全国の座間さん
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全国の座間さん、ようこそ!

 

座間、この変わった名前の人々は、むかし、相模国の座間から出た人々であろうといわれています。(「姓氏家系大辞典」太田亮)

では、どのようにして、そのようになったのか? 皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

 

私は、神奈川県座間の一市民です。私自身は座間姓ではなく、昔からの住民でもありません。

また、座間市に座間さんはほんの2〜3軒しかありません。しかし、隣の相模原市、厚木市、大和市、海老名市にはかなりの座間さんがいます。

 

そのほか、横浜市、横須賀市、千葉県の各地、さらに松本市、岐阜県にも座間さん、坐間さんが住んでいます。

 

このホームページは、それら各地の座間さんの口伝などの収集と、由来の研究結果を書き込み、加えて、皆さんからの情報を期待してのものです。

 


 

東京の座間さん

                                     さがみの野火

 

 座間住民として、また郷土史研究の一環として「座間」という地名、加えて、「座間」と名乗る姓のルーツと分布の情報を数年来収集しているが、東京にもかなりの「座間さん」がいることに気付いた。

 それはハナショウブ「座間の森」からで、このハナショウブの「座間」の名から座間市が養殖しているが、その手伝いを続ける『座間の森フラワーメイト』というグループがあり、私も一員として、作業かたがたその名の由来を辿ってからであった。 ハナショウブ「座間の森」は東京の葛飾にあった「武蔵園」(昭和初年に閉園)を経営していた座間カンゾーという人の作出で、時期は幕末から明治初年ころといわれる。そこまでは静岡県掛川市でハナショウブ園(加茂花菖蒲園)を経営し、著名な研究家でもある加茂元照氏からいただいた情報である。また、座間カンゾーの名は英国人の記事からで、漢字でどう書くのかは分からないということであった。

 葛飾で「座間の森」を作出したのが座間という人なら、あるいは葛飾にはその子孫の方がいられるのではないか、と気付いた。そこで電話帳を調べてみると、三〇軒ばかりの座間さんがいる。これらの座間さんは、座間とどういうつながりがあるのか、それとも全く関係ないのか。あるとすれば、どこからどうして? これは私にとって甚だ興味あることであった。

 そこで、アンケート様式に回答を求めて、ランダムに選んだ葛飾区の座間さんに一〇通ばかりを出した。うち、二人の方から返信があり、

 @座間兼吉さん

   本家の墓が極楽寺にある。

   先祖については不明。

   家紋は丸に剣カタバミ。

 A座間義雄さん(電話)

   堀切菖蒲園に近くお住まい。

   墓は極楽寺。

   家紋は丸に違い鷹の羽(この紋は上総。安房の座間氏、都筑区池辺の座間氏の1部とも共通する)。

   先祖は武士。

 とのことであった。

 別に、『歴史散歩の会』という歴史愛好家グループが座間にあって、多年、私も役員の末席にいるが、こちらは名所旧跡というよりも座間に関係のありそうな地域を訪ねる「散歩の会」である。この春の行事に葛飾の菖蒲園を訪ね、併せて、付近の座間氏に関係のある史跡を訪ねようということになった。

 期日は6月6日(日)として@Aの座間さんへ連絡した。かねて、いつでも連絡があれば案内する旨いただいていたのである。特に、@の座間兼吉さんの同級生(磯貝氏)が堀切菖蒲園のもと経営主で、地主でもあり、今も園内で料亭を経営されておられ、更に、同地の座間氏についても詳しいので紹介する、ということであった。Aの座間義雄さんはあいにく当日所用だが、地の郷土史研究家谷部氏に案内を依頼しておく、とのことであった。

 行事には『座間の森フラワーメイト』会員からも三名の参加を得て、総勢二〇名になった。

 当日は暑いくらいの晴天で、ちょうど堀切菖蒲園は「花まつり」の初日とあって混雑の中、座間兼吉さんにお会いでき、磯貝氏からは当地とハナショウブとのかかわり、座間氏の伝承などを聞かせていただいた。また、谷部氏も同行されて座間氏の菩提寺である極楽寺を案内していただいた。

 それらによると、平安時代末期、葛西氏の一族の御城蔵人という武将が堀切に城を構えたが、戦国時代に至り、後北条氏のために滅ぼされ、家臣であった磯貝、小高、谷部、座間など6氏はこの地にとどまって農民となり、手なぐさみに山ショウブを植えたのがハナショウブの由来だという。

 今は、堀切菖蒲園しかないが、もとは「小高園」「武蔵園」「吉野園」などがあって、江戸の名所として知られていたそうである。

 極楽寺は堀切菖蒲園の裏手にあって、前述の通り座間一族の菩提寺だが、小高氏、谷部氏、磯貝氏も同じ檀家であるらしい。寺は真言宗豊山派で医晃山薬王院といい、宝徳元年(1449)紀伊根来寺の普済の創立とある。通称イボトリ地蔵と呼ばれる地蔵尊が門前にあり、塩にまみれている。この塩をイボに塗れば治るのだそうである。

 墓地の座間氏の墓で古いものでは元禄四、五年の板碑があった。家紋はいずれも「丸に剣カタバミ」、また、座間カンゾーは「勘蔵」と書くことがわかった。墓石は大きくはないが、彫りも石材も優美である。

 今年はハナショウブの開花が遅く、まだ座間で花は見られない状態だったが、さすがにここ堀切菖蒲園では花まつりに合わせて多くが華麗な花を見せていた。中に「座間の森」も1株だけ紫ぼかしの大輪を見せていて、われわれを喜ばせてくれた。それに、松平菖翁作出の代表花「宇宙(おおぞら)」の見事なコバルトブルーの乱れ咲きも初めて拝見できた。

 兼吉さんからいただいた本(『堀切と花菖蒲』)によると、座間勘蔵は、嘉永七年(1854)六月の『草花伐出売々仲間規定』(東京都立中央図書館蔵)の堀切村二五名の中に「勘蔵」の名があり、慶応四年(1868)二月の『御申論并御議定帳写』にも武蔵屋の「花菖蒲 勘蔵」が記載されている。当時は「小高園」の伊左衛門が有名だったようだが、文人蜂屋茂橘は『堀きりの草花』の「かつしかの遊ひ」で、

 <ここをたち去りて、あたり近き勘蔵といふ花戸の家に至る、庭の浅き流れの中に、花せうふ多くうへて、名の札をたつ、またミやひたる板橋をわたせり、世にめつらかなる花いと多く、花ふさの大ひなるに至りてハ一尺にあまれるも有けり、いとうるはしく、いと妙なり、おのれつらつら思ふに、かしこ(筆者注・「小高園」)ハうち晴れたる所の広き門田なれハ、けしきよきはいふもさら也、花のかすも多けれハ、爰よりハまされりと、かりそめにみる人ハ思ふめれと、心をとめ眼を定めてなかむれは、よのつねの花のミ多し、又爰は庭の中のミなれハ花も少く、打はれしけしきハなけれとも、めつらかなる花多けれハ、はなをむねとつめる人ハ、爰に心ひかれ、けしきをむねとなかむる人ハ、かしこをめてあかぬここちすめり、されは伊左ハ勘蔵か上にたたん事難く、勘蔵ハ伊左か上にたたんことかたくなんとや>

 と、勘蔵の武蔵園が珍しい花を以て勝れていることをたたえている。また、

 <あるし勘蔵に此花をうへそめし事、世にめてはやせしはしめの事なと問ふに、やつかれか家にてハ三四代のむかしより作り侍り、世の人めてくつかへりて、きそひ来れるハ、未の年の比より也といへは、弘化四年丁未也>

 というので、弘化のころから座間氏の菖蒲は本格的になったようだ。明治四年、勘蔵は日本で初めて数種数百株の花菖蒲を海外に輸出した。その中に「座間の森」があり、高い評価を得て「カンゾー」の名も「座間」の名も海外に残ったのである。 相撲番付に似せた「武蔵園花菖蒲番付」(明治前期)は堀切村の勘蔵が発行したもので、「座間の森」は東大関という筆頭に記されている。その後、なぜか「武蔵園」は吉木氏の手に移り、吉木滝蔵(一書に龍蔵)発行の番付では行事格として中央下部に記されている。残念ながら「武蔵園」は昭和初期、私鉄の所有となって廃園した。

 ところで、この地の座間氏が平安の昔からとは考えにくい。同じ葛西郡の下総では松戸市、柏市、特に沼南町には集中して四四軒の座間氏がいるとパソコンから情報を得た。中世から室町末期にかけての沼南町北西部は、小金大谷城主(松戸市小金)の高城氏に属していたので、その地の座間氏は高城氏の家臣だった可能性があるとのことでもあった。葛飾の6氏が御城の家臣だったというが、「御城」と「高城」は同じなのかどうか? 別に、これは上総からの情報だが、

 <戦国時代、千葉氏の家臣の下総の領主高城下野守胤長の家来に座間斎宮という武将がいる。これは紀州熊野大社の神官だったらしい>

 というのもある。これでいくと「座間」の名の起こりに別系統があるように思えるが果たしてそうか?

 これらの地に近く国府台(こうのだい)がある。後北条氏と房総の里見氏が天文七年(1538)、永録七年(1564)の二度にわたり関東の覇者を争って戦った場所である。いずれも北条方の勝利に終わったが、この戦いに参戦した座間氏がいた。『武蔵風土記稿』の池辺村に、

 <旧家名主座間金蔵の祖先座間某は永録年中、下総の国府台の合戦に鉄砲で傷を負い廃人となって池辺村へ土着したが、もとの菩提寺は本牧の妙蓮寺だという>

 とある。

 座間某が、池辺に何の関係も持たず引退したとは思えない。池辺村にほど近く、都筑区(現)茅ヶ崎の城主は、後北条時代北条の家臣、座間新左衛門だったことが文書(『北条役帳』)に記載されているので、おそらくは新左衛門の一将として某は参戦したのではあるまいか。本牧の妙蓮寺は現存しないが、池辺の隣に同名の妙蓮寺があり、池辺の座間さんはほとんどこの寺を菩提寺としているという。

 また、先にあげた堀切の6氏のうち小高氏についても、『武蔵風土記稿』の池辺村を引用して『姓氏家系大辞典』(太田亮・角川書店)に、

 <都筑郡条に「貞享四年小高市右衛門と云ふもの小高新田を開墾す」「貞享四年小高市右衛門密経新田を開墾す」とあり> ここにも小高氏の存在を記している。

 こうしてみると、下総、葛西(堀切を含む)の座間氏(小高氏も)は小机郷と関係がありそうに思えてくる。が、戦った戦場に近く、なぜ座間氏が根付いているのかは、今のところ不明である。

                 (平成12・1・2)

 


信州路の旅

 

               さがみの野火

 

 

 座間に住む歴史愛好家のサークルに『歴史散歩の会』というのがあって、発会以来10年になる。私も発会当初からの会員で、当初からの役員でもある。

 「10年記念行事として一泊旅行なんてどぉ?」という話があって、それなら座間に関係の深い高遠などどうだろう、と意見を出した。「わぁ、行きたい」ということになったのは、「座間に関係の深い」理由のほかに、高遠が大奥女中絵島の流刑地で、女性には関心のあるところだったからでもあろう。

 「座間に関係の深い」という意味には二つあって、その一つは高遠城主の内藤氏の先祖、内藤清成が座間の領主であったことがあり、座間には清成が開基した宗仲寺という寺があって、清成ほかの内藤氏の墓石がある。

 もう一つの関係は、座間の江戸時代の石造物の多くが高遠石工の系統を引くものだということで、市指定重要文化財の星谷寺の宝篋印塔(宝暦13年=一七六三年建立)には

   喜左衛門 信州殿原

   直右衛門 信州国田原

   甚七   同 弥堂谷

 などの石工名が残されている。

 相模川を渡った厚木市に七沢石という凝灰岩の石材を産出する一帯があって、江戸時代中期に高遠から来た石工が出稼ぎに来て技術を伝えた。凝灰岩は石質が軟らかく工作しやすかった。緻密な彫像には向かないし、耐久度も劣るが、安価であることから座間などでは石造物の多くがこれによっている。

 次に、高遠に行くなら松本に立ち寄れないだろうか、という私案を出した。松本市にはなぜか座間姓を名乗る家が多いのである。以前、それについて松本市の市史編さん室に資料を頂いたことがあって、松本市内と付近には50軒くらいの座間氏がいて、これらは甲州浪人といわれていることを承知していた。その座間さんのうち、市史編さん室から紹介のあった座間茂夫さんという方に電話でお話したこともあったのである。

 昨年秋、やはりこの会の行事で、小机郷(現在横浜市緑区・都筑区)を巡るバスの旅を行ったことがある。小机郷の鳥山には佐々木高綱の館があったといい、頼朝の命で鎌倉の鬼門鎮守の寺として高綱が建立したという三会寺(真言宗)があり、この寺や付近の八幡宮、また高綱が騎乗した生ュ(宇治川の先陣で名高い)の祠という馬頭観音などを見てまわった。続いて北条氏秀が城主であったことがある小机城、さらに対岸の茅ヶ崎(湘南の茅ヶ崎市でなく、現在横浜市都筑区。中世は小机郷に属す)を巡った。

 小机郷には座間姓の家が多い。現在主として池辺町に多いが、中世の茅ヶ崎城主に座間新左衛門の名が見える(『北条役帳』)など、付近一帯を中心に横浜市全体では一五〇を上回る座間家がある。

 鳥山は『新編相模風土記稿』によると、北条泰時に命ぜられて佐々木泰綱が開拓した土地ということである。佐々木氏はもと座間郷を領地としていたらしいことは、星谷寺に佐々木信綱寄進の梵鐘(国指定重要文化財)があることでも推測されるが、泰綱は信綱の子であり、高綱の甥でもある。小机郷の開拓には所領の座間郷からの領民を使役したであろうことは当然考えられ、開拓の後はこれらに耕作を任せたことだろうから、この付近に座間姓の家が多いというのは理解できる。

 松本市に座間姓が多いことについては、すでに座間の郷土史家鈴木芳夫氏(故人)が述べられているところで、氏はこれを北条氏秀(氏直の子)が人質として甲州武田氏に送られたとき、氏秀に付けられて行った武将だろうと推測されている。松本市の座間氏はおそらく武田氏滅亡後彼らが居着いたものだろうということであった。

 この説を展開すれば、氏秀は幼少にして小机城主だったのだから、これに従ったのは小机郷の座間氏であろうということになる。

 コースは一日目が高遠、夜は下諏訪の宿へ泊まり、翌日昼頃に松本へ到着、ここで座間茂夫さんにバスに同乗していただいて案内をこう、というものであった。「石造物の源流と座間氏を訪ねる旅」というのが歴史散歩の会斎藤会長の命名である。 参加者は20名(マイクロバスで定員22人)、六月七日(土曜日)朝7時30分、座間市公民館前を出発した。

 高遠では高遠石工の石造物の所在する寺院を中心に巡った。まず建福寺(臨済宗)。大宝山と号し、蘭渓道隆(大覚禅師)の開山という。道隆は鎌倉の建長寺の開山であり、渡来直後鎌倉の寿福寺(佐々木定綱寄進の十六羅漢の開眼供養が行われた)に寓し、ついで飯山鋳物師の作かとも説のある梵鐘(国指定重要文化財)の残る大船の常楽寺(泰綱開基)に移り、後、建長寺の開山となった人物である。

 ここには高遠の名工守屋貞治の作品が多数ある。数屋の小屋に並べられて保存状態はたいへん良い。石材も良く、緻密な出来栄えは石造物であることを忘れさせる程のものだ。貞治は明和二年(一七六五)に生れ、天保三年(一八三三・六十八歳)に没したが、六十七歳の時、眼病のため仕事を中断し若年からの作品を列記した細工帳を書いた。これにより三百四十体以上の作品を残したことが分かるのである。彫像に当たっては、つとめて質が緻密で粘り気のある安山岩系の良材を選び、石材に対するや、その石の中から石仏が出現すると信じてノミを打ち込んだという。

 程近い満光寺は高遠藩主内藤家の菩提寺で、歴代藩主の墓塔がある。ここで気付いたことだが、墓塔や付属物に刻まれた家紋は藤でなく、左十字と称する紋であった。今は無いが、宗仲寺の内藤氏墓の香台に丸にナの字を彫ったものがあった。ナの書き順が一の横文字から縦のノに移るもので、これは逆ナと呼んでいいのかも知れない。つまり、高遠内藤氏の家紋の十字は、もとはナから来ていると思う。内藤(ナイトウ)のナである。しかし、これが十字に移るについては隠された事情があるのではないか。もと、ナを家紋に使うときにも十字の意識があって、そのため逆順の書き方になったのではあるまいか、というのである。考えてみると、宗仲寺が境内整理のためとはいいながら、あの香台を無くしたのは残念である。

 同じように程経て蓮華寺がある。この寺には高遠に流された絵島の墓がある。絵島は高遠の囲み屋敷で二十八年間過ごし、六十一歳で没したという。墓石は相模に多い板碑型で、蓮台・基段の上に苔むして立つ。

   寛保一辛酉 

 信敬院妙音如大姉ゥ

   四月十日

 と読めた。少し傾いているのがなにか似合った感じだった。時間があったので囲み屋敷にも立ち寄って見学した。下諏訪の宿へ走り、宿(『ぎん月』)に着いたのは夕刻前であったので、下諏訪社に参拝した。

 翌朝は温泉寺に立ち寄った。ここにも守屋貞治の作品が多い。貞治は三十歳のころ温泉寺で仏道の修行をしたが、当時の住職願王は貞治生涯の師でもあった。前記建福寺には願王地蔵尊という貞治作の石像がある。

 (寛政二年=一七九〇〜嘉永三年=一八五〇)や貞治の弟子で貞治と多くの合作をした渋谷藤兵衛、武州平井村に平井無辺の石塔を刻んだ秋山和助・義兵衛など名がある。神奈川県下にも高遠石工の名は二十の石造物に残されている。座間では星谷寺の宝篋印塔のほか、座間神社の小さな石柱に信州石屋後藤仲右衛門の名が見られる。

 諏訪大社にお参りして、一路松本へ向かった。松本城下の食堂で昼食の後、座間茂夫さんが待っていてくれる島立荒井地区へ向かう。

 市史編さん室からの紹介で座間さんは、県土木課に永年勤務され、定年退職後は連合町会長を永年務められた方だということであったが、そのようにがっちりしたタイプの方で、白髪の日焼けしたお顔であった。八十歳近いとうかがったが、お元気そうだった。

 座間さんは新国道でわれわれのバスを待たれていたが、われわれの方は先にお城に行って引き返して来たので、方向は逆であった。ずいぶんお待たせすることになってしまった。それでもお会いすることができて、バスに同乗していただき、先ず同じ地区内の正行寺をたどった。狭い道に苦労して、やっとのことで小さいがゆかしい感じの寺に到着した。

 今回の行事に先立って調査する段階で、座間氏の多い松本市島立に正行寺という浄土真宗の寺があり、これが佐々木高綱の開基した寺とあるのを発見した。小机郷といい、松本市といい座間氏の多い地区になんで高綱が出てくるのか、単なる偶然にしても面白いではないかというのが、たっての願いで座間茂夫さんに案内をお願いしてあったのである。

 高綱は小机の鳥山に三会寺を開基したが、三会寺は真言宗で、晩年の高綱が世を捨てて仏門に入ったのは高野山(真言宗)であった(法名西入)。浄土真宗というのは初耳で、この地と高綱との関わりにも興味がある。

 高綱の墓は寺から離れた田圃の中にあった。とてもバスでたどれるような道ではなく、運転手さんには申し訳けなかったが、なんとか田圃の道を墓のある松林まで行っていただいた。

 墓は2メートルばかりもあろうかという自然石で正面に、

   釋了智上人

 と大きく彫られていた。1メートルばかりの基段の上に台石を置き、さらにその上なので、裏面の逆光の刻字は読みきれない。写真に撮ったが、条件の悪い状態でのプリントの字は殆ど判読もできなかった。座間さんにいただいた資料と記憶によって、

   佐々木四良高綱

  承久三年十月二十五日

 としておく。資料には、

 <近江源氏の佐々木高綱が、後に越後の小丸山に真鸞上人を尋ね、その弟子になります。僧籍に身を置き、了智と号して諸国を巡り、最後にここ筑摩郡の栗林に浄土真宗の正行寺を創建し、この地で示寂したといわれます。墓前には、子孫であるといわれる乃木希典大将が一対の献灯をしています。>

 とある。乃木家は高綱の次男(光綱)が叔父義清(母は渋谷重国の女)の婿となり、後裔が能木にいて乃木を称した家系である。ここには大将が二度訪れたそうで、近くに乃木殿という塔があり、乃木大将夫妻の遺爪や遺髪が納められているそうであった。

 してみると、乃木大将も自己の祖先と認知してのことであったろうし、それには相応の資料があってのことであろう。大将が祖先を敬い、誇りをもっていたことは、近江の佐々木神社に乃木家の系図を納めたという記録からも知れる。

 しかし、ここで了智上人といわれる高綱が没したということは中央の文書に現れていない。高綱の没年も吉川弘文堂の『国史大辞典』には建保二年(一二一四)十一月没とだけあって、『姓氏家系大辞典』には没年不詳としてある。松本市の解説はどうも『大日本史』によったらしいのだが、私は未だ読む機会に恵まれていない。

 石碑と『国史大辞典』に記す没年には約七年の差があり、これを松本の郷土史家では没後七年にあたり供養のため建立した年月日ではないかと言われたが、供養のための建立に日にちまで彫るものだろうか。あるいは、寺の過去帳にはこのように記載されていたかも知れない、と思う。ここで没したとすれば、没年月日を過去帳に記載するのは当然だからである。

 松本の座間氏で、蛍庄屋といわれた旧家が両島という地区にあった。氾濫の多かった奈良井川の対岸である。こちらの島立荒井地区の座間氏は、洪水のあと両島から移ってきたのだそうである。蛍庄屋というのは、江戸時代の松本藩主(小笠原氏)が蛍を見物に訪れた庄屋だということで、現在その元屋敷付近には水道施設などがあり、想像できるようなものは何もない。 苗を植えて間もない水田の脇に墓地があって、そこが蛍庄屋(本家は絶え今は分家)の墓地というので木立ちの中へ入ってみた。墓は自然石のものが数基あり、家紋は三階菱である。案内していただいた座間さんの家紋(他の座間家も)は抱き茗荷に「座」の字が入ったものだそうであったが、三階菱は藩主小笠原氏の家紋で、おそらく蛍庄屋が拝領したものであろう。

 「あれが蛍庄屋の分家です」と指差してくださった家の大きな屋根だけが水田の向こうの樹木の間に見えたが、そう立派には思えなかった。

 松本の郷土史家の間では、座間姓は地形からきたものではないか、とのことであった(狭くなった土地=挟間=座間)。が、甲州浪人といわれる家が、ここでそういった名を名乗る必要があったとも思えず、そういう地形にも見えなかった。

 格別の収穫があったとも思えない旅であったが、二日間、雨の日の多かった中にあって好天に終始した(帰途の車内で雨を見たが)のが救いであった。

                    (9・7・9)