遅咲きの菊*情痴・本文紹介





「それじゃ、今回は本当にすみませんでした」
「とんでもないです! こちらこそ、わざわざお越しいただいて申し訳ありませんでした」
「来月もよろしくお願いしますね、弓原先生」
「はい。では、失礼します」
「ありがとうございました、先生」
「お気をつけて!」
 突然編集部を訪ねた私に嫌な顔一つせず応対してくれた片桐君と編集長は、原稿の確認と来月の原稿の打ち合わせをすると、わざわざビルの玄関口まで私を見送ってくれた。
 ここのところ弘平以外の人間と話をする機会があまりなかったこともあり、時間にすれば短いものだったがいい気分転換になったなと、編集部を訪ねる前よりずっと軽くなった足取りで駅に向かって歩き始めた。
 ふと見上げた空は青く、ただそれだけのことでも妙に嬉しくなってくる。
「いい天気だな……」
 こんなふうに空を見上げたのも随分と久しぶりのような気がする。それくらい最近の私には余裕がなくなっていたということだろう。
(せっかくこっちまで出てきたんだし、少し買い物でもして帰るか……)
 近頃は家の近所で食料品の買い物しかしていないことを思い出し、外出ついでに衣料品でも買って行こうかと思い立つ。弘平の使っているバスタオルもだいぶ洗濯で傷んできていたし……新しいものに替えるべきだろう。
「よし」
 思い立ったが吉日だ。
 私は目的地をここから一番近いデパートに変更し、他に何か買うものがあっただろうかと考えながらふと視線を周囲に巡らせた。
(あれ……?)
 そのときふいに、視界の中に見知った人物が入った気がして──私はその方向に顔を動かしていた。
 車道を挟んだ反対側の歩道を、見慣れた作業着の男性が歩いている。あれは……
(弘平だ!)
 そう。目に留まった人物とは、見間違えることなどない最愛の恋人だった。
 時計を見るとちょうど正午を回ったところだ。ということは、弘平も昼休みの時間なのだろうか?
「こうへ……」
 思わず声を掛けようとして、この距離では聞こえるわけがないと気づく。うちの近所ならばともかく、こんなに大きな車道を挟んでいてはただ恥をかくだけだろう。
 ……でも、せっかく外で会えたのだし、少しくらい話をしたい。
 それにもしかしたら、弘平もここで偶然会えたことを喜んでくれるかもしれないし──。
 そんなことを思った私は、どこかに向かって歩いている弘平を追いかけようと、それまでより急ぎ足で歩き出そうとした。
 ──が、歩いているうちに見失うまいと、弘平の姿を再度確認するために上げた視線の先に弘平以外の姿を見つけてしまい、思わず立ち止まってしまった。



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