座間の社寺
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  日照山金剛院(大日堂 
               


 「日照山金剛院」、これは河原宿の大日堂のことです。
 『座間市史』2近世資料編(市史編さん係編)の寛永三年六月「心岩寺除地入国以来高覚」に、
   せ主新右衛門
  一  大 日 堂 日照山金剛院
           本寺心岩寺
 とあり、また、
   大日堂屋敷御除地
  一 五畝弐十一歩 金剛院
  一  薬 師 堂 寺内ニアリ
 の記事があります。この次に「覚」の末尾と思える、次記があり、最後に裏表紙の記事が続きます。
   于時寛永元甲子年
      八月十一日
         心岩寺住持
          昌林宗桂(花押)
 裏表紙には、
   座間村陽蔵山代
 とありますが、「陽蔵山代」は人名かどうか分りません。

 座間大通りの南端で東西に交差する、昔は県道だった小道があます。西南方向に歩くと右手に火の見櫓が
あって、傍にあるお堂が大日堂です。
 正面に厨子と閻魔(木造)が並べてあり、厨子(開けると目がつぶれるという)の中に、高さ四〇センチ
ばかりの青銅製の像があります。大日堂ですから大日如来がまつられていなければならないのですが、この
像はどう見ても仏像には見えません。納衣をまとい、袈裟をかけていて、宗匠頭巾を被っています。額に二
条の皺があるのも俗人を思わせますし、組み手が異様に小さいのは技術的に稚拙な感じです。口伝によると、
大阪夏の陣に参戦したこの地の二人の若者が、戦場の火事場から見つけて持ち帰ったものだそうで、あまり
見られたくなかったので、厨子を開けると目がつぶれるなどと言ったのかもしれません。 堂内を調査して
みると、冠婚葬祭用具などに混じって、片手を失った大日様(木造)が見つかりました。座高三〇センチば
かりの小さいものです。金剛界定印ですから、山号の「日照山金剛院」に合致します。おそらくこの像が本
尊なのでしょう。金箔が剥がれて二度塗り直しをしたようでしたので、かなり古いものです。

 座間の歴史書に『座間古説』という書物が伝えられて、図書館(市史編さん係編)で出版されています。
この中に「桜田物語」という伝説が書かれています。市内に龍源院というお寺がありますが、ここはもと
渋谷高間という武士の館だったそうです(年代不詳)。ところが高間は急に仏心を起こして行脚の旅に出て
しまい、残された後妻の「まつ」は自分の産んだ娘「小柳」に跡目を継がせるため、家老と計って先妻の娘
「小桜」を殺して「やのふけ」に埋めてしまいました。この姉と仲の良かった妹小柳は母の罪を悲しんで、
同じ場所へ身を投じて死んだそうです。「まつ」を憎んだ村人は、そのころ難渋していた堤防工事を完成さ
せるために「まつ」を人柱に立てたといいます。以後、堤防が洪水で破壊されることはなくなったのですが、
今度は近くの牛池に牛に似た化け物が現われました。これは「まつ」の亡霊だとされ、前足の蹄 が五つあ
って髪が半身を覆うほどだったといいますから、昔の幽霊の姿です。その化け物が死んだので川原にあげ、
そこに大日堂を建ててまつったというのですから、これはそのまま大日堂の縁起です。昔は、牛は大日如来
の化身だといわれていました。

 厨子の傍らで威張っているのは閻魔大王ですが、「川流れ」といわれていますので、いつかの洪水で流れ
着いたものでしょう、それで台座がありません。河原宿のこのあたりは相模川が流れていて、流路の定まら
ない土地だったらしく、一メートルも掘れば砂礫層に当たります。かなり古くから人が住み着いたり、洪水
を避けて逃れたりしたようです。江戸時代初期、漸く今の地形が定まり、「川原」という集落が出来たもの
と思われています。村社の皇大神宮の創建が慶長十九年と棟札(再々建のもので心岩寺の昌林代とある)に
あります。

 ところで、大日如来は真言宗の信仰するところですから、この辺の人々は星谷寺(本尊大日如来)の檀徒
であるはずなのですが、皇大神宮の棟札は心岩寺の住職が書いています。心岩寺はもと久光山心願寺といい
河原宿にあって洪水で流失したのを、座間郷の豪族白井是房が館内に再建したものと伝えています。時代は
文安年中(1444〜48)といいますから応仁の乱より古い時代です。山号は座間山心岩寺となりました。当時
も座間郷の中心地が鈴鹿の辺りであったことが推定できます。

 大日堂の脇に古い手洗い石があり、側面に、

     相州座間
       谷戸
     念仏講衆
       十五人
      皆原衆
        四人
       宿
        三人
    天和三年 霜月

 と刻まれています。手洗い石で天和三年(1683)に遡る遺物は近在に見ないものです。河原宿はその頃は
まだ谷戸の「川原」であったことも判り、貴重な文化財と思うのですが、甚だ粗末な扱いが気になります。
何度か土地の人々にお話したのですが改めて頂けないのが残念です。

 また、石片として地蔵尊の蓮華台がありますが、刻字の「文蔵」「妙玄代」にも関心があります。文蔵は
『名主日記』(市史編さん係)に登場する人物名であり、同一人とすれば時代背景もある程度想像できます。
妙玄は尼僧のようで、当時大日堂は女性が住持だったのでしょう。

 もう一人、いや二人、大日堂にまつわる人物がいます。星谷寺の過去帳に記されていて、山門前の石造物
に関連して名のある「浄入」と、その父らしい「哲誓」です。

 この石造物は背面に「正徳四年八月吉日」とあり、右袖には「一之宮観音エ月参法界父母供養」、左袖に
は「奉造立六地蔵 星谷観音」とある石仏です。石造物、石仏としましたが、頭部がないので地蔵尊なのか
観音様なのかが分らないのです。一般には地蔵尊が多いものですが、持物が未開の蓮華なのです。 また、
この「一之宮観音」というのが分りませんでした。後、寒川の景観寺がそうだと分り訪ねて行って、星谷寺
と同形の石仏を発見したのです。頭部を欠き、蓮華を所持するところも同様でした。が、左袖に「……四年
午八月吉日 願主浄入」と施主の名がありました。それで、星谷寺の石仏も浄入の造立に成ることが判った
のです。(『つづれ草』38号)

 前記星谷寺の過去帳には十日の欄に、

    正徳元卯六月
   法 師   哲 誓
     施主 浄入

 があり、哲誓は浄入の父であり、また法師(僧)でもあったかと想像されました。

 一方、浄土寺過去帳の十六日の欄には、

    元禄十三辰四月 大日堂哲誓
     光 誉 妙 専 信 女

 があります。この女性は大日堂哲誓の妻でしょうから、哲誓は当時大日堂の住僧だったことが判ります。
妻の妙専が四ッ谷の浄土寺(浄土宗)で葬儀を行ったのは、実家が四ッ谷だったからでしょう(星谷寺は
真言宗)。

 こうしてみますと、浄入が星谷寺と寒川の景観寺に石仏を建立し、景観寺へ月参したのは父母の供養で、
正徳四年はその満願の年だったのではなかったかと思われてきました(しかし、六地蔵そのものは見つか
っていません)。

 父の没後、浄入は大日堂の住僧を継いだのだろうと想像しています。  (18・4・10)
 

諏訪明神

 諏訪明神社は座間市域に2社ある。1社は入谷3丁目にあるこの社、他の1社は新田宿にある。

 入谷のこの社は梨の木坂下の崖上にあり、口伝ではもとは石楯尾神社といい、延喜式内社の相模13社

の1にあげられていたという。

  石楯尾神社は『文徳実録』の天安元年(857)の項に、 <在相模国従五位下石楯尾神預官社> とある

社で、

『新編相模風土記稿』には石楯尾社を、 <今座間入谷村、諏訪社是なりと云ふ、又下鶴間・大島二村津

久井県、名倉村にも、旧社の傳あり、是否詳ならず、>

とし、近郊各社の筆頭にこの社を挙げている。

                                                                  

 諏訪大社(長野県)の末社で、祭神は建御名方命(たてみなかたのみこと)。鈴鹿と皆原地区の氏神で、
例祭は4月17日。享保9年(1724)の棟札が残されている。
『皇国地誌残稿』に、<字鈴鹿ノ岸頭ニアリ、社地中ニ老松数樹アリ、六七百年前ノモノタリ、岸腹ニ横穴
数所ニアリ、何故タルヤ伝ハラズ、口碑ニ延喜中石楯尾神社ノ
号賜ハリシト>と、相模延喜式内十三社のうちの「石楯尾神社」にこの社をあてている        
しかし、別当寺であった心岩寺が明治3年火災に遭い、古い記録を焼失してしまったという。社殿は、梨の木
坂の北側の台地にあって、階段下を藤沢街道が通り、社のすぐ東側には鎌倉古道が通る。西方に大山丹沢の山
並みを望み、眼下はるかに相模川が流れている。
 石楯尾神社がいつ、どうして諏訪明神になったか不詳だが、諏訪(スワ)はソワ(崖)からの転訛が多いそ
うで、この社はたしかに崖上に鎮座する。いつ頃かソワが忘れられ、スワに訛り、諏訪明神とされたと思える。
時期についてはわからない。
 口伝だけで、社屋も立派でないので、式内社を疑問視する向きが多いが、7、8世紀にはすでに夷参に駅家
(ウマヤ)があり、夷参は下総国府、武蔵国府に通じる東海道の要衝であった。交通の要衝であったというこ
とは、情報の要衝でもあるかけで、駅家に近いこの社を旅の安全を祈っての官社としたことは充分考えられる
のでは無いだろうか。
 往古は社は鎌倉街道に沿い東向きだったという。「石楯」という社は他地域にも「岩立」の名で存在し、
山上の岩を神格として祀るものだが、ここでの「石楯」はおそらく大山であろう。大山を石尊神社というが、
石楯尾の「尾」はその末社ということだろう。ヤマタノオロチというが、尾は8つあってもいいわけで、近在
の散在のかたちで存在する石楯尾神社もわかるのである。そのうち、入谷のこの社を式内社と考えるのは、
この社が大山に対して東西軸にあるからで、昔は東向きだったというのは、大山の本社を拝むことからであろう。

鈴鹿明神社

 

座間郷の郷社とされている社である。つまり、このあたりが「座間」の名の起りであろうと推測される。

「皇国地誌残稿」に、<桓武天皇の第三皇子葛原親王、イガスリの大祭を教示したまう>とある。

イガスリの祭りは明治初年まで鈴鹿明神の祭礼のことであった。これも「皇国地誌残稿」に記すところである。

この祭りは宮中5座にある祭りで、大阪にある座摩神社のいつき祀るところである。大阪の神社と同じ

祭礼が座間にあり、名前も同じザマなら、「座間」の名の起りも関係があるかも知れない、と調べたら、

それが万葉集から出てきた。

大阪は昔は難波と呼ばれていたが、ここは北九州警護のための防人の集合場所であった。

万葉集に<大伴の御津・・・・・>云々の歌が数首ある。「御津」は難波津で、遣唐使や防人を船出させた

である。そこが大伴氏の所領であったのだ。

大伴家持は宝亀年間に相模国守であったことは知られているが、その本貫の地が難波であったことは、

関係の第一である。万葉集は家持の撰になるといわれているが、そこに防人の歌が100首ばかりある。

これは天平勝宝7年(755)の防人交代要員から家持が受け取った各国の防人や家族の送別の歌を収録し

たものである。このとき、家持は兵部少輔として防人たちを統率し、難波の御津から船で西国へ輸送する実

務にあったのである。

大阪の座摩神社はこの近くに存在した。防人たちの歌の中に、

<庭中の阿須波の神に木柴さし吾は斎(いは)はむ帰り来までに>

という1首がある。「阿須波」の神はイカスリの神の1で、坐摩神社の祭神である。これでいくと、

防人たちは坐摩神社境内に駐屯していたことになる。社寺の境内を兵士の駐屯に利用することはむかしから

の常識であった。イカスリとは「井之後」と書いて湧水の下流を指す。鈴鹿明神の地はまさに

「井之後」である。家持はこれを知って、奥羽征伐に赴く兵士の武運を願って自領の坐摩神社の祭神を

勧請し、この地を「座摩」と名乗らせたのではあるまいか。延暦元年(782)、彼自身が陸奥鎮守将軍

として蝦夷征伐に遠征することになった。

本来、座摩神社であるべきを鈴鹿明神としたのは、おそらく伊勢の御師の入れ智恵で、そのへんの

事情も「座間古説」に見える。「皇国地誌」では高座郡の中央なので「座摩」の摩を間に変えたとしている。

この社を「天王さま」といい、牛頭天王を祀るのは、弘治2年(1556)、再建した若林大炊介が勧請した

もののようである。「座間古説」はいちゃもんをつけているが、社の祭神が有力者によって変えられることは

よくある。