遅咲きの菊*陥落・本文紹介




「早くこいよ」
 軽くエコーの効いた声が私を呼んで、その声にさらに鼓動が弾む。……だが、これ以上ここでこうしていても仕方がない。
 棚から浴室用のタオルを一枚出して腰に巻き、
「…………入るよ」
 掠れそうになった声を無理やり押し出して、妙に重く感じられるドアを開けて湯気の立ち込める浴室へと足を踏み入れた。
 むんっとした空気とともに、ほのかな木の香りが鼻をくすぐる。足の裏に触れたのがいつもの冷たいタイルではなく柔らかい木の感触で、彼の作ってくれた簀の出来栄えに脱帽した。
 ……が、感謝の言葉を告げることができないくらい、そのときの私は緊張していて。
 彼はドアに背を向ける態勢で浴槽に浸かっていて、中に入っていった私を振り返らなかった。そのことにほっと胸を撫で下ろし簀に膝をつく。……確かにタイルに直に膝をつくよりずっと痛くない。
 いつもは湯船に浸かる前に浴槽の湯を身体にかけるが、彼が入っているところに桶を入れることなどできず──彼が手足を伸ばしている浴槽を直視できなかったのだ──シャワーを使って身体を流す。
 いつもは身体を洗う前に一度湯舟に浸かるのだが、彼の入っているところに入るなどそんなことはとてもできず、先に髪と身体を洗ってしまおうと、彼に背中を向けるような態勢をとってシャンプーの容器に手を伸ばした。
「…………」
「…………」
『シャカシャカシャカシャカ──』
 お互いに一言も発せず、ただ私が髪を洗う音だけが室内にこだまする。時折彼が身体を動かして水面が波立ち、その音に落ち着かせたはずの心音がどんどん大きくなっていく。
 気まずい空気をなんとかしようと口を開こうとしたが、話し掛かけたことによって彼が私の方を見たらと思うと気恥ずかしさが拭えず、結局身体を洗い終えるまで私たちは会話をすることはなかった。




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