなら恋人に頼めばいいだろ」
『だってあいつ、自分がしたくないときにはなんもしてくれねぇからよ。お前だって知ってるだろ?』
(そんなの話で聞いただけだからわかんねーよ!)
 口に出して叫びたかったけど掠れた声で叫んでも威圧感なんて全然ないだろうし、それに万が一あいつに聞かれたらマズイと思い口を噤むことしかできなかった。
 そしてその間にも携帯の向こうからは自分勝手なことを言う男の声がし続けていた。
『なぁ、マジで頼むって。付き合ってくれたら今お前がやってる仕事手伝ってやるから』
「……はぁ?」
『俺が出したシステムのチェックに手間取ってるんだろ? 俺が手伝ってやりゃすぐに仕上がるからさ』
「あんたが作ったのを、あんたが自分でチェックしてどうすんだよ。まるっきり意味ないだろ?」
『大丈夫だって、俺の仕事は常に完璧だから』
「…………」
 例えそうだとしても、ミスを発見するためのチェック作業を本人以外の人間がやるのは規約にも入っている常識だ。ったく、こいつは何を考えているんだろう?
『いいか? いいよな?』
 だがこのまま言い合いを続けてもこの男が引き下がるとは思えない。今までの経験からいって、俺がこの男の誘いを断れたことは一度もなかった。
「……わかった」
『悪いな。じゃあいつものとこで待ってるから』
 しぶしぶながら俺が承諾すると、男はあっさりそう言って速攻で電話を切った。どこまでも自分勝手でマイペースな男だ。
 俺は仕方なく身体を起こし、男が待つホテルへ向かうための準備を始めた。ベッドの下に点在している衣服が性急に開始された情事を思い出させてくる。が、恥ずかしさに身悶えている時間はない。
 あいつが部屋に戻ってきたときにはすぐに出られるようにしておかないと──突然の呼び出しの理由をあまり深く聞かれたら誤魔化し続けられなくなりそうだから。
 ワイシャツのボタンの上着で隠れる部分は留めないままスラックスの中に押し込み、ジッパーを上げたところで浴室のドアが開く音がした。──なんとか間に合った。
「なんだ、どうした?」
 シャワーを浴びて戻ってきた新堂が、スーツを着ていた俺に驚いたように声を上げる。こういう日はシャワーを浴びてから帰るのが習慣のようになっていたから、単純に俺の行動を不思議に思ったんだろう。
 その顔がまともに見られず、俺はベルトを締めている手元に視線を落としながら口早に言った。
「ちょっと、先輩に呼ばれちゃって……これから飲みに出てこいって言うから、言ってくる」
「大変だな。お前のとこって飲むの好きな先輩ばっかなんだったな」
「ああ、本当に参るよ」
 軽く笑いながら言った俺の言葉を信じたのか、新堂はソファに置かれていた俺の鞄を持ってきてくれる。
「悪い、シーツ……」
「ああ、いいって自分で換えるから。早く行ってやれよ」
「……ああ」
「明日休みだからってあんま飲みすぎるなよ」
「ああ、サンキュ。そっちもゆっくり休めよ」
 乾いたとはいえ汗をかいた身体にスーツは心地悪く、ネクタイだけはどうしても締める気分にならず鞄の中に詰め込みながらそそくさと玄関に向かった。いつもなら終わったあとに小一時間くらい話ができるのに、不粋な電話のせいで貴重なその時間も今日はなしだ。……あとであいつにたっぷり暴言をぶつけてやらないと。
 後ろ髪を惹かれる思いでのろのろと玄関に向かうと、後ろから新堂がついてくる。初めてこの家に来たとき見送りに来てくれた新堂に、
『わざわざ見送ってくれなくていいよ』
 激しく照れながらそう言ったところ、
『鍵締めるから、ついでだよ』
 そんな返事が返ってきて、拍子抜けしたようながっかりしたような気持ちになったのを今でも覚えている。宣言通りの施錠の音に、なんとなく泣きたい気分になったことも……今でも忘れられなかったりする。
 けど、その音にも今じゃすっかり慣れたけどな。
「じゃあ、またな」
「ああ。……また」
 シャワー上がりの男らしすぎる姿に一瞬見惚れ、それに気づかれる前にと慌ててドアを出る。鉄製のドア特有の重い響きを背中に聞きながら、本当に次があるのかと後ろ向きなことを考えつつマンションを後にした。


複雑な想いに揺れる穂高……。
※加筆修正の可能性あり



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