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                          諏訪明神 
                    


 座間市には諏訪明神が2社あります。このうち、新田宿の1社は諏訪明神社ですが、今回は入谷5丁目にある諏訪明神を
取り上げます。

 小田急線座間駅西口から西への道をたどって梨の木坂に来ます。この坂下に小さな石鳥居があって「諏訪明神」と表記さ
れているので、私も諏訪明神と書かせていただきますが、これも諏訪明神社なのかも知れません。地元では長野県にある諏
訪大社の末社といい、祭神を建御名方命(たてみなかたのみこと)、鈴鹿と皆原地区の氏神としています。
 
口伝ではこの社はもと石楯尾神社といい相模延喜式内十三社のうちの「石楯尾神社」であったといいます。
 
『新編相模風土記稿』にはこの石楯尾社を、

 <今座間入谷村、諏訪社是なりと云ふ、又下鶴間・大島二村津久井県、名倉村にも、旧社の傳あり、是否詳ならず、>

 として、近郊各社の筆頭に挙げています。
 
『皇国地誌残稿』にも、

 <字鈴鹿ノ岸頭ニアリ、社地中ニ老松数樹アリ、六七百年前ノモノタリ、岸腹ニ横穴数所ニアリ、何故タルヤ伝ハラズ、
口碑ニ延喜中石楯尾神社ノ号賜ハリシト>

 と書かれています。
 
相模延喜式内十三社というのは、延喜式(平安時代初期に禁中の年中儀式や制度などを記した50巻本)の「神名帳」に記載
されている神社で、相模国には十三社があり、それをいいます。 相模延喜式内十三社について『新編相模風土記稿』巻之
一図説には以下のように書かれています。

 <往古、本州中官社十三社あり、([延喜式][神名帳]に載す所、)
 即足上郡、寒田神社、(今松田惣領にある、神田明神社是なり、)
 餘綾郡、川勾神社、(今餘綾郡、山西村にある、二ノ宮明神社是なり、)
 大住郡、前鳥神社、(今四ノ宮村、四ノ宮明神社是なり、)     高部屋神社、(今下糟屋村、八幡宮是なり、)
     比々多神社、(今上糟屋村にある、子易明神社是なり、)
     阿夫利神社、(今大山石尊社是なり、)
 愛甲郡、小野神社、(今小野村、閑香明神社是なり、)
 高座郡、寒川神社(大社に列し、名神の例に預る、今猶、宮山村に正しく鎮座す、)
     大庭神社、(今大庭村にある、天神社是なり、)
     深見神社、(今深見村にある、鹿島社是なり、)
     宇津母知神社、(今打戻村に現存す、)
     有鹿神社、(今河原口村に現存せり、)
     石楯尾神社、(今座間入谷村、諏訪社是なりと云ふ、又下鶴間・大島二村津久井縣、名倉村にも、旧社の伝あり、
是否詳ならず、)等なり、>

 つまり、石楯尾神社は「今座間入谷村、諏訪社是なりと云ふ」ものの、ほかにも下鶴間・大島二村津久井縣、名倉村など
言い伝えがあって確かなことは分からないということです。しかし座間の住民としては筆頭に書かれていることでもあり、
古くは夷参が駅家の所在地として坂東の要衝であったことや、石楯尾の「石楯」が大山と考えられ(阿夫利神を石尊と呼ぶ)
、「尾」はその末社の意味でしょうから、末社は大山を拝するもので、入谷の社からはいちばん正面に拝むことができるこ
となどを理由に上げたいと思います。尾は八岐大蛇(やまたのおろち)のように八つあるのが往古の考え方ですから、末社
は八つあって良いわけです。

 また、国史の記載としては、『文徳実録』巻九の天安元年(857)五月廿日に、

 <是日、在相模国従五位下石楯尾神預官社。>

 があります。相模の国の従五位下石楯尾神社を官社としたということで、この日に石楯尾神社は名神になりました。

 ところで、入谷のこの石楯尾神社がなぜ、いつから諏訪明神になったのかが長いあいだの疑問で、土地の有志もずいぶん
調べたらしいのですが今もって謎とされています。なにしろ書かれた物も遺物も全く無く、口伝だけですからやむを得ませ
ん。

 市の文化財調査で地名調査に係わっているうちに、厚木市の郷土史家北村精一氏著の『厚木の伝承と地名』に、次の記事
があって目に止まりました。

 <諏訪神社は全国屈指の数があり、下川入の神社のある所を諏訪原、厚木村では、長福寺の前通りを、諏訪海道といいました。スワはソワ(崖の側や斜面)からも転訛します。>

 そこで辞書を当たってみますと、

『新明解古語辞典』(金田一京助監修・三省堂)
 そは(江戸時代以後「そば」)山の険しい所。がけ。
  「山の  より寄せける児玉党」(平家9盛俊)
『広辞苑』
 そわ【岨】ソハ 山の切り立った斜面。がけ、きりぎし。そ ば。
 「一の谷、生田の森、山のソワ、海のなぎさにて射られ斬ら れて」(平家3)
 「ソワノカケジ」(『日匍辞書』)

 『日匍辞書』は16世紀ころの京都や九州の日本語の実例をあげたポルトガル語の辞書で、当時の日本語を知る上で参考に
なるものです。それが関東のこのあたりでも通じていたのは、駅家の所在と関係がありそうです。

 入谷の諏訪明神のある場所は特徴のある崖地です。今はワンルームマンションが建って、様相を見ることは出来ませんが、
昭和40年頃は赤土の崖肌がむき出しで、大きな横穴がありました。この崖地には横穴墓がたくさんあって、それらは夷参駅
家のあった奈良時代のものといわれているものです。近世の頃、この横穴に老婆が住みついて暗夜に坂道を通る人がいると
「お待ちゃれ」と追いかけて来たと恐れられた「おまちゃればばあ」の話がありました。この坂道を梨の木坂といいますが、
坂の途中の石柱に、『座間古説』には「梨ノ木諏訪坂」とあることが書かれています。道はもと「藤沢街道」と呼ばれた道
で、社のある崖下を横切りますが明神への道ではありません。むしろ明神を避ける方向に登って鎌倉古道と交差しています。

 すなわち、諏訪明神はソワの明神で、梨ノ木諏訪坂は梨ノ木ソワ坂だったのではないでしょうか。明神は崖上(ソワ上)
にあることから「ソワの明神」と呼ばれていたのだと思います。明神は名神(「神名帳」に名のある神社)です。室町時代を
経て戦国時代には石楯尾の名が忘れられ、崖上の名神様という意味のソワの明神とだけ呼ばれていたのでしょう。昭和3年
刊行の『神奈川県高座郡座間村地番反別入図』の高座郡座間村全略図の小字に「諏訪上」がありますが「ソワウエ」の名残
でしょう。現在、諏訪上児童公園として名前が残されています。

 座間は崖の多い地形です。このほかにもソワの名残りと思える場所があります。古老にうかがった地名に「ソマステバ」
がありました。現在、川駒坂と呼ばれる坂の崖面です。ちょうど小田急OXの奥のあたりで、川駒と同じように「馬」に係
わる言い伝えのある場所です。ここをソマステバと言っていたというのですが、口伝では馬捨て場だったといいます。それ
ではウマステバが至当なはずですが、おそらくソワステバ(崖下の捨て場)がウマステバと混じってソワがソマになったと
思われます。

 最近、『厚木の伝承と地名』にある、長福寺を訪ねて行ってみました。寺の前の道を「諏訪海道という」記事を確かめた
かったからです。諏訪神社の前なら「諏訪海道」でしょうが、お寺の前を神社名の海道とは解せなかったからです。

 愛甲石田駅から十分ばかりでしょうが、方向音痴が祟ってずいぶん迷いました。探し当てた長福寺は日蓮宗で、創建は江
戸時代かと思われました。門前は広く開け、東方が急な崖でした。崖下に寺の墓地があり、墓地への坂道へ門前を通って行
きます。つまり「ソワ(崖)道」なのです。やはり「諏訪」は「ソワ」だったという思いを強く感じました。

 厚木の諏訪神社(下川入)の解説にも「平野部を望見する要地にあって中世、武神御名方神を祀る」とあるので崖地なの
でしょう。

 長福寺は厚木市愛甲ですが、石田は伊勢原市です。伊勢原には「諏訪坂下」というバス停があるようですが、神社らしい
ものはありません。これも「ソワ坂下」だったのではないかと思います。

 相模原市の大島というところにも石楯尾神社と伝える諏訪明神があります。ここは相模川左岸の崖地近くに所在すること
が案内書に書かれ、地図によって石楯尾神社とあったり、諏訪明神とあったりしますが、相模原市教育委員会発行の『相模
原風土記稿』・神社編には諏訪神社としてあり、「諏訪明神ともいわれる」とあります。この社を石楯尾神社ともいうのは
文化3年(1806)、別当寺大島山圓明院の開基の覚心がこの社を石楯尾神社であるとして「式内社石楯尾神社神祇伯資
延王謹書」という額を掲げ社前にその標柱を立てたことが書かれています。しかし、社の伝承では永正年間(1504〜1
520)の創建だそうですから、前述の『文徳実録』巻九の天安元年(857)五月廿日に、相模国従五位下石楯尾神が式
内社とされた年代から遥か後代のこととなりますので誤りでしょう。また諏訪神社を名乗るにしては祭神を御穂須々美命と
されているのが疑問です。これはやはり諏訪でなく「ソワ」(崖地)に近いことからの起名で、入谷の明神と同じような事
情が考えられます。ただし飯島氏のような具体的なものがありませんし記録もたどれませんのでおそらく「明神」は入谷の
明神を真似たのではないかと思われます。

 すぐ近くの新戸にある諏訪神社は座間の小字「崩淵」近くにあります。祭神は建御名方神です。「クズレブチ」は崖崩れ
を意味する小字名ですから、崖崩れ防止を祈ったのではないでしょうか。

 地図を当たると、近在に所在する諏訪神社のほとんどが崖上か崖下と想像される地形にあるのは諏訪大社に関係なく、ソ
ワ崩れを防ぐ真意だったのではないかと思われてきました。大社のそれと違った祀り方(女神を入れない)をしているのも
これを裏付けします。

 諏訪明神を称しているのは、近在では座間の2社と相模原市大島の1社だけです。県下はもとより東京にも諏訪明神はあ
りません。だいたい、諏訪神社(長野の諏訪の本社)の末社なら、諏訪神社とするのが本当で、諏訪明神はおかしいのです。
これはソワの名神だったからです。それだけでなく、諏訪大社の末社なら祭神をタケミナカタのみとするのも軽率です。

 諏訪の大社には上社と下社があります。タケミナカタが上社、ヤサカトメが下社の祭神です。現在は上社のタケミナカタ
を上位とする感覚ですが、私はむしろ下社のヤサカトメを重く考えています。諏訪湖を神と崇めたのが下社と推測するから
です。 湖の性は女性です。諏訪湖の神は土地の神ですから地元としては大切な神です。タケミナカタは『古事記』では大
和朝廷から差し向けられた神に敗れて泣く泣く出雲から諏訪に逃れたことになっていて、どうも勇ましくありません。諏訪
湖を象徴する女神を娶って勢力を伸ばしたものと考えられますが、この神を武神とするなら別に歴史書なり神話なりが必要
でしょう。歴史を調べますと、この神を守り神とした武将の末路は哀れでした。それでいて武の神として各地に所在すると
いうのはいささか解せません。

 諏訪大社には上社、下社とも「おんばしら」があり、山上から伐り出した大木を滑り降ろす「御柱祭 」が有名です。諏
訪湖は大きな女陰ですから、男性は大木でなければならず、行事は勇壮でなければ成り立ちません。木落し坂という100
■斜度40度の急斜面を命知らずの若者らを乗せて一気にかけ降るのですが、次々に若者らがなぎ飛ばされていきます。「建
御柱」では先端に白い御幣をかざした若者が立ち、大勢の氏子を乗せたままロープで引上げられていきます。この祭礼は大
きな男女和合で、吉野裕子説のように先頭の御幣は精液の象徴でしょう。滑り降ろすのは崖で、諏訪湖の諏訪の名の起こり
もソワであったと思われます。下社の祭神をヤサカトメといいますが、サカは崖地を想像させる言葉です。

 諏訪神社が男女神であることは、国史にも次のようにあります。

『文徳実録』巻二、嘉祥三年(850)十月十五日
 進信濃国御名方富命神。建御名方富命前八坂刀売命神並加従五位上。
『文徳実録』巻三、仁寿元年(851)十月廿七日
 進信濃国建御名方富命。前八坂刀売命等両大神階。加従三位。『三代実録』巻二、貞観元年(859)正月
 信濃国正三位勲八等建御名方富命神従二位。従三位建御名方富命前八坂刀売命神正三位。
『三代実録』巻二、貞観元年(859)二月十一日
 授信濃国従二位勲八等建御名方富命神正二位。正三位建御名方富命前八坂刀売命神従二位。
『三代実録』巻十四、貞観九年(867)三月十一日
 信濃国正二位勲八等建御名方富命神進階従一位。従二位建御名方富命前八坂刀売命神正二位。

 など、つとめてヤサカトメを残すことに拘っているのが分かります。この諏訪大社の男女神の伝統を伝える諏訪神社が東
京都大田区にあることは『つづれ草』72号(諏訪談義)に書きました。大田区で海苔養殖業者だった平林家の故郷が諏訪だ
ったのです。かなり重複がありますが併せてお読みください。ここでは本社と下社を別棟で祀り祭神を、

      本社  建御名方神
      下社  八坂刀売命

 としています。

 ところで、入谷の石楯尾神社がいつ頃から、どうして諏訪明神に変わったのかですが、証明するものがないので推測する
しかありません。断定はできないのですが、かなり事情に合致したものが考えられてきました。

 入谷のこの辺りを鈴鹿といっています。ここから南の皆原にかけての旧家に飯島家があります。江戸時代は代々名主職を
継いだといわれている旧家です。飯島氏の祖先は武田氏の武将で、武田氏滅亡に遭ってこの地に移住したといわれています。
飯島という土地は諏訪湖に程近い場所で、「飯島」は地名としては丘陵地とされていますから、そういった土地なのでしょ
う。飯島氏はそこを故郷とする氏族と思われます。

 モノクロ時代のテレビ放送で、信濃に現存する飯島氏の子孫がムカデの旗印を見せて、普段は田畑を耕す農家だったが、
一旦事あればこの旗を立てて戦ったということでした。今の飯島家にそういう伝承はないようですが、唯一の証拠に先代の
墓石があります。写真のように、この辺りでは見かけない様式です。 この様式の墓石は甲斐一帯のもので、武田勝頼の墓
もこの様式でした。いちおう五輪塔としましたが風輪が兜の鍬形のようになっています。石材も近在のものではありません。

 銘文によると、先代の死が正保元年(1644)六月六日で没年九十七才というのですから、移住が40歳頃とすれば天正
年代となり、武田勝頼が甲斐田野で自殺したのが天正十年(1582)ですから辻褄が合います。

 飯島氏が定住して約3代か4代目頃に石楯尾神社、つまり諏訪の名神(じつはソワの名神)が老朽していたのを再建した
と考えれば元禄の頃となります。1代目、2代目としなかったのは、故郷の大社を知悉する年代であったら、大社にそぐわ
ないこうした祀り方はしないだろうと思ったからです。本当の祀り方を知らない若い世代が、社の歴史を知らぬまま、土地
の言われ方に従って先祖の口伝から諏訪明神としたのでしょう。

 実はそれを裏付ける資料があります。『座間市史』2の「座間宿村・座間入谷村地誌調書」に元禄三年(1690)霜月
の日付で鈴鹿大明神に石楯尾神社の肩書きがあるのです。鈴鹿大明神の末社4社のうちに「諏訪」もあるので、諏訪明神は
この頃に創建され、今までの石楯尾神社は古老の手によって鈴鹿明神社へ遷されたのではないかと想像しています。

 元禄の頃、座間は五ヶ村用水も完工し水田の開発もなされて村勢盛んな時代でした。鈴鹿明神の梵鐘(元禄五年銘、戦時
の供出で現存しない)にも座間郷二十七ヶ村の名主の連名がありました。鈴鹿大明神は座間郷の郷社であり、鈴鹿・皆原は
座間郷の中心部でした。


 付記しますが、新田宿にある諏訪明神社はソワに関係はありません。もとは横田家(現、新田家)の屋敷神だったそうで、
これを村社に格上げしたものといいます。横田家初代の昌清という人は修験者だったようで、家に伝わる古文書に越後の上
杉家から拝領のものがあるそうです。

 越後の武将上杉謙信は飯縄権現を信仰し、自らも「イズナの法」(武芸・武術における一種の魔法・忍法)を操ったとい
いますから、関係があるのかもしれません。『甲陽軍鑑』には武田家の武将として横田氏の活躍がありますが、こちらには
関係がなさそうです。

 何かの縁で横田昌清はこの地に住み着き、修験の霊山、戸隠山・飯縄山は信州ですから、諏訪神社は故郷の社ということ
で屋敷神に祀っていたのでしょう。彼は修験者として村民の指導を行い、村民は横田家の屋敷神を氏神としたのだと思いま
す。「明神」の名は鈴鹿明神社や入谷の諏訪明神に倣ったものでしょう。以後、横田家は新田山寿命院昌清寺として諏訪明
神社の別当となりました。

 社の境内一隅に「神変大菩薩」の碑(座間市重要文化財)があります。これは修験道の開祖と仰ぐ役小角(えんのおづぬ)
の死後1100年とされる寛政11年(1799)、光格天皇より追賜された称号で、碑はこれを記念して翌年、昌清寺七代
の圓隆によって建立されたものです。                (平成18年12月20日)
 


                                         座間と難波 
            
 座間の名の起こりについて、諸説があって確定的なものはないと書きましたが、諸説の中で、有力と思われる
のは[皇国地誌残稿]座間村の項の次の記事です。
 <往古座間ノ郷と称フ、鎮守祭典ヲ、「イガスリ祭」ト云フ、其後桓武天皇の第三ノ皇子葛原親王万民撫育ノ
為当国へ下向被為在、(略)座摩ノ大祭ヲ教示シタモフ、故ニ高座郡ト称ス、又高座郡ノ中央ニ付摩ノ一字ヲ間
ト替ヘ、渋谷庄座間村ト改称ス>
 鎮守というのは鈴鹿明神社のことで、明治初期の当時はその祭礼を「イガスリ祭」といっていたということで
す。「イガスリ祭」というのは、難波(現、大阪)の坐摩神社の斎祭る神で、
 <延喜式、神名帳、宮中神の条に「座摩巫祭神五座」として、「生井神・福井神・綱長井神・波比祇神・阿須
波神」の五神の名を掲げている。生井(いきいきした井)・福井(栄える井)・綱長井(生命の長い井)の三神
は井の神。ハヒキは境界、アスハは基盤で、ともに屋敷神をさす。これらを総合して、ヰカシリ(居処領)の神
と言った。「座」は「居処」、「摩」はシリの音転スリの宛字。つまり敷地の神で、注に「大宮地の神の霊」と
ある通りである。この神の祭祀するのは座摩の巫である>
                                                  (『古語拾遺』斎部広成撰・大同2年(807 )
 
 ということです。
 この「イガスリ」について、その語源は、
 <座は令集解に居とも書きたれば為とも訓ことは定かなり、摩も借字ならん即井之後と云地名にやありけん、
井に因れる名と聞こゆ>(『増補大日本地名辞書』吉田東伍著)
 とあって、「イガシリ」=井之後(湧水のすそ)からであろうとしています。
 鈴鹿明神社は後代の呼称で、もとはイガシリに坐ます神であったろうと考えていますが、難波の坐摩神社と同
じく、地名がイガシリであったところから、難波に詳しい中央の誰かが指示して「座間」の字をあてがったと思
えるのです。『皇国地誌残稿』のいう葛原親王は桓武平氏の祖先となった皇子ですが、相模ではなく下野・常陸
あたりの太守で、相模に足跡は伝えられてはいません。しかし、奈良・平安時代に夷参(伊参)に駅家(うまや)
があって、それが座間に近い場所であったとすれば、中央からの役人の誰かによって、「座摩ノ大祭ヲ教示シタ
モフ」ことはあっただろうと思います。
 そこで、難波(大阪)と相模の座間を繋ぐ糸をたぐっていきますと、宝亀5年(774)に相模守となった大
伴宿禰家持がいます。
 難波が大伴氏の所管の地であったことは『万葉集』の、
  大伴の美津の浜なる忘貝家なる妹を忘れて思へや
  大伴の御津に船乗りこぎ出てはいづれの島にいほりせむ吾 
などの歌があって確かなようです。
 『万葉集』は大伴家持の撰ともいわれますが、集中にいわゆる防人の歌が数十首掲載されていて、これは当時
(天平勝宝7年2月)(755)、彼が兵部少輔として難波にいて、東国からの防人を収容し、防人たちの歌を
も収録したことが内容にあります。この中に注目されるのが次の一首です。
  庭中の阿須波の神に木柴さし吾は斎はむ帰り来までに
 「阿須波の神」は前記のように坐摩神社の祭神です。防人たちは難波に来て坐摩神社境内に宿営していたらし
いのです。家持は彼らを難波の御津から筑紫に向けて船出させ、平安を祈って見送ったのでした。
 おそらく、座間の「イガシリに坐神」にも同じような性格があったのでしょう。蝦夷平定に向かった大勢の兵
騎が集結し、宿営したことが考えられます。家持が相模守となった前年、妻どうしが姉妹という関係の同族、大
伴駿河麻呂が陸奥国鎮守将軍に任じられて、征討に赴きました。家持が相模守となって相模に赴任してきたのは
その半年後のことでした。この頃から奥羽は風雲急となり、以後1世紀近くにわたる戦乱を「宝亀の動乱」とも
いい、夷参駅家は征討の基点となっていたと考えられます。
 星谷寺に田村草伝説があり、星谷寺に宿営した兵士に腹痛下痢症状が蔓延したとき、この地に群生していた田
村草(キンミズヒキ)を煎じて飲ませ、治癒させたというのですが、遠征ではこういうこともあったでしょう。
 「阿須波の神」といえば、さきほど堤防が切れて洪水を起こした足羽川(あすわがわ・福井県)が思い起こされ
ます。調べてみますと、「足羽」の語源は川でなくて山(足羽山)でした。この山に足羽神社というお社があり、
継体天皇を祀るそうです。 継体天皇で思い出すのは大伴金村です。金村は武烈天皇に男子がなく皇統が絶えよう
としたとき、当時、越前国にいた応神天皇五世の孫、男大迹王(継体天皇)を推戴して皇位におつけした大連でし
た。
 足羽神社には坐摩神社と同じく生井神・福井神・綱長井神・波比祇神・阿須波神の五神を今も祀っているそうで
す。
 『日本書紀』には、大伴大連金村は磐井の乱を鎮めたりして功績がありましたが、朝鮮半島経営を失政と突かれ
て落胆、住吉(難波)の自邸に引き籠ってしまったと書かれています(ここでも大伴氏が難波を根拠にしていたこ
とが伺えます)。
 座間の名の起こりとされるもう一つについても触れておきましょう。伊参を上野国の同名地の訓から「イサマ」
と読んで・イサマの「イ」が落ちてサマ
 座間の古名なら伊参(『倭名類聚鈔』承平年間931 〜938 
 『新編相模風土記稿』には、
 <後夷参を伊佐間と転じ、又上略してざまと濁音に唱へ訛りしより遂に今の文字を用しと云ふ>
 とあるのですが、日常使っている地名からある時突如1字を落とすというのは、誰かの指示でもなければ考えら
れないし、そういう言い伝えはありません。この説は既に確定している座間の地名に語呂を合わせてみせた「こじ
つけ」に思えるのですがどうでしょうか。
 それに、夷参は駅家の名で、座間の名の起こりと考えられるイガシリ(井之後)の地とは位置がずれるような気
がしています。
 夷参から下総の国府(井上駅)へ通じていたという4駅のうち、大井駅は大森貝塚のある崖地の上の台地にあっ
たと推定され(街道跡らしき遺跡が発掘された)、井上駅も文字の示す通り井(湧水)の上の台地にあったでしょ
うし、下総国府跡や国分寺、国分尼寺も台地(国府台)にあります。川崎にあった小高駅も小高い台地を示すので
はないでしょうか。このように、駅家というのは崖下に湧水のある台地上に設けられたらしく、座間でいえば、東
海道(当時の)から武蔵国府への道を官道として武蔵を東海道に含めるとある道(府中街道に想定)は、現在、キ
ャンプ座間に近い場所で−下総への道、つまり江戸街道と−分岐しています。おおよその位置関係を現在に残すも
のではありませんか。
 和同6年(713)、諸国の郡、郷の名称は好い字を選べとの詔が出されましたが、夷参は好い字といえるのでし
ょうか。これは奥羽蝦夷鎮定に意識を置いた撰名と思いますが、討伐が成った後代に至り「夷」の字の意義も忘れら
れ、これを嫌って「伊」に代えたため上野国の伊参と同じになり、あちらにイサマと訓のあるところからこじつけの
解釈が生まれました。夷参をどう読んだかは不明なので、普通にイサムと読んでおきます(相模の伊参は普通の読み
だったから訓の必要がなかったのでしょう)。さらには、この夷参の「イ」ももとは「井」であったかも知れません
ね。         

 


                                                          14

                                              足羽川の氾濫から

 

福井市を流れる足羽川が氾濫し、死者3名、行方不明者3名が報じられている。「あすわ川」と聞いて、はて? と思ったのはわたしだけであろうか。万葉の防人の歌に、

  庭中の阿須波の神に小柴さし吾は斎はむ帰り来までに

とある「あすわ」である。これは大阪(難波)にある座摩神社の祭神で、難波と「座間」を結びつける神なのである。座摩神社はイガスリの巫を伝え、生井・福井・綱長井・波比祇・阿須波の5神を祭る。総称して阿須波の神といわれていたことが歌から知れるのである。

難波が大伴氏の本貫の地であったことはすでにたびたび述べたとおりである。足羽川の方にも関連があるのではないかといろいろ検索を試みた。

結果、足羽川でなくて、足羽山の方にそれが見つかった。足羽山は川の北方にある山波であるらしい。そこに足羽神社というのがあり、祭神に継体天皇を祭るという。その大宮地之霊(おおみやどころのみたま)としてあげられているのが、生井・福井・綱長井・阿須波・波比岐の5神である。これはまったく座摩神社と同じだ。

そこで継体天皇と難波の関連をみると、継嗣のなかった武列天皇の死後、応神天皇5世の孫、男大ど王(おおどのみこ)を迎えて継体天皇を即位させた人物が大連の大伴金村であったことに思いいたる。金村は政治の中枢にあって、朝鮮経営にあたり、岩井の乱の平定にも大功があったが、あらぬ疑いをかけられ、大連を辞して難波の住吉の自宅に引きこもった。

大伴氏の自宅が当時、難波にあり、座摩神社がその近くに所在したことを考えれば、足羽神社も難波、大伴氏とのかかわりを示す神社であろう。5神が宮地の霊であり、代表して「あすわ神」が言われていたことが知れる(福井県や福井市の福井も5神の福井神からかもしれない)。


13

座間の石造物と破片

座間に限らないかもしれないが、石造物が粗末に扱われた実例が多い。児戯によるお碗型の損耗などもその例で、これだけの傷をつけるのは児戯にしても労作と思えるが、それを放任する大人側のナニかがあったものか。それにしても折角の石造物の無残な姿は見るに堪えない。

こういった児戯はこの地方だけかと思っていたが、奈良の東大寺門前の灯篭基壇にもそれが数個あって、これはかえって懐かしいような思いでもあった。

児戯に限らず、地蔵さんに首のないのが多い。聞くところでは地蔵の首を持っていると金が溜まるというようなことがいわれたらしい。

一般に、文化財として指定される石造物は立派な物であること、つまり傷、損傷のない物が条件とされているようだが、歴史的見地からいうと、断片であっても資料として貴重な物と思えるものが少なくない。特に当市のように完全な形容をとどめたものの少ない地域では、断片といえども何かの手がかりを与えてくれるもので無視できないのである。

小さな例だが、近くの大日堂の庭に地蔵さんの蓮台がある。地蔵さんはどこへ行ったかわからないが、この蓮台には文字の刻みがあって、それは「妙玄代」と「文蔵」が読めるものである。この庵主に妙玄という尼さんがいて、文蔵という人が丸彫り地蔵を寄進したらしい。これだけでは時代もわからず、どういった人々なのかも皆目だが、元文年間の「庄衛門日記」に文蔵の名を発見した。これが当人であるかどうか確証はないが、1つの可能性は提供してくれていると思う。

昔、長安寺という寺があったという西中前に、今もわずかな墓地がある。ここに観音を浮彫りにしたと思える船型光背の断片がある。これには施主らしい女人七人の刻みがある。このあたりの女性七人が観音巡礼に出かけた記念の供養塔であろう。断片とはいえ、推定される時代の民俗を伝える遺物である。


12

座馬と座間

東日本に散在する「座間」姓の人々の中で、座間と書いてザンマと読ませる地方がある。美濃、つまり岐阜県の川辺町の20数軒がそうで、隣の美濃加茂市では座馬と書いてザンマと読む30軒ばかりがある。ただし、こちらには座間と書いてザマと呼ぶ家が数軒ある。

これは「舞の本」にある頼朝の家人として登場する座間にザンマとルビを振っている、そのことを実証するものではあるまいかと思う(「曽我物語」にも武将座間が登場するが、ここではルビはない)。

とにかく、座間出身のこの武将はザマの発音を嫌ってザンマを称したらしい。そこでこの発音をもつ座間氏は中世初期の段階で、地方に所領を得て移ったか、地方に所領を得た主君に従った武将の後裔かと思える。

仙台市内を中心に宮城県一帯に散在する「残間」姓の一族も、その流れであろう。仙台市には座間と書いてザマと呼ぶ家もある。残間はもとは座間と書いたということではあるまいか。


11

信州上田に座摩神社

16−6−1

田村草について、キンミズヒキを検索したら、座摩神社境内にも今は花の盛りだとあって驚いた。田村草というのは坂上田村麻呂が陸奥征伐で軍兵を引き連れて座間の星谷寺へ駐留したとき、原因不明の疫病に犯される将兵が多数出たので、試みに付近に自生していたキンミズヒキを煎じて服用させたところ、全員完治したといい、以来、星谷寺では田村草として植生、近年までその畑地が存在した。

そういうことがあったので座摩神社にキンミズヒキとはと一瞬驚いたのであったが、よくよく見直すと、これは信州上田市郊外の某中学校のホームページ記事であり、この裏山に座摩神社が実在しているそうであった。

通信欄に書き込みをしておいたところ、このホームページの作成に携わった先生に届き、現在は伊那市の学校に転校になっていられるということで、郷里に帰ったら調べていただけるご返事であった。

地元では「こかげ様」と言われているらしいが、座摩の名に養蚕と結びつくものはない。やはり、上田と座間の名を結びつけるのは大阪の陣で奮戦して散った真田幸村と坐摩神社であろう。幸村以下は夏の陣に全滅したというが、実は生き残った将兵の何人かがいて、故郷にたどり着き、主君や同僚たちの霊を弔うために郊外の山中にひそかに祠を建て戦場近くに所在した座摩神社を祭ったのではなかったろうか。

現在、上田市のホームページの文化財に座摩神社のことは何ひとつ書かれていないが、もし、これを伝える何かがあったら、それこそ第一の観光名所であろうに。

 


10

残間さん

16−6−1

プロデユーサーに残間江里子という方の名をときどき聞くようになった。検索で当ってみると、仙台出身とのこと。そこで仙台市を中心に「残間」姓の家を「みつけもん」で探してみた。

仙台市に47軒の残間さんがいて、近在に20軒くらいがある。しかし、大体は仙台市内が中心とみてよさそうだった。

座間をザンマと発音するのは、「舞の本」にもルビのあるところで、鎌倉時代にはそう唱えた武将がいたらしいのである。

一方、座間をザンマと呼んでいた住民が美濃の川辺町に20軒ばかりあることは、同町からの情報で承知していたが、最近の掲示板に川辺町の座馬さんから書き込みがあって、ザンマさんは座馬と書くことを知った。また、同町には座間と書くザマさんも2軒だかあるそうであった。

仙台市の残間さんが最も多い宮城野区(27軒)には座間さん2軒がある。千葉県夷隅町の豊村さんからの電話帳の断片にも、座間さん3件に続いて残間さん1軒があった。

古いころには座間と書いてザンマと読むザマさんが各地にいて、座馬さん、残間さんと名を代えた名残りのように思えるのである。座間さんに限らず、これらザンマさんを辿ることで、武将ザンマ氏の流れがわかるかも知れないと思う。

 


文芸サークル例会から

15−2−22

例会(文芸サークル)の席上でも話したことだが、中央の書籍でも座間は軽視されているのではないか、と思われることがいろいろある。例えば角川書店の「日本地名大辞典」の14神奈川県で座間の地名があげられているが、以下の誤りがある。

  鈴兼(スズカネ)とあるが、こういう地名はない。おそらく鈴鹿の鹿の古字体を読み謝ったものであろう。

  牛王西、牛王前をギュウオウニシ・ギュウオウマエとしているが、牛王は「ゴオウ」である。

  長谷をハセと読んでいるが、ナガヤが正しい。

  間ノ原をマノハラとしているが、アイノハラである。

わざわざルビを振るからこんなことになるが、確認作業がちゃんとおこなわれていないということは座間を軽視しているからにほかならない。

座間については座間の者が発言しなければならないことを述べたが、Sさんが栗原の道路標識で行き先に「相武台駅」という表示があるそうで、座間に相武台前駅(小田急線)があり、相模原市境には相武台下駅(JR)があるが相武台駅というのはない。このままでは前駅なのか下駅なのかはわからないだろう。こんなことも土地の者が言ってやらねば改まらないのである。座間にはこうした例が多い。なにより住民が無関心なのが気がかりである。


依知について

14−4−13

千葉県に住む依知川さんという方から、ルーツについてお問い合わせがあった。依知川さんの祖先はむかし相模にいたが、戦いに敗れて房総へ逃れたと伝えられているそうである。

愛知川(エチガワ)は近江にあり、中流に愛知川町がある。この町に平井(今は平居)という集落があって、佐々木氏につながる平井氏はここの出である(星谷寺の梵鐘にある西願はこの氏、兄の妻が佐々木信綱の娘)。

座間市対岸の中依知の平井氏に残る口伝では相違するが、家紋が四つ目であることから、近江の佐々木氏であると考えられる。依知は中世、依智郷とよばれ、上依知村の瑠璃光寺は依智小太郎の守護仏(薬師)を祀るという。依智直重という武将の屋敷跡という場所もあるそうである。戦国期、小田原北条氏の家臣に越智弾正忠という武将が近くの三田郡を知行した記録があるが、依知の出というので、越智(オチ)は愛智・依知(エチ)が本当だろうといわれる(姓氏家系大辞典・太田亮)。

さかのぼると、日蓮の遺文に「本間のいち(依智)と申すところに、いちの六郎左衛門殿の代官右馬太郎と申す者あづかりて」云々とあり、依智という武将が佐渡に流される日蓮を送っていったことある。鎌倉時代、すでに依知があり、エチを名乗る武将がいたのである。たどっていくと、佐々木信綱まで行きそうである。

そこで依知川さんだが、祖先は依智郷なのだろう。敗れた戦いがいつの頃かは不詳だが、房総に逃れるなら里見氏を頼ったかと思える。つまり戦国時代だが、依知川という武将の記録は見当たらない。そこでこれはもっと古い時代なのかもしれない。


6

地名について

14−4−10

住居表示審議会というのへ出席した。昭和30年、40年という開発期に新住民と協議して決めたという地名には、地名ともいえない情緒的なものが多い。「ひばりが丘」、「緑ヶ丘」などもそれで、もとからあった地名は捨てられ、幼稚園ではあるまいしこんな地名が各地で生まれた。

今になって、昔の地名を復活させようという運動もあるが、30年もこれできて、変更は不可能な状態である。こうして、土地の歴史風土も忘却のかなたへ押しやられてしまうのだが、問題は、地名といった協議対象が、住民の意向だけで決められるというシステムがベストなのかということだ。

決定に当っては住民の意向によってせよ、というような規定があるようだが、「過去の歴史を重視し」といった項目も入れるべきではあるまいか。


5

座間味さん

座間を沖縄からの名ではないかという人によく出会います。隣の相模原市下溝に座間さんがたくさんいられますが、そこの旧家のご主人も、千葉で聞いたとかいって、そういう話をされました。しかし、隣に座間があるのに、沖縄に関係付けるのは不自然です。

座間味さんは東京に3軒ばかり、大阪にも1,2軒あるようですが、これはおそらく沖縄の方でしょう。○○間という地名が沖縄にいくつかあるようですが、この「間」は島の意味と伺いました。座間市や相模原市は島には無縁です。

ただし、沖縄の方は川崎市などにかなりいられるし、探せばこのへんにもいられるでしょう。ある家の門前で石敢当の石碑を見たこともあります。座間味さんがいられても不思議ではありません。


4

クラマさん

14−4−4

越前屋さんから、KURAMAと読む座間さんのルーツについてお尋ねがあった。座間をクラマと読む座間さんは横浜市に1軒あった。今は増えているかもしれないが、あまり変わりはないだろう。

このクラマさんも座間さんで、明治になって届け出るにあたりクラマと読むことにしたのだろうと推測する。でないと1軒だけということの説明がつかない。

ザマはザマアミロという言葉があって嫌われたのである。ザマアミロのルーツも古いらしく、綱島にある旧家の座間さんは佐間と書いたりした(元禄時代)。しかし、その後また座間に戻って現在にいたっている。

ザマアミロといわれようと、座間の名には由緒のあることだから、堂々と座間を名乗ればいい。


3

坐間さん

14−4−2

三浦半島の逗子市に坐間さんという家が10軒ばかりある。これも本来は座間で、昔は座間を坐間とも書いた。明治になって戸籍を作成するとき、坐間ととどけたので、坐間になったのであろう。明治以降、この書きかたが固定してしまった。鎌倉や横須賀に1、2軒ある坐間さんはおそらく逗子からのわかれであろう。

日本の苗字はほとんどが地名からといわれ、その地名を漢字表示する場合、いろいろな書き方をした。そのために地名の語源がわからなくなってしまったものもある。地名の漢字は疑ってかかる必要がある。地名をもとにした苗字も同じである。

座間の「座」の坐の部分を口・人に土を書くのがある。昔はこの方が一般だったようだ。これも明治になって、こう届けたら、戸籍はこのままで、座間と書くのは誤りということになる。しかし、これらはすべて座間さんであるとしていい。


2

座本さん

14−3−30

相模川の対岸に依知というところがある。エチと読み、座間とつながる橋を「座架依橋」という。座間と依知へ架かる橋である。

ところで、このへんの座間さんは、相模原市の下溝の座間さんが移ったものという。しかし、座本(ザモト)さんという家が何軒かあって、このあたりに集中し、昔は名主であったという。そして、座本さんの家紋は四つ目結いだと聞いた。

依知では平井という古い家ももとは佐々木氏で家紋は四つ目、さらに、依知は愛智で、愛智も平井も近江の地名であるのが興味深い。

座本さんというのは、このへんだけで、あるいは座間家の本家のつもりでつけた名ではないかとも思える。もしかすると、座間さんというのは本来、佐々木氏なのかもしれない。そうして、座本さんはその本家筋ということかもしれない。


残間さん

14−3−29

最近、ときどきテレビで残間里江子さんという女性を見かける。よくはしらないがエッセイストで、東北の方らしい。残間(ザンマ)さんも本来は座間さんだろうと私は思う。

「曽我物語」に、座間という武将が2度登場するが、似通った場面の「舞の本」では座間にザンマとルビをふっている。

美濃の川辺町に座間さんが20軒ばかりあるが、これはザンマと読み、ザマではない。

それやこれや、古くは座間をザンマと呼んだことも考えられるので、テレビの残間さんもおおかた座間さんだろうと思うわけだ。