座間の自然
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座間は相模川中流の左岸に位置していて、中央部を南北に相模横山という丘陵があり、その西部の相模川沿いは水田地帯、東部なかほどを目久尻川が北から南へ流れて狭い谷を作っています。

歩いてみて、坂が多い、ということと、湧き水が多い地形が目につくと思います。中央部を南北に小田急線が走っていて、東京のベッドタウン的性格が濃くなり、湧き水も少なくなる傾向にあります。

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(龍源院の湧水下流)


 

 

  座間の水

                                         さがみの野火

 私たち家族が座間へ移ったのは昭和三九年(一九六四)だった。

 当時、座間の人口は二万足らずだったと思う。新聞配達の、親切で話好きなおじいさんがいて、病気勝ちだった妻に代わって買い物をしてくれたりしていたが、おじいさんの言うに、「座間の水は地下水で無尽蔵だから、安心していいですよ」とのことで、たいそう自慢しておられた。それからおよそ三十年、人口は十二万、無尽蔵であったはずの水はとうに不足し、今では県水(県営水道)の補給を受けている。

 さきごろ、市の職員から座間の水についての講演を聞く機会があったので、その要約を通じて所見を述べてみたい。

 座間が古代から湧水の豊富な地であったことは、周知のことであり、西部の相模川、東部の目久尻川の二つの河岸段丘と流域の各所に湧水箇所が現在もある。「現在も」というのは昔日の面影を失って、次第に枯れる状態となっているからであるが、そのような土地柄であるので、市水道の水源池(座間基地の水源は「地」、市水道は「池」を使用)はこれら二つの河川に沿ってある。

 水源池の井戸には浅井戸と深井戸があり、前者は目久尻川(芹沢川も)地区、後者は相模川地区にある(深井戸7号だけは目久尻川)。もとは浅井戸だけで足りたのだが、不足してきたので、水田地帯の相模川流域に深井戸(1・3・4・5・6号)を設置したものである。

 それでも水量を確保できなくなって、県営水道の補給を受けているのだが、その総量(日)11820m3は全量58650m3の15%に相当するという。しかし、これは全水量に対する比率で、県営水道は栗原地点(第2配水場)と相模が丘地点(相模が丘配水場)に配水されているので、これらの地区(ひばりが丘・小松原・栗原東部・相模が丘)では県水の比率はずっと高くなり、座間・入谷・新田宿・四ッ谷地域では全量が市水である。

 おいしい水と言われる根拠を、夏も低温であること、異臭のないこと、ある微量のミネラルを含むことなどの地下水に求めるなら、座間の東部地域の住民はあまりその恩恵に浴さないことになる。座間の水はおいしいと聞いたのに、引っ越して来てみたら、今までいた川崎や東京とあまり変わらなかった、といった感想を漏らす人が栗原地域の人に多いのは理由のあることなのである。

 だが、地下水にも最近問題がでてきた。それは特に浅井戸の水に有機塩素化合物(トリクロエチレン)と硝酸性窒素・亜硝酸性窒素の濃度が水質基準を超え、あるいは基準値に接近していることである。

 水質基準(0・03r/l)を超えた有機塩素化合物(トリクロエチレン)については、除去装置を配水場に設置して基準値以内に抑えているが、硝酸性窒素・亜硝酸性窒素の除去には大規模な施設が必要であるので、実験予算の計上だけの段階で、現在は深井戸の水や県水の混合によって基準値に抑えるようにしているという。

 座間の場合、浅井戸と深井戸の取水量はだいたい2対1の割合いで浅井戸が多い、座間の水質をいう場合は浅井戸が問題になるわけである。

 しかし、深井戸の取水にも問題があるのは、深井戸の設置された地区が水田地帯であり、水田に水の張られた期間、すなわち稲の成育の期間には取水量も増加するが、冬季など水田に水のない期間は激減する。6〜9月に降雨がないと量の確保が出来なくなるわけである(年間1800_の降雨が必要という)。また、酒匂川で検出された発癌性のある物質(除草剤が原因)などが混入する危険もある。

 浅井戸の取水量が減水傾向にあるとき、深井戸の水量を増やしたいが、水田はこの地域からも次第に少なくなり、やがて住宅地化の波に押されて取水もままならぬことになるのではあるまいか。

 地上に水が張られた状態の地域、季節で取水が増えるなら、相模川の真ん中に深井戸を設置したらどうだろう。素人の浅知恵と笑われるかもしれないが、真ん中でなくても川に近い場所なら可能性があるのではなかろうか。相模川の岸辺には今も湧き水のある場所が見られるのだ。 市水道部発行のパンフレット『座間の水道』の表によると、平成8年度からは県水の割合は20%となり、9年以降は宮ヶ瀬ダムからの給水を受けざるを得ない状態で、第1配水場への送水計画(第1次)では日量17800dが予定されているそうだ。この県水の価格は現在の2倍に相当するというから、まずい水を倍の値段で飲まされることになって、「座間の水」と自慢するどころの話ではなくなる。しかもこれは県(県内広域企業団・県営水道局)との契約で、節水したからといって安くなるというものではない、という。

                                  (「つづれ草」34号 平成6・9・1発行)

 


  目久尻川

                                             

 目久尻川はむかしは目穿川と書かれたようです。「穿」という字をどう読むのでしょうか。「牙」があるので「が」かと思って漢和辞典で見てもありません。「宀」があるのでその項を見てもみつかりませんでした。やっと気付いて「穴」を見たら、ありました、ありました。これは「セン」と読むらしいのでした。

 意味は、  @うがつ。イ、ほる。ほりひらく。ロ、あなをあける。ハ、  つらぬく。つきとおす。ニ、きわめる。たずねきわめる。 Aあな。  Bあながあく。やぶれる。  Cつかあな。墓穴。  D身につける。イ、着る。ロ、はく。はきものをはく。

  とあって、どちらにしてもあまりこころよい意味ではないようです。  目をうがつ、というのですから恐ろしいですね。本当に下流の綾瀬では、川にすむ河童が悪さをするので、目をくじってやったという昔話があります。しかし、河童は実在しない空想の動物ですから、悪さをするわけもなく、ましてその目をくじってやったなどはウソに決まっています。  

では目久尻川(めくじり川)という変わった名前はどうしてつけられたのでしょう。  じつは、明治の初めごろまでは、栗原の人々はこの川を「めくじり川」とは言っていなかったらしいのです。明治12年ごろに書かれたという『皇国地誌残稿』という本には、

 <本村ニテハ鷺川或ハ寒川ト唱ヘシヲ明治六年ヨリメクジリ川ト称ス>

 とあります。寒川とか鷺川とかいっていたということです。また、水源が小池地区であったことから、小池川ともいったようです。  この小池というのは弁天社の前にある小池のことで、ここが目久尻川の水源であったと伝え、地区の名の起こりにもなったそうです。

  メクジリ川と呼ぶ理由についてこの本では、

  <在昔本国一ノ宮本郡宮山村寒川神社ノ御厨本村ノ地辺ニアリ、其御厨辺ヨリ発して数十村ヲ経テ該社ノマシマス宮山村ニテ相模川ヘ注グヲモテ御厨尻川トイヒシヨリ転シテメクジリ川ト云ヒシナランカ>

 と書いています。寒川神社はご存じ相模一ノ宮とされる大社で、寒川町宮山にあります。その御厨というのは、ここでは寒川神社の御料地つまり神田(しんでん)をいうものと考えられ、下栗原の巡礼橋近くに、このあたりがそうだったという場所があります。海老名市との境に近い場所で、御厨尻というからには、それより下流の海老名などで呼んだ名前でしょう。

 当然のことながら、さらに下流の寒川地区では「寒川」と呼んだことでしょうから、最上流の座間と最下流の寒川でだけ寒川と呼んでいたことになります。おそらく御厨ができる(神田が設けられる)前は全体が「寒川」だったものと思えます。

  川が海老名市にさしかかった場所に産川橋があり「さんかわ」と読んでいます。これはこのあたりで目久尻川へ注ぐ小さな流れ「産川」の名によるということですが、『新編相模風土記稿』(天保年間に編纂されたもの)には、

  <上今泉村○小名△産川(左牟加波の河辺の地名なり)>

  とあり、産川は、

  <西の方に在り、村内亀島より湧出し、国分村に至て目穿川に合す、畠山次郎重忠が女護王姫出産の古蹟なれば此名ありと云ふ>

  とあります。ここでは護王姫は畠山重忠の女(むすめ)とされています(座間では護王姫を義経の妾とする)。姫が難産のためここで亡くなったとの言い伝えから「産川」としたのでしょうが、あくまで伝説で、むしろ「寒」と「産」の語音が似ているので伝説を加えて「寒川」が「産川」になったものと想像します。

  さて、「寒川」の名の起こりはどうでしょう。この名の川は日本各地に見られ、関東地方では栃木県や千葉県にあって、千葉には寒川神社もあります。「寒」の字を「つめたい」ととって、川水が冷たかったからというのが一般的ですが、学説ではいちがいにそうは決め付けず、

  @水中の鉄分が酸化してさび色を呈したサビ川からとする。

 A「荒び(すさび)川」が訛ったものとする。

  などがあるようです。目久尻川の場合の「寒川」の語源はどれでも当たるようで、本当のところはよくわかりません。  ただ、座間の名は、むかし夷参(いさま)と呼ばれていたのが、あたまの「い」がとれて「さま」、さらに「ざま」になったらしいと『新編相模風土記稿』にあります。しかし、夷参を「いさま」と読んだかどうかはわからず、「参」は「さま」と読むより「さん=さむ」と読む方が近いともいえますので、 「いさむ」だったら、寒川はもとは「いさむ川」であって、そのあたまの「い」がとれて「さむかわ」になったといえないこともありません。

  栗原の地名も全国にありますが、駅家(うまや)のあるような場所には栗を植林させたという伝えもあるようで、『皇国地誌残稿』の栗原村にも、

  <民間ノ飢エヲ凌ガンタメ栗ヲ植サセラレタルコト持統記ヨリ見エタレバ、諸国ニ御栗栖アリテ神領トモ成タルヘシト記セリ、按フニ今ハ栗原ノコトハ絶エテ中古ヨリ栗野栗山小栗ナト呼ベル地名ハ上古ノ栗林ノ地ナルベシトアレバ、本村モ或ハ其類ナランカ>

 とあります。東海道の駅家だったという(『続日本紀』)夷参に「栗原」があるのはそれなりに理屈が合うようです。

 栗原は縄文時代前期から晩期にかけての遺跡が数多く発掘されている場所で、その名のように栗や椎などの実のなる樹木が多く、湧水や清流もあり、狩猟もできた採取生活には好適な場所だったと思われます。しかし、弥生時代になると殆ど何も遺跡らしいものが発見されていません。縄文人はみんな死に絶えたのでしょうか。

  弥生時代というのは稲作の始まった時代です。水田に適した土地を求めて集団移動して行った、とは考えられないでしょうか。栗原の縄文人は首長の指揮のもと、集団をつくって目久尻川を下り、寒川の地に至って水田を拓いたのではないかと私は考えています。

  寒川町の岡田というところに安楽寺という真言宗の古刹があります。この寺はもと寒川神社の別当寺(管理寺)だったそうですが、寺の裏山に大神塚という前方後円墳(全長45メートル)があります。周囲にもいくつかの円墳の存在も認められていますが、これらは栗原から移動した一族の後衛の墳墓であるかも知れないのです。

  寒川神社の祭神は寒川比古命・寒川比女命とありますが、実名でないのは祖先神ということでしょう。自分たちの祖先の故郷、すなわち自分たちの故郷が栗原だとしたら、寒川の人々が栗原を懐かしく思うのは当然です。栗原には寒川神社の奥宮があったと伝える場所もあり、いまでも、小池の弁天社の祭礼には寒川地域住民の代表の参列があるということです。小池が目久尻川水源の源流だからということですが、それだけではなさそうな気がするのですが、いかがでしょうか。

  その目久尻川も昭和三十年代にいたって、住宅地開発と上流の相模原を加えた地区からの汚水の流入で、川は汚染し稲作はできなくなりました。いま、栗原の目久尻川流域に水田は全くなくなっています。雨がないと川は生活排水だけのドブ川になり、洗剤の泡ばかりが目立って、流域は悪臭のただよう町になっていました。

  最近になって、汚水処理の設備が進み、市民の環境意識も高まって、今年はアユの遡上が見られたと報じられました。喜ばしいことではありませんか。  このように目久尻川は、われわれの生活を育む川であっただけでなく、生活環の実態をも示すことで、考えさせてくれる存在になってきているのです。      (14・10・8)