史跡ガイド
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宗仲寺開山源栄墓

(市重要文化財)

 


 

  座間の「ふるさと発見ウォーク (1)

                座間1、2丁目北部地区

 コース順路

座間市公民館〜座間小正門前通り〜陣屋屋敷跡〜個人墓地〜中宿不動尊〜大日如来石塔〜平和坂の石造物〜法華塚〜座間神社〜泉水と泉水稲荷〜宗仲寺〜陣屋稲荷〜長松寺〜おしゃもじ様〜大六天〜十文字種桑の木〜座間大通り〜油面石造物〜公民館

座間小と藤沢街道

 明治5年(1872年)の学制発布により、入谷の龍源院内に「風牛学舎」という小学校ができましたが、同8年、崖崩れのため崩壊して「座間学校」と「座間村学校」という二つの学校ができ、その後、いろいろ変遷があって明治28年、この地に尋常高等座間小学校が新設されました。

 座間大通りの南端から小学校の脇を通って鈴鹿明神社横を梨の木坂上で鎌倉古道と交叉し、皆原へ出る道を藤沢街道と呼びます。

陣屋屋敷跡

 現在は入谷一丁目にあたりますが、江戸時代初期、領主の陣屋屋敷があったと伝えられています。

 <しかるに、夫より東ハ黒沼屋敷、南東ハぢんや屋敷也、此陣屋屋敷ねがい、今ハ分ケ家之者出る也、>

(『座間古説』)

出羽三山供養塔(残欠)

下宿の東裏通りの個人墓地に、出羽三山供養塔の残欠が見られます。丸形平角柱の上部だけが残されていて、正面に浮彫りで金剛界の大日如来が刻まれていました。残欠で年代は不詳ですが、座間宿村にも出羽三山信仰が存在したことがわかります。右側面に「羽黒山」、左側面に「月山」の文字があるので、正面は湯殿山でしょう。

出羽三山供養塔には上栗原や皆原が知られていて、羽根沢には奥津家先祖が湯殿山へ十四度参詣という供養塔があります。 

中宿の不動堂

 現在は中宿の公民館として使用されていますが、もとは雪光山極楽院安養寺といい、古義真言宗総持院(海老名市河原口)の末寺だったそうです。

 『新編相模風土記稿』には、

 <安養寺 雪光山極楽院と号す、義真言宗(河原口総持院末)慶長中僧長安坊建つ>

 『座間古説』には、

 <慶長十八年立、昔ハ星谷寺末、後ニ海老名宗持院末なり>

 とあります。これは明治初年に提出された「無檀無住寺院取調書」に記す、

 <慶長九年辰年星谷寺十八世長円坊開基>

 と創建年代と開基名に相違があります。

 本尊は座高26pの玉眼・寄木作り。その脇に高さ25pの位牌が現存していて、これには「玉照院殿仙林壽栄大姉」とあり、「天明元丑年」「六月廿日」が記されています。ここでは現在も不動講の行事が毎月行われているそうです。

秋葉山供養塔

 不動尊の境内に、2基の常夜灯と2基の墓塔があります。墓塔は住僧のものと思われますが、刻字が見えません。常夜灯1基は文政8年建立の秋葉山供養塔で、秋葉山は火伏せの神として文政年間に信仰が盛んでした。座間にはこのほか、上栗原と皆原(火袋なし)に秋葉講の常夜灯があり、四ッ谷の日枝神社には石祠型のものがあります。

石像大日如来座像

 智拳印を結ぶ金剛界の大日如来で、像高78p、幅36pの光背を負った浮彫り座像。光背部右に、「為念仏講供養菩提也 相州鎌倉郡」。左に、「座間郷宿 天和三癸亥二月二日同行十四人」とあります。座間は高座郡で、「相州鎌倉郡」とあるのが不思議とされているものですが、座間の遺物で「鎌倉郡」とあるのは星谷寺に関係した遺物に限られています。これは『座間古説』に、

 <天正之比、家康公半天下、坂東ハ御朱印改メ、其時星谷寺ニ御問被成候にハ、星の谷ハ鎌倉郡にて有かと被仰候へハ、其時住寺(持)御尤と申ニより、御朱印ニ鎌倉郡ほしの谷と御朱印被下候、其時住寺(持)間違成事申上、星ノ谷と鈴鹿ハ座間初ルより、以来高座郡初(書)面ニ書出通り、鎮守北南七里、高座は七里之座間ハ中高座之親村也、其時別当間違ヲ申上、申なおしならず、>

 と書かれている通りの事情からと想像されます。

 大日如来は真言宗の尊敬する仏で、この「相州鎌倉郡」も、天和三年(1683年)のこのころ、星谷寺の影響がこのあたりまで及んでいたことを示すものと思えます。

 この像は座間市の重要文化財に指定されています。

平和坂の石造物

 この坂はもとは赤土で滑りやすく、曲りも大きく、その上、坂に沿って深い沢があって雨のときなどは非常に難渋する場所だったので、道路の大改修が行われ、大正10年完成しました。当時東京で開催されていた平和博覧会にちなんで「平和坂」と名付けられたということです。同年建立の碑(坂の名と道しるべ)が残されています。

 そばに、中宿の道祖神と馬頭観音の石塔群があります。

 道祖神は中宿講中によって嘉永5年に建立されたもの。もとは大通り(八王子街道)に面して建てられていたそうです。

 ここにある馬頭観音の4基はいずれも愛馬の供養のものと思われますが、昭和2年のものには「願事何事モ成就スルナリ」と刻まれていて、単に馬の墓石ということだけでなく、いわゆる供養塔の意味合いが持たされているようです。

法華塚

 円教寺の開山といわれる日範上人が法華経の文字を小石一つに一字ずつ書いて地中に埋め、法華経の供養と村人からの病気退散、作物の豊作を祈願した塚といいます。

 自然石で、「開山日範上人 法華塚」と刻まれた供養塔があり、台石には「…永八年 …月十五日 長妙山 廿三世 …光院…」などの文字が読めます。円教寺の二十三世遠光院日壽上人は正徳2年に没しているので、建立は宝永8年(1711)でしょう。

 この法華塚の1基は、もと、キャンプ座間の地にあった塚の石塔を移したということです。

座間公園からの眺望

 座間宿の一帯と遥かに田園地帯、遠く大山、丹沢の連山が望まれます。かつて、座間宿村が近在の中心地であったころは、特に桜の季節など賑わったことでしょう。昔を思わせ、今を考えさせる眺望でもあります。

座間神社

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 もとは飯綱大権現(明治2年、飯綱神社とする)といいましたが、明治9年、座間神社と改称され、祭神も大和武尊とされました。

 飯綱山は長野県の戸隠山の東南に連なる修験の霊場で、足利時代中期、千日太夫という人物が編み出した「いづなの法」という呪術で広まったそうです。『座間古説』には「飯綱権現は、寛文2年(1662)の御縄打の後に勧請された」と書かれていますが『相模風土記稿』には記事がありません。

 境内の右方に石祠型の小社が六社あります。蚕神社・明王社・天神社・浅間社・山王社・道祖神で、蚕神社以外はいずれも近くの街道沿いなどから移されてきたものとです。

泉水と稲荷

 座間神社の下に、むかしの小字で泉水といった地域があります。豊富な湧き水があって、水は座間宿の大通りの中央を流されていたそうです。湧水は3か所あったそうですが今はいずれも枯渇してしまいました(1か所汲み上げするものがある)。この一帯は大きな松林だったそうで、「座間八景」のうちの「泉水の夜雨」という名だけが記憶されています。 泉水稲荷は座間宿の四方固めの社のうち、丑寅(北東=鬼門)鎮護の稲荷とされています。創建年代は不詳ですが、『新編相模風土記稿』にも記載があります。

宗仲寺(来迎山、浄土宗)

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 『新編相模風土記稿』には、

 <慶長七年開基信州高遠旧城主祖先内藤修理亮清成廃寺の地を得て、父宗仲菩提のため造建して宗仲寺トス>

 と書かれています。

 開山は源栄、境内墓地にその墓(六字名号碑―元和四年・市重要文化財)があります。また、清成ほかの内藤家の墓石もあります。本堂裏庭にある蜻蛉灯籠は市重要文化財に指定されている江戸初期のものです。

 源栄と徳川家康は親しかったところから、家康は生前二度この寺を訪れたそうで、没後もその遺骸を日光に移す行列(数千人という)がわざわざ宗仲寺に立ち寄りました。

 本尊の阿弥陀如来は、寛文7年伝誉宅同が四世住職になったとき、その母から七〇両の寄進をうけて、郷里大和から恵心僧都作と伝える阿弥陀如来を求めてきたものといいます。 内藤氏は、のち、信州高遠の城主となりましたが、高遠からは「高遠石工」といわれる石工が相模に出稼ぎに来て技術を伝え、座間の石造物の多くがこの系統を引く石工の作品です。

 

安藤屋敷と陣屋稲荷(相模原市新戸)

 安藤屋敷は、『新編相模風土記稿』に、

 <旧家権左衛門 安藤を家号とす、天文の頃祖先與太郎(権左衛門の幼名)近郷七村の里長たりしと云ふ、家伝の文書二通あり>

 とある旧家です。文書の1通は天文12年のもので氏政の虎の朱印がありました。

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(陣屋小路)

 陣屋小路は内藤清成の陣屋のあった場所、『新編相模風土記稿』には、

 <内藤修理亮清成陣屋蹟 村の東南、小名陣屋小路にあり、天正年中清成建る所と云ふ、(廣二段六畝余)其後領主遷替して阿部飛騨守正喬に至り、元禄十三年廃絶せしより村民の居地となれり>

 とあります。

長松寺(萬年山、曹洞宗)(相模原市新戸)

 足利氏満の創建といい、その寺領寄進状(相模原市重要文化財)が残されています。この寺の本寺建長寺寶珠庵にあてた高秀(佐々木?)の文書で、これが座間郷と書かれた最古の文書といわれていました(『座間むかしむかし』第三集)。

 寺が氏満の創建というのでは、高秀がもし佐々木高秀なら、そのころは(高秀は明徳2年―一三九一没)長松寺は存在していないことになり推定があやしくなります。ところが、「氏満の創建」にはすでに『相模風土記稿』が

 <文に、寄進建長寺寶珠庵末寺長松寺、相模国座間郷内田畠在家事、右為當寺領如元可被致沙汰云々、應永三年(1396年)十二月十七日左兵衛督源朝臣とあり、按ずるに如元と云に據れば、氏満剏建と云は疑べし>

 と疑がっているところなので、高秀を佐々木高秀とすることを否定できません。

 ところで、高秀があてた寶珠庵が鎌倉の長谷寺(長谷観音)の差配を行っていたらしいことがわかりました。その上さらにさかのぼると、足利尊氏が座間村の一部を長谷寺へ寄進したことが寺伝で判明しました。むかし、このあたりも座間だったのですから、座間村の一部とはこの辺だったかもしれません。

白山姫神社(相模原市新戸)

 白山(石川・岐阜両県にまたがる)の白山比ツ神社(祭神菊理媛命)を中心に全国に白山信仰が広まったといわれていますが、実態にはよくわからないところがあります。

 『相模風土記稿』には

 <白山社 村の鎮守なり、稲荷・山王を相殿に祠る、例祭八月十七日、又二月八日の氷祭の神事あり>

 とあり、また「槻樹囲三丈許、神木なり」ともあります。

 棟札に「別當本山修験道瀧谷山現星寺大坊 現住苔岩 享保八年」とあったそうですが、大坊は谷戸の加藤氏で、昨年十二月、丸山不動尊を調査したとき、祖師像と思われるものの内部に「瀧谷山現星寺大坊 九世苔岩代 享保七壬寅天十月吉日」と書かれていました。 明王谷戸に新戸の人々が住み、新戸谷戸と呼ばれたそうですから、関係が深かったのかとも思えます。

 下溝八幡宮そばの不動尊(旧大光院のもの、相模原市重要文化財)は享保九年、後藤左近義貴作ですが、座間の大坊と新田宿の寿命院(諏訪明神社別当)の口入れだったことが胎内墨書されていました。つまり、大坊に祖師像が出来た翌年に白山社が建ち、またその翌年に下溝の不動尊が出来、いずれにも座間の大坊が関係していたということです(長宿閻魔堂の閻魔王にも後藤左近の名が見られる)。

            以上、3個所は相模原市新戸に属しますが、もとは座間に属し、関係が深いので加えました。

 

おしゃもじ様

 大通り近くにあったのを大正7年にこの地に移したそうで、風邪の神として、風邪にかかったときお参りにきてしゃもじを持ち帰り、治ると新しいものを奉納するのだそうです。 語呂からおしゃもじ様と言われていますが、さかのぼっていくと石神にたどりつくことが多いようです。この宮も建立のとき、もとあった社の石を埋めたといわれているので、石神だった可能性があります。石神はシャクジンと読み(おシャクジンからおしゃもじ)石棒を祠ったもので、長野地方に多く、遠く古代にさかのぼる神のようです。また、対岸の厚木市に多い社宮司社もシャグジン(石神)に当てた文字といい、なまってしゃもじになり、風邪なおし(石神をセキガミと読んだか)におしゃもじを上げるようになって、依知ではこれに杓子大明神と書いて風邪なおしのお礼に奉納するそうです。しかし厚木市内の社宮司社はすべて霊石を祭った石祠だといわれています(「県央雑史抄」北村精一著)

大六天

 泉水稲荷の項であげたように、座間宿の四方鎮護社のひとつですが、他の三社が稲荷であるのに、この社だけ違っています。

 第六天とも書き、いろいろの説があってその性格がよくわかっていません。超能力を持った魔王とでもいいましょうか。この地方では一般に暴風雨の神と思われているようです。 市内ではこのほか、天台と中河原に社があります。

普通十文字種の桑の木

 樹齢一七〇年といい、江戸時代末から昭和初期にかけての、市内の養蚕業の盛衰のあとを示すものとして、市の重要文化財に指定されています。最近勢いを失ってきたので、保護作業がおこなわれました。

油面の石造物

 油面という地名は古くは油免とも書かれ、大日堂の除地(年貢免除の地)であったと思われます。寛永三年の「御除地御入国以来覚」(心岩寺蔵)では、大日堂に五畝あまりの除地があったことが記されています。

 庚申塔

 庚申というのは干支の庚申(かのえさる)で、共に金性であると考えられたことから、これにあたる年や日は殺気が強過ぎると警戒されました。また、道教の三尸説(人体には三尸という虫がいて、庚申の夜、眠っている間に体内からぬけ出して天帝にその人のあやまちを告げるという)から、庚申の夜は眠らずに身をつつしんで過ごすようになりました。庚申塔は講中の供養塔で、形態にはいろいろありますが、一般には青面金剛像の浮彫りと文字塔が多いようです。油面の庚申塔は文字塔で年代は不明です。台座の表裏が道しるべになっています。

 六字名号碑

 南無阿弥陀佛の六字を刻んだ念仏講中の供養塔で、当麻山無量光寺の五十二代住職他阿霊隋という僧の書、霊隋は俳名を南漠といい、天保二年(1832年)に相模を旅し『游相日記』を残した渡辺華山が、

 <高坐郡当麻山といふに時宗の寺あり。これを当麻山無量光寺といふ。寺住他阿俳諧を好す。>

 と書いています。市内には他阿霊隋の筆になる六字名号碑がこのほか三基あります。

 大山信仰供養塔

 貞享二年(1685)七月二日の銘のある大山不動講中の供養塔で、「右大山小田原あつき道 左鶴間ほし乃や道」と道標を兼ねています。

                         (H12・6・18)

 


 

 

 座間の「ふるさと発見ウォーク (2)

                    座間2丁目南部・中河原地区

 コース順路

 公民館〜田中遺跡〜大縄道〜谷戸川と橋・堰の橋〜下河原地蔵〜西宮大神宮〜大日堂〜上河原の道祖神〜用水の桜並木〜谷田地蔵〜福徳稲荷〜大鷲神社〜稲荷杜稲荷〜鮎の大橋〜中河原の大六天・稲荷〜同馬頭観音群〜同道祖神・庚申塔〜鮎の道〜公民館

 

田中遺跡

 昭和56年、NTT社屋建設の際、7世紀から10世紀前半の竪穴住居址が発見されました。出土した須恵器・土師器・灰釉陶器・墨書土器・土錘などによって、当時の生活が偲ばれます。

 遺跡は埋めもどされて、今は建物の下になっています。

天王大縄道

 鈴鹿明神社の前から河原宿までの直線の道で、徳川時代、検地するときの起点になったためこの名があります。「天王」は、鈴鹿明神社は祭神が午頭天王であることから、「天王さま」と呼ばれたことによります。

谷戸川と橋

 谷戸から湧出して流れる川(細谷川とも)で、座間小グランド脇を通って新田宿へ通じていたといい、『皇国地誌村誌』では次のように書かれています。

 <谷戸渠橋 申廿度、字上田中ニアリ、谷戸渠尻ニ架シ新田宿村ニ通ス。長七尺、幅八尺、石製ニシテ修繕上ニ同シ(民費)>

堰の橋

 相模川左岸用水路に架かる橋で、そばに堰があります。用水路は昭和9〜10年頃に工事されたが、もとは寛文の頃、久世大和守が設けたということです。『皇国地誌村誌』では次のように書かれています。

 <堰渠橋 申二十二度、字上田中ニアリ、堰渠ニ架シ新田宿村ヘ通ス、長二間、幅八尺、木製ニシテ修繕上ニ同シ(民費)>

下河原の地蔵尊

 最近、新しくなりましたが、古い方の地蔵尊(外に出されている)の調査結果は次のようになっています。

 高さ七八p 幅三〇p 厚さ一六p 総高一一九p

 具像塔(丸彫り、台座あり)

  右手錫杖(上部欠け)

  左手宝珠

 刻字

  (台座正面)

    天保十年建立

    庚申供養

    十一月吉日

  (台座右)

    判読不能

 庚申供養の地蔵尊というのがめずらしく、現在講中はなく、付近の住民の手で管理されているそうです。建立当初からこの位置にあるもので、天王大縄道の分岐点でもあったのでしょうか。

大神宮と伊勢新田

 河原宿の方の「由緒」には、郷土史家故鈴木芳夫氏が次のように書いています。

 <当天照皇大神宮は古くは西の宮大神宮と呼ばれ、旧社殿の棟札によれば創建は慶長十九年(一六一四)九月十一日である。おそらくこの河原宿をはじめて開拓した祖先たちによりここに奉祀されたものと考えられる…>

 この棟札は昭和六十二年元旦の大谷美良氏の書になるもので、長さ七二p幅一八pの板に、

 (表面)

   慶長十九年相模国高座郡座間村

 奉建立天照皇太神宮村中氏子築之

   甲九月十一日別当久光山心岩寺昌林代

 (裏面)

   座間村惣氏子敬白

 嘉永三庚戌九月十三日現心岩十八世文融改之

 昭和三十三年十月十一日河原宿氏子改之

 とあります。「河原宿皇大神宮再建報告書」によると、改築当時古いものがもう一つあって、文字が摩滅しているが、ほぼ同様のことが記されているようです。ただ「相州座間川原宿氏子中」「心岩寺代十七世ィ□」というのが違っていますが……。また、

 <明治30年頃まで境内に生いていた杉や松の年輪の数と略一致する。要するに、河原宿部落のそもそもの成立当初から、部落民の信仰を団結の中心として崇敬されて来たものである。>

 ともあります。棟札は新しいものですが書かれていることは古いものを写し取ったようです。昌林という僧は心岩寺の五世住職で、心岩寺蔵の寛永三年(一六二六)六月の「御除地御入国以来高覚」(『座間市史2』)にも記録があります。これには伊勢の宮として、 <□本たい御宝物寺に有之候

 慶長十九甲寅年九月□日与十月廿一日まて

一、伊勢の宮          心岸寺

 いせおどり御座候  心岸寺 昌林代>

 慶長十九年(一六一四)から寛永三年(一六二六)まで十二年で、この頃の僧とわかります。

 更に別の資料に、寛永三年の「御除地御入国以来高覚」(『座間市史2』)と同じような記録があります。これには次のように書き方の相違が少々あります。

 <御本躰御宝物寺ニ有之候

        慶長十九甲寅年九月□日与十月廿一日まて伊勢おんどりニ而御座候

一、伊勢大神宮          別当 心岩寺

        川原宿に本社有之>

 「西の宮」というのは、鈴鹿明神社を東の宮としての名でしよう。

 境内の稲荷社は慶長元年(1596)創建と伝える古いもので、もとは西方の新田宿に近い場所にあったといいます。

大日堂

 「閻魔堂」と書かれていますが、川流れという閻魔さまが祭られているからで、厨子の中には大日さまと呼ばれる青銅製の像が納められていまする。

 心岩寺の古文書によると日照山金剛院と呼ばれていたようで、『座間古説』の桜田伝説には次のように書かれています。

 <人柱まつは牛に生まれかわり古川に住む。故に牛池という。この牛指五本、頭の毛体半分をかくすといい、河原宿にあげ、死してのち大日堂を立つという>

 扉を開けると目がつぶれると伝えられた青銅製の像は、元和元年(1615)大坂夏の陣に参戦した地元の若者が持ち帰ったものだそうです。しかしご本尊は別にあったようで、破損した木造の大日如来像が発見されています。

 ここの住僧だったと推測される浄入という人の名が星谷寺の過去帳にあり、浄入が、正徳四年(1714)に、星谷寺に六地蔵を建立したことを刻んだ石像が、星谷寺と寒川の景観寺にあります。

 星谷寺過去帳にはこのほか3人の大日堂住僧の名が見られ、堂前の蓮華台石には妙玄代の刻字のあるものがあって、尼さんがいたらしいこともわかります。

 また、天和三年(一六八三―市重要文化財中宿の大日如来石塔と同年)銘のある手洗石には、「寄進相州座間谷戸念仏講衆十五人 皆原衆四人 宿衆三人 天和三年霜月」の銘文がありますが、この時代までさかのぼる手洗石は近在になく、銘文の内容とともに貴重な文化遺産です。また、これは前回見学した中宿の大日如来石像と同年で、同じように星谷寺(真言宗)の影響下にあったことが考えられます。

上河原の道祖神

 自然石の文字塔ですが、彫りが浅く、建立年代も不明です。

用水の桜並木

 相模川左岸用水路のこのあたりの桜並木は、近ごろ名所になって、毎年、桜祭りが行われています。

谷田地蔵尊

 谷田家へ依知から養子にきた七五郎という人がかついできた地蔵さんだそうです。谷田家で管理されていますが、ご利益あらたかということで、近所のお年寄りなどのお参りがあるそうです。

福徳稲荷

福徳稲荷は下宿と油面の講中によるもので、建立年代は不詳ですが四方固めの伝承もあるように古いようです。「福徳稲荷」の称号は昭和16年からだといいます

大鷲神社

 昭和25年、地域(河原宿・下宿)の活性化のため、川崎市の稲毛神社境内の大鷲神社からご神霊をいただいてきて祭ったといい、祭神は日本武尊で、尊が伊勢の能褒野で病のために亡くなられたとき、その魂が大きな鳥となって天に昇ったといわれているところからその名があります。

 はじめ、尊の武徳を慕って武門の神としてあがめられ、矢羽根として最高の鷲の字をあてるようになりましたが、江戸時代には養蚕の神、また、鳥を「取り」にかけて、熊手でお金を取り集めるとして町人の信仰対象にもなりました。毎年十一月の酉の日に「酉の市」が行われています。

稲荷杜稲荷

 稲荷杜稲荷は下宿講中によるもので、座間宿四方固めのひとつで、西南(坤―ひつじさる)の鎮護とされていました。むかし、ここに大きなエノキがあって森のようだったので「いなり森」と呼ばれたていたそうです。

中河原の大六天・大口真神・稲荷社

 中河原は座間一丁目になっているが、市街地から相模川に至る途中の集落で、およそ江戸時代初期に入谷と皆原から移り住んだ人々であろうとされています。戸数二〇戸ばかりはむかしから変わらないといいます。現在もほとんどが澤田姓か高橋姓です。

 大六天と大口真神は石祠で稲荷社は覆舎です。

 大六天には「文化十酉二月吉日」銘があり、大口真神には「大正十一年十二月」銘があります。大六天は前回、座間西浦で見学したように風の神とされますが、中河原は田園の中に孤立した集落で、ことさらに台風を恐れたとことでしょう。

 大口真神は御嶽山信仰で、神格化した狼を祭ります。この集落の各戸には大口真神のお札が見られます。

中河原の馬頭観音・地蔵尊

 地区の公民館脇に集められている石塔群の多くが馬頭観音で、時代と様式の変遷が興味深く見られます。「宝暦十二壬午二月廿二日」とあるものと、「文久三年亥四月廿三日」とあるものは共に具像を浮き彫りしたもので、像はお蚕さまの女神像です。その他は明治・大正の文字塔で残欠もたくさんあります。

 上屋にある石造物のうち2基は地蔵尊ですが、建立年代は不詳です。

中河原の道祖神・庚申塔@

 道祖神は船型光背形に双立拱手像を浮き彫りした石塔で、「明和九辰正月吉日」(1772)の創立です。

 庚申塔は3段の文字塔で「明治廿四年九月日」の創立。正面に富士山形下に○に山字があり、当時流行した富士丸山教信仰の講中と思われます。

 この場所には石棒などの残欠が多数あります。

中河原の庚申塔ABと蚕影さま

 庚申塔は2基。1基は「享保七壬寅天(1722)八月吉日」「相州高座郡渋谷庄座間中河原村」とあるもので、笠付角柱形に青面金剛と三猿を浮き彫りにしています。もう1基は文字塔のようですが、損耗のため年代は不明です。正面にわずかに一猿が認められたので庚申塔とされました。

 ほかに石祠型の1基は「こかげさま」(蚕影さま=養蚕の神)だとそうです。

下宿北の道祖神と鮎の道

 下宿の北を座間大通りへの出口角にある道祖神。自然石の文字塔で、「弘化五戊申年」とはっきり読めます。

 この場所を基点として西へ、下河原橋・鮎の大橋を渡り中河原を通り、相模川までの道(約2キロ)を「鮎の道」といって、むかし、相模川で取れた鮎を江戸や八王子方面へ運ぶ「鮎かつぎ」が通ることからつけられたといいます。

 相模川の鮎は一段と味がよいとの評判で、日本橋の問屋筋でも、特別高値で買い入れたことが『座間の道坂橋』(座間市文化財調査報告書第9集)に書かれています。

                          (H12・7・2