つづれ草
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座間の文芸サークル

「つづれ草」へようこそ

84号配本 中

 


                                                           

9月7日(日)「地域デビュー応援会」に参加します。

会場・サニープレイス座間3F

 


                                                         

   文芸サークル『つづれ草』20年8月22日例会議事報告
【参加】吉倉・吉田・藤井・浅野・三枝・中曽根・北田、以上7名。
●北田は体調不良となり、途中退席に事態に至りました。まことに申し訳ありません。
●9月7日開催の「地域デビュー応援会」にあたり、チラシ作成の案を提示致しましたご意義ありませんでしたら、
これでやらせていただきます。
●かねて治療中でした北井アキ子さんが自宅療養となられました。
●自宅療養中だった鈴木正和さんもそのうちなにか書いてみるご心境にうかがっています。
●担当の急病で中断していますが、85号のパソコンでの編集をおおよそ終了しています。来月初旬に印刷へ渡します。
86号の原稿締切りは1130日、課題は「通」です。担当者の体調からメールでの受信を中心にいたします。ご協力ください。
●来月例会は26日(4金)午後1時半から図書館A講座室です。席上85号を配本する予定ですので、できるだけご参加ください。
  

 

 

20年新年会

 


    

  

20年5月例会


     20年4月例会                

                                

     20-4月例会

                                                                        


 
 

 

3月28日例会  
 
 

    
   
 
 
    

投稿の中から課題文「車」作品の1部を転載します。

  廃車 
 ( 迷い道 )


 私は車の運転免許を持っていない。三十代の頃「免許をとれば?」と夫が勧めたこともあったが、バイクに乗
っていて事故を起こし、けがをしてからは、車どころかバイクも乗るなと言われ、それ以来、どこへ行くにも自
転車となった。時々、車に乗れたらいいだろうなと思うこともあったが、もっぱら夫の車の助手席に乗っていた。
 夫は数台の車を乗りかえた。最後はダークグレーのローレルだった。夫の他界でこの車の処分に直面した。二
人の息子はそれぞれ自分の車を持っている。単純に考えて要らないから売却したいということになった。ところ
がそう簡単でないことがわかり面くらった。夫名義のものは全て相続の対象になるから車もそうだとのこと、
「え? 車が遺産」、それは序の口で、遺言書がないこともあって、夫名義のものはイチイチ実に面倒な書類を
揃えなければならないこととなった。

 「それは何ですか?」「それはどこへ行けばいいのですか?」「これはどう書けばいいのですか?」等々、尋
ねてまわった。ふだんは忙しい息子達も土、日には家に集まり、私が集めて来た情報や資料をもとに書類を作った。
車は、次男が業者と大体の話し合いをしてくれ、廃車することになった。

 廃車が決まっても、業者がひき取りに来るまでの間しばらくあり、私は庭の掃除をするついでに、止めてある
車の窓をふいたり、ドアをあけて中の掃除をしたりした。廃車とわかっていても、きれいにしておきたかった。

 車で遠出した思い出は多い。年二回、東名高速が一ばん混む時渋滞に巻きこまれながら、夫の生家のある三重
県の津まで帰省した。こちらへ帰ってくる時は姑が、トランクが閉まらない程おみやげを持たせてくれた。家族
四人で最後に行ったのは次男が大学生になった時だった。息子二人が免許をとり交代で運転することになり後の
座席で、「ラクダ、ラクダ」と夫は喜んでいた。もう十数年も前のことで、車も白いスカイラインだった。それ
以来家族四人、車で出かけることはなかった。

 夫が亡くなる三ヶ月前、そんなことなど夢にも思わず二人で箱根へ出かけた。珍しく、長男が、会社の保養所
を頼んであげたからと連絡をくれ、強羅にある、某電機メーカーの、保養所に泊まった。夫は料理がおいしいと
上機嫌だった。車で出かけるのはこれが最後となった。

 約束の日に、業者が車をひきとりに来た。その前日、私はまた車をきれいにした。いろんな思い出のあるこの
車と別れるのはつらかった。夫がドアをあけてヒョイと運転席に座るような気がした。

 ひきとりに来た若い人は「それでは」といってあっさり夫の車に乗って去っていった。それを見送りながら、
再びあの車がここに戻ってくることはないと思うと、寂しさと、悲しさで、しばらく立ち尽くしていた。

 今でも、同じ色、同じ車種の車をみかけると、思わず、運転席に目がいく。「そんなわけないでしょう? わ
かってるくせに」こんな自問自答、いつまで続くだろう。

投稿の中から「いじめ」についてのもの、1部転載します。

・・・・・・・・・・・・

 私も第二次世界大戦中、縁故疎開で群馬県の伊勢崎という所に行き、毎日片道二キロの畑の中を学校へ通った。
当時の小学校の教科書は全国同一のもので、私達都会の学校ではかなり進んでいた様に思う。私にとってみれば
授業は全てが復習の様なもので充分答えをする事が出来た。担任はまだ若い女性の先生だったが、この事で先生
のプライドを傷つけたのだと思う。それからは疎開っ子、疎開っ子と何かにつけて嫌な目で私をにらんだ。同級
生もそれっとばかり休み時間になると、二、三人が組んで実力行使に及んだ。教室の中を歩いているといきなり
さっと足が出て来て、つまずいてころんだりすると周りにいる二、三人が目で合図をしながら笑っている。又学
用品がなくなって一週間程で筆入れの中の鉛筆が一本残らず無くなってしまった事もあった。そんな事を担任に
言う事など勿論出来ない。
 又運動場に出てみると、オレンジ色のズボンをはいている妹が、追いかけられて逃げ回っていた。子供達は口々
に人参モンペ、人参モンペと大声を張り上げて泣いている妹をおもしろがった。
 私や妹にとって学校はおそろしい戦場だった。
 学校の帰りも桑畑の中にかくれている四、五人の同級生のそばまで行くと、わっと出て来て道をふさがれた。
同級生があきるまで何をされてもぐっと我慢するしかなかった。やっと皆が散って家の脇の道までたどり着くと、
今度はやっと四才になったばかりの下の妹が近所の餓鬼大将四、五人に囲まれていじめられていた。頭から砂を
あびせられ、頬をつねられ、泣いている顔につばをかけられ、見るも無残な姿に、私は次の瞬間自分の命を捨てた。
一番体形の大きな子供の両手をつかみ遠心力を使って振り回し、投げ飛ばした。すると他の子供達が疎開っ子、疎
開っ子と叫びながら散って行った。あの当時の心の傷は六十年以上経った今も消える事はない。だが私達をいじめ
た人達は今は何も覚えていないと思う。
 でも被害者は違う。
 もう二十年も以前の話になるが、縁とは不思議なもので、当時級の中で一番のいじめ役だった同級生からある日
葉書が届いた。逢いたいと言って来た。田園都市に住んでいるとあったので、蒲田で待ち合わせをして喫茶店で時
を過ごした。
 彼女は二人の子供に恵まれ、働き者の夫に満足していると、最初の内は自慢げに話をしていたが段々本題に入っ
て来て、姑と合わず、毎日いじめられて針の筵の上で生活をしている様だと言っていた。
 二人のお姉さんも彼女の生活を見聞きしているので決して結婚はしたくないといって今だに独身なのだそうだ。
そんな話を一気に私に話した。私は聞き役にすぎなかったが、彼女を見ていて、他人を苦しめた結果ではないか
と思った。
               

 


会員の出版

会員滝沢智子さん(筆名・日下美智子)が児童書

ギリシャ神話の「ペルセウスとアンドロメダ」を出版されました。

定価1300円(税別)

 


 

 


 

    4月20日藤井さん送別会



 二〇〇六年、今年の桜の花も散りました。
時同じくして、我が「つづれ草」誌の仲間の一人が、みんなに
惜しまれて去って往きました。その人の名は藤井トモ子さん。
 本誌も創刊以来今年で二〇年になります。彼女は正しく本誌
と共に歩まれ、その編纂、発行にあって、北田代表を支えて下
さいました。一地方都市の文芸誌ですが、号を重ねること八〇
号に近い発行を、よくここまで続けてこられたものだと敬服し
ます。本当にご苦労さまでした。と申し述べるしか他に言葉が
見つかりません。
 重ねて、永いことお疲れさまでした。有難うございます。
                                    以上

吉田昌雄