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  真間・国府台の道芝 

              さがみの野火

 

 

 <天保五年甲 午神奈月(十月)九日暁、四谷天竜寺(新宿区新宿4丁目)六(午前六時)の鐘鳴時、三番町のやどり(千代田区九段南2丁目)を出て、東郊かつしかや真間のあたり行ばやと、くづれ橋(箱崎橋)のこなた行徳舟出す所(小網町の行徳海岸)さして行たれば、まだ燈あかくてらして、かしこへ行べき三人四人縁に腰かけて、舟人の案内をまつ、しばし有りて、さらば乗てよと聞ゆるにまかせて、われも人もみな乗て、棹さし出ぬ>(『江戸近郊道しるべ』朝倉治彦編・平凡社)

 江戸時代文化文政から天保のころ某正靖という風流人がいた。よくは知らないがまあ旗本の楽隠居といった人物だろう。彼は80歳を越すまで近郊を歩きまわって、今思えば貴重な、風物情景の実際を記録に残している。『江戸近郊道しるべ』は東洋文庫の1冊として出版されたが、あまり知られていない。

 80歳を越した老人が徒歩と川舟を乗り継いで歩いたなら、私も行ってみたくなった。下総(千葉県)とはいえ、国府台(こうのだい)は新宿からJR乗り換えなしで30分そこそこで行けるはずである。正靖翁は麹町三番町の自宅を六時に出て、小網から舟に乗り、行徳(市川市)には巳の刻(午前十時)に着いた。

 <岸に上りて、乗合たるもの、おのがさまざま立別れども、かたみになごりをしとも思わず、心とむべくもなし、つくづく思ふに、人の世にすむも、生死の二をはなるるも、かくの如くにして、遺念なく袖のちり打はらふ如ならんぞ罪少なかるべしや>

 80を越した老人の感慨である。そこから八幡宿へ1里、さらに巽(東南)へ1里で中山村に着く。正中山妙法寺、葛飾八幡宮に詣で、何社ともしれぬ小社を見る。

 <老の身の、又こんたのみなければ、後の思ひ出にもと、銀杏の落葉二三懐にす>

 などはまざまざとした記述である。

 <ここを出て、市川の方さして、しばしば行ば、道のかたはらに石を立て、国分寺、手古奈、間々弘法寺道是より十五町と刻み、江戸へ三里十町としるす、そこより北に横折て、径を行はつれば、左右に田の面広く見わたし、畔の細道を蛇の行が如く、かなたこなたへ、うねり曲りたるを、たどりたどりゆけば、手古奈の社(手児奈霊堂、真間4丁目)の前にいたる>

 6月7日、私は梅雨の曇り日をあてにして朝九時過ぎのJRに乗った。海老名回りで新宿へ出、津田沼行き市川までの切符を買った。380円である。市川へは11時過ぎに着いた。

 案に相違して暑い陽射しとなり、駅前から霊堂まではモザイク模様のレンガ道を陽射しを避けながら歩いた。200年ばかり前、80翁は北からの道だったろうが、どちらにしても今は家また家、ビルまたビルで、畔の小道をかなたこなたへ、といったものでは全然ない。

 途中の真間川に手古奈橋というのが架かっていて、教育委員会の案内板がある。

  葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児奈し思ほ  ゆ(山部赤人)

 万葉のころは、このあたりまで入江であったらしい。玉藻刈る云々の歌はたくさんあり、私の故郷屋代島にもある。ここでは何という海草で食料にしたものか、御供物なのか分らないとしてあるが、私は藻塩の藻ではないかと考えている。万葉三六三八に、「大島の鳴門を過ぎて再宿を経し後、追ひて作れる歌」として、

  これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に玉藻刈るとふ海人娘子ど  も(田辺秋庭)

 がある。

 丘の上は国府台(こうのだい)で、このあたりにもとは下総国の国府があった。手古奈というのは伝説上の美女で、多くの男たちに言い寄られ、それを苦にして投身自殺したというのだが、万葉のころでもすでに昔話になっていた。

 下総国府があったのだから、『更級日記』の筆者孝標女も少女のころ近くを通ったはずだ。父菅原孝標は上総介で寛仁4年(1020)任期を終り、九月、帰京の途についた。筆者は13歳だったという。上総下総の境を過ぎ「いかだ」というところに泊まった。翌日は「くろとの浜」というところに泊まる。

 <片つかたはひろ山なる所の、砂子はるばると白きに、松原しげりて、月いみじうあかきに、風のおともいみじう心細し、人々をかしがりて歌よみなどするに、

  まどろまじこよひならではいつか見むくろとの浜の秋の夜  の月>

 「くろとの浜」は不詳だが、片方がひろ山というので、このあたりの地形に合う。翌朝、松戸の渡しに至り、船着き場に泊まって、一晩中、舟で少しずつ荷物を渡したとある。

 手児奈霊堂は駅から北へ真っ直ぐの道が上り坂になるのだが、手前の路地を左に入った場所にある。瓦葺き入母屋作りの堂で、正面のガラス戸に子授け安産守護などの貼り紙がある。『江戸近郊道しるべ』には、

 <この社、おのれ十四五斗の頃、父の千秋ぬしにいざなはれて、初めてここに来し時は、社の在所さだかならねば、あないの人たのみて詣で侍りしに、蘆荻の生しく中に、茅葺るほこら、方五六尺ばかり成がありて、鳥居などといふものなし、真間の井といふも、社に近き山岸荻、薄、小笹しげりたるを、かきわけて行て見しに、ただ凹なる所に、水の漏れるをそれと教ゆ (よその山井といふものも、みなしか也)、井とは呼べど井筒もなかりしに、それよりあまた年へて、寛政四子年の春遊びし頃は、社は猶昔の面影ながら、鳥居あまた建るを見て、案内を頼まねど、それとしるくて詣でけるに、後のかたみにもと、社の板ばめに絶句書て去しが、猶年へて文化四年卯の春詣でし頃は、もとの茅ふける祠は、とりのけて、ひろさ二間あまりにつくりかへ、ままの井も、元の所をうつしかへて、よの常なる井のさまにいとなみし、庵めく板ぶきの庵さへかまへなしつるに、今日又四十年をへて、来てみれば、祠はひろさ五間ばかり、けやき柱ふとしく建、瓦もてふき、白土ぬり、鳥居も大なるをたてならべて、むかしの姿をあらため、いとなみせしは、誰かすなるわざにや、天か人かしるべからず>

 など、時の移り変わりを詳細に述べている。14歳を65年前とすれば、宝暦のころ、1760年ごろとなるが、方1間ばかりの茅葺きの小祠にすぎなかったという。真間の井というのも、窪みに水の漏れる状態だったという。文化4年(1807)には広さ2間、真間の井も移しかえて普通の井戸のようにして庵まで作られていたという。天保5年(1834)には広さ5間の瓦葺き霊堂となって、鳥居も建ち並んでいたそうだから、手児奈顕彰は江戸も下期のことと思える。今は堂前は小公園のようになっていて、若いお母さんが子供を遊ばせていたりする。建ち並ぶというほどの鳥居はなかったから、震災などで整理されたのかも知れない。霊堂というより普通のお寺で、今はもっぱら子育て安産をPRしている様子である。

 右手に径40■ばかりの池があって、スイレンが白い花を見せている。池端に柳の1本があって、スイレンの浮いた葉の上に葉を散らせている。堂脇の向こうに、池へ向けて棒が突き出ている。それに1羽のアオサギが止まって水面をうかがっていた。作り物かと思ったが、たしかに生きた鳥に見えた。

 真間の井というのは近くの亀井院(日蓮宗)の庭内にあるらしいが、庭内をうかがうだけで入っては見なかった。亀井院には一時、白秋が住んでいたそうである。

 もとの道に出て山手の方向をたどると国分寺に出る。じつは暑さの中、道を迷って行き来したのだが書かない。『江戸近郊道しるべ』には国分寺の記事はないが、

 <真間山の石階五十段ばかりのぼりはてて、楼門を入ば、向ひに釈迦堂、祖師堂、向て左に骨堂、右に坊あり……>

 とあるのがそれだろうか。今の楼門はむかしの4分の1の規模だそうで、おまけにコンクリート製である。本堂の裏は墓地だが、その一画にむかしの講堂跡が残されて標柱が立っていた。墓地の石塔は石材が良く荘厳だが、さほど古いものはないらしかった。

 西北の畑道を行くと尼寺跡がある。このあたりは台地上の平原で、今は地質の良さそうな畑でキャベツや葱が正しい間隔で列を作っていて、カラスの声がしきりである。一帯は戦国時代の永祿年間、小田原の北条氏と上総の里見氏が2度にわたって死闘を繰り広げた古戦場である。

 『北条五代記』の「下総高野台の合戦の事」に、

 <聞しはむかしさかみ北条氏康と安房里見義弘たたかひあり然に太田みのの守武州岩付に有て謀反をくはたて義弘と一味するによって義弘義高父子下総の国へ発向し高野台近辺に陣をはる……>

 以下がある。このとき北条方へは江戸から遠山丹後守、富永三郎左衛門尉、下総小金から高木治部少輔が出迎えて主力部隊の到着までを支えていた。小田原方では時を移さず氏康、氏政父子が出馬、からめき川を挟んで対峙した。からめき川は今江戸川となった川である。これを見て里見方は作戦を立て、夜中に引き退く様子を見せた。これは誘いであったが先陣の遠山・富永の1隊はそれと気付かず進撃して乱戦となった。しかし、待ち受けた側の勝利で、北条方は遠山・富永・山角・中条・河村の諸将はじめ100余騎を失う敗北を喫した。

 勝ち誇って高野台(国府台)で千秋万歳を歌って油断した里見側は、鎧を脱ぎ馬に飼葉を与えなどして明日の合戦に備えていた。そこへ北条方が氏康、氏政2手に分れ、先陣氏政は台の南3里下へ回って攻めかかった。

 <永祿7年甲子正月八日申の刻に至て氏政軍兵近々とをしよせ鯨波をとつとあくる氏康は直にせめかかり又鬨音を二所にあけてをめきさけんて責かかる義弘案外の仕合とおとろき台を折下て鬨音をあはせて両方へ分てせめたたかふ鉄砲矢さけひの音天地をひびかし首をとつととられつ血けふりを出し半時は勝負も見えさりしかつひには義弘討まけことことくはいほくすつき臥切臥追討する事将棋たをしにことならす>(同前)

 この戦いで里見方は5000余騎を失い、義弘は上総へ逃れて以後逼塞する次第となった。

 この戦いに北条方として参戦した前記高木治部少輔(高城と書く)は小金城主だが、先祖は熊野の山城の城主だったという。小金が熊野社の神領だったからかもしれない。熊野新宮から引率した家臣(7騎)に座間姓の者がいる。『武蔵風土記稿』都筑郡池辺村に、

 <旧家者百姓金蔵 氏を坐間と呼ぶ、門奈伝十郎が采邑の里正を勤む、彼が先祖を坐間某といへり、永祿年中下総国葛飾郡国府台合戦の時、廃人と成て隠逸す、夫より当村に土着せりとぞ>

 この坐間某は鉄砲の弾によって負傷したというが、おそらく高城氏に従った家臣だったのではないかといわれている(『高城文書』によると第二次国府台合戦に参戦した高城氏の武将は高城和泉守胤吉、同式部少輔胤辰以下1000騎、中に座間遠江守の名がみえる)。池辺には今も座間姓の家がたいへん多い。 戦後、高城氏は恩賞として葛西・亀井戸・牛島・堀切・小曾根・新堀・飯島・行徳・舟橋の知行を得ている。菖蒲園で名高い堀切にも座間姓の家が多いのはこれと関連がありそうだ。また、小園村金子家文書に天正十五年(1587)7月21日、金子兵部丞、與次郎父子にあて、下総の高城胤則から従前の如く村の差配を任せる文書が残されている。小園村もまた高城氏の所領であったことが分かるのである。

 秀吉の小田原攻めには、高城氏も胤則、胤正が籠城軍に加わり、座間遠江守の名も見える(都合500騎)。つまり池辺村へ引退した座間某は遠江守ではないことになる。また、永祿2年(1559)の『北条氏所領役帳』に茅ヶ崎(横浜市都筑 区)、折本に座間氏の名があるから、座間某が池辺に来る前、既に近くに座間氏がいたことになる。

 小田原落城後、高城氏は所領を失い、座間を名乗る武将もいなくなった。

 国府台の尼寺跡から激戦地「からめき川」畔に出るには谷戸を越えてもう一つの丘を越えねばならない。一帯は学園都市となって千葉医大・商科大・短期大・高校などが連なり、城跡があるという里見公園まではずいぶんの距離だった。やっと着いた公園は、つまりだたの公園で、城跡といった石碑すらない。公園入口に本丸跡を記した丸い囲いが見えるだけであった。公園の北隣に安国山総寧寺があった。『江戸近郊道しるべ』にも、 <西と覚しき方にゆけば、国府台の上り口の坂の上に出、それより惣寧寺(総寧寺、曹洞宗)の大門通り松並を、艮に向て行、惣門を入、楼門を過、客殿、坊など見廻るに、昔に引かへ、いとも清らかにみがきなして、いかめしげ也>

 と書かれている。しかし鉄の門は閉ざされ、見渡す庭内に人影はない。門前の案内板の消えかかった字をたどると、この寺はもと佐々木氏頼により永徳3年(1383)、樫原郷(滋賀県坂田郡近江町)に建立されたが、天正3年北条氏政が下総関宿に移したもの。寛文3年(1663)、宗門の統一支配をはかった幕府がここに移し、全国曹洞宗寺院総支配権を与えたのだという。今はどうなのか、無住にさえ見える閉ざされた坊舎の空でカラスの声がするばかりだった。

 <赤壁の古戦場は、日既に西にかたぶき、まばゆきに堪ねば、遠望心にまかせぬを思ひはかり、行て見ず>(同前)

 正靖翁はさらに矢切りの渡しへ向かい、対岸に渡って柴又帝釈天の後ろに出、寺を通りぬけて新宿(にいじゅく)まで歩いている。私の方は右足の付け根あたりが痛み出し、もとの学生街の通りへ引き返して市川行きのバスを待った。

                   (13・6・28

 


 

湖北から若狭へ

長浜

                                12・10・17

国友村

 長浜市の郊外に国友という村落がある。このあたりは古来湯次荘に属し、弓月君の率いた鍛冶部がいたという。湖北の一帯にはいくつかの製鉄遺跡が発見されていて、鉄に関わる地名や仏閣、伝承が多い。余呉には金居原、古橋に製鉄遺跡、岐阜県境には金糞岳、浅井には鍛冶屋、近くにも金法寺とか金光寺とかがある。面白いのは米原町筑摩神社の鍋冠祭で、数え八歳の女の子が狩衣姿で張り子の鍋をかぶって行列する。祭りの三日目には鍋渡御がおこなわれるという。このいかにも湖北らしい行事は、坂田郡朝妻町にもあるという。こちらは子供でなくて大人の女性が本物の鍋をかぶるのだそうだ。

 敦賀に向かって北国街道が走るが国友はその要点にあたり、古代朝鮮半島からの渡来人の経路でもあって優れた鋳造技術が根付いたらしい。また、出雲の良質の鉄が北前船で敦賀に陸揚げされ湖北に運ばれてきた。

 天文12年(1543)、種子島にもたらされた鉄砲を薩摩の島津貴久は将軍足利義晴に献上した。義晴はこれにあまり興味を示さなかったが、子の義輝は非常に興味を持ち、細川晴元を通じて、国友の鍛冶にこれを渡して製造を命じたという。伝来からわずか1年後のことであった。当時、国友は京極氏の支配するところであったが、京極氏は細川氏の配下にいたので見出だされたのである。

 火薬も近江国内で製造され始めたらしく、米原町では今も黒色火薬(鉄砲に使われる火薬)が製造されているというし、近江八幡市にはかつて35軒の旧家が御用火薬を命じられていたという。この地は観音寺城の佐々木氏(六角氏)の支配するところであった。

 鉄砲を兵器として最初に用いたのは六角氏で、天文19年(1550)、六角定頼は三好長慶との戦いで全国初の鉄砲戦を行った。彼は鉄砲に対する先見を持ち、鉄砲戦に備えて石垣による築城を観音寺城で始めた。それまでは石積みによる築城はなかったのである。 しかし、鉄砲には兵器として不向きな一面もあった。玉込めに時間がかかることや、命中が不正確であったことなどである。これを新兵器として活用したのは織田信長で、天正3年(1575)の長篠の合戦では3000丁の鉄砲を3弾打ちして武田騎馬軍を壊滅させた。彼はすでに天文18年(1549)、国友鍛冶に六匁玉筒500丁を製造させていた。弘治3年、国友鍛冶に与えた掟書には、

 <諸国鉄砲張立候者共候ヘハ、糺之上相届可申事>

 <諸国ヨリ大小御砲多作リ候ハハ、早速相届可申事>

 <鉄砲細工猥リニ余人ニ相伝申間敷事>

 などと命じている。(「坂田郡誌」)

 更に天下布武の安土城築城には、観音寺城にならって全山石垣をもってこれを構築し、以後、城郭に石垣は築城の常識になった。

 信長を継いだ秀吉、家康も国友鍛冶を配下に組み入れた。慶長10年(1605)には国友は天領となり、以降、国友鍛冶は幕府の厳重な統制下におかれるようになった。。

 文化文政に至り、国友鍛冶は内紛により存立が危うくなったが、国友藤兵衛一貫斎が現れて救った。彼は江戸滞在中に学んだ科学知識をもとに、気砲、弩弓、鏡、望遠鏡、懐中筆(今でいう万年筆)、玉燈(安全ランプ)を発明した。この反射式望遠鏡を使って木星、月、太陽の黒点の観測をおこなっている。

 しかし世は太平となり兵器の需要もなくなった。幕末に至って洋式の新銃が入ってきていよいよ国友鍛冶は衰退した。仕事を失った職人たちは活路を彫金(象眼細工)に求めた。国友の彫金師の手になる作品には、鉄砲銃身の象眼や刀の鍔、小柄、鯉口、仏具、錠前などがある。国友源右衛門(臨川堂充昌)、横谷宗与、後藤祐乗などの名手が輩出した。花火の製造も同じで、火薬製造の技術を生かしたものである。

 国友に「鉄砲の里資料館」がある。小浜駅前からタクシーで行った。外形は酒屋か醤油倉に似て、瓦葺きに白壁、下部は黒く塗装してある瀟洒な建物である。雨もよいの火曜日だったせいか、わたしのほかに2人しか館内にいない。3人で録画を見せてもらって二階に上がった。国友には最盛期には70軒の鍛冶屋があって、500人を越す職人がいたということである。作業のしぶりと工程、工具のいろいろと製品の種類が展示してある。1丁の鉄砲は実際に手に取って構えることもできた。展示物の中に大きな筒が2〜3本あったが、あれは打ち上げ花火用なのか。火薬に親しい土地だから花火製造があっても当然だろう。

 付近はどの家も鍛冶に関係のあった旧家か、入口に標識柱の立った家が多い。司馬遼太郎が『街道をゆく』に、

 <国友村は、湖の底のようにしずかな村だった。家並みはさすがにりっぱでどの家も伊吹山の霧で洗いつづけているようにきよらかである。>

 と書いた、そのままのたたずまいであった(これは石碑にある)。

  [参考文献]

   『国友鉄砲鍛冶の歴史』湯次行孝著・淡海文庫

   『近江の城』中井均著・淡海文庫

   『近江戦国の道』淡海文化を育てる会編

 

 


近江路の旅

 

   (1)

       

 

 1石山寺(紫式部供養塔)

 石山寺は石光山石山寺といい、真言宗。本尊が如意輪観音で西国十三番の札所である。聖武天皇の勅願で良弁が開基とある。が、せっかちでマヌケな私の頭にそんなことは残っていなかった。加えて、文無しの私だから日程に余裕がない。時は秋、湖畔を巡る旅でもあったはずだが、湖は見ず、紅葉も記憶に残らなかった。

 で、こんな男が石山寺へ行ったというのは、そこに三重の宝篋印塔があることを知ったからである。石山寺は紫式部が『源氏物語』を執筆した寺というので著名だが、その式部の供養塔だといわれている石塔なのである。

 宝篋印塔といっても別に珍しいものではないが、三重の、というところに興味があった。実は三重の宝篋印塔らしいものが座間の星谷寺に存在するのだ。

 星谷寺の中庭に図のような石塔があって、由緒も建立年代も、むろん建立者もわからない。 

 お寺で伺ったところでは、庭に転がっていた石を、庭師があのように重ねたものだという。計測値では笠三層がほとんど同寸で、ばらばらであったにしては似ていすぎる。もともとあのような形状のものだったのではないだろうか、と考えた。ところが、そういった三重の宝篋印塔(仮称)など近在で聞いたことがなかった。

 某日、本屋で『日本の国宝』(週間朝日百科・朝日新聞社)という冊子(本ともいえないので)を買ってきた。中に、紫式部を供養した石塔として、三重の宝篋印塔の写真があったのである。

しかし、これにも建立の年代は書いてなかった。

 石山寺へは東海道本線膳所で京阪電鉄石山坂本線に乗り換えて終点石山駅で下車した。それからが結構歩く。満水の瀬田川にそっての道だが、歩いても歩いても先がある感じで、帰途らしい人に会うことがあると互いにニヤッとする。「まだまだですか」「まだまだですよ」を言外に秘めた微笑である。こちらは三泊四日の荷物を背負っての行軍、背中にびっしょり汗をかいたころ門前に着く。

 寺務所で式部供養塔のありかを聞くとパンフレットをくれた。片隅にひっそり、と予想したのに、かなり目立つところにある。 

 この場に立ち止まる人もあまりいないので、巻き尺を出しておよそのところを計った。笠幅も高さも星谷寺の倍ぐらいあるようだ。石は良質で多少苔が生えているが、いたみはあまりない。気がついたのは各層に塔身があることで、これはあたりまえの話なのだが、そこがドジでせっかちな男のこと、星谷寺の塔に塔身がなかったことに気付かなかった。高さが高いのは当然なのである。 

 これは後の話になるが、最近になってやっと見つけた本に、『宝篋印塔の起源』(薮田嘉一郎著・綜芸社)がある。中に、<鎌倉末期に至って、三重の石造宝篋印塔が出現したことは、屋蓋隅角の蕉葉形の反ることなどと共に宋元の阿育王塔形の影響であることは認めねばならない……>

 とあった。するとこういう形式はかなり古いものと考えてよさそうだ、ということになる。

 更に多層宝篋印塔の成立について、

<関西においては石造三重塔、さらに五重、七重等と秀れた石層塔の発達、分布があって、その影響をうけて層塔を意識した三重宝篋印塔の展開があった。……関東、殊に北武蔵、上野に分布した重層の宝篋印塔……>

 ともいうので、関東北部には二重のものがあるらしいとわかった。星谷寺の三重石塔にしても、最高部の一層は厳密には他層と相違もあり、二重だったかも知れない。むろん年代、由緒など今後をまたねばならないことである。

 とにかく、石山寺の宝篋印塔を、この目で見てきたことに満足して引き上げてきた。

 

 2日野の正崇寺

 おそろしく不便なとこらしく、水口の宿を出るときも行けるかどうかわからないでいた。日程の都合であまり時間を消費していられなかったのである。わからなかったら途中であきらめるつもりであった。

 そういうぐあいで、朝は早く出発した。水口の駅(近江鉄道本線)というのが昔の国鉄時代の相模線駅を思い出させるような露天ホームで、地面も裸土である。本線などといかめしいが、電車は後ろ乗り前下車のバス並みで、バスのように運転手が切符を受けとるので、二両編成の乗客は後部入り口から乗って整理券を取り、下車には前まで歩いて券を渡さねばならない。学生たちが降りてしまうと乗客は二、三人しかいなくなる。

 日野駅で下車した。地図で見ると日野の町というのは駅から大分距離があるらしい。暇そうな駅員のおじさんに話かけて正崇寺へ行くのにバスはあるか、タクシーはあるか聞いた。バスはあるが出ていったばかり、タクシーは来るかどうかわからないという。来るかどうかわからないタクシーが十五分くらいしてやって来たので行き先を言って乗り込んだ。

 運転手さんの以前の菩提寺だそうで迷うことはない。道は旧街道ということだが、大型の対向車があるとぶつかりはしないか危ぶむ幅である。やはりかなり走って、とても歩く距離ではなかった。街道を横丁にそれて、奥まった正面に寺の屋根が見える。

 タクシーは境内に入って、庫裏の前に着いた。「声をかけてみなさい」と言うので声をかけたが応答がない。思い切ってガラス戸を開けて呼んだら、中年の夫人が出てきて、住職はいないと言った。

 おそらく近江の人でも、この寺のことを知っている人は少ないのではないかと思う。蒲生氏の城下町だったと運転手さんは言ったが、何の変鉄もない田舎町の寺である。はるばる訪ねたのは、この寺の開基が佐々木高綱の四男、佐々木兵庫介とあるのを辞典でみたからである。

 夫人の話に、開基にまつわる記録も文書もないそうで、墓もないという。奥に入ってパンフレットを持ってきてくれた。これ以上のことはわからないとのことである。

<正崇寺開基は佐々木四郎高綱の四男、佐々木兵庫介高吉なり。承久の変に流落して、蒲生郡桐原の郷の士、生田小田郎の家に寓す。……幸に当流の高租新鸞聖人木辺の錦織寺にましまして(嘉禎元年の頃一二三五年)、弥陀の本願の一法を弘め給う。高吉この義を伝え聞き、急ぎて錦織寺に来詣し、聖人に謁し奉り、……>

 新鸞の弟子となった高吉は、聖人から一字をゆずられて法名円鸞となった。最初、京都松原通西洞院東に建立して興正寺といったが、応永二年、日野に移り、さらに明応二年(一四九三)蓮如上人によって正崇寺と改めたという。

 信州松本市を旅したとき、市内島立に正行寺という浄土真宗の寺があって、佐々木高綱が開基であるということであったが、父親と同様に、新鸞に帰依して、一寺を開創したというのは単なる因縁であろうか。四男で兵庫介までは知っていたが、高吉の名が判明しただけでも収穫があった。

 今回は果たせなかったが、近江に正行寺という名の寺が四寺ある。うち三寺までが浄土真宗である。下野(栃木県)に所在するという正行寺がやはり浄土真宗で、開基を佐々木盛綱とする。興味深いことどもではある。(未完)

                   (11・3・9)

 


近江路の旅

 

   (2)

                

  佐々木導誉(高氏)は「ばさら大名」として名高いが、その肖像画が近江の某寺にあるという。導誉の子、高秀が描いたと説明書にあった。

 高秀については、『座間むかしむかし』(第三集)の「夷参と座間」(鈴木芳夫)に、現在発見されている「座間」と書いた最古の文書として紹介されたものにある名で、これには以下のように書かれているという。

 *以下、第三集とする。

<座間郷長松寺事向後 承る所を申し付くる也 興□□□され 且つ天下安全の誠勤を致され 父祖の尊霊の菩提を訪い給うべく候 恐恐謹言 六月九日 高秀花押 建長寺安首座禅師> 写真で見ると、月日に「元徳三」、高秀に「長井」と追記があるようだが、ここでは追記の根拠は不明としてある。

 建長寺の安首座禅師は三十五世住職素安で、長松寺(相模原市新戸)は建長寺の末寺である。追記は長井としているが、第三集の通りその根拠は不明である。

 長井氏は大江広元が奥羽長井に所領を得てからだと思うが、広元の子孫が長井を称し、幕府の要職にあった。しかし、高秀の名は長井系図にありそうで発見できていない。神奈川県史では上記の文書からと思われるが、座間を長井氏所領としている。ただし、これには元徴三年とあるので、追記の記事そのものが違い、元徴三年という年号はなく、かなり杜撰な調査の感じがする。

 座間市保護委員会発行(昭和41年10月)の『相州星谷寺嘉禄年紀梵鐘に関する資料』では前記文書について、

<本文書は高秀と建長寺安首座禅師との関連において延文五年(十月廿日素安逝1360)を遡ることは確実で信綱の星谷寺梵鐘寄進後百年余を経てもなお佐々木氏が座間の地に関係を持っていたことが明らかであろう>

 として、高秀を佐々木高秀として疑っていない。が、高秀と安首座禅師の関連というのがわからず、第三集にいう推定年代(1354頃)もあくまでも推定である。これが佐々木高秀の直筆であるかどうか、父導誉を描いたという絵に高秀の花押でもあれば第三集の花押と比較で真偽が判明するのではないか、と考えた。絵は近江正楽の勝楽寺に現存するというので、今回の旅でそれも確かめたかったのである。

 *導誉を道誉と書くのが一般だが、自署は導誉、「入道々譽」と書かれた文書があることから誤って道誉としたらしい。

 近江正楽はかなり山の手に入った場所にあって、地図で見ると付近に鉄道駅などはない。一番近そうな駅は、日野からでは近江本線を下って尼子という駅のようだ。そこからタクシーでも拾って行くつもりで、またトコトコとこのローカル線をたどった。

 着いてみると尼子は無人駅で、周辺に店屋もなく公衆電話もない。民家が二、三軒あるがどこにも人影がない。そこへ自動販売機の補充ジュースを運ぶらしい小型トラックがきた。その人に聞いたら、もとは公衆電話があったのだが、誰かがいたずらするので取り払ってしまって、今はなにもない。ということであった。あすこに床屋があるから電話を借りたら? と教えてくれたので、あすこまで歩いたが店は開いていなかった。前の民家で声をかけてみたが誰もなかなか出てこない。やっと顔を見せた老婆がうちは電話の取次はしていない、と断られ、また数軒先の民家まで歩いた。そこでは若い婦人がいて、親切にタクシーまで電話してくれた。

 タクシーは意外に早く(10分くらい)現れて、正楽という村まで行ってもらった。ぽつりぽつりと一、二軒の農家があるほかはまことにのどかな田園地帯である。尼子といえば、NHKで毛利氏と戦って敗れた武将として出ていて山陰の豪族だが、こんな辺鄙な場所に根拠を持った武士だったのであろうか。尼子氏もドラマの映像で見たように四つ目結紋の佐々木氏である。 勝楽寺は山塊の裾の、もとは茅葺きだったのを覆ったらしい赤いトタン屋根の、見たところ平凡な寺である。やはり運転手さんに言われて、大きな声を出して来訪を告げた。ご住職は就寝中であったのか、奥で着替えをする風情だったが、本堂内陣前で会っていただいた。正面横に例の、高秀描くという導誉像が掲げてあった。それが目当てで訪れる人がいるということであろうか。国の重要文化財であるこの絵は、ご住職によると模写で、本物は京都の国立博物館に収蔵されているということだった。表情が少し固いと気にされるがこれもなかなかの出来であった。しかし期待の高秀の花押はない。絵も高秀自身が描いたのでなくて、高秀が本職の画家に命じて描かせたのだろうということであった。

 ご住職から、吉川英治も訪れてきたことがあると、その写真を見せていただいたが、帰ってきてから『私本太平記』を探したら、解説(「吉川先生とのご縁」徳永真一郎)に、この間のことに触れた部分があった。

<先生(吉川英治)の一行が米原駅に着いて、まず一番に用意の車を走らせたのは、彦根市のすぐ南にある甲良町の勝楽寺であった。ここは、婆娑羅大名佐々木高氏こと京極道誉が晩年を過ごしたところで、道誉が還暦を迎えたとき、息子たちが画家に描かせて贈ったという肖像画や道誉の墓がある。住職が気をきかせて、重文として京都博物館に保存されている肖像画を、わざわざ取り寄せて、床の間に吊してあった。吉川先生は背広姿で、その前にあぐらをかき、二十分近くにらみっこしておられたが、「いかにも道誉らしい面構えをしておる」と感嘆の声をもらされた>

 いきさつから推し量って、このときの肖像画も私が見た模写かと思うが、それにしても良い出来栄えではあった。しかし、これでは「道誉」とある。原画はどうなのだろう。

 今、京都建仁寺の末寺ということだが、建仁寺も開山は栄西(鎌倉の寿福寺と同じ)、建長寺の開山蘭渓道隆も入山して禅の専門道場としたというくらい鎌倉、ひいては佐々木氏と関係が深い。

 本堂裏の山(約300メートル)は導誉の築いた城跡で、勝楽寺城跡という。楽に勝つとはバサラらしいが、ここには狐塚、経塚、中世の石塔などがある中に仕置場跡というのがあって、バサラ導誉の一面をのぞかせていた。

 本堂左手に墓地があり、中央に一目でそれとわかる導誉墓がある。もとは宝篋印塔だったろうが、現在は基壇のほかは塔身部(幅83・高55)と笠部(と推定。現幅60・高55)が残るだけで、しかも甚だしく損傷されている。後代の人力によって破壊されたものと想像される。何時、誰にかはわからいが、風雪また常ならずである。秋深く、苔むしていると書かれた苔も枯れて、荒れた石肌が生々しい。

 私の旅は調査の旅ともいえないしろもので、いわば納得の旅である。無いことがわかった、わからないことがわかったというだけで私は満足する。そこに次のステップがあるからである。 

 小春日の近江路は人影もなく、田園は稲の刈り株に生えたヒコバエが枯れはじめ、中には穂をつけたものもあるのが日に照らされて輝いている。こんなのどかな風景の中から、全国各地の戦乱に大きな影を見せる四つ目結軍団ができ上っていったとは、どうして想像できよう。

 タクシーは川瀬まで行ってもらうことにした。そこから東海道本線を、今度は近江八幡へ向かうのである。 (つづく)

 


 

近江路の旅

 

   (3)     

 

 

 4桑実寺

 河瀬から安土へ回って、駅前からタクシーで安土城跡、桑実寺を巡った。普通にどこにでもある田舎の風景で、刈り株に伸びたひこばえが秋の陽に映えてそよいでいた。安土城跡(記事省略)から桑実寺への道は次第に山道になり、竹藪の中を曲折して上っていく。有名(であるはず)な寺なのに、こんな辺鄙な場所なのだろうかと不安になった。しばらくして山の根のような場所で止まって、ここからちょっと上ると参道に出ると運転手さんに言われて、けもの道のような雑草の道をたどった。廃屋か民家かの一軒の裏を行くとなるほど参道らしい石段の道に出た。

 この寺は六角佐々木氏の居城だった観音寺山の一角にある。最初、観音寺城跡の方か観音正寺を見たかったのだが、大山澄太の『西国観音巡礼記』を読んで、どうも私の体力と持ち時間では上れそうもないと観念し、観音寺山は裾からでも望めるだろうからと、山裾の一角にあるという桑実寺に切り換えたのであった。一角というのは観音寺城の西口の要地であるということであったのでそう書いたが、行ってみると一角どころではなかった。かなりな山寺なのである。段と段との間が広い石段で、この秋の小春日に春のナズナやムラサキゼニゴケが石の間から花を見せていたりするが、石段は時に曲がり、時にそびえて延々と続く。何丁の標識があるが、一丁二丁の間の長いこと。くたびれきってようやく山門に至った。足利十二代将軍義晴が難を避けて六角定頼を頼り、ここを三年間仮幕府としたというが、この山坂をどのようにして登り、いたつき(生活)したのであろうか。上層はいいとしても、食事、用足し、下層の者の苦労はたいへんなものだったろう。

 あと何丁、あと何丁でとうとう登ってしまったが、本堂は寺というよりは板で囲った倉庫のような建物であった。桑実寺というのは、寺伝によると、開山定恵和尚が中国から桑の木を持ち帰り、ここで日本最初の養蚕技術を広めたところからとある。山号の繖山(きぬがさやま)も蚕が口から糸を散らしてマユをかけることにちなんだものだそうだ。往時には二院十六坊の僧坊があり、貞永元年(一二三二)には佐々木信綱の招請で、京都東福寺開山弁円が入寺している。信綱が座間の星谷寺へ梵鐘(一五六八)、足利義昭をここに招じた。この本堂は信長が再建したもので国の重要文化財に指定されている。

 右手の山ふところに石組みの小さな洞窟があって、そばに柄杓が置いてあった。水には不足しなかったのではあるまいかと思われる。そばにキリンソウの黄色い花がゆれていたのが好ましい風情であった。

 5沙沙貴神社

 一般に佐々木神社とも書くが、パンフレットに沙沙貴神社とあり、「佐々木神社の文字は公式には使用しません」とあるので従っておく。祭神に、

 @少彦名神−すくなひこなのかみ…ササキ・鷦鷯郷の祖神

 A大毘古神−おおひこのかみ…沙沙貴山君の祖神

 B仁徳天皇−おおささきのすめらみこと…幼名−大鷦鷯尊

 C宇多天皇−うだのすめらのみこ…宇多源氏の祖神

  敦実親王−あつみのみこ…佐々木源氏・近江源氏の祖神

 と書かれている。沙沙貴山君というのは、陵戸(みささぎのへ)、つまり、天皇や皇后の御陵の番人を指したものという。『続日本紀』の称徳天皇天平神護元年(七六五)に佐々貴山公人足と見えるのも一族であろう。仁徳天皇を挙げているのは御陵の大きいことから大雀命(おおささぎのみこと)と称えられ、その御名代部(みなしろべ)を雀部(ささきべ)といって日本各地にあった。近江蒲生郡篠笥(ささき)郷も雀部郷の転じたものであろうとされている。しかし、佐々貴山公と佐々木氏と直接のつながりはなさそうで、篠笥(ささき)郷を所領とした敦実親王(宇多天皇の子)の後裔(源氏)が佐々木を称したということではあるまいか。

 佐々木氏といえば家紋は四つ目結と知られているが、近江へ来てみるとほとんど平四つ目である。勝楽寺の寺紋もそうであったし、六角・京極両家も、この沙沙貴神社の神紋も平四つ目である。またこの平四つ目も古くは加世貴四つ目といって、中央に的のようなものがあり、さらにこれから四つ目の間をカギテのようなものが通っていたらしい。全国の佐々木さんのほとんどが○に隅み立て四つ目であるのは後代の加工で、かえって本家から遠ざかるものかもしれない。 

 ちょうど当日は七五三の祝い日で、社前の拝殿ではその儀式がおこなわれていた。祝いにふさわしいうららかな日差しであった。

 境内に乃木大将の石碑があった。乃木家は佐々木高綱の後裔(正確にいうと、高綱の子光綱が叔父佐々木義清の娘婿となって家督を継いだ)で、祖先が伯耆の能義を領して能義(乃木)を称したのである。海老名市用田の寿閑寺の開基乃木寿閑はその一族であって、祖先の地を慕って帰ったものと思える。すれば、むしろ高綱よりも義清で、義清は父秀義が渋谷重国の娘を娶って生ませた子で、重国館は近くの長後にあったという。

 石碑には次の如く書かれていた。

   乃木さんのお言葉

 私は沙沙貴神社に、度々参詣するが、

 この神社には私のお祖父さん、

 その又お祖父さん

 又ずっと先のお祖父さんが祭ってある。

 この村の方々、

 皆さんのお父さんや、お兄さんは、

 お宮の祭りを盛んにしてくださるので

 私は非常に喜んでいる。

 我々人間は祖先が本である。

 その本を忘れてはならぬ。

 本乱れて末治まるものはない。

 祖先の大恩忘れるようではだめである。

 是非、祖先をうやまうようにしてほしいと

 この爺が言ったと、よく覚えて貰いたい。 

 高い楼門の外に出て、立ち木を漏れる西日の、誰もいない参道から私は、一つの日本の姿を見る思いでもう一度振り返った。 

いったい、この地を本拠にした宇多源氏佐々木氏が、どうしてあのように全国各地の戦乱に名を見せ、勇名をとどろかせるに至ったのであろうか。佐々木氏系図を見ると多数の戦死者・自害者・処刑者を数える。ほとんど半数以上が散った時代もあった。この好戦的な一族を駆り立てたのは何だろうか、と考えてみると、近江という地に興隆した「鉄」が背景に存在したゆえではあるまいかと気付く。

 『続日本紀』巻三、大宝3年(703)9月3日に、

 <四品の志紀親王に近江国の鉄穴(鉄鉱石のとれる場所)を賜った。>

 とあり、また巻二四には天平宝字6年(762)2月25日に、 <大師の恵美朝臣押勝に近江国浅井・高嶋二郡の鉄穴を各一か所賜った。>

 ともある。さらに乱掘を禁止した布達も見える。巻四の元明天皇和銅元年(708)7月26日には、

 <近江国に和銅開珎の銅銭を鋳造させた。>

 という記録もある。山科から大津にかけて約二十ヶ所の製鉄遺跡が確認され、逢坂山製鉄遺跡群と呼ばれているということである。鋳造の先進地域であったことがわかる。

 蒲生町には鋳物師というところがあり、竹田神社の祭神に天目一箇命(鍛冶の神)を祀る。坂田郡朝妻には鍋釜祭りがあり、坂田金時はマサカリを担ぐ。時代が下がると近江は鉄砲の生産地となり、長浜の国友鍛冶は今に伝統を残すという。

 佐々木氏の初期所領であった座間に、信綱寄進の梵鐘(国指定重要文化財)と市指定重要文化財の「ささきがけ」と称する鉄鐙が残るのは何か象徴的である。

 いつだったか司馬遼太郎の『街道をゆく』のテレビで、石垣だったか宮古だったか忘れたが、この地に戦乱がなかったのは、鉄が入るのが遅かったからだろう、とあった。してみると鉄の早かった近江の武将が好戦的だったことは頷けることになる。鉄と戦いはそれこそ切っても切れない関係なのだ。(つづく)

 

 


近江路の旅

 

   (4)

               

 

 6徳源院

 天台宗の寺院で、坂田郡山東町清滝にあり、霊通山清滝寺ともいう。平成10年11月17日、近江八幡駅を早朝に発ち、米原駅で帰りの新幹線切符を購入しておき、先ずは東海道線で柏原駅に8時半過ぎに着いた。下車した人は二、三人だけ。

 見回したところ、コインロッカーらしいものもなく、リュックサックはそのまま持ち歩くほかはないと観念した。改札窓口の駅員さんに聞いたが、清滝までのバスはないとのこと、タクシーもないそうだ。仕方がないとこれも観念、歩くことにしてどのくらいかかるか聞いたら、案内のチラシをくれた。40〜50分はかかるらしい。

 すぐ町を外れて田園になる。野道である。まだ明けやらぬ感じで一帯に靄がかかり、前方は定かでない。枯草道をたどり橋を渡り、舗装された街道へ出た。通行する車はいない。街道を案内図を見ながら横切って、しばらく行くと中学校か何かのグランド横に来た。霞んだグランドで二、三人の若者がサッカーボールを蹴っていた。今度は旧道らしい舗装道路に出た。これも突き切ってまた野道である。右手は小川だが縁は土留めの昔の小川である。ハクセキレイが何羽も白い羽を翻していた。右手は畑で畦道の角に地蔵堂があったりする。やがて道より畑が高くなり、堤にアキノキリンソウが点々と露に濡れた風情である。左右に何軒かの民家があるが、人影はない。

 山ふところといった地点まで坂道をたどると、やっとお寺らしい板塀の角に来た。

 徳源院は京極家の菩提寺である。佐々木信綱の跡は泰綱が継ぎ、その子孫は京都の六角に住み六角氏を称した。泰綱の弟の氏信は京都高辻の京極に館を持ち、京極氏となった。

 京極氏は在京御家人として活躍したが、近江での本拠は北近江で、伊吹山麓の太平寺に荘園支配の政所を置き、柏原にも館を置いていたという。徳源院は氏信が弘安九年(1286)に開基となり、定誓を開山として建立した寺で、清滝寺というのは氏信の法号「清滝寺殿」による。その没後、追善のため寺田が寄進されて、以来、佐々木京極家代々の菩提所となった。

 山門を入ると右手に僧房らしい建物があるが、人気がなく、あるいは無住かと思われる。裏山の石垣の上に京極家累代の宝篋印塔が18基並んで立つのが偉観である。1基ごとに被葬者の名を記した看板が立て掛けてあるが、文字が消えかかっていてほとんど読めない。右端が氏信らしく「従五位上 近江守 清滝寺殿 道善 永仁三年八月十三日」と読める。総高約157pである。導誉(高氏)は右から4番目らしい。「高氏 法号勝楽寺殿 徳翁道誉大?? 応安六年十一月六日」とある。総高135p。5番目が高秀、「京極家第六世 従五位上 ??大膳太夫 高秀 仙林寺殿 岳雲道高大禅定門 明徳二年十月十一日」。これらの宝篋印塔はそれぞれに時代様式を見せているもので、文化財として資料的価値の高いものである。

 寺は京極家の衰退とともに寺運傾いたが、寛文十二年(1672)に京極高豊が丸亀城主となって、祖先の地ということで寺を買い戻し、三重の塔を建立し、延暦寺末として整備したという。檜皮葺のその塔は、おりからの山霧に霞んで音もなく聳えていた。

 京極家は導誉(高氏)によって幕府四識家の一つとして重きをなすに至ったが、導誉は最初北条高時の相伴衆となり、高氏の「高」は「高時」からの拝領と思われる。足利尊氏(もとは高氏、これも拝領か?)の謀反に組みし、以後、その配下として幕府の再興と安定に貢献した。この間、本家の六角氏はそのまま六波羅に属し、家運滅亡の危機にあったが、同門の京極導誉を頼って命脈を保ったらしい。

 座間にあったと思われる所領は、当然、六角氏が継いでいたはずだが、新戸の長松寺への安堵状は高秀(京極)となっている。

 最近知ったが、坂東四番札所長谷寺(長谷観音)の寺蔵文書『相州鎌倉海光山長谷寺事実』に、

 <康永元年(1342)足利尊氏が本堂を再建し、高座郡座間村(現座間市)内の土地を灯明料として寄進した。>(『神奈川県の地名』平凡社)

 とあるというのも、当時座間が六角氏の手を離れていたことを示すものかもしれない。尊氏は後導誉に対して、その相州所領の安堵を行っているが、このころ座間の地は京極に移されたのかもしれない。そこで、その子高秀の新戸の長松寺への安堵状(*注)なのであろう。六角が継ぐべき座間が、「座間」の名の初見といわれる長松寺文書で京極になっている疑問は、このように推理すべきものであろうかと思う。

 *(注)この安堵状は建長寺の「安首座禅師」にあてたのも「宝珠庵」の末寺となっている。さらにたどれば、長松寺と同じ新戸の常福寺の開山も素安である。足利尊氏が長谷寺へ寄進したという座間村内の土地というのはこの一帯ではなかろうか。磯部・新戸はもとは座間村だったのである。

 

 7北畠具行墓

 元弘二年(1332)、導誉は南朝の忠臣北畠具行を関東に送る途次、この山東町の山中で斬殺した。貞和三年(1347)の銘のある宝篋印塔が、徳源院から推測1qばかりの山林中にあるという。新幹線の予約時間が気になるが、この場まで来て何とか見られないものか、と、重い荷を背に考えた。

 とにかく行ってみようと、その方角に歩き出した。往路の街道へ出て、西南の小山を目指して急ぐ。麓にたどりつき、案内板を見たのでこの山であることは間違いない。しかし、途中から道はふた手に岐れて、右か左か迷った。一度は右へ行きかけたが、これは新道らしくて引き返し、左の山道へ入る。誰も通らず、枯れ葉が堆く覆った山道は心細いほどに静寂である。途中で止めようかと思ったが、半ば惰性で歩く。すると、杉林の眼前に石柱があった。高さ約3m、「元弘忠臣 北畠具行卿」とだけある。それを見て、ああこれか、と帰りかけ、その坂道の落葉で滑って転んでしまった。そして、「まてよ?」と転んだまま考え直した。史跡という以上、この石柱1本であるはずがない。上の山に何かあるのではないか? と思ったのである。 滑る靴を気遣いながら登ってみると、山上は急に開けて広場になり、目線の先の石囲いに、宝篋印塔が1基あるではないか。 <権中納言北畠具行卿(正応三年1290〜元弘二年1332)は、後醍醐天皇の側近として、同天皇が鎌倉幕府討伐を計画した正中の変(1324)の中心人物であった。しかし、この計画は失敗におわり、具行は幕府に捕えられ鎌倉に護送される途中、護送人であった佐々木京極道誉(京極氏第五世高氏)の助命嘆願も及ばず、幕府の厳命により、元弘二年六月十九日当地にてその生涯を閉じた。

 この宝篋印塔は砂岩製で、総高二・〇四メートルを計り、斬首の年から十六年後に建立したという陰刻名(貞和三丁亥十一月二十六日)がある。現在墓所を含め三・九五六平方メートルが指定されている。>

  と、史跡指定の案内板がある。貞和は北朝の年号であるので、あるいはその死を悼んで京極氏(おそらく導誉)の手によって建立されたものか、とされている。やがて導誉は、鎌倉幕府に謀反して尊氏を助け、尊氏が北朝を立てるに及んで、これに従って南朝を討った。

 具行の一門の後衛陸奥守北畠顕家は、延元元年(1336・当時19歳)と三年の2度にわたり、奥羽の悍馬と鉄剣を振りかざして、このあたりの山野を、疾風の如く駆け抜けたのであった。

 山野の霧は晴れ、山上に青空が広がっていた。12時過ぎまでには米原に戻らねばならない。私は転がるように山道を走り、野の道をたどった。藪根には小さな五輪塔がいくつも寄せ集めてあり、路傍には久し振りの白い関西タンポポを見た。

 あわただしかった旅も終りである。(完)

                 (平成12・1・3)