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(鈴鹿明神社)

古代の座間

続日本紀」に、「夷参」という郷名が出ています。今まで武蔵国の国府に行くに

は東山道の上野国を通って行っていたが不便なので、東海道にあらため、夷参から

の道にしたらどうかという奏上があり、許可されたというものです。

 この夷参はのち「和名抄」に出てくる「伊参」であろうとされ、上野国に同名の

地があり、イサマと訓があるので、相模国の夷参もイサマと読み、イサマの「イ」

が脱落して「ザマ」になったというのです。

 座間の語源については別にふれますが、座間は湧水が多く、縄文時代の遺跡の多

いところです。しかし、弥生時代についてはほとんど何も遺跡らしいものがなく、

当時は米作には向かなかった地であったからかも知れません。 

 古墳時代に至って、丘の中腹に横穴古墳がたくさん見られるようになり、現在判

明しただけでも30基があります。もともと水の多かった土地ですから、開拓によ

って田園が広がってきたのでしょう。

 隣村が国府や国分寺の所在地だった海老名で、海老名には班田収受時代の名残り

をとどめる田んぼが広がっていますから、座間も影響を受けなかったはずはありま

せん。

以下は、私が文芸サークル誌「つづれ草」41号・42号に投稿した1文です。


  夷参駅 
 「夷参」は「いさま」と読むというのがおおかたの考えですが、正確にはどう読んだのかわ
かりません。郷名としてこの名が出てくるのは『続日本紀』という史書の宝亀二年(七七一)
で、武蔵国府(現府中市)は東山道に属しているが東海道の夷参からの道をとり、東海道に
組み入れたほうが便利であるとあるところです。
 <太政官奏すらく、「武蔵国は山道に属せりといへども、兼ねて海道をうけ、公使繁多に
して、q供堪へがたし、其の東山の駅路は、上野国新田駅より、下野国足利駅に達す、この
便道たるや、上野国邑楽郡よりまげて五ヶ駅を経て武蔵国に到り、事おわって去る日、又同
じ道を取りて下野国に向かう、今東海道は、相模国夷参(いさま)駅より下総国に達す。其
間四駅にして往還便近し。しかるにこれを去り彼に就くこと損害極めて多し。臣ら商量する
に、東山道を改めて東海道に属せば公私所を得て、人馬息すること有らむ」と。奏可す。>
                 (『綾瀬市史1』資料編・綾瀬市)
 この夷参は約90年のちに著された『和名抄』の「伊参」(高座郡)であろうということに
なり、それなら同書の上野国の伊参に「いさま」とルビがあるので、これも「いさま」と読
み、つれて「夷参」も「いさま」と読むとされています。多少異論もあるところですが、今
はその説にしたがっておきます。この伊参から「い」が脱落して「さま」、「ざま」となっ
たとし、夷参・伊参は座間の故地とされているので、いまは「いさま」と名付けた銘酒まで
発売されています。
 夷参駅の「駅」は「うまや」と読むことになっています。古代の街道ではところどころに
駅をおき、馬や人夫を備えて、旅人の求めに応じて駅から駅へ継ぎ立てをしていたそうです。
建物を駅家(うまやと読む)、駅館(うまやたち)といい、人馬を備えるほか、旅館を兼ね、
管理者として駅長(うまやのおさ)がいてことに当たっていたといいます。そしてこれは律
令制に決められた制度でした。
 当時、異郷に旅をするということはたいへんなことで、旅籠とか商店などはありませんから
旅人は食糧も物資も携行しなければならず、野宿や山野での煮炊きもふつうだったでしょう。
携行するといっても、銭などの普及もなかった時代(のち政府は銭を袋に入れて携行せよと
いうフレをだしていますが)ですから、一切物物交換しかありません。そういう時代に旅を
しなければならない庶民がそういたわけではないでしょうが、庶民にとってどうしても逃れ
ることのできない旅がありました。東国でいえば租税として徴収される物資を京まで運ばね
ばならなかったこと、命じられた労働にしたがうために、やはり京まで出向かねばならなか
ったこと、防人(さきもり・兵士)として召集に応じて行かねばならなかったことなどです。
 <大君の命かしこみ 妻別れ 悲しくはあれど 丈夫の 情振りおこし とり装ひ 門出を
すれば たらちねの 母かきなで 若草の 妻取り付き むせびつつ 言語すれば 群鳥の
 出で立ちかてに滞り 顧みしつつ いや遠に 国を来離れ いや高に 山を越え過ぎ 葦
が散る 難波に来ゐて(略)> 
        (『万葉集』佐々木信綱編・岩波文庫)
 これは東国から応召し、難波(大阪)から船に乗って九州の防人となった兵士の情を歌った
ものです。
    相模峯の小峯見そくし忘れ来る妹が名呼びて吾をねし泣くな
 おそらく相模の若者の多くも愛妻と別れて足柄山を越えて行ったでしょう。
     家ろには葦火焚けども住み好けを筑紫に到りて恋しけもはも
  これは橘樹郡(川崎市)に住んだ妻の歌といいます。
 『続日本紀』の霊亀二年(七一六)の天皇の詔に、
 <調(税としての麻布など)を運ぶ人夫が京にはいった衣服はつかれ破れて顔色は青菜の
ようなものが多い、にも拘らず公の帳簿にはうそ偽りを書き良いように見せかけて、それに
対する評定を得ようとしている。国司、郡司がこのようであれば朕は何を委ねることができ
ようか>
     (『続日本紀』宇治谷孟・講談社・以下同じ)
 とあります。当時の事情をしめすものでしょう。
 ところで、律令制下の駅制は、諸道三十里ごとに一駅を置き、駅馬を備えさせたといい、
相模国の駅は西から坂本、小総、箕輪、夷参と続き、宝亀二年(七七一)の太政官符以降夷
参駅から武蔵国の四駅(店屋・小高・大井・豊島)を経て下総国に至ることとなったという
ことです。
 初期の東海道は相模国三浦半島から現東京湾の走水の海を上総国へ渡るルートをとってい
たそうですが、大規模河川の通過が次第に可能になってきて、危険な海路を避け、東海道が
陸路になったらしいのです。坂本、小総、箕輪などの駅名は相模では北部の山裾にあたり、
天然災害の少ない道だったでしょう。 駅を選定するにあたっては、大宝二年(七〇二)、
初めて紀伊国賀陀(加太)の駅を設けたことが記録されていますが、ここが淡路に渡る港で
あったからということでした。夷参の場合は相模川を渡る要路であったことが考えられます。
     鈴が音の早馬駅家のつつみ井の水をたまへな妹が直手よ
 駅には旅人のために水場があり、馬には鈴がつけられていたようです。その管理料にあて
るため駅田というものがあって、そこの収穫稲を駅起稲といい、その貸付料で経営したよう
です。 座間のNTT局の地から発掘された遺跡(田中遺跡という)はおよそこの時代の住
居跡といわれ、須恵器・土師器・灰釉陶器・墨書土器などが出土しましたが、出土品のなか
に土錘があったことも注目されます。そのころ、このあたりに近く漁労のできる川があった
のです。あるいは田中遺跡の地は駅田であったかも知れず、近くの「輿巻」という地名の
「巻」は馬籠(馬込)を示す「牧」であったかも知れません。おそらくこのあたりが川渡り
に好条件であって、湧水にも恵まれ、交通の要地でもあったと考えられます。
 東の、梨の木坂あたりに横穴墓がたくさんありますが、時代としてはおよそ同じころのも
ので、駅長(えきおさ)や伝駅戸(うまやべ・駅家維持のため仕える戸)の墓所だったので
はないかと思います。
 駅家では単に宿舎としての機能だけではなく、天平二年(七三〇)夏太宰大監大伴百代が
病んだとき天皇は使いを発して見舞ったそうで、幸い病癒えて使いが帰京するとき、百代た
ちがこれを見送って、
 <共に夷守の駅家に到り、聊か飲みて別を悲しみ…>
 とあるようにいっぱいやることもできたらしいのです。この席には百代の子家持も同席して
いました。(『万葉集』同前) しかし、駅家は公用のものでしたから、一般庶民が気軽に
利用はできなかったようで、また、おおやけの使者や公用で利用を許された人の場合、ほかの
道を通っては飲食宿舎の提供はないので、決められた道と駅をたどるほかはなかったと思わ
れます。そういうことで、武蔵国府への道が効率の悪い状況になったままだったのでしょう。
 座間の古い字名には篭馬(かごま・ろうば)といった馬にまつわるものがあります。飛鳥・
藤原・奈良といった古代には、今では考え及ばない意識で中央からみられていたでしょう。
 夷参が下総への街道の宿駅であり、かつ府中を通して東山道へも通じることを思い、当時
の国内事情を考えますと、否応なく視点は東北経営の要衝ということに辿り着きます。相模
守だった道嶋宿禰嶋足、大伴宿禰家持は相次いで上総守や下総守を兼ね、のち、陸奥国へ遠
征しています。きっと夷参つまり座間に集合した諸軍を引率して、にぎにぎしくみちのくへ
出発したに違いありません。
 このように考えてくると、「夷参」という文字もなんだか意味深に見えませんか。夷参の
「夷」は「えびす」とも読み、中央から遠く離れて「まつろわぬ民」のことで、すなわち、
陸奥(みちのく)を意味します。「参」は「まいる」ですが参会などは「あつまる」という
ことです。参上には「行く、至る」の意味があります。
 宝亀二年(七七一)、武蔵国府が東海道に属すことになって以降、東北経営がにわかに騒
がしくなったことは歴史の示すところで、宝亀五年(七七四)には大伴駿河麻呂が討伐に向
かい、宝亀八年には陸奥・出羽の軍が蝦夷軍に敗れ、宝亀十一年には反乱で紀広純が死にま
した。天応元年(七八一)藤原小黒麻呂が蝦夷を征討、翌年(延暦元年)には大伴家持が陸
奥鎮守府将軍となって征討に赴き、同七年には東海・東山道ほか関東諸国から歩騎5万余人
を動員して多賀城を守らせています。同十三年には大伴弟麻呂の討伐があり、それでも成功
しなかったのか、同二十年には坂上田村麻呂が征討に赴き、翌年、やっと蝦夷の首長アテル
イを降伏させています。陸奥出羽征討の記事の終束は弘仁二年(八一一)の征夷将軍文室綿
麻呂の戦勝報告があって以後のことになります。
 この間、夷参は征討軍の基地として多くの兵馬の野営があったことでしょう。籠馬(かご
ま・ろうば)はその名残りかもしれません。             (H15・1・5)

 


 

  佐々木の事情

                                    

   座間郷と佐々木氏

 座間に過ぎたもの、と言えば叱られるだろうが嘉禄三年の星谷寺の梵鐘がある。佐々木信綱が寄進したものという国指定の重要文化財である。座間市の文化財で国の重要文化財に指定されているものはこれだけだから、もっと関心が払われてよいと思うのだが、何でそんな梵鐘がここにあるのかについて真剣な追及がなされたことをあまり聞かない。

鐘の銘文は陽鋳で次のごとくなっている。

   相州 星谷寺

   奉鋳 鐘一口

   嘉禄三年丁亥歳次正月廿一日

   大勧進金剛佛子 秀毫

   大檀越沙弥 西願

   大檀那 源朝臣 信綱

       大工源吉国

       勧進金剛弟子

          秀範

 大檀那の源朝臣信綱については、同じ名の田代冠者信綱という人物がいて、平家討伐の義経に従って軍功をたてているが、時代が合わないことと源朝臣の称が近江源氏嫡流にふさわしいことなどから、佐々木信綱として誤りないものとされている。

 佐々木氏は宇多源氏を称し、近江の佐々木荘を伝領して秀義に至った。秀義十三歳の時源為義の猶子となり、後、義朝に従って平氏と戦った(平治の乱)。戦いに敗れた秀義は領地を失い、子息らを率いて藤原秀衡(秀義姨母夫也と『吾妻鏡』は記す)をたのみ奥州に赴こうとしたが、相模国に至って渋谷重国が秀義の勇敢さに惚れこんで自領に留め置いたと『吾妻鏡』にはある。

 渋谷氏は桓武平氏で相模国渋谷庄より起り渋谷氏を称したという。初め渋谷重国は頼朝の誘いに従わなかったが、佐々木秀義とその子息たち(定綱・経高・盛綱・高綱・義清の五兄弟、うち五郎義清は重国の娘と秀義との間に生まれた)は頼朝の挙兵に応じて山木兼隆館襲撃の最前に馳せ参じた。この時秀義は七十三歳、敵方はこの老将一騎を取り籠め、秀義は老屈のため壮烈な戦死をとげたという。「関東より第一勲功に定められ御感の余り没後の賞に預かる」と『姓氏家系大辞典』(太田亮)にはある。

 やがて渋谷重国も頼朝の軍に加わり、「世に覇府の元老と為す」(『地理志料』)ごとくなったが、佐々木兄弟が平家討伐に華々しい活躍をしたことは周知の通りであり、その功績において渋谷氏を超えるものがあったようだ。

 これまで佐々木一族は渋谷の所領の一部を預かり、その経営を助けていたようだが、その地が何処であったかについては確証がない。渋谷氏は同じ横山党の一族として和田合戦では和田氏に加担して敗北、その所領を失うこととなった。後年(宝治二年<一二四八>という)渋谷氏が薩摩に移されるに至った一族には早川次郎実重、吉岡三郎重保、大谷四郎重茂、曹司五郎定心、落合六郎重貞とあり、早川、吉岡ほかの地が渋谷氏の本貫であったと思える。これらの地を除いての渋谷庄、すなわち座間郷の地が佐々木所管とされたのではないか。座間郷はこのようにもと渋谷氏から経営を委託されていたもので、和田合戦後正式に佐々木の所領となったものと想像されるのである。

 和田合戦(建暦三年<一二一三>五月二日・三日)では和田義盛に加勢した武士の殆どが横山党を中心とした相模・武蔵の大、小名、御家人で、渋谷重国の長子高重(『吾妻鏡』には次郎高重、横山権守重時聟とある)がその中に見える。一方佐々木では北条側について大倉で奮戦した佐々木義清の名がある。

 戦後直ちに次のような文書が北条義時・大江広元の連署で出されている。

 <和田左衛門尉義盛、土屋大学助義清、横山右馬允時兼。すへて相模の者とも、謀反をおこすといへとも、義盛殞命畢。御所方別の御事なし、志れとも、親類多きうへ、戦場よりもちりちりに成よしきこしめす。海より西海へも落行候ぬらん。有範。広綱おのおのそなたさまの御家人等に。この御ふみの案をめくらして。あまねくあひふれて。用意をいたして。うちとりてまいらすへき也。    五月三日 酉刻

               大膳大夫

               

 佐々木左衛門尉殿>

 日付は戦乱が未だ完全に収束されたと思えぬ日の夕刻のものである。これは「京都へ遣わした」(『吾妻鏡』)とあるので、佐々木総領の広綱は当時近江にあって戦闘には参加しなかったもようだが、座間郷はその一門、あるいは弟の四郎信綱に任せていたかもしれない。ここは横山党の退路を約す地を占めていたので、家人に命じて残党の逃亡を阻止せよと命じたわけであろう。

 こうして庇を貸して母屋を失った渋谷氏から見れば苦々しい佐々木で、昔の縁で泰綱(信綱三男)が渋谷氏を大名であると言ったのに対し、渋谷武重(高重の子か)はこれを侮辱と取って口論となったことが『吾妻鏡』にある。

 座間郷における佐々木氏の居館はおそらく現在星谷寺の所在する高台であったと思え、台地に沿った谷戸を近江谷戸といい、近江久保ともいったという伝承がある。この地が武色の濃い土地であることは『相州星谷寺嘉禄年紀梵鐘に関する参考資料』(座間市文化財保護委員会編)にも述べられているところである。星谷寺に信綱寄進の梵鐘があることは座間郷が佐々木の所領であって、その居館はこれに近い地であったことを証明すると思う。 所領の一部を寺に寄進し、居館が近くに所在した例は川崎市の砂子の宗三寺にもある。この寺はもと勝福寺といい、付近は佐々木高綱の所領であったという。高綱は木曽義仲討伐の宇治川先陣で名を成した武将で信綱の叔父にあたる。信綱が平家打倒で義経に従って京へ攻めのぼり、叔父にならって宇治川の先陣を努めたことは更に有名である。高綱は所領のうち砂子一箇村を寄付して勝福寺を自らの菩提寺としたという。この寺には信綱の子泰綱寄進になる梵鐘もあった。

 『新編相模風土記稿』や『皇国地誌残稿』によると、座間の地はむかし「渋谷庄座間郷座間村」というようにいわれていたが、「渋谷庄座間郷」は現在の座間市から北方相模原の新戸・磯部・田名・当麻・溝・相原・矢部などまでの広い範囲となっている。生産性は低いが広大な地を渋谷氏、その領を引き継いだ佐々木氏は占めていたわけである。

 所領に在地の代官を置いて裁量させたことは、高綱が橘樹郡鳥山村の領地を「十余町四方の館をかまへ、四面へ掘をめぐらして要害とし、一族、六角太郎、鳥山左衛門を両目代とし、猿川庄司を舎人としてここにとどめをき、其の身は鎌倉にありて勤仕せり」(『姓氏家系大辞典』)が参考になろう。

   承久の変と佐々木一族

 『姓氏家系大辞典』には、「秀義の功により、又その子五人、何れも鎌倉府創業に功ありしにより、秀義長子定綱は近江、長門、石見、隠岐四ヶ国の守護、次男経高は淡路、阿波、土佐等の守護、四郎高綱は備前、安芸、周防、因幡、伯耆、日向、出雲等の守護、三郎盛綱は上野、讃岐、伊予、五郎義清は隠岐、伯耆、出雲等の守護を兼ね、一族十数国に亘り殊に近江以西、中国、四国に栄えたり」とある。このように威勢並みでなかった佐々木氏は承久の乱(承久三年・一二二一)に至ってその功業の大部分を失う羽目になった。総領広綱をはじめ子の惟綱、為綱、広綱の叔父経高と子の高重など一族の多くが院方に参加して敗死したのである。

 これより先、建久二年には定綱・広綱親子が薩摩・隠岐に流される事件があり(後赦免)、正治二年(一二〇〇)には経高が阿波・淡路・土佐の守護職を奪われるという事件があった。彼らには存念があり、時既に鎌倉に源氏なく、平氏の北条に恩義は感じず、後鳥羽上皇の誘いに乗って官軍となったものと思われる。

 一人信綱は相模にあって、泰時に従って鎌倉方に参加した(北陸軍に佐々木信実[盛綱の子]の名が見えるが勇戦の記録がない)。かくして宇治川では一族敵味方となって戦うことになった。『承久軍物語』(『群書類従』合戦部一)には、

 <うじばしへはささきの中納言ありまさ卿、かひのさいしやう中将のりしげ(範義)、うゑもんのすけともと(広綱)、しそく太郎ざゑもん>

 などとあり、信綱は息子の重綱とともに先陣を切って兄や甥の官軍を破ったのである。

 信綱には鎌倉の御家人であったことのほかに、その室が泰時の娘であったという事情もあったろう。子の泰綱の母が泰時の娘と『姓氏家系大辞典』にあるからである。 戦後の戦犯追及は厳しかった。信綱の叔父佐々木次郎経高は負傷して鷲尾の寺院にいたところ、泰時は「経高どのはこのたび勅命によって京方に属されたが、治承四年の山木合戦以来の鎌倉の功臣なれば自殺させてはならぬ」と申された。これには信綱はじめ渋谷三郎、小沢入道、佐々木又太郎、大貫平三たちから自分の功にかえての助命嘆願がなされていた。経高はこれを恥じて切腹して果てたという(『新釈吾妻鏡』小沢彰)。嘆願者が座間に近い人々であることが注目される。信綱は命によって兄の山城守広綱を斬る。さらに哀れであったのは広綱の子勢多伽丸で、泰時は「広綱の科は重く普通なら助けおくことは出来ないが、今はみな仏の門弟として久しいし、また十歳の孤児のことだから悪いことはすまい」と母の願いもあり、助命のつもりで身柄を信綱に預けた。ところが信綱は、兄広綱の長子惟綱、次子為綱が次々捕らえられて斬られたので、勢多伽丸も助からぬ命と思い、人の手にかかるよりはと因果を含めて自らの手で首をはねたのである(『新釈吾妻鏡』同)。

 星谷寺の梵鐘の嘉禄三年(一二二七)はこの数年後にあたる。戦後の事態収拾、嘉禄元年の大江広元・政子の死去、嘉禄二年の使節としての上京を考えると、これら公務の多忙の中に、着々と梵鐘の鋳造、寺の復興を準備していたことになり、武門の宿命とはいいながら、不運に散り、自らも手を下した近親者の菩提を弔い、成仏を願った心境は理解出来る気がする。後、遁世出家して虚仮阿と称し、仁治三年(一二四二)、六十二歳で卒した(法名経佛)。

   沙弥西願と依知

 信綱の命を受けて、梵鐘の鋳造や星谷寺の造営を進めたのは西願であって、手足となって動いたのが勧進金剛弟子秀範であったろうと銘文から読み取れる。

 西願については前記『相州星谷寺嘉禄年紀梵鐘に関する参考資料』でも、『座間むかしむかし第一集』の「星谷寺雑記」(飯島忠雄)でも『吾妻鏡』に二度見られるほかは不明としている。西願の名から郷土史家飯島忠雄氏が「佐々木に関係のある人物」と推測したのはさすがである。

 同一人物という確証はないが、西願という法名を持つ人物はその一族にいる。佐々木系の平井氏で、『姓氏家系大辞典』には佐々木系図の愛智四郎太夫家行の子家次(平井権守、従五位下、法名迎西)に二人の子があり、次男康家は平井七郎、法名西願とある。

 ところで、ここで注目されるのは、平井氏がもとは愛智氏であったことで、これは近江国愛智郡平井邑から起こるという。愛智はエチと読み、愛知とも、依知、依智、衣知とも書く。依知、依智は座間には向こう岸にあたる地名である。佐々木は同族の愛智(依知)氏をして対岸の地を管掌させたのではあるまいか。その後この一帯は海老名氏系の本間氏の所領となったが、依知から出て越智を名乗る族がある。近くの三田に清源院という寺があって、ここはもと越智弾正忠の居館で、天正年間越智出雲守寄進の薬師が本尊となっている。この越智氏は「相模愛甲郡依智より起り、依智を越智と訛りしならん」と『姓氏家系大辞典』にあるから、佐々木源氏の一族であるかも知れない。清源院については座間の竜源院がその末寺となっていることも興味をひく(双方に源の字があるのは偶然か)。

 ついでだが、依知(関口)に平井家という旧家があり、やはりもとは佐々木氏だったという伝承がある。家紋も四つ目結いである。依知で平井ならそのまま近江の愛智郡平井村だが、この家の先祖は摂津多田荘、平井荘を領した族で、天正年間八王子からこの地に移り住んだという(『神奈川県姓氏家系大辞典』角川版)。近江の平井氏が転出して各地に平井の名を広めたことは、同じ近江の高島郡にも愛智郡平井村の族が開いた平井があることからも知れる。それにしても依知の地を選んで開拓を行ったとは、偶然にしては出来過ぎていはしまいか。先祖が愛智の平井であることが記憶されていて、あるいは同じ小田原北条の家臣として越智氏と面識があり、越智氏がこの地に誘ったものか。

 西願が鎌倉で寛喜二年(一三三〇)巌殿観音堂の「居礎引地」の勧進を勤めたことは『吾妻鏡』にあるが、私にはこの人物がいわゆる「観音霊場坂東三十三札所」の成立にかなりの関与をしたように思える。というのは、一番札所の杉本寺に続いてこの巌殿観音堂(岩殿寺)が二番となっている。杉本寺と巌殿観音堂に頼朝が参詣したこともあるので、坂東三十三札所巡りが鎌倉府から出たものであることは明らかであろう。三番の安養院は田代寺ともいい、あの田代信綱が安置した千手観音をまつるという。星谷寺の信綱と矛盾するようだが、田代寺の巡礼歌は「枯木にも花咲くちかひ田代寺 世をのぶ綱の跡ぞ久しき」で、信綱の世を慕う意となっている。田代を借りて一族の総領に思いをはせた、と言えなくもないのである。星谷寺梵鐘を鋳たという飯山には七番の札所長谷寺(飯山観音)があり、次いで自らの名を刻した梵鐘のある星谷寺を八番札所とした。遠からぬ地(海老名市国分)に国指定文化財という格調高い千手観音を納めた清水寺(龍峰寺)があり、頼朝が開基と伝えるこの寺をおいてなぜ座間の星谷寺なのであろう、と思うと西願の名が浮かんでくるのである。星谷寺の再建に、一番札所杉本寺と同じく火災時の本尊の杉の木への避難伝説もある。ここまでくると星谷寺の再建は佐々木氏だったのではないかとさえ思えるがどうだろう。

   大工源吉国と佐々木

 この鐘があまり出来の良くないものであることは、郷土史研究家飯島忠雄氏の指摘もあり、『つづれ草』20号ち」)。富山氏は鋳物の専門家で、星谷寺梵鐘について次のように述べられている。

 <源吉国が源姓の一族と共に飯山の地では始めての梵鐘の製造を行ったものと思われる。創業の苦労は大変なものであったと想像出来る。従って星谷寺の梵鐘もきわめて奇古の手法になるもので、その鐘身は口径に対して著しく高く、その指数は一四七・七となっている。一般の鐘では一三五位の数値を示している。それに鐘身の外曲線はきわめてゆるく、ほとんど直線に近く鐸に近い外観を呈している。

 撞座は通常前後にあるが、この鐘には一方にしかない。鋳造の出来ばえとしても且つて飯島先生も言われていた様に良い出来ばえではない。鐘の中央部分に円周に沿って大きな疵が入っているが、私はこれは「湯境」と見ている。湯境とは鋳物のなかに酸化膜が出来て一体の鋳物となっていないことを言う。思うに熔解能力がこの鐘一個分の容量がなくて、一基の炉を二度続けて熔解作業をして、鐘の鋳込も二度に分けて行ったものではなからうか、比較的に熔解温度の低い銅合金であるので少し固りかけた湯の上に新しい温度の高い湯をそそげばその熱で境が熔けて一体となることは考えられるが、その一部がうまく熔着しなかった疵と想像している。一般常識から言えば明かに不合格品であるが、七六〇年前に初めての作品と思うとよくやったと思う。>

 私は、このように初歩的ではあるが、関東では最初と思える鐘の鋳造を行わせた信綱は、鋳物師吉国らを近江から呼び寄せたと推測する。実際に鋳造した場所が飯山であったかどうかは不明だが、愛甲の飯山から荻野にかけてであろうし、佐々木の手の者であったであろうことは、前記川崎の宗三寺(勝福寺)の梵鐘がやはり源姓の大工有貞で寄進者は信綱の三男泰綱であるからである。 また、出来栄えはともかく、関東で最初といってもいい梵鐘を掲げるについては、それだけの規模の寺であらねばならぬはずで、星谷寺はこの頃再建ないし移築されたことが私には考えられたのである。

 佐々木氏の本貫の地近江は鋳物の得意な場所であったらしく、『地名の研究』で柳田国男は「近江になぜか鋳物師に縁深く、栗太郡にも愛知郡にも多くの故跡がある」と述べている。私は最近四ッ谷佐藤家の故地、岐阜県の関市を調べたが(関市は例の関の孫六を初めとした全国有数の刀剣の町であった)、同市鋳物師尾の天徳寺は六角管領佐々木氏頼の寄進になる寺とあって驚いた。座間の佐々木も郷土近江から鍛冶師を呼んだらしく、長宿の一帯には鍛冶屋村があった。円教寺には佐々木掛けと称する鐙があり、市指定の重要文化財となっている。『座間市重要文化財案内』(市文化財保護委員会編術)の解説によると、

 <鐙は、世界的にみて、古今を通じ、吊り環形であるが、日本では、古墳時代末から独自の発達をはじめ、平安時代末には足うら全体を掛けるものとなった。特に、本品のように佐々木掛けと称せられるものは、最も大形に発達したものであるが、近江国(滋賀県)では佐々木領内で作られ、日野掛けとも呼ばれる>

 とある。寺伝では日蓮上人が竜の口から依知の本間邸へ護送されるとき乗っていた馬の鐙というが、製作年代はもっと下がって室町後期と見られている。寺伝は日蓮がこの寺に休息したという伝承に合わせたものだろうが、寺の開基は鈴木という鍛冶であったから、このような鐙がここで製作されていたことを証明するのかも知れない。長宿から近江久保にかけて鋳物師が居住したことは鈴鹿(『座間むかしむかし』第二集)こともあって想像出来る。武家に鍛冶は欠くことの出来ないものであるし、この辺りの段丘下は各所に鍛冶に必要な湧水が今も湧き、座間市の誇りとなっているのである。

   鎌倉古道と日蓮道

  八里橋なし九里の道

 座間ではこう言われる古道があって、星谷寺脇を通って藤沢・鎌倉に通じ鎌倉古道の名がある。相模川左岸段丘の上を細い道が今も面影をとどめているのであるが、信綱や広綱が鎌倉に馳せるにはこの道しかなく、事実上佐々木道と呼んで良いのではないかと思う。渋谷氏のいた長後、早川にも通じ、『源平盛衰記』にいう「故左馬頭の猶子に、近江国の住人佐々木源三秀義が子供、平治の乱の後は此こ彼しこにかがまり居たり、太郎定綱は下野宇都宮にあり、次郎経高は相模の波多野にあり、三郎盛綱は同国渋野にあり、四郎高綱は都にあり、五郎義清は大場が三郎の妹聟にて相模にあり云々」の盛綱や義清の館も途中にあったことであろう。

 この道は前記日蓮が本間氏の館に送られた道でもあって、海老名境の寿閑寺への曲がり角に石の道標があり、   右 座間休息山

     上依知星下道

 と彫られている。

 寿閑寺は日蓮宗だが、中興開基は佐々木高綱の裔を引く乃木寿閑である。彼は先祖の故地を懐かしみ来たってその名と優雅な梵鐘(延宝三年一六七五銘)を残している。休息山は円教寺の山号で、日蓮がこの地にあった鍛冶屋敷鈴木宅で休息したという古事にちなんでの山号である。座間付近の伝承では、休息した日蓮の一行は四ッ谷先の外記河原から依知へ渡ったというが、それでは行程が不自然である。「上依知星下道」の星下は日蓮が法楽したら星が落下したという寺(妙伝寺)の伝承による名だが、上依知へは当麻(又は田名)の渡しが好便のはず、おそらく鍛冶屋敷まで来て当麻渡しが使えない(出水で舟が失われたか)情報を得たのであろう。やむなく道を戻るように辿って外記の渡しに出たものと思う。もと渡しの船頭をしていたという岩崎家にはボロボロだったが日蓮の書いた文書があったそうだ。

   その後の相模と佐々木

 信綱は梵鐘の紀年と同年に近江国の地頭、続いて検非違使に補され、寛喜三年(一二三一)には近江守となっている。この頃佐々木総領を継ぎ近江に赴いたと思えるので、座間郷からはいくばくもなく去ったことになる。これが座間郷に佐々木の名を多くとどめぬ原因になったのであろう。

 『座間古説』に「元暦元年(一一八四)鎌倉御代之時、上ハ屋敷といふに長宿と言町屋出来」とあるが、時期的にこれは佐々木関与の町屋と思える。ここから出たという現在の長宿付近に四つ目結いを家紋としている家が二、三ある。旧長宿が指令によって作られた町屋であったことは、「正慶二年鎌倉ほろぶ、長宿の者鎮守之北清水通り江引」と『座間古説』にある通り、鎌倉府の滅亡と同時に町屋が解散していることからも知れる。

 信綱以後も座間郷が佐々木所領であったことは、座間郷長松寺(相模原市新戸)にあてた佐々木高秀の文書によってわかる。この文書は「座間」と書かれた現存最古の文書と言われ、文和三年(一三五四)頃のものと推定されている。高秀は北朝の臣で、南朝と戦って明徳二年(一三九一)に戦死した京極高秀に比定され、このとき六十四歳であった。京極家は信綱の裔である。

 この長松寺に近く、近江屋通りとか近江屋橋の名が残るのは興味のあるところで、近江屋通りを行けば相模川に出て、対岸は依知である。依知は背に鳶尾山(二三五m)を負っているが、「トビオ」の「オ」は「ホ(火)」で、鳶尾は「飛び火」、すなわち「のろし台」であったことが考えられる。対して星谷寺が東に負う三峰山(八九m)も座間では最も高く、鳶尾山との位置からいっても「のろし台」に格好で、今も火伏せの神を祭っている。考えてみると、梵鐘というのも戦時には伝達の手段でもあった。

 日蓮を本間屋敷に護衛した本間重連の弟直重は『厚木市史史料集2』(星梅山星降院妙伝寺)によると、

 <文永八年九月十三日、重連の弟三郎左衛門直重宗祖日蓮を竜の口より当所に伴ひ来り重連が邸中観音堂に居しむ、此事注画賛にも見ゆ、但直重を重連の郎等越智氏と記せり>

 とあり、直重は佐々木一族の依知(越智)氏であった可能性がある。依知には座本家の例のように四つ目結い紋を伝える旧家がある。

 また、源姓の鋳物師が居住し、星谷寺梵鐘を鋳たという飯山村にも、天文三年(一五三四)没の佐々木下野が同村七軒百姓の一家として名をとどめている。荻野の里には源氏橋とか源氏河原とか源氏ゆかりの名が残るが、これも佐々木源氏であった可能性を捨てきれないのである。

<注>

*1 座間郷を佐々木氏の所管とする考えは多く、例えば厚木の歴史家北村精一氏も『県央雑史抄』で、「座間には佐々木信綱が星谷寺へ献納した釣鐘がある。その当時秀義の孫の信綱に座間郷を分与していたのである」と述べている。

*2 武州河崎荘内勝福寺鐘銘に「大檀那禅定比丘十阿併従五位上行壱岐守源朝臣泰綱 大勧進僧頼俊 弘長三年癸二月八日 当寺院主僧 隆祖 鋳物師 源有貞」とあったという。(『新編武蔵国風土記稿』)

*3 清源院はもと天台宗であったので本尊薬師となっている。嘉吉三年(一四四三)に曹洞宗に改宗したと寺伝にある。清源院の八世格雲守存が座間竜源院の開山となった。この僧は他にも数寺の開山となっている。

*4 依知と座間の姻戚関係は多く、この平井氏と縁のある家が座間に少なくない。新田宿諏訪明神社の新田家には平井家からきた妻女「新田安可美満誉大刀自」の墓がある。大正九年没、九十二歳と長寿であったこの人の娘さんが河原宿の鈴木英夫先生のお母さんらしい。また中河原の『つづれ草』会員、澤田美恵子さんのお母さんも平井家の出だそうである。

*5 星谷寺はもと北方四五町の字本堂にあって、いつの頃か火災に遭ったが、本尊は自ら難を避けて一本杉にとどまったという。ために、杉の木に近い現在地に再建されたと伝える。

*6 定綱・広綱は当時の幕府の意向にしたがって比叡を討った。ところが幕府の方針変更で逆に流罪となり、後許されて所領を回復した。間もなく叡山大暴動、再び討伐の命が下った。この作戦で経高に従った高綱の長子重綱が戦死している。

*7 『尊卑分脈』では河崎為重の娘とある。

*8 この日風雨強く荒波のために舟は今にも河中に転覆しそうになったことが伝承にある。日蓮の法楽によって事なきを得たという。

*9 正慶二年(一三三三)の正慶は北朝の年号で、高秀の行動と符合する。また、この紀年銘の板碑が本堂山の加藤秋男家の墓地にあり、当時座間が北朝の管轄であったことがわかる。

 


 

 小机郷と座間郷 (1)

                                  

小机郷鳥山

 武相に残る佐々木一族の所領に小机領がある。『吾妻鏡』延応元年(一二三九)二月十四日の条に、

 <武蔵国小机郷鳥山等荒野可開発水田之由。被仰大夫尉泰綱。> とある。武蔵国小机郷鳥山は今の横浜市港北区鳥山町付近をいう。当時執権北条泰時で、この地の水田開発を大夫尉泰綱(佐々木泰綱)に命じたというものである。この地は源頼朝が佐々木高綱(木曽義仲追討の宇治川先陣で名高い)に馬飼料として賜ったもの(『武蔵風土記稿』)で、『姓氏家系大辞典』(太田亮)には次のように書かれている。

 <〜又橘樹郡鳥山村に佐々木高綱の館跡あり。「八幡宮の西なり、今は陸田となる。観音縁起によるに「高綱当所及び近隣を領せし頃、この地へ十余町四方の館をかまへ四面に堀をめぐらして要害とし、一族六角太郎、鳥山左衛門を両目代とし、猿川庄司を舎人として爰にとどめき、其の身は鎌倉にありて勤仕せり」>

 鳥山には承安年中(一一七一〜七四)、頼朝の本願により高綱の奉行で建立されたという三会寺がある。横浜線小机駅から1キロ足らずの場所だが、現在地は当初の箇所から移されたようで、等海という僧が「延文元年(一三五六)現在地に移して中興」と口伝にある。元は字馬場といわれた場所で、元屋敷と呼ぶ所も近くにあったという。高野山真言宗で、後年高綱が高野山に遁世したことと符合する。

 八幡宮も現存するので捜して歩いたが、道をあやまった偶然で駒形明神という祠に出逢った。案内板に「高綱の馬「生づき」を葬ったとある。高綱が宇治川先陣のとき騎乗していた名馬である。頼朝には「生づき」「磨墨」という2頭の名馬があった。中でも「生づき」は抜群だったらしい。初め梶原景季が出陣にあたりこれを所望したが、頼朝は、これは自分の乗馬だからと代えて「磨墨」を与えた。そのあと高綱も所望に来て、

 <鎌倉殿、いかが思し召されけん、「所望の者は幾らもありけれども、その旨存知せよ」とて、生食(生づ(『平家物語』)

 と、結局高綱がせしめてしまった。これで高綱は景季と先陣を争い、一番乗りを果たしたのである。

 八幡宮は丘の中腹にあって、その西では丘の上に出てしまい、この切り立った場所に館は構えられまいと思えた。駒形明神は丘の南斜面下に当たるが、付近は開けて平らである。駒形明神があるからには馬場はこのあたりではあるまいか。砂田川が流れていて、四面に堀をめぐらすことも可能である。

 「一族六角太郎、鳥山左衛門を両目代とし、猿川庄司を舎人とし(泰綱四男の輔綱が鳥山氏を称している)・猿川(猿山の誤記らしい)のいずれも地名として付近に残されている。

 『姓氏家系大辞典』も時代を疑っている。高綱は泰綱の父信綱の叔父(泰綱には大叔父に当たる)である。泰綱以後の名の六角ではおかしいというわけだ。が、六角橋の杉山神社縁起によると、この地で休憩された日本武尊が六角の箸(後に橋とした)を賜ったことからといい、かなり古いころからの呼び名とも考えられる。

 小机郷には館のあった鳥山のみならず、小机・本郷・鴨居・白山(もと猿山の一部)に加え、対岸の川向・折本・大熊(佐々木の庶(横浜市都築区―湘南の茅ヶ崎ではない)が含まれる。

三つの鐘

 更に六角橋町を南下すれば洲崎明神社のある青木町に至る。この明神社には星谷寺の梵鐘と同じ飯山の源姓の鋳造になる梵鐘があった。『武蔵風土記稿』には、「小机領神奈川宿宮ノ町」とあり、銘は、

 <大施主 沙弥□修  同願 禅尼浮□  同願 沙門永顕  同願 孝男伴氏貞俊  冶匠 相州飯山 源光弘>

 ここで神奈川宿が「小机領」であることが注目される。小机領とは佐々木領ということなのである。

 川崎の宗三寺(もと勝福寺)の梵鐘には、

 <大檀那禅定比丘十阿 併従五位上行壱岐守源朝臣泰綱 大勧進僧頼俊 弘長三年癸二月八日 当寺院主僧隆祖 鋳物師 源有貞> とあったという。星谷観音の梵鐘の、

 <…大檀那 源朝臣 信綱  大工 源吉国>

 と照合して三つの鐘がみな佐々木の息のかかった飯山の源姓の鋳物師によっていることが注目され、

  @小机領

  A佐々木の息のかかった飯山の源姓の鋳物師

 は相互に佐々木所領であることを補完するものであり、これはまた座間郷が佐々木所領であったことを証明する有力な物証でもある。 川崎といい小机といい、いずれも高綱の後に泰綱の名が見えるが、高綱は何故か甥たちのうちで四男の信綱(泰綱の父)に肩入れしているようだ。高綱が宇治川で先陣のとき、長兄定綱から与えられた家伝来の「面影」という名刀で川の中に張りめぐらせた縄を切った。承久の乱では、高綱はその名刀を信綱に与え、今度は信綱が同じように宇治川の先陣を果たした。高綱は兄経高や総領家の甥広綱(信綱の長兄)を敵に、鎌倉方(信綱方)の行動をとっているのである。総領家が京都で滅亡して信綱が総領家を嗣ぐことになったが、泰綱は執権泰時の外孫でもあり、当時西国に所領を得た高綱の後を泰綱につがせたと考えられる。

小机郷の座間氏

 『吾妻鏡』には「小机郷鳥山等荒野」とあり、開拓は鳥山だけではなく、鶴見川対岸を含めた佐々木所領(小机郷)の荒野だったのであろう。

 ところで座間市民の一人としては、この小机郷の一部に古くから座間姓の住民が多いことに目がいく。

 永禄二年(一五五九)北条氏康が作らせた『小田原衆所領役帳』にはK座間「五拾貫弐百文、小机茅ヶ崎」L、K座間新左衛門「拾貫文、小机折本」Lとみえ、池辺村では永禄四年(一五六一)、座間弥三郎に宛てた宮川左近書状(武州古文書)に「我等知行池辺之内」なる部分があるといい、またこの頃の古文書に座間豊後守・座間弥三郎の名があるという。「茅ヶ崎」「折本」「池辺」のあたりの領主が座間氏であったらしいのである。

 座間姓が座間市になく、相模原市や横浜市池辺町、または遠く信州や美濃に見られることについては既に鈴木芳夫氏が述べられている(『座間むかしむかし』第三集)。その中で氏は、特に折本の領主座間新左衛門に注目されている。新田宿に折本という姓が存在するので、これは新左衛門が座間出身者であることを証明するものではないか、というのである。座間姓の者が座間出身であることには『姓氏家系大辞典』でも述べられているところであり、私も同じ考えをとる。が、座間郷が佐々木氏の相模における最初の領分であったことを考えれば、泰綱が鳥山等の開拓に取り掛かるとき、座間の所領から支援の人材・労力を派遣したと考えてよいのではないか。 私は座間氏というのは佐々木一族だったのではないかとさえ考えている。佐々木主流は独立姓が強く、多くが出自の地名を名乗っている。佐々木と称するものにはむしろ末流が多いのである。

 小机郷のうち、現在座間姓が最も多いのは池辺町(横浜市都築区)で、電話帳で見ると横浜市内に座間姓一〇二、うち都築区三一、その殆どが池辺町である(ほか綱島町一四、小机は一)。町には星谷と呼ばれる字名もある。

 池辺町は鶴見川を挟んで小机の対岸にあたり、今はNECなどの工業団地となっているが、もとは広大な水田地帯だったようだ。鶴見川が緩やかに湾曲し、水鳥の群れが白く輝いていた。橋の下を見下ろすと、水には大きな鯉が泳いでいたが、情けないことに鯉は汚水の埃にまみれていた。遥かに見える丘まで歩くと正面に観音寺がある。小机三十三観音十八番札所、高野山真言宗で、創建年代は不明だが鳥山の三会寺の末寺であった。池辺が小机領であることを示すものであろう。寺は寂れてトタン屋根の、一見民家のようである。墓地には座間姓のものはなく、島村・吉田・角田・三留などがある。島村氏は座間にもあるがここの家紋は根笹。その養子に抱月がいたことがわかった。近くに長王寺という寺もあり、高野山真言宗で、これももと三会寺末であったという。ここに座間姓の墓1基あり、家紋は丸に鷹の羽、我が家と同じである。1キロばかり歩き以津院という小さな寺に至る。ここにはかなり旧家と思える座間姓墓地に、貞享四年の阿弥陀如来の石塔などがあった。これも鷹の羽紋(付近には何故か鷹の羽紋が多い。茅ヶ崎城主だったという多田行綱も鷹の羽紋だったようだ)。以津院は曹洞宗で、もと小机の雲松院末という。

後北条氏と小机領

 雲松院を建立したのは小田原北条の家臣笠原信為で、小机城代であった。鈴木芳夫氏が「信州松本市の座間氏が武田の家臣だったというのは、北条氏秀が武田の人質になったことがあるのでそれに付き添って行った座間の武将であったか」と推理されている(現在松本市には二十軒ばかりの座間家がある)。氏秀が小机の城主であったことを考えると、恐らくは小机領からの座間氏なのであろう。もっとも、氏秀が人質になったのは三、四歳のころというから、当時すでに小机の城主であったとは考えにくいという事情もある。が、氏秀の岳父に当たる幻庵も幼少のころに所領を得ているので、名目は城主だったのかも知れない。後年破約となって帰国(永禄十年=一五六七)し、改めて城主として入城しているが、それ以前に作られた『小田原衆所領役帳』(永禄二年)には、小机周辺の本郷村・鴨居村・猿山村などが三郎殿(氏秀)の所領として記載されている。人質で不在なのに、である。この三郎殿は気の毒な人で、元亀元年(一五七〇)に今度は上杉謙信のもとに人質にやられた。謙信は彼を可愛がって跡取りにしようとしていた(自分の幼名「景虎」を与えた)。ところが謙信の急死で上杉系累の景勝との争いになり、三郎殿は二十七、八歳で自刃して果てた。美男で大酒飲みであったということである。

 このように武家としての座間姓は小机周辺に強く反映されている。

座間郷の佐々木氏

 座間郷を得た当初の佐々木は定綱であろう。父(秀義)にしたがって渋谷に来た当時、おそらく少年だった嫡男の彼が成人して、渋谷重国は一門から嫁を持たせたと思う。熟年で四人も子のある秀義にさえ娘をあてがっているのである。名門の嫡男を放っておくはずはない。一門の婿であれば所領の隅(座間郷はそのような位置)を任せてよかったのだ。和田義盛の反乱後の恩賞に佐々木と座間郷の名が見えないのは、すでに座間郷が実質的には佐々木であったことを示すと思う。渋谷庄座間郷と呼ぶのはその間の事情を示すものであろう。

 座間という視点をわれわれはとかく座間市内におくが、座間の名の起こりは大阪の座摩神社がそうであるように「いがしり=井の後=湧水の末」で、鈴鹿神社社地を示し、鈴鹿明神社も本来は座間明神社と呼ばれてよいものであったと思う(「鈴鹿」は「鈴川」か。清い流れを意味し、この名の川は伊勢原や平塚などに例がある)。佐々木が「いがしり=座間」に館を置いて座間郷を差配したので、座間郷の二十七か村の鎮守が鈴鹿明神になったのである(「座間」という名は村よりむしろ郷の名であったと思われる)。

 元禄三年の鈴鹿明神の梵鐘に刻された村名には座間郷二十七か村の名が全てある。

   座間入谷村  座間宿村   新田宿村

   四ッ谷村   新戸村    磯部村

   下九沢村   上九沢村   相原村

   橋本村    小山村    清兵衛新田村

   矢部村    淵ノ辺村   下溝村

   上溝村    当麻村    田名村

   大島村    上鶴間村   下鶴間村

   柏ヶ谷村   栗原村    上今泉村

   下今泉村   矢部新田村  鵜ノ森村

 座間は所領地(座間郷)の名で、住民たちには馴染みのないものであったか、古くは村として使用された形跡がない。近世前期の遺物には座間郷座間入谷村とか座間宿村とあって座間村はないのである(後期に至って座間宿村に代わって座間村といわれるようになったが)。

 佐々木氏の性格をみると、馬と鍛冶、加えて神社がある。佐々木は本来神官の出であるらしく(佐々木=佐々貴は御陵の意で、御陵を守る世職という)、神社に佐々木氏の名が見られることが少なくない。今はどうなったか、近くは大山雨降神社の神主も佐々木氏であった。

 館の近くに馬場と寺と神社を設ける。また鋳物師を呼ぶ。これが彼らのやりかたである。座間でも入谷を中心にこれらが全て存在する(馬場については前号記事の川駒坂が馬場坂ともいわれていたということで知られる)。

 ここで、鐘に記された村名に今泉が含まれていることに合点のいくことがある。国分境に日月明神社という小さな社があるが、この社の古い棟札に、「正治元年(一一九九)志主広綱……」とあったという(『新編相模風土記稿』)。時代からいって広綱は佐々木広綱であろう。ところが付近の家の表札を見ると町名はみな国分(海老名市)になっている。当然海老名氏所領のはず? と疑ったのである。あとで地図をよく見ると、現在、国道二四六号線が分断しているが、この楔形のわずかな一角だけが下今泉なのである。下今泉が座間郷なら佐々木広綱でいいのだ。

室町時代の座間郷

 足利時代(室町時代)「ばさら」の佐々木道誉が京極家に現れて威勢をふるったが、子の高秀、孫の高詮に至ってやや勢いを失った。そうして間もなく応仁の大乱が始まる。佐々木主流は京極、六角が東西に分かれて争い、ますます勢力を失うことになった。

 座間郷の初見佐々木高秀の文書(文和三年=一三五四頃といわれる)が、新戸の長松寺に残り、座間姓が下溝に多いというのは水田開拓で支配の中心が北へ移ったのであろう。当時の今の座間低地は水田開発の可能な状態ではなかったらしい。

 応永三年(一三九六)に足利氏満(関東管領)が長松寺に与えた安堵状は座間郷が氏満の掌中に入ったことを示すもので、このころ佐々木は座間郷を失ったのだろう。

 長尾景春が主家の両上杉氏に謀反して戦ったとき、その根城となったのが小机城であった。このとき景春方は磯部(相模原市)に城を築いたが太田道灌の攻撃に遭って落城したと伝えられている。磯部は下溝に至近で、下溝と小机の両座間氏が呼応して戦ったのだろうか。磯部城跡について『新編相模風土記稿』には次のようにある。 <今其地を詳にせず(村の西南の方に掘之内、二重掘等の小名あり、これ城跡の遺名なるべしと云り)文明中山内上杉氏の老臣長尾景春謀叛を起し、上杉氏と予盾に及し時当城に軍勢を籠置、武相の所々にて合戦に及び文明十年(一四七八)三月景春打負けて当城遂に落去に及びしなり>

 この文明のころ(一四六九〜八六)の座間郷の地頭職白井織部是房の館が心岩寺の地にあった。これも郷の統治の中心が現在入谷の鈴鹿・星の谷にあったことを示すものだが、この白井氏については今一つ詳らかでない。下溝から田名にかけても旧家があるが、佐々木では重綱(信綱の長男)の後裔に白井氏の名がある(替え紋に五七桐を使う。心岩寺の寺紋は五三桐)。当麻あたりの土豪白井、関山氏は一遍と同じで伊予の河野氏の出という。伊予の守護が佐々木盛綱であったことは偶然であろうか。

盛綱の党

 綱島の長福寺へ行ったのは、住職が佐々木姓で檀家の総代に座間姓が二人も見られた(『全国寺院総覧』)からである。行ってみると門前を東横線が走っていて、寺へは跨線橋を渡らねばならない。寺伝によると、この住職の祖先は綱島十八騎の一人、児島賀典といって、のち佐々木に改姓し、出家して寺の開山となったという。天正年間(一五七三〜九一)の創建だそうだ。児島で思い出すのは備前の児島で、これは平家追討の戦いで佐々木盛綱(高綱の兄)が馬で海を渡って大功をたて、頼朝から「昔より、馬にて河を渡す兵多しといへども馬にて海を渡す事、天竺震旦は知らず、我が朝には希代の例なり」と盛綱に賜った土地であり(『平家物語』)、児島氏は佐々木支流として四つ目紋を用いている。綱島の児島氏は天正のころ、備前から佐々木の故地を頼って来た一族であろうか。

 墓石に見る「座間氏」は、貞享ころからのもので、墓地内の一角を占めていて有力者であったことがわかる。丸に剣三つ柏紋である。座間でなく狭間・佐間と刻むものがあり、住吉屋・中村屋と屋号のあるものもある。名のある商家だったのであろう。しかし座間郷に結びつけられるものはない。

 ここで美濃の座間氏に触れておきたい。

 美濃(岐阜県)の座間氏は川辺町に多い(二十数軒)。町役場の町史編さん室に問い合わせたところ、

@座間は「ざま」でなく「ざんま」と呼ぶ。

A由来はよくわからないが、祖先は西(岡山県?)のあたりから近江を経て移住したらしい。

B家紋は丸に橘。

 ということであった。

 @については鈴木芳夫氏も『座間むかしむかし』第三集に書かれている通りである。別に座馬と書く姓もある。地名や地名にもとづく姓の漢字表記は、音通といって音に従って字を換えて表記される「座間」が「いがすり」の表記だからである。座間を「ざんま」と読み、あるいは「くらま」(横浜に一例がある)と読むとしても、もとは座間=「ざま」と思う。

 Aについては興味のあるところで、佐々木氏には近江守とともに備中守を称する者が多い。また備前には前記児島氏の児島がある。(佐々木)氏がそうであったように、佐々木に従って児島にあった座間氏が佐々木に従って近江に帰り、やがて美濃に住み着いたのではあるまいか。美濃も佐々木の色の濃い土地なのである。

 B家紋には手掛かりは認められない。ということは、座間郷を外に出た座間姓で家紋を異にする族は、それぞれかなり古い時代に分かれたものかと思わせる。

下溝の座間氏

 下溝には清水寺(曹洞宗)があって多くの座間姓の墓石がある。郷土史家の座間美都治氏の墓もここにあり、境内には氏が達筆で書いた石碑もある。座間姓の墓の家紋はいずれも丸に木瓜である。根府川石の石塔に、

 <静閑の郷谷戸に眠る祖先の永遠の加護を祈念し此の碑に刻み菩提供養となす>

 とあり、厚木市寺町の座間某の名があるので、厚木市の座間氏は下溝からの移住と知れる。寺伝によると当寺は慶長元年(一五九六)に天応院八世住職天山存雲の創建になるという。付近に八幡宮と、そのそばに不動尊がある。不動尊は相模原市の重要文化財で、八幡宮の別当大光院の本尊であったが、これには座間村の大坊と新田村の寿命院(諏訪明神社の別当)の紹介で鎌倉の後藤左近が享保九年に製作したことが胎内に書かれているという。座間入谷村と新田宿村が外(下溝)からは座間村・新田村と呼ばれていたことがわかる。 天応院は原当麻駅下車だが下溝になる。『全国寺院名鑑』によると明応三年(一四九四)、佐野城主泰綱の城代山中大炊輔が開基したという。佐野氏は藤原秀郷系というが、宇都宮氏とともに歴史に隠された部分があるらしい(下野を定綱が所領としたことがある)。山中もありふれた名に見えるが『姓氏家系大辞典』には定綱八男頼定は山中氏祖とある。この寺は北条氏照の娘貞心がここに再興したものといい、貞心の墓も墓地にある。寺は寺中心に考えるから「貞心が寺の五世大陰に帰依して再興した」と伝えている(『全国寺院名鑑』)が、氏照の娘なら母は大石定久の娘であろう。先年座間市の歴史愛好のサークル「歴史散歩の会」で八王子市を訪ねたとき、大石氏の館跡だったという永林寺に立ち寄った。定久の墓で巴紋を確認したが、忠臣蔵の大石と同じである。巴紋の大石はやはり秀郷系というので佐野氏とのつながりがあるのだろうか(近江にも栗太郡大石に負う佐々木庶流の大石があり、定紋は桔梗、替え紋に四つ目を使う)。

 ここにも十基以上の座間氏の墓があり、家紋は丸に木瓜である。周辺にも座間の表札が目につくが総じていえば武家的なものは感じられなかった。

座間と座間市民

 鈴鹿明神社の弘治二年(一五五六)の再建棟札には相州田倉郡渋谷庄座間郷と書かれている。田倉郡は高座郡で、渋谷庄は渋谷氏の勢力圏だったことを示すものであろう。座間郷はこの中での佐々木所領であったが、渋谷庄は相模川左岸だけではなく、津久井までの右岸も渋谷庄であった。和田の乱後の渋谷氏がこれだけの範囲を保てるはずはなく、佐々木の勢力が右岸にも及んだと考えるのが自然である。したがっての依知(愛智=近江)であり、飯山の源氏鋳物師であろう。

 昭和二十三年、住民の猛運動によって座間は相模原町から独立したが、こうして歴史をたどってみるとみみっちいことではなかったかと思う。もう少し歴史を理解する者がいたら、むしろ相模原を含めて「座間町」に改称する運動を起こした方が筋であった。この範囲は座間郷であり、郷社は鈴鹿に存在するのである。今は、鈴鹿の地が座間の名の起こりであったことも忘れられ、心岩寺が「座間山」とあることにさえ、何でこんな所(入谷もしくは鈴鹿)にあるのに座間なのかと不思議がる者が多いのが不思議である。

                   (平8・3・24)

 


座間郷太平記 

                                                 さがみの野火

 

 宝治元年(一二四七)六月五日、執権北条時頼は三浦泰村・光村とその一族を滅ぼした。このとき大江広元の三男で、愛甲郡毛利庄(厚木市)を領していた季光は、妻の実家が三浦氏であった事情から、広元以来良好な関係にあった北条氏の誘いを振り切って三浦方に加わった。

 広元の次男時広は頼朝の奥州征伐に従って功あり、羽前国長井郷を賜って長井左衛門といい、子孫は長井氏を称して代々関東評定衆の重職にあった。この宝治合戦のころは子の泰秀・泰重の時代で、彼等は当然北条側について参陣した。

 長井泰重が手勢を連れて屋敷を出て御所へ向かった途中、叔父毛利入道(季光)の軍と出くわした。しかし、毛利は三浦の陣へ馳せ加わる様子を見て、泰重は言葉をかけるのを止めて御所へ向かったという(『新編相模風土記稿』鎌倉攬勝考)。

 三浦は敗れ、季光とその子三人は自害して果て、厚木の毛利は絶えた。このとき、越後の佐橋荘にいた末子の経光によって辛うじて毛利の名は残り、これから安芸の毛利氏が分れて、今NHK大河ドラマになって放映中の元就に至るのである。

 毛利氏が有名になって、大江広元の系統はこちらに注目が偏ったが、広元の後を継いで要職にあったのはむしろ長井氏の方であった。時広を初め、泰秀・時秀・宗秀と代々が関東評定衆であったし、前出の泰重(泰秀の弟)も六波羅評定衆を務めている。

 冒頭から長井を引き合いに出したのには理由があって、座間郷の名の初出といわれる、新戸の長松寺にあてた文書の高秀に「長井」と後代の追記があることによる。また、これには「元徳三年」(一三三〇)という追記もある(『座間むかしむかし』第三集では根拠不明としている)。

 文書は次の通りである。

  座間郷内長松寺事 向後所奉申付也 被興行□□

  且被致天下安全之誠勤 □可訪父祖尊霊之菩提給候

                    恐々謹言

   「元徳二」          「長井」

    六月九日           高秀(花押)

  建長寺安首座禅師

 座間市で書かれた文書、たとえば「相州星谷寺嘉禄年紀梵鐘に関する参考資料」(座間市保護委員会・S41)では高秀を佐々木氏としているが、『神奈川県史』(通史編1)によると座間郷の所領安堵を長井高秀としている。県史では追記の方をそのままに採用したらしく、年号も元徴二年(この年号はない。おそらく追記の元徳を誤記したか)としている。

 高秀は佐々木氏であるのか長井氏であるのか? 

 追記の年代は信頼できるのだろうか?

 「元徳二」の根拠は?

 この文書の年代はいつころに比定すべきか?(『座間むかしむかし』第三集では一三五四年頃と推定する)。

 年代の手掛かりには建長寺の「安首座禅師」であろう。前記「相州星谷寺嘉禄年紀梵鐘に関する参考資料」では、

 <建長寺安首座禅師(35世住職素安)との関連において延文五年(十月廿日素安逝一三六〇)を溯ることはほぼ確実>

 とある。ところが『鎌倉市史』(社寺編)には建長寺の歴代僧は二十三代までしか記載がなかった。半ばあきらめて、そこに載せられていた塔頭に、もしや禅居庵がありはしないかめくってみた。禅居庵は寺の前方の丘にあって、井泉水が住居としていた塔頭である(今も遺族の方が住んでいられる)。記載があって、これは二十二世清拙正澄の塔所とあった。

 そこで気付いたのは、長松寺に現存する氏満の古文書である。たしか建長寺なんとか庵の末寺というようなことが書かれていたと思う。幸い持参したノートに写しがあったので、直ぐ確かめることができた。

      寄進拾石

  建長寺宝珠庵末寺長松寺

  相模国座間郷内田畠□□

    注文

    有別条   事

  右為当寺領如元可被致沙汰之状

  如件

    応永三年十二月十七日

         左兵衛督源朝臣 (花押)

 この文書は相模原市に現存する最古の文書として市の重要文化財に指定されているものである。この「宝珠庵」とはどういう庵なのか。たどってみると次のようであった。

 <了堂素安の塔所。素安は貞和元年(一三四五)に示寂しているが、……>

 ここに素安の名が現れて、建長寺宝珠庵と長松寺の関係が分った。が、座間市の資料とは没年が違っている。これでいくと『座間むかしむかし』第三集の高秀文書の時代推定は誤りということになる。また、高秀文書が素安の死の二、三年前としてみると、嘉暦二年(一三二七)に生まれたという佐々木高秀は十五歳くらいになる。もっとも追記にあるように元徳二、三年では三、四歳で、あのような花押は無理だろうから追記の年代では別人というしかない。なお、素安の没年から元徳二、三年へさかのぼると十四、五年となり、ここまでさかのぼって素安が首座にいたとは考え難い。建長三年から約九十年に三十五代である。平均すると、一代三年に満たない首座職がこの年数では異常に長くはないだろうか。しかもこの間、鎌倉は幕府の滅亡や中先代の乱という激動のさなかにあったのである。

 次に、長井高秀という人物の実在を探ってみる。『姓氏家系大辞典』にも『尊卑分脈』にも長井姓に高秀の名は見られない。『太平記』にも長井を名乗る人物はたびたび出てくるが、長井高秀とされる人物の登場はなかった。ところが、本文でなくて脚注の方でそれが見つかった。本文は巻十三で、中先代北条時行の乱で苦戦している足利直義を助けるため、勅許を待たず尊氏が東国へ下って相模川で時行軍と対峙する場面である。

 <時節秋の急雨一通りして、河水岸を侵しければ、源氏(尊氏軍)よも渡しは懸らじと、平家(北条軍)少し油断して、手負いを助け馬を休めて、敗軍の士を集めんとしける処に、夜に入りて高越後守(高師泰)二千余騎にて上の瀬を渡し、赤松筑後守貞範は中の瀬を渡し、佐々木佐渡入道道誉と、長井治部少輔は、下の瀬を渡して、平家の人の後へ回り、東西に分かれて、同時に時をどっと作る>

 佐々木佐渡入道道誉(高氏)は例のばさら大名で、佐々木高秀の父である。長井治部少輔について脚注では、

 <永井治部少輔高秀か。「治部少輔高秀京着之後、何様事等候哉」云々(貞顕書状、元徳元、十一、廿一)>

 とある。後にも長井治部少輔、永井治部少輔が出てくるが、本文では高秀とはなく、貞顕書状だけが永井治部少輔高秀と名前まで書いている。書状の年代からいって、高秀文書の追記はこの高秀を指したものとしてよかろう。

 佐々木高秀については、『姓氏家系大辞典』の京極流略譜に、 <十代高秀、高氏三男、京極五郎、佐衛門尉、治部少輔、能登守、引付頭人、侍所別当、評定奉行、大膳大夫、従五位下、法名道高又作導。明徳二年(一三九一)七月十一日堅田戦死、六十歳、仙林寺>

 や、や! この高秀も治部少輔であったか。六十四歳説もあるがここでは六十歳としている。これでいって素安の死を貞和元年とすれば高秀は十四歳くらいになってしまう。やはり高秀を佐々木とするには、素安の没年を(「相州星谷寺嘉禄年紀梵鐘に関する参考資料」のように)延文五年(一三六〇)当時にもっていかないと無理のようで、これなら高秀は三十歳くらいになる。この延文五年はどんな資料によったのであろうか。

 ところで、県立谷戸山公園山頂の案内板に、「このころ座間郷と書かれる(足利氏満・氏鋼の子孫高秀の文書)」とあるのを見た。だいたい室町時代の中ほどあたりである。氏満の子孫に氏鋼も高秀も『姓氏家系大辞典』『尊卑分脈』に見ることができなかったが、「座間郷と書かれる」ということが座間郷の初見ということなら、前記長松寺の氏満書状にすでに「相模国座間郷」と書かれているのだから、氏満の子孫では問題にならない。

 中先代の乱というのは、正慶二年(一三三三)五月、新田義貞軍に攻撃されて高時以下の北条一門が東慶寺で自殺したとき、ひそかに信濃に逃れていた高時の次男時行が、建武二年(一三三五)七月、諏訪頼重らに擁されて武蔵に攻め入り、足利直義軍を敗って鎌倉に入った戦いをいう。このとき、直義はみずから出陣、座間郷の一帯は戦火にまみれた。直義は町田市の菅原神社の地で時行軍と戦って敗戦、鎌倉に退いて逃れるとき、直義配下にあった淵野辺義博は、直義の命で護良親王を刺殺した。時行は二十五日鎌倉に入り、「関東の侍並びに在国の輩はみな時行にしたがい、天下はふたたびくつがえったかのようであった」という。在京の尊氏は直義を助けて時行を討つため征夷大将軍総追捕使に任命されることを望んだが許されず。尊氏は勅許をまたず京都を出発、建武政権に失望していた武士たちがこれに従い、大軍となった尊氏軍は三河の矢矧で直義軍と合流、数度の戦いで時行を破り、八月十九日、鎌倉へ攻め入った。時行の鎌倉制覇はわずか二十日あまりで終わった。淵野辺義博は三河の戦いで直義の身代わりとなって討死にしたという。

 氏満は初代関東管領基氏の子で、基氏が亡くなってまだ金王丸といっていた氏満を管領職につかせるため、貞治六年(一三六七)五月、佐々木高氏(道誉)が使者として鎌倉に下った。それより前、文和三年(一三五四)には、佐々木高氏は相模上総下総近江等の所領安堵を受けているので、佐々木氏がまだ相模に所領を保持していたことがわかる。氏満は血気の男で、その一生は戦乱に明け暮れた一生だった。次第に自信をつけた氏満は、京都を軽視するようになり、康暦二年(一三八〇)には関東の軍をもって京都を討つと言い出す始末で、執事上杉憲春がこれを諫めて自殺するといったようなことがあった。

 『神奈川県史蹟名勝天然記念物調査報告書』第七輯によると、「康暦元年(一三七九)十二月二十七日、氏満神奈川、品川諸津出入船の帆別銭ヲ鎌倉佛日庵造営料トス」「永徳二年(一三八二)七月六日、氏満祈祷料トシテ橘郡小机保ノ闕地ヲ鶴岡八幡宮に寄ス」「応永三年(一三九六)十二月十七日、氏満相模長松寺ヲシテ同寺領同国座間郷の地ヲ安堵セシム」などが見られる。これらはいずれも佐々木所領または所収としての関連の考えられる地で、氏満の前に佐々木所領はみな失われたものと思われる。氏満は応永五年(一三九八)十一月四日、年四十二歳で没した。           

                                              (平成9・4・4)

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