随文・随想
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為政者の見識

 

座間市議会だよりによると、共産党の市議は基地の所在のために犠牲と負担を強いられてきたことを言いたてた。これに市長は同調して謝礼を述べ、基地の存在による犠牲は日本国民全体が共有すべきものだとして、基地の恒久化解消をもとめていくと述べた。

共産党が基地に反対するのは日本を弱体化するためである。日本を弱体化しあわよくばこれを滅亡に導くのが党是である。これに同調する市長は日本の弱体化に手を貸すものだ。基地の存在による犠牲はあろうが、これは別途対策すべき問題で、たとえ基地が座間から引っ越しても、その場所で彼らは反対を叫ぶのである。いま、基地を出て行けというような施策が現実的であろう筈がない。

国家観を以って見渡せば、わが国の現状ではアメリカに日本防衛に本腰になってもらわねばならぬ状態であろう。アメリカが座間に司令部を移動するというのは、座間から撤退して本国に帰ることより、遥かに望ましいことだろう。

座間は古代、夷参の時代から国家の開拓基地であった。それは置かれた地点の宿命でもあったのである。これを被害ととるか栄誉と考えるかは、為政者の見識による。国はこの栄誉を称えるべきだろうし、市民はこれを郷土愛の原点とすべきである。

 


 
言霊について
 
言霊ということをよく聞く。大和言葉には言霊があって、発した言葉が現実になるとかいう信仰のようなものがあったという
のである。そのほかにも言葉に霊魂がこもっているというような解釈もあるらしい。しかしこれらは抽象的で、神がかった印象
でしかないように思う。
大和言葉の言霊をいうなら、私は、いままで述べてきたような言葉の成り立ちに求めたい。それこそ古代人の感性(思い)が
こめられている言葉だからである。一言にして言えば、「あ」という単音の、れ自体に感覚がこもっていることによ
って知れる。大和言葉で「あ」は陽気で明るい性格を持つ。これは万年不変の原則で、日本語は今も変わっていない。このよう
に単音にに感覚を抱く民族は日本民族以外にいない。これこそ言霊ではないか。

 日本語は単音を続けて成る。「あ」に「き」を続けて「あき」、さらに「ら」を続けて「あきら」、「か」を続けて「あきら
か」となる。だが後続の言葉の意識は先頭の「あ」が代表し、
「秋」も「明」も「明らか」も陽性である。大和言葉はこの「ア」音を中心に展開した言葉である。反対の陰性は「う」の音であ
る。また、神聖で、霊的な性格が「い」の音である。すでに度々述べてきたのでここで詳記はしない。

 大和言葉はこの三つの音階を中心にしたものであった。これに後代、「お」の音。「エ」の音が加わったと思う。

 日本国内に人間が住んだ痕跡は石器次代にさかのぼるから、数万年前にはこの国に人間がいたことになる。原始日本人である。
彼らが黙っていたわけはないだろうから、当時からなにがしかの言語は交わされていただろう。原始日本語はこの「あ・い・う」
が基本だっただろう。それは「お」、「え」が域外から加わったとみえるからである。次代は縄文後期から弥生時代だったろう。
古墳時代・飛鳥時代に至って漢語が入ってきて、政治の中心を覆ったが大和言葉は古来の基本を喪失しなかった。この漢語を栄養に
して学術の進歩を将来したのだったが、結果、日本語は書かれた文面によらないと意思の通じがたい言語になった。さらに近年、
テレビを中心とした情報の氾濫が、日本語の急激な変貌を生みつつある。語彙の喪失、発音の変調、用語の単純化、日常生活に2
00語しか使えない年齢層が一般となった。言霊もなにもあったものではなくなってしまった。これでいいのか、というのが現代
日本人へ求められている問いである。

 
女性天皇
 小泉首相の諮問機関という「皇室典範に関する有識者会議」なるものが年明けにもはっそくするといい、
その委員が新聞に掲載されていました。
 <岩男寿美子(武蔵工業大学教授)・緒方貞子(国際協力機構理事長)・奥田碩(日本経団連会長)・久
保正彰(東大名誉教授)・佐々木毅(東大総長)・笹山晴生(東大名誉教授)・佐藤幸治(近畿大法科大
学院長)・園部逸夫(元最高裁判事)・古川貞二郎(前内閣官房副長官)・吉川弘之(産業技術総合研究所
理事長)>

 といったメンバーです。岩男寿美子・緒方貞子・奥田碩の皆さん以外は無策に馴染みのないお名前ですが、
東大関係の方が3人もいられて、会議の進行が偏ることはないのですかね。

 岩男寿美子氏はジェンダーフリー派だし、日本経団連会長の奥田氏は最近、小泉首相に靖国神社への参拝
を取りやめるよう進言したことで新聞に名前が載ったように、事業のためには国民感情を無視して、中国の
意向に沿うような国家に対する意識の低調な人物に思えますが、国家の根幹に関する事項についての会議に
大丈夫か? と思いますが。

 この会議の設置は、秋篠宮殿下のご生誕以来約40年間、皇位継承できる皇族男子がお生まれになっていな
いので、このまま男子皇族のご誕生がなく、現行制度のままだと皇統断絶の危機が予想されますので、現行
制度、つまり皇室典範を見直そうということなのでしょう。
 実際には「女性天皇」を認めるかどうかが議論の中心になるはずですが、このままお世継ぎがいない事態
になれば認めるも認めないもなく女性天皇の実現にならざるを得ないことで、一般の世論もその方向にある
ようです。しかし、その後が問題です。女帝となった女性に配偶者を認めるのかどうか、認めないわけには
いきますまい。そのお子様を後継に選ぶ場合は皇室典範に規定する「男系の男子」に抵触します。日本の皇室
は今上陛下で第125代、そのうち10代8人の女性天皇がいられましたが、その配偶者が皇族出身でなかっ
た場合、そのお子様が皇位を継ぐ(つまり女系)ことはありませんでした。これが「万世一系」といわれる
所以なのです。日本の皇室は、世界最古の王室です。世界に誇る日本皇室こそ世界遺産の最たるものではあ
りませんか。有識者会議10人のメンバーに日本史を専門とする人が1人だけで、世渡りの専門家だったり、
場違いの専門家などの理屈で決められてよいものかどうか、危惧しないではいられません。

 戦後の政治、教育は国民と国家を遊離させることに主眼がありました。これは占領軍の政策だったのです
が、左翼イデオロギーがこれに便乗し、国家を悪とする思想宣伝に利用されたのでした。日本の天皇は国家
の象徴ですから(憲法上そうなっている)、天皇、皇室も国家とともに退ける思想誘導の中にあったのです。
国家につながるものは、皇室であろうと、国旗であろうと国歌であろうとすべてその風潮に晒されたのです。
教育現場では人権ばかりが強調され、やがて家庭そのものも否定にもっていかれ始めました。親が子を殺し、
子が親を殺すという事件が目新しくなくなっています。「人を殺してどこが悪い」とうそぶく若者がいるそ
うです。
 皇室は日本民族の宗家です。日本民族はこの宗家とともに数千年の歴史を共有してきたのでした。宗家を
否定して民族はどこへ行こうとするのでしょう。民族なんて滅んだ方がいいというのが左翼イデオロギーで
すから、これを許すわけにはいかないのです。
 ところで、お世継ぎが1人もいられない事態というのが、日本歴史にもいくつかありました。座間の関連で
書いた大伴金村の時代もその一つです。『日本書紀』巻第17の記事に、皇統第26代(神功皇后を1代と数え
る)武烈天皇が亡くなられたとき、天皇には男子も女子もなく、跡継ぎが絶えてしまうところでした。大連
金村は群臣にはかって「いま全く世継ぎがない。天下の人々はどこに心をよせたらよいのだろう。古くから
今に至るまで、天下の禍いはこいうことから起きている。仲哀天皇の5世の孫の倭彦王が丹波国桑田郡におい
でになる。試みに兵士を遣わし、みこしをお守りしてお迎えしよう」と言い、群臣みな賛同したので、計画の
如くお迎えすることになったのですが、倭彦王は迎えの兵士を望見して、討手と思ったのでしょうか、山中に
遁走して行方不明になりました。
 そこで金村は、また群臣にはかって、「男大迹王(応神天皇6世の孫)は性なさけ深く親孝行で、皇位を継
がれるにふさわしい方である。ねんごろにお勧めして、皇統を栄えさせようではないか」と同意を求め、当時
越前国坂井郡高向郷にいられた王をお迎えしたということです。初め男大迹王は固辞されたのですが、大伴大
連が地に伏してお願いしたので遂にお受けになり即位されたのでした。西暦507年のことです。
 この天皇が継体天皇です。大連金村は、さらにお勧めして手白香皇女(武烈天皇の妹)を勧めて皇后とされ
ました。手白香皇后のお生みになったのが欽明天皇で、以後、皇統は続くことになります。しかし、西暦53
1年、継体天皇崩御のとき、欽明天皇はまだ若年でしたので、継体天皇が即位以前のご子息、安閑、宣化の兄
弟の2天皇が短期、皇位を継承したのでした。
 このような経過をみていきますと、
 @天皇にお世継ぎがなかった場合、皇族に女性がいられてもたとえ遠縁であっても男子を探し求めた(男系に
こだわったこと)。
 Aお世継ぎを選ぶに当たって序列はなかったこと。
 B遠縁の皇統に近親の皇女を娶せて、正統性を補強していること。
 などが知れます。こういった内容に古代祖宗の考え方であり、今の言葉で言えばヒントがあるのではないで
しょうか。
 戦後、GHQの指令もあって11の宮家が皇室を離れ、皇族の人数が激減しました。その後、秩父宮家や高松
宮家の断絶もあり、皇位継承に危機感が生まれるに至ったのです。このような状況では皇族の宮様方特に男子
の皆様方への公務が過剰になり、同時にその妃殿下にもご負担となりました。高円宮殿下は過労でお倒れにな
ったといわれています。
 臣籍降下された11宮家のうち、4つの宮家に男子がいられるそうです。臣籍降下は占領時の政策でしたので、
皇籍復帰が良いのでしょうが、世間の抵抗とか皇室経済上難しいとすれば、このうちの男子を養子として宮家
にお迎えすることの出来る制度への変更が急務といえましょう。一旦臣下に降下された方で皇族に戻られた事
例も幾つかあり、第59代宇多天皇は臣籍に降下された皇子でしたが、前代光孝天皇の崩御直前に関白藤原基経
らの推挙で親王となり、即位されたのでした。過去に事例のあることですから、とりあげて欲しいものです。
 このままで仮に、愛子内親王が即位されるにして日本は畏れ多いことですが秋篠宮殿下のご寿命をあと40年
とすれば、その時点では内親王も40歳、すでにご成婚で臣籍に移られていることが考えらます、各宮家の内親
王(女性)様方も愛子様よりご年長ですから、当然すでにご成婚で臣籍に移られているでしょうから、早く言
えば、男子に限らず女子もまったくいられないという皇族不在の状況です。そのときは、臣籍であっても愛子様
か秋篠宮の王女様が即位されるしかありませんが、完全な女系となります。つまり、現皇室とは他家ということ
です。今の皇室には家名がありませんが徳川家とか島津家とかになるのです。
 このとき、女系は「万世一系」ではないとして、皇室の存在を認めたがらない連中の好餌にされるかも知れ
ません。また、女帝と臣下の関係では、称徳女帝と道鏡の例のように、女帝の心情によっては皇統そのものが
否定される事態だって勘案する必要があります。称徳女帝の場合は、その意向を絶つために宇佐八幡宮の神託
に頼ったのですが、現今の社会情勢では、それも人権だとして容認され、皇統断絶が実現するかもしれません。
 日本国体は重大な岐路にさしかかっています。これらはすべて戦後の占領政策によるものです。
 平和条約も成り、日本は独立国家となったのですから、日本の歴史の示す、国家意識の継続と国家愛に基づ
き、占領下の異常な状況で公布された諸法令の改正(皇室典範に限らず、憲法や教育基本法も)を願ってやみ
ません。
 

  夷参駅と家持 

 大伴宿禰家持が相模守に任ぜられたのは宝亀5年(774)でしたが、翌年には上総守も兼任します。

家持の前の相模守は道嶋宿禰嶋足(みちしまのすくねしまたり)ですが、9年(778)には近衛中将に下

総守を兼任していました。

 したがって、宝亀2年(771)の太政官奏で夷参から武蔵国府への道が官道(東海道)に
組み入れられた当時の相模守は嶋足だったわけで、後任の家持とともに上総・下総といった房
総の国主を兼任したというのは、夷参からの街道が下総へ通じるそれであったことを含め、何
か要因がありそうです。

 要因といえば宝亀2年ころの政治情勢の緊迫が考えられます。それは陸奥・出羽の蝦夷の鎮
圧という、以降100年あまりにわたる大きな政治課題の幕開けでもあったようです。

 前年には孝謙女帝が没し、道鏡が失脚するという事件がありました。太政官奏はこれを待っ
ていたかのようなタイミングで出されています。

 これより先、道嶋嶋足は孝謙女帝の側にあって、恵美押勝の反乱を鎮圧しましたが、このと
き共に戦った武将が坂上苅田麻呂といって坂上田村麻呂の父でした。おそらくその功もあって
相模守に任ぜられたかと思いますが、嶋足は出羽国の出身ともいい、後、牡鹿宿禰とも称して
います。相模守を家持に引き継いでからは陸奥の情勢視察の役を与えられていたようです。

 ところで、この嶋足は丸子連(わにこむらじ)ともありますが、ワニコは大伴氏の属ともい
われています。つまり、やはり大伴氏の係累ということですが、もともと大伴氏は天皇家の側
近にあって護衛する武将の家系でした。

 <大伴の 遠つ神祖の その名をば 大来目王と 負ひ持ちて 仕へし官 海ゆかば 水漬
く屍 山行かば 草むす屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじと言立て 丈夫の 清きそ
の名を いにしへよ 今の現に 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 
立つる言立 人の子は 祖の名絶たず 大君に 奉仕ふものと 言ひ継げる 言の職そ 梓弓
手に取り持ちて 剣太刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに大君の 御門の守護 吾をおき
て また人はあらじと いや立て 思ひし増る 大君の 御言の幸の 聞けば尊み>

 家持は『万葉集』の撰者ともいわれていますが、これには東歌や防人の歌が多く採録されて
います。坂東経営に早くから関わって、東国の事情にも明るかったことが考えられます。『万
葉集』3435の、

 <鈴が音の早馬駅家のつつみ井の水をたまえな妹が直手よ> の歌の、「鈴が」とは鈴鹿を
伏せたようで、どうも、夷参駅家を歌ったもののような気がしています。また、座間は湧水の
多い土地柄です。

 宝亀5年(774)征東将軍大伴駿河麻呂らが陸奥の蝦夷を討った記録があり、同7年にも
出羽・陸奥の蝦夷と戦闘がありました。8年(777)には官軍が敗戦し、11年(780)
には陸奥国の郡司が按察使を殺害するという事件が発生しました。延暦元年(782)には家
持自身が陸奥将軍に任ぜられて征討に出発したのでした。このとき彼はもう60歳を越えてい
たようで、よほど喫緊な人事ではなかったかと思います。
 こうした世情でしたから、相模守に赴任しても国衙の机でのんきに事務を執っていられたわ
けはありません。おそらく東北経営の要衝だった夷参駅にも度々駐留して、派遣軍の統率指揮、
差配にあたったことでしょう。夷参から官道を武蔵国府に通じさせたには、東海道諸国の兵馬
・兵糧・武器を輸送するための必要性があったはずと考えています。夷参が座間の地であった
なら、座間のこのあたりを兵馬が嘶き通り、食糧を積んだ車の音が鳴り響いていたことでしょ
う。同族の大伴駿河麻呂の征討軍を見送って、家持は手を振っていたかもしれません。

 この家持も相模国司となったこのころは歌を見せていません。歌どころではなかった、とい
うことでしょうか。60歳を越して奥羽に赴いた家持でしたが、延暦4年(785)8月、か
の地で没しています。68歳とありますので、今でいえば90歳近い年齢でしょうか。まさに
玉砕といっていい最期でした。しかも死の直後、大伴継人の藤原種継暗殺事件の首謀者として
墓を暴き、死体を流されるという悲運に見舞われました。そのときの家宅捜索で「万葉集」が
発見されたという話があります。
 その後も奥羽は急で、延暦7年(788)には歩騎5万を多賀城へ派遣し、征夷大使(将軍)
に紀古佐美が任じられて出発しました。しかし、これも大敗してしまい、紀古佐美は解任されて
処罰を受けました。9年(790)、また征討の準備に入り、武具・軍糧を集めて翌年には大伴
弟麻呂を征夷大使、坂上田村麻呂らを副使として征討に向かわせ、13年(794)に至って漸
く戦勝が報告されました。
 それでも蝦夷の反逆は絶えなかったとみえ、20年(801)、坂上田村麻呂が大将軍として
出発、21年4月、賊首アテルイの降伏があってやっと鎮圧に成功したようです。ただし、23
年にも田村麻呂は征夷大将軍に再任されていますので、まだ完全な平定はできていなかったかも
しれません。
 田村麻呂も何度か遠征していますので、夷参駅(いさむうまや)に兵馬とともに宿営したでし
ょうし、星谷寺の七不思議の一つにある「田村草」(金水引)伝説も現実味を帯びて感じられま
せんか。もしそんなことがあったなら、星谷寺も奈良時代の古刹となり、本尊を行基作とする年
代に近くなります。わたしはむしろ、遠征基地に寺社が存在するほうが当然だと考えています。
武運長久を願う心情は時空を超えてのものです。

 ある人からのHPへの書き込みで、栗原の北部に郡衙かそれに似た遺跡があるのではないか、
と、尋ねられたことがあります。兵馬が駐屯し、兵糧・武器の集結がおこなわれたなら、露天積
みされるはずがなく、今のところ発見されていませんが、長倉のような屋舎があっただろうと考
えるほうが自然だと思います。

 駅家(うまや)は駅長(えきおさ)がいて駅戸を使って管理し、経費は駅田の収穫(駅起稲と
いう)であてたそうです。 『座間古説』に、長宿について、

 <さて長宿と申ハ長の字ハおさとよみてふるい儀なり>

 とありますが、駅長(えきおさ)の宿であったので「おさ宿」かもしれず、<郷の森>とある
のは夷参郷(伊参郷)の郷の森かもしれません。いずれも「ふるい儀」でありましょう。

 『続日本紀』にある夷参駅が、『和名類衆鈔』には見られず、「浜田」とあるのも、駅田(は
ゆまだ)が訛ったものとは考えられないでしょうか。今でいえば、NTT社屋のある一帯と推測
しています。

 


 

  祭     神 

鈴鹿明神社と座間神社

               13-6-27  野火

 

 日本の神社では、たいていどの社でも何か、または誰かを祭神として崇め祭る。人知人能の及ばない対象はすべて神であった。それが、ときの権力者によって滅ぼされたもの、つまり敗者であっても祭神とされれば崇める対象となり、やがて神として定着する。

 座間で古くから崇敬されてきた神社は鈴鹿明神社である。この社の祭神は「イザナギの命」と「牛頭天王」とし、牛頭天王は「スサノオの命」と同一神とされているので社ではこちらをあげているが、近世、近代では「天王様」と呼んで親しまれた。しかし、牛頭天王を祭神に加えたのは後北条の家臣だった若林大炊助で、弘治二年(1556)に北条氏照の援助を得て再建した際かららしい。

 ところが『座間古説』では、

 <しかれ共、鈴鹿明神と牛頭天王とは御位違うなり、宮川には縁なき神、宮川の前には鈴鹿の輿昔よりお休みあり、故に、幟には鈴鹿大明神と書くべし、牛頭天王と(は)誤りなり>

 として、鈴鹿は牛頭より位が高いのだと強調している。おそらくこれは伊勢の御師の入れ知恵らしく、

 <伊勢の御師申候には、伊勢の鈴鹿様は天照大神宮の御妃にてまします大神宮同様の御位なり、しかるに一位などと申すは大きに御位すべり落ちなされ候間無用になさるべしと申されるにより、その通りに差し置き申すなり、御位高き故京の御番には御勤めなし、相模十三神は京の御番に御出あり、伊勢の鈴鹿と座間鈴鹿一体なり、重く御信心あるべく候>

 と語るに落ちる記事が続く。

 相模十三社というのは、延喜式の相模国十三社で、うち、高座六社には大一座に寒川神社、小五座に大庭神社・宇都母知神社・有鹿神社・深見神社・石楯尾神社をあげているのに座間の鈴鹿明神社があげられていないことについて述べているもので、鈴鹿は伊勢神宮と同格で位が高いのだと追従しているのである。 社格というものも土地に権力者がいるか否かによって左右されるものだが、大和、海老名にあって座間にないというのは地元としては気掛かりではあったろう。これについては石楯尾神社を鈴鹿明神社にあてる説もある。 それにしても鈴鹿明神が伊勢の天照大神宮のお妃というのもいいかげんだし、社伝にいう伊勢の鈴鹿神社をイザナギの命とするのも当らない。現在伊勢に鈴鹿明神という名の神社はなく、これには鈴鹿峠(関町坂下)にある式内社片山社をあげるべきだろうが(むかし鈴鹿明神、鈴鹿大権現といわれた)、祭神は鈴鹿姫、または倭姫命であってともに女神である。

 鈴鹿明神社はイザナギの命をあげて夫婦神イザナミをあげていず、牛頭天王も男神であることから、この社は男性神の性格が強いとみる。有鹿神社はこれに対して女性的性格に『座間古説』にも、同社社伝にも書かれている。

 鈴鹿明神社にこうした不条理な伝承が生まれた原因は、御師が陥ったように「鈴鹿」の名にある。私の推測はもともとこの一帯は「スズカ」という地名であったとするものである。伊勢の鈴鹿も今は鈴鹿峠が有名だがもとは伊勢国の郡名で、名の起こりは鈴鹿川からという。

 

 鈴鹿川八十瀬わたりて誰ゆゑか夜越に越えむ妻もあらなくに

「スズカ」とは篠処の意味で、流れなどに沿って篠竹の多い土地をいい、座間の鈴鹿もそういう土地であったはずである。今ではコンクリートに護岸された堀川になっているが、むかしは現在よりはるかに水量があったと思える湧水で、流れには篠竹なども茂っていたことであろう(篠をスズとするには信濃に小篠をコスズと読む例がある)。まさにスズカ(篠処)で、スズカと聞いて伊勢の御師があのような持ち上げ方をしたのは分る気がする。

 では「座間」はどうか? 大阪市には今も坐摩神社がある。この名の起こりも字面にこだわっていては分らない。吉田東伍の『大日本地名辞書』に、

 <旧渡辺に在り延喜式、座摩(ヰカスリ)神社是なり、今俗にザマと呼ぶ、生井、福井、綱長井、波比岐、阿須波神、名所図会にザマは井神三座、竈神二座、座は令集解に居とも書きたれば為と訓ことは定かなり、摩も借字ならん、即ち井之後(イカシリ)という地名にや>

 と書かれている。鈴鹿明神社の地もそういう位置にある。井とは湧水を指し、湧水が流れ出た裾なのである。ここも「イガシリ」といわれたはずで、イガシリと聞いて中央から派遣された誰かが「座間」の名を宛てたのだろう。そのへんの事情もそれとなくある。

 郷土史家鈴木芳夫氏によると、「一説に」として、

 <桓武天皇の皇子葛原親王万民撫育のため東国に下向し、座摩の大祭を教示し給う。故に高座郡といい(皇子の御座所を岩座または高座という)、高座郡の中央につき、摩の一字を間に替え、座間と称す云々>(『座間むかしむかし』第三集)

 と伝えているそうだ。一説の出典は分らないし、葛原親王の下向もマユツバだが、都から誰か偉い人が来て教えたということならそんなところだろう。

 ヰガスリの祭りというのはどういう祭り方をするのか分らないが、皇居の祭りの一つとしてあげられている。延喜式神名帳、宮中神の条に、「座摩巫祭五座」と前記の五座があげられ、注に「大宮地の神の霊」とあり、祭祀は座摩の巫(みこ)がおこなうとある。

 鈴木氏の文中には明治初年まで鈴鹿明神社の祭礼はイガスリの祭りといわれていたと書かれているが、現在は神社側の記憶にもなかった。

 座間という地名の起こりを伊参(イサマ)からとするのが一般のようだが、伊参の存在位置や範囲に明確なものはなく、むしろイガシリ=座間説の方にポイントがはっきりしている。イガシリのスズカ、井の後の篠処、座間の鈴鹿で、鈴鹿明神社はむしろ座間神社でよかったわけだが、座間神社は上宿にある。 この社は、もと飯綱権現社といわれて鈴鹿明神社の末社であった。明治初年に座間入谷村と座間宿村に争いがあって、飯綱権現社は鈴鹿明神社を離れ、村社に昇格するため座間神社とし、祭神も飯綱権現から日本武尊にあらためたという。氏子や有力者の都合で祭神をあらためるということはないことではないが、近代のことなのでゴリ押しに映る。

 もとの社伝によると、むかしこの地方に疫病が流行して住民が苦しんでいたとき、飯綱権現の化身といわれる白衣の老人が現れて山裾から湧き出る水を使うがよいと教え、疫病が治まったので飯綱権現を祭ったという(しかし、『座間古説』では寛文までは社の存在は記録になく、創立を天和年間としている)。それにしてもこの白衣の老人を日本武尊と変えたのだから、体制へ迎合してでも社格を得たかったのだろう。

 ここでは飯綱権現は水(泉水という)の神で、白衣は金性を象徴し、金生水の陰陽五行による説話と考えられるが、日本武尊では意味を成さない(ただし、今は防火の神とされ、日本武尊の草薙伝説から祭神に選んだという)。

 とにかく、祭神から消された飯綱権現は今どこをさまよっているのだろう。         

                   

[注]飯綱権現

 「飯綱」は「飯縄」と書くことが多い。信州の戸隠山に連なる飯縄山(1917■)の山頂に飯縄神社がある。もとは飯縄権現といい、修験道の霊山とされた。さまざまな信仰が習合して一種の妖術的性格が生まれた。名前の起こりは山頂の「天狗の麦飯」という砂(飯砂)によるという説、「イズナの法」という妖術の修行の場であったからという説、稲荷社(金の狐)で飯縄というのを張ったからという説があってはっきりしない。イズナの法は武術・武芸の魔法、忍法で戦国武将の尊崇するところであった。関東では近くに高尾山がある。

 


 

                                      座間にも来た大先達

  野田泉光院             

 

 

 文化、文政のころ、日向国の佐土原(現、宮崎県宮崎郡佐土原町)の安宮寺という修験寺があって、野田成亮という住職がいた。修験者としての名を泉光院という。 修験者つまり山伏には本山派と当山派の二つの派があって(江戸初期、寛永寺を本山として羽黒派が別に作られた)、本山派は天台宗に属し京都の聖護院が本山、当山派は真言宗で山科の醍醐寺が本山である。安宮寺は当山派の直末寺院といって、醍醐寺の三宝院門跡に直属する高い地位の寺院であった。

 泉光院野田成亮は当山派の階級のうち最高位の大先達で、日向地方一帯の数十人の山伏を支配すると同時に、佐土原二万七千余石の大名である島津家(薩摩島津の分家)の家臣でもあった。

 野田家はもと薩州出水の野田庄を所領としていたが、九代前の先祖野田中納言が主君に従っての討伐で戦死、そのとき中納言はまだ十六歳で跡継ぎがなく、主君の奥方が家が絶えるのを惜しんで、自分の甥を野田重清と改名させて継がせ、戦死者の菩提を弔うため山伏の修行をさせて安宮寺を創建し、その初代住職としたのである。 修験道というのは日本古来の山岳信仰に天台、真言などの密教が習合してできた宗教で、山岳に入って修行を行い呪力など特殊な能力を体得して加持祈祷をするものである。明治に至って、神とも仏ともつかぬこのような宗教は認められないとして解散を命ぜられ、修験者の多くは野に下り、一部は神主に転職した。しかし、それまでは未開な医術に代わって庶民の苦悩を救うものとして、陰陽道とともに民間信仰の大半に関わっていたのである。 修験者は金峯山・大峯山などを根本道場として入山し、生死の極限に迫る厳しい修行を行ったが、泉光院は生涯に大峯修行三十六度(別に奥駈修行十三度)を行ったという並みならぬ修験であった。

 この泉光院が今、民俗研究家のあいだで話題となっているのは、彼が文化九年九月三日から文政元年十一月七日まで六年二か月にわたって、南は鹿児島から、北は秋田の本庄、宮城石巻まで、日本国中を歩きぬいて残した記録『日本九峰修行日記』による。その膨大な記録は、現代口語訳とすれば原稿用紙三〇〇〇枚にもなるであろうといわれている。六年以上にわたる期間、同行する荷かつぎの男(平四郎という)と托鉢を続けながら、民家などに宿を求め、全行程を殆ど無銭旅行したのである。そうして毎日欠かさず日記を書いた。参詣した社寺の名、宿泊した村名と泊めてくれた人の名、通過した土地の地名など基本的な記録のほか、土地土地の民情や信仰の実態を主観的な論評を避けて極めて客観的に書いていることが、今までいわれてきた歴史観を超えて、当時の庶民生活をなまなましく浮かび上がらせてくれるものとなっているのである。民俗学の宮本常一は、泉光院の『日本九峰修行日記』を遣唐僧円仁の『入唐求法巡礼記』に次ぐ紀行文と激賞している。

 泉光院の旅は、本山醍醐寺三宝院の命を受けての諸国修験見聞役としてのものであったが、同時に、主君の代参や諸国の民情視察も命じられていたらしい。全国の著名社寺を神仏宗派に関係なく巡拝して納経して歩いた。 九峰とは英彦山・石槌山・箕面山・金剛山・大峯山・熊野山・富士山・羽黒山・湯殿山であるが、うち、石槌山は四国に至ったときもう閉山になっていることを聞き、来年出直すことにして帰国しているので、実際は八峰に登拝した。

 泉光院は修行を積んだ山伏(修験者)だったから、加持祈祷は本業で、旅行中頼まれれば方々でこれを行っている。また易占にも通じ、筮竹と算木を使って求めに応じている。経典・祭司儀礼にも熟達し、地方の山伏の指導も行っている。茶道・華道にも通じ、さらに俳句は雪中庵蓼太門と伝え、一葉と号した。

 忘らるる身をば思へど秋の風       一葉

 当時、どんな田舎にも俳句愛好家がいて、句の交換や連句の座をもうけたことが書かれている。また、漢詩や和歌の作品も記載されているし、書もなかなかのもので、頼まれると額や傘などに揮毫もしている。

 武道では棒術・柔術を体得、特に弓道は師範の腕前であった。これも所々方々で指南を行っている。

 山岳修行に耐えた修験者であったから恐るべき健脚で、例えば文化十一年京都にいた九月二十日の日記に、「朝五更より伏見出立。比叡山へ詣で、八瀬へ下り鞍馬へ詣づ」とあるが、直線距離で伏見から比叡山までは約十五キロ、比叡山から鞍馬寺まで七、八キロ、鞍馬から伏見が二十キロ。地図上に直線を引いて合わせて四十数キロ、まして比叡山は標高八〇〇メートルの山である。道は直線とは限らない野道で、しかも途中から大雨になった中を、およそ十六里(六十四キロ)歩いて日没後に伏見に帰っている。十六、七時間歩き通したのであった。

 連れの平四郎も平凡な男ではなかったが、さすがにときどき病いに倒れることがあった。しかし、泉光院は出発当時五十七歳、すでに隠居の身でありながら、六年間殆ど病いや負傷に倒れることがなかった。

 笈を背負い金剛杖をついた乞食(托鉢をして歩くのだから乞食でもある)のような姿であったから、たまに旅籠に泊まることがあると、入れ込みの安い部屋に入れられた。飫肥(日南市)の旅籠で夜になって手洗いに行くとき、醍醐御殿ご用の菊の紋章のついた提灯をつけたら、驚いて早速奥座敷に代えてくれ、食事も改まったという。旅は三宝院門跡(皇族)の公用だったから、菊の紋章の使用が許されていたのだが、幕府絶対の江戸時代にあっても、皇室を特別視する感覚が民間にあったことがわかる。

 国によって、あるいは土地によって旅人を泊めてはならないところがあった。野宿しかあるまいといった困った場面に、いつも不思議なことに、「ここはお上の厳しいお達しで勝手に旅人をお泊めすることができない土地ゆえ、困っておられるのでしょう。私の家は、狭くてむさ苦しいのですが、一晩だけ我慢して、ないしょでお泊まりなさい」などという人が現れてきている。このようにして六年余の行脚中、一度も野宿することなく過ぎたが、偶然というよりは、そのような民情がどこにもあったことが推察される。

 長崎の其木(東彼杵町)では三百軒の家すべてが日蓮宗という土地柄で、回国者を泊めることはもちろん、托鉢も一切受け付けない土地だった。ところが一軒だけ浄土宗の家がある。喜平次というその人は、以前から回国者が困っているのを見ると、一晩は泊めるようにしていた。ところが同宗の人が見て、わが宗門では念仏の者を泊めてはいけないことになっているから、今後絶対に止めるべきだといった。喜平次は、念仏の者を泊めたところで、相手が口の中で言っていることが、こちらの障りになるはずがないといって取り合わない。聞いた住職が怒って、念仏一遍申せば、お題目千遍申さねば念仏のけがれは消えぬ、と言ったので、喜平次は、念仏一遍が、題目千遍に相当するとは初耳、そんな面倒な宗門なら破門してくれといって、浄土宗に宗旨替えをしたのだという。それで以後格別迫害された様子もないから、日蓮宗といっても、特にうるさい信心家は村中で何軒かだけで、大部分の村人は、誰が何宗であろうと大した問題ではなかったのだろうと、これは『泉光院江戸日記』の著者石川英輔氏の解説である。

 萩を過ぎて笹波(山口県阿武郡旭村佐々並)では、天草の女性五人連れに会っている。四国巡礼の帰りにここで泊まったが、一人が疱瘡にかかった。天草の島などでは疱瘡が流行すると、島人は島を捨てて移住するようなことがあったらしい。手当てのしようがなく、逃げ出すよりほかなかったのである。ここでも病人を残して四人で帰るというので、宿の主人が、そんなことは許せないといって、お上へ問い合わせると、治るのを待って帰国させよというお達しだった。萩から御典医が派遣されて養生させたが、結局全員が感染して二人亡くなったという。この間、お上では、病人に一日米一升(一・五キロ)を支給し、介抱人二人をつけ、介抱の手当てとして銭六貫文(約一両)を支払ってくれた。回復した三人の女には二人の者をつけて天草まで送りとどけたという。当時の領主が搾取一辺倒ではなく、きめ細かい福利策をとっていたことがわかるし、女性だけのグループが四国巡礼に出て、帰りには長州の山の中まで回り道をしている。結構、現代並に、当時の女性も気ままな旅をしていたのではあるまいか。その後、防府では宿がなくて困っていたところ、通りかかった女性が長崎で会った人で、尋ねると、夫と子供の三人で四国西国の巡拝に出てきて、ここに住んでいる義姉の家に滞在しているという。こうして泉光院たちもその家に泊めてもらうことになった。江戸時代の庶民は移動の自由がなかったようにいわれてきたが、かなり自由に行動していたらしいのだ。

 芸州(広島県)はすべて一向宗(備前法華安芸門徒という)で、托鉢など一切できないだけでなく、経済合理主義の発達した土地であった。たまたま一軒の家に立ち寄りお茶を飲ませてもらっていたところ、出てきた主人に狼藉者呼ばわりされた。慌てて外へ出たら、娘が追っかけてきて、一人三文ずつの茶代を請求された。弱い立場の托鉢者にとって、これではたまらない。帰りには芸州を避けて四国へ渡っている。

 旅の宿では、夜になると近所の人が大勢訪ねてきて、「旅中日記聞きに集まって」きた。日記を見ながら各地の様子を面白く話して聞かせたのであろう。情報も娯楽も乏しかった人々にとって、遠い国々を歩いてきた珍しい話を聞くのは、大きな楽しみであったようだ。回国修行者が一般に受入れられたについては、こうした面もあったことがわかる。

 鉱山の現場などにも足を向けている。石見銀山では、「日雇い坑夫に三十歳以上の者はいない(坑夫が短命であることをいう)。それを承知で掘りに行くのだから、命をへちまの糸とも思っていないのだ」と書いている。そうして、ここでは「女は、男を三、四人ずつ持っている」とある。

 泉光院の回国は、主君佐土原島津忠将の了解になる旅でもあったから、江戸・大坂では藩邸に出向いている。江戸藩邸では主君から、虚空蔵菩薩に疱瘡よけの祈願をしたのが満願になったので、日本三虚空蔵への代参をおおせつけられ、白銀を受けとった。

 奥女中たちからは、泉光院が笈に入れて担いで歩いている本尊へ初尾(賽銭)をもらった。また主君と世子二人の武運長久の祈祷を頼まれ、修法を行った。文化十三年三月であった。

 江戸を発って、秩父札所の一番から三十四番までの札所巡りを六日間で終え、高崎では高僧徳本の説法に出会っている。例幣使街道の宿駅境では東照宮への勅使日野大納言の通行に出会い、輿の中から御包物を道々まき散らし「男女群集し拾う」という面白い記録をしている。これまでの道中で坂東観音霊場の寺々を巡り、古峰神社・東照宮へ参詣、信濃へ入って戸隠・立山に登山、出羽国へ向かい、出羽三山へ詣でた。

 翌年四月、再び江戸へ帰り、御屋敷に着到の報告(父に会うため江戸にきていた長男に会う)、代参で受けてきた守り札を差し出した。

 泉光院が座間の星谷寺へ来たのは、この年五月十三日で、十一日、相模一の宮寒川神社に参詣した彼らは、相模川を舟で渡って平塚に至り、四の宮(前鳥神社)・平塚八幡宮に参詣した。坂東札所金目観音では、納経印をもらいに行くと、住職に笈仏を開帳してほしいと頼まれ、笈を開いて長々と読経を受けた。当日は石田村(伊勢原市)の浄心寺に泊まる。十二日、大雨なので、

 憂きことのはてや旅路の五月雨      一葉

 と一句作ったら、住職が見て、それほど雨が難儀ならもう一日いなさい、といってくれた。「かようなる時には、発句も役に立つものなり」と、もう一日泊まった。 十三日、厚木へ出て相模川を渡り、相模国分寺参詣。夜は坂東札所星谷寺の門前に泊まったとある。

 そろそろ心が帰途に向いてか、あれほど詳細に土地土地の風習や宿の様子を書いていた泉光院が、座間や星谷寺について何も書いていないらしいのが残念だ。

 文化十四年(一八一七)当時の星谷寺住職は誰だったのだろう。『座間むかしむかし 第一集』によると、星谷寺観音堂は文化十年ころに再建とあり、同十一年の川柳奉納額・十三年の古流挿花会の奉納額もあるから、寺は再建間もなくの華やぎのあるころであった。星谷寺の歴代僧墓塔にはこの年代のものが見当たらないが、参道脇に木食観正の石塔があり、基壇側面の土を払ってみると、文政二年八月の創建であることがわかり、また現住周應代とあり、文政二年(一八一九)はこの二年後だから、おそらくこの周應が当時の住職であったと思える。同じ当山派であったのに、語ることはなかったのであろうか。

 天保十年(一八三九)の『相中留恩記略』絵図によると、星谷寺観音堂は仁王門(現在なし)のほかはだいたい現容と同形である。門前は数軒の家屋が見えるだけで、門前町と呼べるほどには描かれていない。伝承によると、屋号を『丸屋』・『夷(えびす)屋』などという宿屋があったそうで、そのどちらかに泉光院と平四郎は泊まったのであろう。

 前記絵図の其二は外記宿遠望で、遠く相模川岸に二、三軒の屋根が描かれている。翌日、二人はまた相模川を渡って、六番札所飯山観音・日向薬師へ向かうが、外記宿がこの道の渡船場だったことを暗示するものであろう。対岸から飯山への道の辻々に左星谷寺道・右飯山寺道と彫られた道標地蔵が現在も立っている。

 その日は薬師の門前に泊まり、翌十五日は大山不動尊へ参詣した。菖蒲団子というものを売っていて、これは供養のため野良犬に食わすものであったという。

 文政元年(一八一八)十一月六日、泉光院と平四郎は六年二か月ぶりに故郷の土を踏み、翌日、山伏たちを引き連れて威風堂々と安宮寺に着いた。歳暮一句、

 峠にも休み所なし年の坂         一葉

 泉光院は天保六年(一八三五)八十歳で没した。佐土原の大光寺に大きな自然石の墓碑があり、安宮寺は明治の弾圧であとかたもなくなったが、寺跡には九峰修行供養塔が今も残されている。

 『日本九峰修行日記』を世に問うたのは、泉光院から五代の孫、杉田直(作郎)であった。明治二年に国学者野田丹彦の三男として生れ、十五歳のとき都萬神社宮家杉田ナカの養子となった。勉学して眼科医となり、昭和三十五年九十一歳で没した。作郎は自由律俳句の号で、荻原井泉水門。私には先輩にあたる。

 柿の赤さは包みきれない         作郎

 泉光院は『日本九峰修行日記』を三部作り、一は醍醐寺三宝院へ納め、一は佐土原島津家へ献上し、一は自家にとどめた。しかし、島津家のものも自家のものも西南戦争で散逸して行方が知れなくなっていた。作郎は父祖の業績を顕彰するため、たいへんな努力をして散逸した『日本九峰修行日記』を集めた。全六巻のうち五巻までは十数年の歳月をかけて収集できたが、第三巻だけはどうしても見つからなかった。昭和九年、泉光院没後百年にあたるため、氏は法要を営むとともに日記を活字本として刊行したい意向であったのに、遂にこれを断念した。 ところがこの年の九月、室戸台風で本山醍醐寺の宝庫が大破し、収蔵されていた古文書類を整理していたところ、かねて問い合わせても不明であった日記の清書本が、全巻揃って見つかったのである。十一月、その印刷が成り、翌年(昭和十年)二月、泉光院百一回忌にあたり、日記の出版報告が墓前でおこなわれた。作郎は昭和三十五年、九十一歳で没した。

 作郎の長男正臣は父の医業を継ぎ、層雲派の自由律俳人で井蛙と号し、親子揃って層雲寿老賞を受賞した。彼は『日本九峰修行日記』を初め、家伝の蔵書・書画をまとめて県立宮崎図書館に寄贈、『杉田文庫』を作った。 正臣の長男幸雄は宮崎市の杉田眼科医院を継承、二男(久留米)、三男(宮崎大塚)もそれぞれ眼科医となっている。正臣の弟秀夫は画家となり瑛九と号した。正臣は昭和六十三年、八十七歳で没している。

               (平7・4・7)

[参考文献]

 『泉光院江戸日記』石川英輔著・講談社刊

 『野田泉光院』宮本常一著・未来社刊

 宮崎日日新聞記事

「泉光院『日本九峰修行日記』のこと」山口保明筆

  「先達逍遥」山口保明筆

 『杉田文庫』資料(山口保明氏提供による)

 『版画事典』室伏哲郎著・東京書籍発行

[注]

*1 座間も修験が盛んであった。本山派では谷戸の大   坊、新田宿の昌清寺(諏訪明神社の別当)があり、当山派には星谷寺の末寺羽根沢の南光坊(寺伝では南坊)があり、また四ッ谷に大覚院があった。

*2 皇子・皇族が就くならわしであった。

*3 古代中国の陰陽五行説に起源する哲理。万物は陰陽の二気によって生じるとし、天地の変異、人事の吉凶を説くもの。

*4 当山派の場合大峰山脈を縦走しながら、三途八難の苦しみを体験する荒行をいう。

*5 文化10年4月2日、野母半島沖樺島での記録に、家々に不自然なほど大勢の人がいるので尋ねると、天草の人たちだといい、島に疱瘡がはやって島にいれば全滅するので、病人をおいて逃げてきたのだと聞いたことが書かれている。

*6 寺に納める銀貨であろう。

*7 紀州の人、文化年間関東の諸方を巡りひたすら念仏に終始する捨世の僧。徳本の行くところ、熱狂した大衆が集まった。また独特の書体の六字名号碑が知られる。泉光院たちが星谷寺へ参詣したのは文化14年5月、その11月に徳本は当麻の無量光寺に入った。泉光院はこの年、紀州で徳本の生家をわざわざ訪ねている。

*8 例幣とは朝廷から毎年決まった時に神前に奉納する幣帛で、例幣使はそのための勅使。御包物とはお札のようなものであろう。

*9 三峰神社(秩父)、岩船地蔵(栃木県岩舟町)にも参詣している。

*10 文化文政のころの修験者。木食とは米穀を断ち、木の実のようなものを食して厳しい修行を行うこと、または行う僧をいう。観正は徳本のあとを受けるように、相模を中心に加持祈祷と念仏による熱狂的な布教活動をおこなった。

*11 リトグラフ、エッチング、フォト・デザインなどを手掛けた画家。彼の助言で池田満寿夫はエッチング制作を始めたという。宮崎からのち浦和に移 る。(唐沢柳翁調査による)

 

 


                 

三年坂 

           さがみの野火

 

 座間に「三年坂」が二か所ある。一つは鎌倉街道といわれる古道の星谷寺の裏手、一つは下栗原の巡礼街道と呼ばれる坂道の途中、北側の台地に上る坂である。

 ともに、「この坂で転ぶと三年先に死ぬ」と言い伝えられているが、何故、三年なのかについては皆目分からない。ただ、前者鎌倉街道での解説に、京都では産寧坂と呼ばれる坂があるので、それからきたのか? というのが見られる。

 今回もパソコンの「歴史フォーラム」へコメントを流してみた。私のコメントのタイトルは「三年坂はありませんか」であった。結果、予想外の反響を得た。

@市ヶ谷から日本テレビに向かう日テレ通りの近くに同じく三年坂という名の坂があります。それから、書名は忘れてしまったのですが(『東京の坂』とか『東京の地名』といった名前だったと思います)、たまたま書店で立ち読みをしたところ、東京の坂の名前でもっとも多いものの一つに「三年坂」があげられていました。やはり、この坂で転んだら三年以内に死ぬからだそうです。(H・N)

A熊本市の中央に三年坂というのが1か所あります。語源は知りません。場所は昔火事を出した大洋デパートのちかくで、いまは城屋という名前になりました。(菊池)

B京都の清水にありますよ。二年坂と永年坂も近所にあるはずです。(慎之介)

C京都の三年坂は「産寧坂」という方が通りがいいかもしれませんね。二年坂から清水坂に通じる石段のある坂で、京都らしさの残るあたりです。この前はあのあたりで湯豆腐を食べました。『京都大事典』淡交社1984の挿絵に『拾遺都名所図会』のがでています。角川の日本地名大辞典の『地名総覧』には、東京・京都しか「三年坂」はでていませんでした。(ひろ)

Dかつて、日本と韓国の小学校の比較研究授業において、「三年坂」という教材が使われたことがありました。今は教科書から消えているそうですが、少し前までは載っていた教材だと聞いています。内容は、そこで転げると三年で死ぬという峠で、おじいさんが転んでしまいます。悲嘆にくれるおじいさんに、孫が「あと三年で死ぬというのは、あと三年は生きられるということだ」と機転の利いた勇気づけをし、みんなで(?)何度も転びにいった……という話だったと記憶しています。(aw)E京の「三年坂」にも転ぶと三年以内に死ぬという話がついていたはずです。それが縁起が悪いというので「産寧坂」として安産話に結びつけたとかいう説もあったかと思うのですが、実際はどちらの表記が先行しているのでしょう。(まさ)

F「三年坂のあるところ寺あり」ということであるとすれば、やはりなにか宗教的な語彙が隠されているのでは、と考えるのは私だけではないでしょう。手元の広辞苑によれば、三年坂の前に「さんね」として、三会、三衣、三慧が挙げられています。 三会:三度の大法要を開いて衆生済度の説法をすること…

 三衣:僧尼の着る三種の衣…

 三慧:聞慧、思慧、修慧。(併せて)さとりを開く三つの智。とあります。サンネ坂が三年坂になり、さらに産寧坂へというような想像をしております。(多田)

G『千代田区 史跡散歩』(阿部喜丸著、学生社)を見ていたら霞ヶ関の大蔵省と文部省の間の坂が(も)三年坂というそうです。なるほど、地図にもそう出ていて転ぶと三年の内に死ぬ、という俗説が伝えられている、と書いてありました。

実は、NTVのそばには「行人坂」ってのがあり、「三年坂」との関連がつくと(例えば、同じ坂の異名だとか、隣の坂だとか、連続している坂の名前だとか)面白いことになりそうなので、興味を持っているのです。

というのは、アイヌ語で「行人」と「三年」が似たような「音」になり得るからです。……その「音」は又「アラハバキ」とも通じそうなので、NTV近辺の神社も調べてみたいと思ってます。(大三元)

H今朝の産経新聞に三年坂の由来について紹介がありました。いわれは諸説あるとして、

 ・清水寺境内の子安の塔に続く坂

 ・大同3年(808)にできたため    三年坂

 ・清水寺へ参拝した人がこの坂で再び願いを深くする

                     再念坂

                       (ひろ)

I(京都の産寧坂について)転んでも死なないおまじないとして坂下に瓢箪を売る店ができ、いまも1軒あるとのことですわ。(空)

 主だったコメントを挙げてみたが、これらを読んでも三年坂という名の由来はよく分からない。

 この秋、近江へ旅したが、予定の一部がキャンセルになって2時間半ばかり空白が生じ、京都へ足をのばして清水寺へ行ってみた。寺へは行ったというだけで、目的は「産寧坂」にあった。私が京都駅を下車した(京都へ行った)のは生まれて初めてで、それが坂一つ見てくることであった。地図で見ると歩いて行けそうに思えたが、昼食をとった店で聞くと「歩いて行くような場所ではない」そうで、タクシーを拾って清水寺の門前の坂まで行った。その坂は五条坂というらしく、ここがタクシー停車地になっている。坂を少し上がって左手の下りが産寧坂かと思い、下って行ったがどうも違うようで売店の人に聞いて出直した。これは清水坂というらしかった。もとに戻って上りつめた左の、石段の坂が産寧坂であった。「産寧坂」と墨書した板碑があって、脇に案内板がある。字はかすれているが、手帳に写しとった。

 <この坂を産寧坂といい四百年以上も前からある有名な坂で名前のいわれについては古くからいろいろの説があります 京「洛陽名所集」(一六五九)にすでに数説あげられています

清水寺の子安の塔に続く坂であるため産寧坂というのが一般的で産は「うむ」寧は「やすき」という意味でこの坂を通って清水寺へ参詣すると安産するといわれております。その他大同三年に出来たので三年坂ともいい又清水寺へ参詣の人がこの坂です>

 およそHにある通りのことが書かれている。ちょうどそのとき、舞子さん数人が石段を上ってきた。先方が祇園らしいので、あるいは舞子さんの参詣道なのかも知れない。

 Iにある瓢箪を売る店は坂下近くにあって、主人に聞くと三年坂が正しいといい、二年坂も近所にあるそうだ。どうして二年坂なのかと言ったら、三年坂より小さいからだそうだ。一年坂もその先にあるという話である。なぜ瓢箪なのか聞いたら、転んでもすぐ起きるからだそうだ。瓢箪は中に実が入っていて重みになると言う。転んで起きる瓢箪より、転ばないダルマの方がよさそうに思うが、言い合っても仕方がない。永年坂というのは聞かないと言う。瓢箪(小)600円というのを一つ買う。三年坂というのは東京にも三か所ばかり、座間にも二か所あると言ったら手帳に控えていた。朝鮮でいわれているというDのような話を先方から言い出したから、誰かに教わったのだろう。

 師走に入って、東京にあるという三年坂を探しに出かけた。@とGにあるものと、神楽坂周辺にあるという三年坂である。@には日テレ通り近く、とあるが、実際は五番町で、市ヶ谷駅から新坂を上りきった交差点を右折して百メートルばかり行った場所であった。入り口に標柱があって「三年坂」と書かれ、 「下六番町の方より土手三番町の中間を貫き土手際に降る坂をいう。三年坂は現今通称する所なるも、三念坂を正しとす。むかし三念寺といえる寺地なりしに因り此名あり。然るに俗間誤りて三年坂と称し、」とかかれています。>

 と解説されている。かなり急だが、道幅は2間ばかりに見える。ここには書き上げなかったが、別のコメントに、

 「念」の字の方が宗教的色彩もあってヨロシイ、ってんで「三念寺」にした、なんてのが本当は本当ではないか。或いは、その疑いはどうやって否定するか、なんて気がします>(大三元) といった疑問もあるわけである。

 日テレ通り近くには、このほかに三年坂は見つけられなかった。地下鉄麹町駅から桜田門へ行く。警視庁前の通りを桜田通りといい、かなり歩くが、大蔵省と文部省の間というので迷うことはない。五番町の坂と同じ標柱がある。が、ここのは坂の途中で、街路樹の陰になって見落とすおそれがある。

 <この坂を三年坂といいます。「東京名所図絵」にはK三年坂は潮見坂の南に隣れり、裏霞ヶ関と三年町の間の坂なり、坂をのぼれば是より栄螺尻とすLK又淡路坂ともいい一に此処を陶山が関というLとあり、さらに、K東霞ヶ関と三年町の間、道路の盤曲する所をさざえしりと呼び虎の門より永田町に出る裏道なり、曲り曲りたる境の名なり、亦此辺鶯多く因って鶯谷というよしみえたりLとかかれています。>

 とある。道は四車線でかなり広く、銀杏並木の黄葉に風情かあった。

 両方の三年坂とも「三年たったら死ぬ」という俗信は書かれていなかったが、日本地名大辞典の『地名総覧』(前記)には伝承の存在が述べられている。

 神楽坂へは飯田橋から歩いた。この坂も初めてくる場所だったが、道は二車線でかなり狭い感じであった。付近一帯、坂という坂を上り下りしたが、いろいろ坂はあっても三年坂は見当たらない。現地の人に聞いても、交番で調べてもらっても分からなかった。坂道の上り下りは疲れる。その日はそれであきらめて帰った。そうしてフォーラムのボードへ尋ねてまわったことを報告しておいた。親切な人がいて、

 <『江戸東京坂道辞典』石川悌二著・新人物往来社(1998)では、「神楽坂三、四丁目の境を神楽坂の上の方から北へ下り、筑土八幡宮の手前の津久土町へぬける長い坂」とありますので、長い坂のようです。三菱銀行から熊谷組へぬける道のことなんでしょうか。>(ひろ)

 とコメントが出た。そこで数日後、また出かけて行った。が、三年坂はない。筑土八幡宮はたやすくわかったが、通行の人に尋ねても、明治からの老舗で伺っても「さあ?」という返事であった。神楽坂から北へ折れる道は神楽通り、仲通り、本多横丁とあって、それらしい坂道は仲通り、本多横丁である。特に本多横丁は筑土八幡宮前の辻に下る道である。しかし三年坂の表示はない。コメントのように長い坂で、辻の角は熊谷組である。どうもこの道らしいが、今まで見た三年坂のイメージに遠く、だらだら坂で坂上に寺はない。神楽坂通りに毘沙門天があるがちょっと外れているようだ。

 これまでに得た由来を整理してみると、

(一)、俗信によるもの

(二)、造られた年度によるとするもの

(三)、宗教的な語源

 などがあるが、(一)が本来のもののようだ。「三年経てば死ぬ」というのは、転ばぬように気をつけろという戒めであろう。それにしても何故三年でなければならないのかは不明である。Dにあるように朝鮮または中国にもとになる説話がありはしないか。産寧坂というのは、先に俗信による三年坂があって、縁起でもないと考えられての逆説であるらしい。お産に結びつけたのは子安塔であろうが、今回その塔は見逃した。しかし、清水寺に至る坂は産寧坂だけではなく、清水坂、四条坂も清水寺に至る坂である。

 (二)の年度によるものもあるかも知れないが、あるコメントにあったように、明治三年なら明三坂とか、大正三年なら大三坂とかされそうなものともいえる。これも後からのこじつけのようだ。

 (三)の宗教的なものには座間下栗原の三年坂などがそうであろう。「年」は五番町の三念坂のように「念」と替えられやすい。栗原の三年坂の上は念仏山という。すれば参念坂であったと推定もされるのである。

 星谷寺裏の三年坂は俗信からともいえるし、宗教的なものともいえる。三年は参念でも参詣でも三会でも三昧(墓地をいう)でも転化が可能であるからである。

 ここもお産につなげられないこともなく、道は安産の神という護王神社に通じ、護王姫が櫛を落としたという櫛橋がそばにある。あるいは京都の事情に詳しい人物がいて、産寧坂にあやかったかもしれない。その場合は当初は産寧坂だったのだろうが、結局、一般的な「三年」が通りやすく、代えられたという逆の流れになる。ちょっと無理か……。

 序でだが、東京には三年坂とともに行人坂が多い。Gにある、「アイヌ語で「行人」と「三年」が似たような「音」になり得る」というのは初耳であった。コメントにもあるが五番町の三年坂(三念坂)に対して四番町に行人坂がある。神楽坂近くにも行人坂があったように思った。行人とは行者で、仏道を修行する人をいう。また、生きながら成仏を果たした行者の塚を行者塚という(行人塚なら行人坂になり得る)。天保十四年須原屋の江戸絵図にも行人坂があって(目黒)、付近に念仏堂が書かれている。三念寺の念も念仏の念であるし、これはアイヌ語というより念仏堂(寺)にかかわる三年坂を考えてよさそうである。行者と三年の関連に何かがあれば、あるいはこんなところから本当の顔が見えてくるかも知れない。

                   (10・12・31)