座間の名
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   夷隅と夷参 

 

 わたしは長年随句(自由律俳句)を嗜んでいて、個人で『草原』という月刊誌を主宰していますので、地方の方との
やりとりの中で地名について参考になることや、座間に関係のある情報に接することがあります。

 『草原』会員にTさんという方がいて、お住まいは千葉県夷隅郡岬町というところです。もとのお住まいは東京だ
ったようなのですが、現在はそちらに息子さん一家族ご一緒のようです。わたしより2歳くらいお若いのですが、だ
いぶ前から杖をついて歩いていられたようで、そういった随句を発表していられました。

 わたしのことですから、『草原』でも時々、座間の地名や座間姓について触れるときがあり、それをご覧になって
Tさんから岬町にも座間姓の家が何軒かあることを、電話帳のその部分をカットして送って頂きました。かねて夷隅
から海岸に沿って和田浦あたりに座間さんが多いことは情報で承知していましたから驚きはなかったのですが、カッ
トの座間姓の3軒につづいて「残間」姓の家が1軒あることに注目しました。これはザンマと読むのでしょうが、残
間姓が美濃(岐阜県)川辺町に多いことは郷土史にもあり、川辺町役場に伺って承知していたところでしたが、下総
でお目にかかるとは思ってもいなかったのでした。

 そこで、各地の座間さんを当たってみますと、川辺町でも残間(残馬とも書く)のほか2軒の座間さんがいて、隣
の美濃加茂市にはむしろ座間姓の方が多いのです。読みは残間・残馬はザンマ、座間はザマということでした。

 東北のテレビ放送でよく残間さんという女性が登場するので調べてみますと、仙台市内に残間さんが数十軒あり、
ほかに2軒ばかりの座間さんがありました。

 これらを総合して、もとはみな座間で、これをザンマと読んだ武将がいたらしいことが想像されます。『曾我物語』
や『舞の本』に頼朝のご家人として登場する座間氏に、『舞の本』はザンマとルビをふっているのです。したがって
各地に散在する残間・残馬さんは中世の古い時代に散開していったものと想像します。

 夷隅といい、夷参といい「夷」という格別な文字の使用にも考えさせられるものがあります。「格別な」と言った
のは、この字があまり好まれた字とはいえないだろうということです。蝦夷はエゾ、夷はヒナと読まれていたようで
す。『続日本紀』の和銅6年5月、「畿内と七道諸国の郡、郷の名称は好い字をえらべ」という詔が出されています
が、夷は好字といえるでしょうか。

 夷隅は『古事記』には「伊自牟」、『日本書紀』では「伊甚」・「伊潜」と書かれています。夷隅については江戸
時代初期からだと町の公式ホームページに記載されていました。ちなみに、ごく最近市町の合併が行われ「いすみ市」
になったそうです。 
 ここが古い記録に名をみせているのは、太古から真珠の産地として知られていたからでしょう。ところが次第に漁獲
が減ってきたものか、安閑天皇の元年四月、真珠の献納を怠った夷隅国造稚子直 は朝廷に呼び出されました。稚子
は斬られることに怯えて逃げ、誤って皇后の部屋にまぎれ込んで、皇后が失神するという事件を起こしたのでした。
稚子は、夷隅の屯倉を献上して罪を免れたということです。このときの大連は大伴宿祢金村でした。

 ところで、夷参をイサマ(わたしはイサム・イサミ説)と読むのが一般ですが、『角川地名大辞典』(東京都)に
限っては夷参にイジミの訓をあてています。理由は分かりませんが「参」を「滲」の略字ととってのイジミはあり得
ます。これだと夷隅の古名、伊自牟・伊潜イジム・イジミと夷参(イジミ)は同じになってしまい、改めてイジミの
語源が問われるところです。(18.3.2)
 

    

   古代の座間2 

 『座間の地名』で、「座間」という地名の起こりが難波(座摩神社のある)に関係があること、宝亀5年(774)
に相模守となった大伴家持の命名であった可能性もあることを述べてあります。『万葉集』の防人の歌に、 

  庭中の阿須波の神に木柴さし吾は斎はむ帰り来までに 

 があり、阿須波の神は座間神社の祭神であるところから、防人たちは当時の座摩神社(難波・大阪)の境内に宿営
していたものと思え、難波が大伴氏の所領であったところから、相模守として赴任してきた家持が、座間の鈴鹿神社
のあたりが「イガシリ」と聞き(大阪の座間もイガシリが地名の起こりだった)、井之後坐神にイカスリ祭を伝え、
この地を座摩村(里)としたものと考えました(座間では『皇国地誌残稿』に「往古座間ノ郷ト称フ、鎮守祭典ヲイ
ガスリ祭ト言フ」とある)。

 難波の座摩神社が「阿須波」の名で呼ばれたらしいことは、『万葉集』の別の歌にも見られ、「河内の大橋を獨去
く娘子を見る歌一首并短歌」(1742)とあるのに、 

 級照る 片足羽河の さ丹塗の 大橋の上ゆ 紅の 赤裳すそびき 山あゐもち すれる衣著て ただひとり 
い渡らす児は 若草の 夫かあるらむ…… 

 「片足羽」は片足−羽というより、片−足羽ではないかと思います。「足羽」という地名は福井市近くにあり、足
羽山に足羽神社があります。継体天皇を祀る神社ですが、阿須波神ほかのイガシリ五神(生井神・福井神・綱長井神
・波比岐神・阿須波神)も祭神とされています。継体天皇は武烈天皇にお子様がなく、皇統断絶の危機に際し、とき
の大連 大伴金村がこの近くにおられたオオド王をお迎えして皇位におつけしたのでした。武烈天皇が亡くなられた
とき、天皇に姉妹はいられましたが、あくまで男系を求め、5代の祖、崇神天皇の5代の孫にあたるオオド王を推戴
したのでした(『つづれ草』74号「女性天皇」に記述)。
のち金村は対朝鮮政策を中傷されて嫌気がさし、難波の私邸に隠棲しました。これは大友家の所領が難波にあったこ
とを示すものです。
 こうして、イガスリ神を祀る座間(摩)神社は大阪と座間と福井の3社があることになります。付言しますと、
もう1社、長野県上田市の山中にも座間神社がありますが、養蚕の神とされ、イガスリ神は祀られていません。推測
ですが大阪の陣で奮戦した真田氏の誰かが戦場にあった神(座摩神社)を偲び、戦友を弔って祀ったのではないかと
思います。

 難波の座摩神社が防人の宿営地であったとすれば、宝亀の頃の奥羽の状況と併せ、座間の鈴鹿神社も同じような機
能を家持は考えたと思います。神社付近のどこかを奥羽征討に向かう兵士の宿営地とし、イガスリ神(鈴鹿明神社)
を武運祈願の神としたのではないでしょうか。

 家持が相模守として赴任した前年(宝亀4年)に一族の、というより妻どうしが姉妹にあたる大伴駿河麻呂が陸奥
按察使・鎮守将軍として遠征します。『万葉集』にはこの二人の一家と妻の母(坂上郎女)との団欒の歌が残されて
います。

 宝亀5年には、陸奥按察使大伴駿河麻呂は陸奥国遠山村へ進攻、蝦夷を追い詰めて降伏する者が相次いだとあり、
同6年には参議に列せられましたが、同7年7月7日卒しています。心身の労がたたったのでしょう。朝廷では同月
 
 14日に、安房・上総・下総・常陸に船50隻を造らせ、陸奥国に配置して不慮の事態に備えました。
 
宝亀8年、陸奥守兼任按察使に紀朝臣広純が就任、翌年、紀朝臣乙麻呂が相模介(宝亀10年相模守)となっていま
す。宝亀11年(780)、陸奥大領の伊治公アザ麻呂が反乱を起こし、按察使紀朝臣広純を殺害する事件があり、
風雲急を告げます。朝廷では多賀城を支援するため坂東の兵士を徴発し、下総・常陸からほし飯1万6千石を軍営に
運ばせるなどしましたが、天応元年(781)光仁天皇が崩御され、桓武天皇が即位された延暦元年(782)、
征討の決め手としてか60歳を超えた大伴家持を陸奥鎮守将軍として蝦夷征伐を準備、延暦3年、家持は持節征東
将軍としてはるばる奥州に向かいます。このとき副将軍に任じられた文室真人は同時に相模守を兼任、大伴一族の
佐伯宿禰老(近衛将監)が相模介の兼任を命ぜられています。
 これらの人事(大伴駿河麻呂のときは家持が相模守、紀朝臣広純が征東に向かったときは一族の紀朝臣乙麻呂が相
模介・相模守であったことを含め)は征東と相模が密接な関係にあったことを示しています。つまり、夷参(座間の
地)が要衝の地であったことを証すものでしょう。 

  鈴が音の早馬駅家のつつみ井の水をたまへな妹が直手よ 

 『万葉集』3439のこの歌は、おそらく鈴鹿明神社近くの湧水で兵士たちの接待にしたがっていた乙女、遠い遠
い祖先の座間娘に兵士の1人が捧げた歌でしょう。当時の東海道の早馬駅家で、「つつみ井」を作るほどの湧水は夷
参と大井くらいなもの、「鈴が音」が「鈴鹿」にかかっています。

 


 
  古代の座間1

  西暦478年、倭王武(雄略天皇とみられる)が中国の宋におくった国書に、
 <昔よりわが祖禰、みずから甲冑 をつらぬき、山川を跋渉し、身を寧んずる遑 あらず。東は毛人を征すること
五十五国、西は衆夷を服すこと六十六国、渡って海北を平らぐこと九十五国、いまや王道は隆盛にして安泰なり>
 とあり、これに続いて雄略天皇ご自身が海を渡って高句麗を討つ志を述べたものです。
 八木荘司氏(『古代天皇はなぜ殺されたか』)はこの「祖禰」に景行天皇とヤマトタケルをあて、これ以後国家統
一が成ったのであろうとしています。
 昭和53年、埼玉県行田市の稲荷山から出土した鉄剣の銘文の解読がなされ、初代から8代までの人名を挙げ、
 <乎獲居臣の一族は代々、杖刀人首(じょうとうじんのかしら・武官の長)として奉事してきた。獲加多支鹵大王
の政庁が斯鬼の宮にあるいま、吾は大王の天下統治を補佐している。よってこの百練の利刀を作らせ、わが奉事の根
源を記す>
 とあります。獲加多支鹵大王は雄略天皇で、銘文の冒頭の、 <辛亥年七月中に記す>
 は西暦471年に当ります。これは倭王武(雄略天皇)の国書に記す東国5世紀の実情を証明するものだと思いま
す。すなわち、当時すでに大王につながる有力部族が行田市の一帯に存在していて、天下統治を補佐していたという
ことです。
 安閑天皇元年(534)、武蔵国造笠原直使主が同族の小杵と争うという事件が発生しました。小杵は上野の小熊
を頼って強力でしたが朝廷は小杵を攻め殺し、笠原直使主を国造としました。
 お礼に使主は、武蔵の横渟・橘花・多氷・倉樔の4屯倉を朝廷に献上しました。大王の天下統治といっても直轄地
は少く、多くは豪族の支配するところであったことがわかります。
 ここで注目されるのは、橘花・多氷の屯倉が橘花(小高)・大井の駅家(うまや)になったらしい事で、朝廷は自
らの支配地をたどる道を街道とし、駅家を設置したらしいことです。考えてみれば当然のことで、座間の夷参も官営
地だったといえましょう。
 7世紀から8世紀にかけての関東はこのような状況の進展の中にあったことと思いますが、夷参駅家が設営された
のもこの間のことで、座間に多く見られる横穴墓もおよそこの時期のものであろうといわれています。
 座間の重要文化財に指定されている「梨の木坂横穴群第一号・第二号」から、人骨とともに、ガラス玉・鉄鏃・刀
装金具・金環などが出土しているのは夷参駅家の存在を抜きにしては考えられない出土品だと思います。
 同時代の遺蹟といわれている「田中遺蹟」の出土品のうち、墨書土器の書は「毛」の1字でした。「毛」は前出
「毛人」の1字で、毛人は当時「えみし」と読みました。陸奥(みちのく)の蝦夷を意味します。
 宝亀2年(771)、太政官奏に、
 <宝亀二年冬十月己卯(廿七日)、太政官奏、武蔵国雖属山道、兼承海道、公使繁多、キ供難堪、其東山駅路、従
上野国新田駅、達下野国足利駅、此便道也、而枉従上野国邑楽郡、経五ヶ駅到武蔵国、事畢去日、又取同道、向下野
国、今東海道者、従相模国夷参駅、達下総国、其間四駅、往還便近、而去此就彼、損害極多、臣等商量、改東山道、
属東海道、公私得所、人馬有息、奏可、>
 意訳は「武蔵国は東山道に属しているが、その駅路は上野国新田駅から下野の足利駅に達している。ところが武蔵
国府には邑楽郡から5駅を経て到るのであるが任務が終って帰路はまた来た道をたどり下野へ向かうことになる。武
蔵国へは東海道をうけて道も開けているので東山道から東海道に変えれば下総へも4駅しかなく便利である。裁可す
」というものです。
 この4駅については既に、夷参に続く店屋・小高・大井・豊島だったとされている東海道を、夷参から府中へ達す
る道にするというのでは店屋・小高・大井・豊島の駅家はどうなるのか不明です。夷参から府中へは当然多摩川を渡
ることになりますが、そのあと店屋へ帰ってくるには再び多摩川を渡河しなければならないでしょう。これは有り得
ないとするのが自然でしょうから、宝亀2年以降は府中を通る道と従来の東海道の2道があったとするか、従来の東
海道は廃止されたかのどちらかということになります。今のところ結論は出せていません。
 夷参が座間なら、古代東海道は座間を通っていたことになります。この道が依知から足柄への道であったことは
新編相模風土記稿』に記すとおりです。ここでは座間に残る地名の「登戸」が注目です。往昔の相模川はもっと座間
寄りを流れていたことが『座間古説』にもあり、昔は鳩川はなかったことになります。もし、登戸が古い地名であっ
たとしたら、古代東海道はここが渡河地点だったことになるでしょう。江戸街道は鮎の道からだったという伝承があ
りますが、古代は中河原集落はありませんでしたから、位置関係は登戸に近くなります。江戸街道(鶴間街道)はそ
のまま古代東海道で、登戸を上がってしばらく行った地点から府中への道が現在でも存在します。

                     (つづく) 

  夷参と伊参 
                


 座間の名の起こりについて、古名の伊参(イサマ)の「イ」が落ちてイサマ、そしてサ
マ、ザマと転訛したという説がいちばん有力視されています。

 伊参というのは『倭名類聚鈔』(わが国最初の漢和辞書、以下和名抄)に出てくる相
模国高座郡の郷名ですが、これをイサマと読むのは、同じ和名抄の上野国に伊参郷があ
り、こちらにイサマと訓(ルビ)がふってあるからです。高倉郡のほうにはルビがあり
ません。
 
高倉郡の伊参は、『続日本紀』に出てくる宝亀2年の夷参駅の「夷」が「伊」に変った
ものとされています。和名抄は承平年間(931 〜38)に醍醐天皇の皇女勤子内親王の命
で、源順が撰集したといい、宝亀2年(771 )より160年もあとのこととなります。
したがって座間の古名をたどるのなら、宝亀2年の夷参からでないといけないと考えま
した。

 夷参をはたしてイサマと読んだでしょうか。「参」をサマと読むのは不自然な感じが
しませんか? わたしはこれをサン、そしてンの音はなかったのでム、つまりサムであ
った可能性が高いと思っています。変化があってもサミまででしょう。相模(サガミ)
はむかしは相武と書き、サガムと読んでいました。そのムが、ミに変化してサガミです。

 ではなぜ上野国の伊参はイサマなのでしょうか。
上野国吾妻郡伊参郷は中之条町北方の山地の集落ですが、名の起こりを狭間(ハザマ)
からとしています。現地を見るとなるほど山間に入りくんだ谷あいがいくつもあり、集
落があります。ひるがえって座間を見ますと狭間と言えるような特色が見当たりません。
 宝亀2年より60年近くさかのぼって、和銅6年(713 )の詔(『続日本紀』)に、

 <畿内と七道諸国の郡、郷の名称は好字をつけよ>

 と見えます。
この部分はまったくの想像ですが、もしこの詔によって上野国イサマ郷が狭間(サマ)
に「伊」を冠し、「狭」を「参」として最初は「伊参間」であったかもしれないと考え
ました。

 ところが、延長5年(927 )の延喜式の詔では、

 <諸国部内郡里等の名はみな二字を用いて必ず嘉字を取れ> 
とあります。

 『和名抄』はその4〜5年あとですから、この証に忠実に従ったとしましょう。
 
つまり、「伊参間」の3字は2字に削らねばなりません。ところで「伊」という字はむ
かしはそれこそ嘉字の扱いで、伊勢、伊予、伊賀、伊豆、などと修辞に多く用いられて
います。
上野国伊参間は「間」のほうを削って伊参とし、読みが不自然であったので訓(ルビ)
をふったのではないだろうか、というのがわたしの推理です。
 
いっぽう、座間の夷参のほうはどうでしょう。これは駅家名で、郡はもとより郷名では
なかったかもしれません。郷名でなければ「夷」が好字といえなくても差し支えはあり
ませんし、郷名であっても「夷」の字に格別の思い入れがあるなら、そのまま押し通し
たとも考えられます。
 
じつは宝亀年間以来、東北経営が急を告げ、相模国夷参駅はその拠点であったのではな
いか、と考えられるのです。東北 (出羽・陸奥)は夷(エビス)といわれ、東山道・
東海道の要衝であったはずの夷参駅は討伐軍の集中(参ずる)場所でもあっただろうと
思われるからです。

 しかし、『延喜式』によって夷参の「夷」は嘉字の「伊」に改められました。東北経
営は坂上田村麻呂が蝦夷の首魁アルテイを降伏させた延暦21年(802 )ころからようや
く落ち着きました。それから130年も経って、夷参の字のもつ意味もうすれていたこ
とと想像されます。
 
こうして『和名抄』では伊参となり、偶然、上野国吾妻郡伊参郷の伊参と同じになって
しまったのです。

 字が同じであったからといって、読みが同じであるべきだとは、この場合いえないと
思います。座間のほうはイサムまたはイサミで、自然の読みでしたから特にルビの必要
がなかったのです。むしろ、ルビがないことが自然の読みであることの証しとなってい
るとわたしは考えました。

 伊参がイサムなら「イ」が脱落してもサムとなり、サマ、ザマとはなりません。
どうも、イサムとザマは別であるらしく、サムであるなら、夷参はサムカワ、つまり
目久尻川に近付いた名になります(座間では目久尻川を寒川といっていました)。
その上流地点に近く、しかも東山道の府中と東海道の下総への分岐点に夷参駅を考える
と、およその位置も見えてくるのではないでしょうか。
 
ただし、以上は記録されていることからのわたしの推理で、これを証明するような遺跡
も発見されていませんし、口伝もありません。夷参がもし、座間ではないということが
証明されることがあれば、わたしの説も成り立たないことは言うまでもありません。
が、郷土人のロマンの視点としてもこのような追究は興味あることではありませんか。

 そこで、イサムの語源は何か? が更に問われなければなりません。大きなテーマな
ので、ここでは先送りしておきます。              (15・3・14)

 


 

「座間」という名の起源については諸説がある。

1.和名抄に伊参とある郷を座間郷とし、訓のイサマからイが脱落してザマとなった、

とする説(新編相模風土記   稿)。

2.相模河原に石ころが多いことから、石間(イシマ)、イサマ、ザマとなったという

説。

3.郷社(鈴鹿明神)の所在が大阪の座摩神社の由来(イガシリ)と同じく、井の尻

であって、語源となったとする説。

などがある。

某日、上州(群馬県)にある、座間と伊参の地を尋ねてみた。以下はその記述

(「つづれ草」55号)である。

  

 


        

伊参(いさま)と座間

さがみの野火

 

 9月16〜17日、上州(群馬県)を訪ねてきた。初めての上州路である。

 いま、文化財調査員は『座間の地名』を編もうとして調査中だが、そもそも

「座間」とはいかなる語源によるものか未だ確証がない。

 その一つに、『和名抄』(源順が承平年間[931〜37]に著わした、い

わば辞書)の地理志料、高座郡に伊参とあるのは現在の座間であろうとされて

いるものがある。伊参(イサマ)『新編相模風土記稿』などはこれを採ってい

る。ただ、高座郡の伊参には訓がないが、上野国吾妻郡伊参(『和名抄』)に

は「伊佐萬」と訓があるのに準じ、高座郡伊参もイサマと読むべきであろうと

されているのである。

 この解釈を鵜呑みでいいのかどうか、また、上野国吾妻郡伊参郷とはどのよ

うな地形なのかを知るには、やはり現地を一見しておきたい思いがあった。

 さらに、上州には勢多郡東村に、これははっきり同じ「座間」という集落が

ある。こちらは上州でも東部の渡良瀬渓谷の山間部で、地図を見てもかなり辺

鄙な場所である。これもどういう土地柄なのか見ておきたい所であった。

 で、猛暑のようやく峠が見えたところで計画したが、思わぬ台風の襲来、

それも本州を縦断して関東北部を掠めるコースにある。これではどうにも仕方

がないと半ばは諦めたが、切符も買ったし、宿も予約したし、中之条町(伊参

は現在の中之条町)の歴史民俗関係の方にも通じてあった。前日夕刻の天気予

報で台風通過は今夜というので、少々の雨くらいならと思い直した。とにかく、

この目で見てくるだけでもいいのである。

勢多郡東村座間

 当初は、中之条へ直行して、東村へは翌日のつもりだったが、気が付いてみ

ると16日は祝日(15日・敬老の日)の翌日で施設の休館日である。中之条の

「歴史民俗資料館」は是非拝見したかったし、お休みの日にご案内いただくわ

けにもいかない。急遽予定を変更して、東村を最初の日にした。

 心配した天気は曇り時に雨とあって、傘は我が家から入谷駅までだけ、あと

は現地に至るまでなんとか降られないですんだ。 高崎から両毛線、国定村と

はこんな田圃の中か、岩宿という石器時代の遺跡が最初に発見された山は、

あんな小山だったのか、などと見ながら桐生へ。同じホームに2両のチョコレ

ート色をした車両がいて、これが「わたらせ渓谷鉄道」らしいが、時刻表では

発車まで3分しかないのに、誰の人影もない。乗越しの精算のつもりで階段を

降りたが、ベルの音で、あわてて引き返した。今度は数人の人影である。車窓

に触れるほどの青葉の中をくぐって約1時間、神戸(こうど)という駅に着く。

切符は車内で精算した。

 「ザマあ見ろ」と言われると「座間は神戸の先だい……」と答えるそうで、

村役場で聞いたところではここから2〜30分というが、そばにバスが停車して

いてすぐ発車するそうなので飛び乗った。乗客は1人いただけ。運転手さんに

言って座間の入口といったバス停で降ろしてもらった。

 壁のように迫る前方の山、雨霧を吹き上げて立つ右手の山、左は畑地で向こ

う側が谷で、谷底に川があるのだろうが見えない。そこも丘のようになってい

て2〜3の家屋がある。道は山間なのにきれいに舗装されている。坂道である。

右後方に石の鳥居が見えたので下っていった。

 日枝神社という額である。根元付近に庚申塔数基が並べてあって、山伏角柱

のものが2基、有縁の文字塔だが下部に3猿の2猿と1猿が向き合っているの

が珍しい。もう1基は2猿が向き合っている。なにか遊戯でもしているようだ

が、摩耗もあって定かではない。年代は元文5年(1740=庚申)と寛政元

年(1789)以下である。

 日枝神社というが社前の板額には山王宮・天神宮とあり、寄宮であるらしい。

2mもの草鞋が立て掛けてあり、和紙を紐にして綯ったもので、あとで役場か

らの資料を見て知ったが、この付近を橋詰入口といい、村へ疫病が入らぬよう

にしめ縄を張って草鞋を吊す風習があるらしいのだった。

 坂を登っていくと左手が墓地になっていて、後方の高い場所に小さなお堂が

あった。村民の名字と家紋がわかるので、年紀とともに控えておいた。

 高瀬家(七宝に花菱)

坂の麓にもあり、村の有力者らしい。古い墓石(寛政頃)には下り藤紋もあっ

た。また別家に高さ約150pの石祠があり、格子を刻み、切妻の屋根に人面

を刻む。「…天躰 石塔?」といった刻字もあるが何を意味するのか。

 さらに別家のものに3体2基の六地蔵、2体3基の六地蔵、2体双立の舟型

石像があった。童女の戒名(片方の戒名不明)が読め、片方は有冠らしい。

 福田家(丸に隅立四つ目結)元禄7年、享保元年の板碑がある。墓地では最

も古い方。

 金子家(左三つ巴)

 神山家(左三つ巴)

 星野家(丸に三つ星)

 木村家(丸に隅立四つ目結)

 田川家(五三桐)

  地蔵・阿弥陀・観音の舟型浮き彫り8体が並ぶ。

 吉原家(丸に笹竜胆)

 下妻家(丸に二両引き)

 石材は重厚で大ぶりである。しかし時代が大きくさかのぼるものはない。

また浮き彫りにも地方の特色が見られるが、顔面に平板なのが多く稚拙な感じ

を抱かせる。元禄以降といった年代に、渓谷に石屋が入ってきたのだろう。

住民が移り住んだのはもっと以前と思え、落ち武者的な家紋・家名である。

 道はやや平坦になり曲折して、左右に家屋があるが、自家用車や小型トラ

ックが見られる家も人影なく、大きな犬がこちらを見ていたが吠えられること

はなかった。間もなく道は山中へ入っていく。その手前にゲートボール場があ

って、小屋がけの壁にたくさんの表彰状が掲げてあったが、更に誰もいない。

小雨が降り出してきて、傘を広げて帰り道をたどった。上り道では気付かなか

ったが下りの右方に視界を塞ぐように草木ダムの壁が迫っていた。

 神戸駅の発車時刻までに20分もないので、小走りに坂を下った。渓谷を渡る

橋(万年橋)の手前の右は崖のようになっていて杉の木などが林を作っている。

中世に座間城というのがあって、橋爪修理亮という人物がいたと口伝にあるら

しいが、城の所在は不明としてあった。これもあとで役場からの資料で知った

ことだが、この上に広福寺という寺があるようで、橋爪(橋詰・同名の小字が

ある)という名からして、また修理亮の名からも、このへんにあった橋の守護

を主な任務とした武将だろうから、城または館を構えるとしたら、この上あた

りではなかっただろうか。

 バスできたときはすぐそば、といった感じだったのに、駅までは意外にあっ

た。ちょっとした峠道を越えるのである。傘を持って急ぐ道に、この渓谷でも

もう曼珠沙華が点々と咲いているのだった。

 車中で一人のおじいさんと一緒になった。高草木といって、ダムが出来ると

きその地から神戸へ移ってきたのだそうだ。息子さんだかが、座間(神奈川の)

へ行っていて教職にあるとのことであった。次の駅でおじいさんは降りていっ

たが、年は私より2歳も若いのだった。

 俗にここの座間は、年貢の炭を背負う籠(ザマ)からだというが、それでは

座間はなんと呼ばれていたのかわからない。やはり地形から見て、「狭間」を

語源としてよかろうと思えた。古文書にある「蛇間」は当て字であろう。『勢

多郡東村誌通史編』(東村発行)にも、

 <村名は地形からと考えられる。当地は渡良瀬川と山嶺に挟まれた狭い場所

(狭間=ハザマ=ザマ)に立地することから生じたものであろうか>

 としてある。

吾妻郡伊参郷

 17日の天気予報は曇り一時雨ということであった。中之条駅で下車して、

見当で歩いたが、『歴史民俗博物館』まではかなりあった。途中、3人に道を

聞いたが「知らない」という人もいた。「ああ、もと役場だったところでしょ

う」ということであったが、着いてみると、県の重要文化財に指定されている

明治の小学校校舎を利用したものであった。校舎はのちに役場に使用されたら

しいから、「もと役場」でいいわけである。

 そこには、私を館長の唐沢さんへ紹介して下さった奈良さん(町の専門委員

長)もいられて、ご自分の車で旧伊参村の地を案内して下さるとのこと。思い

もしなかったご好意で、伊参を一巡することになったが、あとで考えると、タ

クシーを利用するとしても、とても一人で辿れる行程ではなかった。

 奈良さんの資料によると、中之条町は、旧中之条町、沢田村、伊参村、名久

田村が合併したもので、いま、伊参と呼ぶ公式の名はないのだそうである。

 (於保太)を吾妻三郷といい、うち伊参郷の五反田、岩本、蟻川、大道新田

の大字が旧伊参村に属するよしであった。

 車は西へ四万川を渡ったが、このあたりも旧座間郷という。川は深い谷底を

流れていて、対岸は崖だが樹木が生い茂ってむしろ山である。山上の平らな部

分があって畑や住居が存在するようである。四万川に沿う崖上の道は越後に通

じていて、新田義貞が鎌倉攻めの挙兵をしたとき、越後にいた一族が加勢に駆

け付けた道だという(『吾妻史話』唐沢定市氏著)。

 また東へ帰り、寺社平という2〜3軒が見える。大字岩本ろうか。交通安全

標識に、「………伊参の子」などとある。公式名として伊参はないが、「伊参」

を冠した施設(公民館など)や商店(美容院など)の2〜3は五反田に限って

あるのをパソコンで確認してきてもいたのである。しかし町並みというような

場所は通らなかった。 四万川(下流山田川)、熊野沢、赤坂川(下流名久田

川)は深い谷間を流れ、これに挟まれて孤立し、あるいは連なる山の裾、また

は平らな部分の集落が伊参である。奈良さんも強調しておられたが、やはり

「狭間」を語源としていいようで、つまり昨日の座間と同じになる。

 蟻川の道を辿る。蟻川岳という孤立した緑の山を右に左に見て、やがて嵩山

を正面にする。これも孤立した山で、高さは789m。武田、上杉が争ったこ

ろ、上杉方だったこの地の武将たちが18歳の斎藤城虎丸をたてて立て籠もっ

た城跡という。敗れた将兵は城虎丸以下ことごとく自決して果てたそうである。

また、山は修験の道場でもあり、武田の武将が入ってからは真田忍者の修行の

場でもあったといわれ、忍者の後裔を称する一族が中之条に多いという。

 この場を案内いただいたのは、ここに「男岩」と呼ばれる大岩があることか

らで(『つづれ草』48号・「消された風景」)、行ってみると大天狗・中天狗

・小天狗という大岩に続いて男岩が聳えて見える。高さ約200mという男根

に似た大岩で、実際その場所まで登って見たらもっと迫力があるだろう。これ

は縄文期から信仰の対象とされていたようで、付近に人骨の散乱していた洞窟

もあるそうである。

 これに正南中して麓に天王石と呼ばれる石柱(拝殿の芯のみ柱か)があり、

さらに南に朱塗りの親都神社がある。この社の祭神は座間の鈴鹿明神社と同じ

で、スサノオと午頭天王である。いずれも男神であることが共通する。

 上州の座間・伊参を辿ったが、座間市でいわれている座間語源とは異なるも

のを感じた。『座間むかしむかし』第3集に、 <…奈良時代「イサマ(石

間)」という集落があったとすれば、それから何年か前は「イサマ=石間」、

即ち石ころの多い河原の跡だったと考えられる。イサマ地区は、そんな土地を

開拓してできた村だったわけである。>

 とあるが、上州の座間・伊参はそういう地形ではない。上州の解釈に沿った

地形で、唯一、そうかもしれぬと推定可能なのは栗原・芹沢地域で、これを

国府があったという海老名国分から辿れば、たしかに「狭間」ではあろう。

当時は左右の山稜は大木が繁茂し、渓谷も深かったと思えるのだ。

 高座の伊参をイサマと呼んだかどうかにも疑問がある。『続日本紀』宝亀

2年(771)の太政官奏には「夷参」とあって「参」をサマと読むのが妥

当なのかどうか。もしサムであったら、伊参はイサムで、寒川はイサム川だ

ったかもしれない。目久尻川は栗原ではもと寒川と呼ばれていたという。

イサマのイが落ちてサマ、ザマになったなら、イサム川のイが落ちてサム川

になって不都合はない。                           

                                                  (平11・9・22)

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 『座間の地名』補逸1

  古淘綾里考           

 

 古書を読んでいると、ときどき素人でも分かるような間違いに気が付くことがあります。
例えば『新編相模風土記稿』の座間宿村の小名に「銀鹿」とあるのは「鈴鹿」でしょうし、

 <土人の伝に座間郷の地は往昔東海道の駅郵にて夷参駅古淘綾里と唱ふ>

 とあるところの注書の、

 <古淘綾は大磯辺の地名なれば、里名の説は疑なし>

 古淘綾里は「こゆるぎのさと」または「こゆるぎり」と読むのでしょうが、これは大磯
あたりの地名だから、この説は疑いないというのは文脈としておかしいです。おそらく
「疑なし」は「疑べし」の誤りでしょう。新戸村には、

 <氏満剏建と云は疑べし>

 の記事があります。

 

 ところで、古淘綾里と言われていたというのは本当に間違いなのでしょうか。実はそう
呼ばれていたのではなかったかとわたしは思っています。なにしろはっきり書かれている
のですから。

 大磯あたりの地名とは淘綾郡をさすものと思えます。前記の『新編相模風土記稿』淘綾
郡図説には、

 <旧くは餘綾と書し、余呂技と唱ふ>

 とあり、『万葉集』『古今集』に余呂技浜、小余呂技乃磯の歌があることが述べられて
います。しかし、これに続いて『後撰集』では

 <越る義にとりて、多く巨由留技乃磯とあれば>

 とあり、古淘綾には「小揺るぎ」と「越ゆるぎ」の二つの解釈がなされていたようです。
 つまり「こゆるぎ」という地名は大磯あたりだけの地名と考えなくてもよいのではあり
ませんか。

 県内の他地域の散在する「小動神社」「寄木神社」「居木神社」の例をみても、あち
こちにあった地名かも知れず、「揺る」を「緩い」ととって川の流れがゆっくりした場所
と取れます。松田の中津川上流に「寄(やどろぎ)」という地名があります。あのあたり
の河原で焼き芋句会を催したことがありますが、バス停「寄」は橋のたもとにあり、川か
らの名であろうと思いました。もとは「ゆるぎ」から訛ったのかも知れません。

 淘綾といい餘綾といい、「よろぎ」「ゆるぎ」になぜ「綾」の字が使われたのでしょう
か。漢和辞書によると「綾」の音は「リョウ」訓は「あや」で、

  @あやぎぬ。織り出しの模様のある絹。

  A表面にあらわれた模様。色彩。

 解字形声には、糸は意符。・が音符で、また、すじの意を表わす。あや、すなわち氷の
ようなすじ模様のある絹織物をいう。とあり、「ゆる」について古語辞典には、

  @「揺る」(振り動かすこと)

  A「緩」(ゆるやかなこと)

 をあげています。流れの形容としてはAでしょう。「綾」は「緩」を誤ったものがそのまま残されたと考えられます。し
たがって綾瀬という地名も「緩瀬」が本来だったのでしょう。

 夷参は相模川を越える地であり、越えるに適した流れの緩やかな地でもあったはずです。

 古淘綾里は「小揺るぎ里」「小緩ぎ里」、さらに「越る義」に取れば「越ゆるぎ里」、
この場合の「ぎ」は「柵」と考えることもできようかと思います。朝廷にとっては東国
の砦でもあったはずです。

 どちらにしても、夷参に古淘綾里の里名があったと考えて差し支えなさそうです。           17-4-13