星谷寺
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                                                                星谷寺観音堂全景   (12年2月)


ご開帳(14年10月)

             

                   

 

 妙法山星谷寺(座間市入谷3丁目3583番地)は真言宗大覚寺派の古刹で、聖観音を本尊とする観音堂は坂東観音巡礼の8番札所とされています。

寺伝では、長元9年(1036年)に僧善宥が現地に再建したというので、平安時代をさかのぼる創建であろうとされています。

境内には国指定重要文化財の梵鐘があり、これには、嘉禄3年(1227年)に源朝臣信綱が寄進したことが陽刻されていて、この信綱は佐々木信綱であろうということで、当時、このあたりが佐々木氏の勢力下にあったことが推測されるものです。


星の谷     

                                   さがみの野火

  

 座間市に「星の谷」という小字があり、星谷寺という寺もあるので、FREKI(パソコンの歴史フォーラム)で、「星」のつく地名といわれ(由緒)を問うコメントを流してみた。

 期待した「星の谷」というのはなくて、「星山」「星の宮」が入ってきた。

 「星山」というのは横浜市磯子区上中里町にあって、「星を見る山」あるいは「天気を見る山」と説明されているそうである。その下の谷というので「星山谷」もあるということだった。 長崎県の北高来郡森山町(島原半島の付け根のくびれたところという)の丘陵を「星ヶ原」というそうで、この山の小字に「妙見」という地もあり、中世に廃寺となった修験者の寺院があったとか。僧侶がたくさんいたので「法師が原」がなまって「星ヶ原」になったという。

 「星」のつく神社をわざわざ調査した人がいて、星ヶ岡神社(松山市)・星川神社(桑名市)・星田神社(大阪府交野市)・星神社(高知県、妙見さまともいう)・星宮神社(栃木市)などがあるそうであった。祭神はみな異なっている。

 特に、栃木県に「星宮」が多く、本宮は日光の星宮神社らしいという。別名を磐裂(いわざき)神社といい、妙見宮ともいうそうである。そうしてこの本地を虚空蔵菩薩とするという。 座間の星谷寺の本尊は虚空蔵菩薩で、何か考えさせられる。星谷寺の寺紋は九曜で、これは星である。

  障りなす迷ひの雲を吹き払ひ

    月もろともに拝む星の谷

 という巡礼歌に合わせてみると、中央の大円を月とすれば、周囲の星八つは「星の八(や)」である。まさに、「月もろともに拝む星の谷」と読めるのである。誰が考えたのだろうか。 「ここまで来たのだから、星づくしじゃ!」

 と、大越路峠を越えて栃木市星野町まで行った人がいる。ここには星野遺跡と星野神社があるそうだ(座間星谷寺の付近にも星野氏が多いが)。ほかにも星宮神社があり、佐野市にもあったという。別の情報では埼玉県にもあるという。神社がこれほどあるのに「星寺」はなかった。

 私はこの「星」を図星などという「ホシ」と考えている。星谷寺はもと「星の谷」にあって、火災に遭ったので現在地に移されたという伝承がある。寺に残る『相州座間郷星谷寺観音縁起并堂記』は寛保三年(一七四三)に、龍覚という僧の書いたものだが、訳読すると、

<それ当寺の本尊は行基菩薩関東下向のみぎり、しばらく当地に寓居して座像一尺二寸の正観音の尊像を彫刻してもって本尊となしたまうところの霊像なり。ただしいにしえの堂は今の堂より四五丁ばかり北に向かいて本堂という所これなり。北は高くして松林鬱茂し西は直に平なり、東は少しうずたかし、南には三、四畝の薮沢あり、南にまた谷あり常に水湛えて淤澄たり水鏡曇なき時は月を浮かべ星をうつして行路の人ただちに経過しがたき景色なり、中にも星の夜には清光を発することあたかも地中にあまたの夜光の珠を転がすがごとくして見る人躊躇せずということなし。これゆえに誰人の名づくるともなく星の谷という。今一郷の名とせり。その側に一口の井あり又星のこれに映ずるをことづて並びに星井と名付け寺号を星谷寺と称することもこれに準ずるものにや。

 その艮角に山あり今呼びて明王堂という。けだし上古明王の堂あるをもってしかく名づくるならん。その山やや高くして攀登って頂きに至り眺望するに山川渓谷遠郷近里ことごとく眼中に纏うものやいわく藍糸長引いて西に流れ大山峨々として碧峯をまじえて尾を東南に振り、北は頸蟠って勢い甲州に接し、東は近くは渺茫たる荒野を見、遠く望めば東海の駅舎山にそうて南北に亭々たり。鶴岡江島の海陸は煙霞を帯びて隠顕時に随う。かくのごとくに勝地たりといえども火災に遭うこと唯一両度のみにあらず。ある時火災起こりて猛火あまねくめぐり大悲の尊像焼けたまわんことを嘆き悲しめども人力のかなうべきにあらず。不思議なるかな炎中より尊像南に飛びさり杉の枯木の中に光を放ち止まりたまう。今二本杉というはその旧跡なり。

 その頃当寺に理現法印という人あり、尊像南に飛びたまうは霊地を示したまうならんと即ち今の処を点検して堂を建立し寺を造り、今に至りて火災も侵せることもなくますます繁昌し坂東第八の巡礼所にて遐邇(遠く近く)の往来寒暑風雨を辞せず昼夜を分かたず群衆することまことに大士の作の大士なれば思議の及ぶ所にあらずのみ>

 およそこうなる。

 「南にまた谷あり常に水湛えて淤澄たり」という水は「月を浮かべ星をうつして」いたことになっているが、「星の谷」に合わせたものであろう。「星の谷」は「谷の中央」か「中央の谷」か「小さな谷」かであろう。また「谷」は地形のみならず、水の湧く地をも意味する。位置関係が示されている通り、今の大坊谷戸あたりから少し東をいうのであろう。「地中にあまたの夜光の珠を転がすがごとくして」というのは持宝院に合わせたかと思われる。すれば、寛保のころは既に総持院の末寺とされていたものか(双方に「持」がある。更にさかのぼると総持院の本山は東寺の宝菩提院という)。

 「炎中より尊像南に飛びさり」とある火災が、どの年代であったかについては伝えがないが、ただ一つ、栗原の崇福寺の伝承の記録の付記にあった。これは罫紙にペン書きしたもので、先々代あたりの住職かと想像したが、古い記録を書き写したものであろう。「崇福寺の観音像と釈迦如来」と題して、以下次の如くある。

<現崇福寺は一〇一代稱光天皇の應永二十一年鎌倉建長寺末栗原山臨済宗僧仙渓の創建となれど崇福寺裏山に鎌倉時代既に観音堂有りしなれど八二代後鳥羽天皇の建久三年九月一日渋谷太郎重直等握財城攻略の時兵燹のため焼失せしむ(大坊谷戸星之谷の星谷寺観音堂も此時焼失)観音像及び釈迦如来は保存せらる(下略)>

 むろん確証があるわけではないが、建久三年(一一九二)という年次は前後の状況から妥当である。頼朝はこの年、鎌倉に幕府を開いた。平治の乱から約三〇年、承久の乱まで約二五年、星谷寺の梵鐘(佐々木信綱寄進)まで約三三年である。

 大坊は滝谷山現星寺大坊という。「現星」とは既に星谷寺が谷戸に存在せず、現在の星の谷寺という意味での寺号のような気がする。加藤定賢が谷戸に大坊を創建したのは寛元二年(一二四四)で、建久三年から約五二年、星谷寺に梵鐘が寄贈されてから二〇年である。

 星谷寺は「星の谷」という地名まで背負って現在地へ移った。現在の星の谷は地形を示すものではなく、星谷寺を示す小字になったのである。崇福寺の伝承にある記事で、「大坊谷戸星之谷の星谷寺観音堂」というのはこの間の事情を示すものであろう。

[注]

*1 渋谷太郎重直という人物については、この年代に活躍の記録がない。重国の長男かと想像したが、長男を重助とするもの、光重とするものはあっても重直はない。重国の孫を小太郎重直とするものがあったが、それにしてもその後の事跡がないので、ここで戦死したのではないだろうか。

 栗原に源為義の館があったという伝承があるらしい。あるいはそれを種に、渋谷重国は陸奥へ落ちる途次の佐々木秀義を引き止めたのかも知れない。為義は秀義の義父である。もともと父祖の故地であったとすれば、これを回復するために彼らも渋谷氏の握財城攻略に助力したであろう。

 


 

                   過去帳巡礼(1)

  星谷寺の過去帳

                                        さがみの野火

 

 過去帳とは、死者の法名・俗名・没年月日などを書いておく帳面のことで、仏教徒の家庭にもあるが、ここではお寺にあるものを取り上げる。ここのところ、市内二、三寺のご協力を得られたので、記憶の冷めないうちに書きとどめておくことにする。

 星谷寺は座間市内最古の古刹で、重文の梵鐘(佐々木信綱寄進)が現存し、市指定重文の文書(四通)もあるが、歴代住職名とか歴史的経過などについては意外に伝承が少ない。過去帳にはその空白を埋める何かがあるのではないかと思い、特にお願いして拝見させていただいた。そうして、その期待はかなり果たせられたように思う。

 明治中期以降のものは別にして、古い一冊は享和四年四月に当時の住職周應がそれまで残されていたものを整理、清書したもので、さらに後代の明治半ばまでが書き足されたものである。表紙は薄板で明治三十年代のものである。すでに破損して、表面の塗りもはがれている。

 歴代僧について

 どのお寺にあるものも、大体は歴代将軍の法名・命日に続いて歴代住職の名を掲げるものであるが、星谷寺のそれには十名の僧名しか書かれていない。すなわち、

  當院開基法印善宥

     長元子九年十三日

  權大僧都法印實意  甲申十一月朔日

      當寺一代

  阿闍梨法印慶賢

     寛延二己酉七月六日

      當寺一代

  當寺中興法印慶海

     宝永六巳丑正月四日

  權大僧都法印慶覚

     享保二丁酉十一月廿二日

      當寺一代

  阿闍梨慶實

     貞享二乙丑十月朔日

      當院弟子

  大阿闍梨慶雲

     安永九庚子正月廿三日

      當寺一代慶賢弟子

  大阿闍梨法印智應

     文化二乙丑三月十八日

      當寺一代

  權大僧都法印賢如

     慶應三卯二月十八日寂

      當寺一代

  阿闍梨法印實圓僧都  明治三十二年

             七月十二日

 出征丹波国氷上郡之柏原杉原與兵衛二男文政二年一月廿八日生明治拾壱年□廿六日星谷住職拝命三拾二年七月十二日午前三時三十分当院ニ於テ死去□□□年八十一才

              (干支が合わないものがある)

 以上であるが、ここには過去帳を享和二年に整備した周應も、新編相模風土記稿に星谷寺十八世と記されている長安坊も載せられていない。

 周應は享和・文化・文政にわたっての住職で、これは文化十一年の観音堂再建棟札にも、境内の木食観正石塔にも記載、刻字があるところである。

 ちなみに、『つづれ草』37号に書いた「野田泉光院」の廻国修験僧、日向の国佐土原の泉光院が星谷寺に参詣した文化十三年五月十三日当時の住職は周應であったはずである。在住期間も長いし、過去帳を整備するなどの事績もあった。

 このように記載に漏れがあるが過去帳から拾うと、延宝のころの慶讃は磯部の民家で死亡しているが大法師とあり、正徳のころの慶意も過去帳では住寺大法師とあって住職であったらしい。享保のころの慶覚も過去帳には當寺一代とある(この一代というのは一代、二代のそれではなく世襲でない一代住職をいうらしい)。寛延二年没の慶賢も同じく當寺一代とある。

 このほか寺縁起を書いた(実物が現存)沙門龍覚、観音堂の鰐口の好岩(別当法印と銘がある)も加えて次頁のように推測してみた。 先代智光住職の奥様にうかがったところでは、歴代僧の墓塔が少ないのは他の寺院へ移動した住職が多かったかららしいという。前記の慶讃や、慶覚弟子とあり厚木東光寺住職となった政観などがこれにあたるかと思う。

 歴代僧の世代は、星谷寺十八世と風土記にある長安坊がいちおうの基準になろう。

 代数としては多少の出入りがあっても大体はこの数程度(?マークを省いた)になるのではあるまいか。

 

 末寺について

 星谷寺過去帳によって、末寺の住職、または庵主と思われる僧の名がわかったことも収穫であった。存在の口伝はあっても、殆ど、どのような僧がいたか、いなかったかさえわからなかった羽根沢の南光坊、河原宿の大日堂、中宿の安養寺(院―不動堂)の住僧の存在と名前の記載がある(大日堂は別記)。

 

  春宗    南原南光坊 寛保二壬戌十一月朔日

  コ清    南原南光坊 宝暦二壬申二月八日

  妙香    南光坊内    乙亥九月八日

  法印秀岸  南原南光坊 元文三戊午五月十六日

  壽永    南光坊   享保十四年十月十六日

  圓覚院了岸 南原南光坊 宝暦四甲戌正月十七日

 このほか、羽根沢の人で僧侶だったらしい戒名がいくつか見られる。

 

  阿闍梨密住 安養寺住持 宝永五戊子十月七日

  阿闍梨宥範 安養寺一代□□□

              宝暦四甲戌六月七日

 安養寺の住僧の名で現在残されているのは、天明元丑年六月廿日の位牌の「玉照院仙林寿栄大姉」だけである。

 

  観光明眼大姉 

        谷戸大坊門方

              文化七年十一月朔日

  空全童子  谷戸大坊子息

              宝暦十二午十二月二日

  墳璧貞心  施主大坊  延宝八庚申七月四日

  法印宥岩  谷戸大坊  延享二乙丑九月八日

  乗慶    施主大坊

  シス妙光大姉 施主大坊 安永五戊子十一月十五日

  即成妙真大姉 大坊老母 宝暦七丑十月十七日

  顔秀童子  谷戸大坊子息

              宝永七寅三月二十日

  覚蓮妙本大姉 施主大坊 元禄六癸酉正月廿一日

  権大僧都法印慶岩

         ヤト大坊 宝永二乙酉十一月廿一日

  覚心    施主大坊  寛文十一辛亥七月廿三日

  消覚童女  大坊    延享三丙刀二月廿四日

  圓覚童男  谷戸大坊忰 文政二卯五月廿五日

 現星寺大坊が星谷寺を支配したような記事を読んだことがあるが、これでみると逆で、大坊が星谷寺の末寺であった時代もあることがわかる。当本(当山・本山派)の別は緩かったのではあるまいか。 このほか、今は存在すら知られていない川原の多宝院とか大重院、喜明院などの記録もある。鈴鹿明神社の宮司古木宮内氏も星谷寺の檀家で多数の記載がある。

 

大日堂と浄入

 河原宿の大日堂はもと日照山金剛院と呼ばれたことが古文書にあるが、蓮華台の残欠に妙玄の銘が見られるほかはどんな庵主、住僧がいたのか、いなかったのか全くわからなかった。それが星谷寺の過去帳によって左に記すような僧の存在が知られた。しかも、『つづれ草』38号に私の書いた「まぼろしの六地蔵」建立の当人浄入が大日堂住僧であったことが判明したのである。

 観清了諦信士 河原大日堂ヱ者之

              文政四巳七月六日

 法師浄入 川原大日堂一代 享保六辛丑四月七日

 法師哲誓 施主浄入    正徳元卯六月十日

 恵長法師 川原大日堂主  宝暦七丁丑

             (月はないが日は十五日)

 浄入が景観寺(寒川)に建立した石仏には浄入の名と地名らしい刻字があった。判読し難い地名を鶴間村と私は推測したので、鶴間をずいぶん歩いて手掛かりを探したが、この判断は疑わしくなったわけだ。「間」は当然「座間」かとずいぶん眺めたが、そうは読めなかったのである。もう一度景観寺を訪ねてみたい。

 浄入が星谷寺と景観寺に石仏を建立したのは正徳四年(一七一四)で、その十七年後(享保六年・一七二一)に亡くなった勘定になる。また、大日堂には彼のほかに、以前にも以後にも住僧がいたことがこの過去帳からわかった。

 行方不明の六地蔵のほうは、たしか子供のころに見たことがある、という人の話を聞いた。どのような処分をされたのかは依然不明だが。

 河原宿には、この大日堂のほかに多宝院(前記)というお堂があったようだ。

 

 過去帳をたどると、回国巡礼というものが生死をかけたものであったことがわかる。寺の門前で倒れていたとか、旅先で亡くなったりした廻国者の戒名が少なからず見られるのである。

 真傳信士 宝暦十三未十月二日

      當山之観音堂ニテ病死 往来一札所持

      上州群馬郡白井村之六部

 覚浄法師 文政三辰二月三日

      武州都築郡市ヶ尾村道八左衛門ニテ行倒レ      死則東福寺住職取持 納経帳不所持

 陽廻向春信士

      享和二戌二月四日

      巡礼事

 忍鎧禅定門 天保五午正月六日

      武州高麗郡鯨井村治左衛門

      巡礼也 永蔵方ニテ死

 陽廻向春士 享和二戌二月七日

      甲州郡内立野村巡礼

 浄久禅定門 明和八年卯八月廿二日

      回国行者 平七ト申ス

      南智□□町□□□

 順廻向達信士

      文化十一年戌四月 甚平

      巡礼常陸国鹿島郡

 霜廻向雲信士

      文化六己巳十一月廿六日

      大門彦兵衛事

 やはり寒い時期が多いようだ。旅に病めば寺院の門前にたどりついて、苦しい息を引き取ったものであろうか。そういった行者の死を、寺は当然のように回向、供養したことがわかる。

 

 地名についても現在と異なった表記や、現在は見られないものがある。寺から見てであろう、境内・寺内・堂後・堂浦・隣(トナリ)・角、ほかに横(ヨコ)丁・東横(ヨコ)丁・西横(ヨコ)丁(町)大門なども付近かと思うが、宿横町もあるので何ともいえない。本堂というのは文化・天保から見え、古いものは無いようだ。数も少ない。星ノ谷(一件)・鈴鹿も意外に少ない。

 座間宿と書かれたものは一件もなく、ただ宿が多い。上宿・中宿はあるが下宿は見当たらず、ほかに。宿川原・宿山・宿山道がある。山・山道(単に山道としたものもある)とはどの辺りなのだろうか。西浦宿もある。浦は裏だろうがほとんど浦と書かれている。

 (前記・文政)の一件だけである。カワラと書かれたものがあるので、川原はそう読まれたことが分かる。油面は油免と書かれて例外はないので大日堂の除地説がうなずける。

 谷戸はヤトと仮名書きが多いが、単に「谷」としたものもある。新戸谷戸を新戸谷としたのも同じで、これも「ヤト」と読んだのだろう。

 長宿は永宿が多い。

 皆原は南原が多く、陽原もある。一件だが東南原もある。

 羽根沢は羽沢・羽サワ(ハ)・ハ子サハで羽沢が大多数。羽根沢はない。栗原セリ沢は分かるが村沢とあるのは何処だろう。

 山谷は四ッ谷の三屋だろうが(四ッ谷はない)、三屋は見当たらないので、江戸の山谷がもと散家(屋)だったといわれるように散屋が起こりだろう。           (平8・10・8)

 


坂東巡礼札所と座間

 

                                                     さがみの野火    

             

 

 坂東観音巡礼の札所の坂東は「坂」であって「阪」ではなかった。坂東は足柄・碓氷以東の諸国、つまり、東国を指したのである。

 坂東巡礼札所三十三ヶ所のうち、一番から四番までは鎌倉に近く所在する。三十三ヶ所の成立は鎌倉時代とされているが、初期か中期かはっきりしないようだ。しかし、一番から四番までが鎌倉(二番の岩殿寺は三浦だが鎌倉に隣接)というのは明らかに幕府に近い選定を思わせる。

 一〜四番は次の通りである。

   一番 杉本寺

   二番 岩殿寺

   三番 安養院

   四番 長谷寺

 ちなみに、座間の星谷寺は八番札所となっている。

 杉本寺が、星谷寺に似た(星谷寺が杉本寺に似たというべきか)本尊の杉の木避難縁起を持つことは、座間では周知のことである。

 『吾妻鏡』には一番杉本寺と二番岩殿寺への頼朝や妻政子、娘大姫の参詣が記録されている。建久二年(1191)、頼朝は荒廃した大倉観音堂(杉本寺の前身)をみて、修理料として准布200段を寄進している。

 <是大倉行事草創の伽藍なり、累年風雪侵して、夢破れ、軒傾くなり、殊に御憐愍有り、>

 同四年には八月二十九日、御台所が岩殿観音堂へ、九月十八日には頼朝が岩殿、大倉の両観音堂へ詣でている。いずれも娘大姫の病気平癒を祈っての参詣である。頼朝は翌五年三月十八日にも大倉観音堂に御参、建暦元年(1211)には御台所が岩殿観音堂に御参、同二年には将軍家(実朝)が岩殿、椙(杉)本の観音堂に参詣している。こうしてみると、杉本寺と岩殿寺はセットの観があるので、巡礼札所の一番、二番だったかもしれない。

 『吾妻鏡』寛喜二年(1230)十一月十一日条には次の記事がある。

 <今日、巌殿観音堂の居礎引地と云々、勧進上人は西願と云々>

 また、貞永元年(1232)十二月十八日には、

 <岩殿観音堂修理を加ふるの後、今日供養を遂ぐ、導師は三位僧都頼兼なり、減門たるの由、陰陽道難を加ふといえども、観音の縁日に就いて、勧進聖人西願之を宥め用ふと云々>

 ともある。

 勧進上人西願の名は星谷寺の梵鐘にもみられるもので、

     相州星谷寺

     奉鋳 鐘一口

     嘉禄三年 丁歳亥次 正月廿一日 (1227)

     大勧進 金剛佛子 秀毫

     大檀越 沙彌 西願

     大檀那 源朝臣信綱

        大工 源吉国

      勧進金剛弟子 秀範

 これは陽鋳である。源朝臣信綱が佐々木信綱であることは定説になっているので、沙彌西願は佐々木氏に近い人物ではないかといわれていた。すでに述べた通り、太田亮の『姓氏家系大辞典』(角川書店)の平井氏に法名西願という人物がいて、兄の妻は信綱ときょうだいにあたる。

 星谷寺の梵鐘の嘉禄三年(1227)は、上人西願が岩殿観音の居礎引地にかかわった年(1230)の3年前である。またこの上人西願は坂東観音巡礼三十三ヶ所の設定にかかわった人物ではないかといわれていて、もしそうであったら、星谷寺が札所に選ばれた事情もわかるような気がしてくるのである。 三番札所安養院はいま田代観音と呼ばれているが、田代寺はこの地にあった祇園山長楽寺が延宝三年(1680)に火災で全焼した後、比企谷にあった田代寺を移したものである。開基が田代信綱なのでその名があり、本尊が千手観音なので観音霊場に入れられたのだ。座間では梵鐘の源朝臣信綱が佐々木か田代かが話題になった経過があるらしい。田代信綱では年代があわないし、源朝臣にもふさわしくないということで、現在は佐々木信綱を疑う人はいなくなった。それにしても巡礼歌の「世をのぶ綱の跡ぞ久しき」ではある。

 長楽寺の開基は尼将軍政子、頼朝の菩提を弔うため願行を開山として嘉禄元年(1225)に創建されたという。祇園山というように、京都祇園の長楽寺のを移してこの名にしたそうだ。偶然、京都の清水寺に寄ったついでにこの寺を見学したが、壇ノ浦で海中から引き上げられた安徳天皇の御母君建礼門院徳子が源平合戦直後の文治元年(1185)に入幸した寺であった。 政子は建久六年(1195)頼朝に従って上洛したとき、

 <(七月)十八日、辛未、御台所姫君等、密々清水寺以下の霊地を巡礼せしめ給ふと云々>

 とあり、清水寺と長楽寺はほど近いので、あるいは立ち寄ったのかも知れない。壇ノ浦から10年、建礼門院徳子はまだ存命だったのではないか。勝者の女と敗者の女、どちらにしても女の身の定めとして、相会う場があったとしても不思議ではないだろう。政子の死後、北条泰時は政子の法名をとって安養院としたということだ。本堂裏に政子の墓がある。

 この寺はそうした歴史からか、女性の信者が多く、数度の火災にもかかわらず、女性信者たちの喜捨によってその都度復興をとげてきている。

  四番札所長谷寺は長谷観音と呼ばれ、木像の観音としては日本一といえる十一面観音を本尊としている。二丈六尺は髪際以下の長さで、仏頂から足下までの像高は1197pあるという。寺縁起では元正天皇のころ、徳道上人が大和の山中に運ばれていた楠の巨木から二体の観音を彫らせ、一体は大和長谷寺に安置し、一体は有縁の地に出現して人々の苦難を救い給えと海に投じたところ、三浦郡初声(はつせ)に流れついたものという。 そこで天皇の命により、藤原房前が現在地に一寺を建て、徳道上人を開山に海光山新長谷寺と名付けたという。

 ところで、慶長十二年七月十二日付けの長谷観音堂棟札を建長寺の塔頭宝珠庵の元祥が書いているという。長谷寺は浄土宗で、他宗(建長寺は曹洞宗)の僧が棟札を書いたというのはなぜだろうか。中世には各宗の寺院が荒廃して無住となり、それらの寺院管理を禅宗が引き受けたことが多かったらしい。一番札所の杉本寺でも、本来天台宗なのだが、一時建長寺が管理していたことがあったという。建長寺の塔頭宝珠庵は了堂素安の塔所で、素安は新戸の長松寺への安堵状にある安首座禅師のことである。

 全く関係のない寺かと思っていたら、次第に座間との関係がでてきた。前号でも触れたが、長谷寺に伝わる「相州鎌倉海光山長谷寺事実」には、康永元年(1342)、足利尊氏が本堂を再建し、高座郡座間村(現座間市)内の土地を灯明料として寄進したとあるというのである。もしそうであるなら、これは座間村(座間という名でも)の名の初出であろう。

 こうして、一番から四番まで、鎌倉付近の札所はなんらかのかたちで座間とかかわりをもつことになった。西願の影も感じないではいられない。         (12・3・22)

[注]

 *1 近くに規模の大きい寺(観音を本尊とする)がある。例えば海老名市国分の龍峰寺は国指定の重文であ         る十一面観音を本尊とする。

 *2 龍峰寺の十一面観音も一木二体説である。

 *3 同じ新戸の常福寺の開山も了堂素安。

             



 

  座間にも来た大先達
  野田泉光院
            


 文化、文政のころ、日向国の佐土原(現、宮崎県宮崎郡佐土原町)の安宮寺という修験寺があって、野田成亮という住職がいた。修験者としての名を泉光院という。 修験者つまり山伏には本山派と当山派の二つの派があって(江戸初期、寛永寺を本山として羽黒派が別に作られた)、本山派は天台宗に属し京都の聖護院が本山、当山派は真言宗で山科の醍醐寺が本山である。安宮寺は当山派の直末寺院といって、醍醐寺の三宝院門跡に直属する高い地位の寺院であった。
 泉光院野田成亮は当山派の階級のうち最高位の大先達で、日向地方一帯の数十人の山伏を支配すると同時に、佐土原二万七千余石の大名である島津家(薩摩島津の分家)の家臣でもあった。
 野田家はもと薩州出水の野田庄を所領としていたが、九代前の先祖野田中納言が主君に従っての討伐で戦死、そのとき中納言はまだ十六歳で跡継ぎがなく、主君の奥方が家が絶えるのを惜しんで、自分の甥を野田重清と改名させて継がせ、戦死者の菩提を弔うため山伏の修行をさせて安宮寺を創建し、その初代住職としたのである。 修験道というのは日本古来の山岳信仰に天台、真言などの密教が習合してできた宗教で、山岳に入って修行を行い呪力など特殊な能力を体得して加持祈祷をするものである。明治に至って、神とも仏ともつかぬこのような宗教は認められないとして解散を命ぜられ、修験者の多くは野に下り、一部は神主に転職した。しかし、それまでは未開な医術に代わって庶民の苦悩を救うものとして、陰陽道とともに民間信仰の大半に関わっていたのである。 修験者は金峯山・大峯山などを根本道場として入山し、生死の極限に迫る厳しい修行を行ったが、泉光院は生涯に大峯修行三十六度(別に奥駈修行十三度)を行ったという並みならぬ修験であった。
 この泉光院が今、民俗研究家のあいだで話題となっているのは、彼が文化九年九月三日から文政元年十一月七日まで六年二か月にわたって、南は鹿児島から、北は秋田の本庄、宮城石巻まで、日本国中を歩きぬいて残した記録『日本九峰修行日記』による。その膨大な記録は、現代口語訳とすれば原稿用紙三〇〇〇枚にもなるであろうといわれている。六年以上にわたる期間、同行する荷かつぎの男(平四郎という)と托鉢を続けながら、民家などに宿を求め、全行程を殆ど無銭旅行したのである。そうして毎日欠かさず日記を書いた。参詣した社寺の名、宿泊した村名と泊めてくれた人の名、通過した土地の地名など基本的な記録のほか、土地土地の民情や信仰の実態を主観的な論評を避けて極めて客観的に書いていることが、今までいわれてきた歴史観を超えて、当時の庶民生活をなまなましく浮かび上がらせてくれるものとなっているのである。民俗学の宮本常一は、泉光院の『日本九峰修行日記』を遣唐僧円仁の『入唐求法巡礼記』に次ぐ紀行文と激賞している。
 泉光院の旅は、本山醍醐寺三宝院の命を受けての諸国修験見聞役としてのものであったが、同時に、主君の代参や諸国の民情視察も命じられていたらしい。全国の著名社寺を神仏宗派に関係なく巡拝して納経して歩いた。 九峰とは英彦山・石槌山・箕面山・金剛山・大峯山・熊野山・富士山・羽黒山・湯殿山であるが、うち、石槌山は四国に至ったときもう閉山になっていることを聞き、来年出直すことにして帰国しているので、実際は八峰に登拝した。
 泉光院は修行を積んだ山伏(修験者)だったから、加持祈祷は本業で、旅行中頼まれれば方々でこれを行っている。また易占にも通じ、筮竹と算木を使って求めに応じている。経典・祭司儀礼にも熟達し、地方の山伏の指導も行っている。茶道・華道にも通じ、さらに俳句は雪中庵蓼太門と伝え、一葉と号した。
 忘らるる身をば思へど秋の風       一葉
 当時、どんな田舎にも俳句愛好家がいて、句の交換や連句の座をもうけたことが書かれている。また、漢詩や和歌の作品も記載されているし、書もなかなかのもので、頼まれると額や傘などに揮毫もしている。
 武道では棒術・柔術を体得、特に弓道は師範の腕前であった。これも所々方々で指南を行っている。
 山岳修行に耐えた修験者であったから恐るべき健脚で、例えば文化十一年京都にいた九月二十日の日記に、「朝五更より伏見出立。比叡山へ詣で、八瀬へ下り鞍馬へ詣づ」とあるが、直線距離で伏見から比叡山までは約十五キロ、比叡山から鞍馬寺まで七、八キロ、鞍馬から伏見が二十キロ。地図上に直線を引いて合わせて四十数キロ、まして比叡山は標高八〇〇メートルの山である。道は直線とは限らない野道で、しかも途中から大雨になった中を、およそ十六里(六十四キロ)歩いて日没後に伏見に帰っている。十六、七時間歩き通したのであった。
 連れの平四郎も平凡な男ではなかったが、さすがにときどき病いに倒れることがあった。しかし、泉光院は出発当時五十七歳、すでに隠居の身でありながら、六年間殆ど病いや負傷に倒れることがなかった。
 笈を背負い金剛杖をついた乞食(托鉢をして歩くのだから乞食でもある)のような姿であったから、たまに旅籠に泊まることがあると、入れ込みの安い部屋に入れられた。飫肥(日南市)の旅籠で夜になって手洗いに行くとき、醍醐御殿ご用の菊の紋章のついた提灯をつけたら、驚いて早速奥座敷に代えてくれ、食事も改まったという。旅は三宝院門跡(皇族)の公用だったから、菊の紋章の使用が許されていたのだが、幕府絶対の江戸時代にあっても、皇室を特別視する感覚が民間にあったことがわかる。
 国によって、あるいは土地によって旅人を泊めてはならないところがあった。野宿しかあるまいといった困った場面に、いつも不思議なことに、「ここはお上の厳しいお達しで勝手に旅人をお泊めすることができない土地ゆえ、困っておられるのでしょう。私の家は、狭くてむさ苦しいのですが、一晩だけ我慢して、ないしょでお泊まりなさい」などという人が現れてきている。このようにして六年余の行脚中、一度も野宿することなく過ぎたが、偶然というよりは、そのような民情がどこにもあったことが推察される。
 長崎の其木(東彼杵町)では三百軒の家すべてが日蓮宗という土地柄で、回国者を泊めることはもちろん、托鉢も一切受け付けない土地だった。ところが一軒だけ浄土宗の家がある。喜平次というその人は、以前から回国者が困っているのを見ると、一晩は泊めるようにしていた。ところが同宗の人が見て、わが宗門では念仏の者を泊めてはいけないことになっているから、今後絶対に止めるべきだといった。喜平次は、念仏の者を泊めたところで、相手が口の中で言っていることが、こちらの障りになるはずがないといって取り合わない。聞いた住職が怒って、念仏一遍申せば、お題目千遍申さねば念仏のけがれは消えぬ、と言ったので、喜平次は、念仏一遍が、題目千遍に相当するとは初耳、そんな面倒な宗門なら破門してくれといって、浄土宗に宗旨替えをしたのだという。それで以後格別迫害された様子もないから、日蓮宗といっても、特にうるさい信心家は村中で何軒かだけで、大部分の村人は、誰が何宗であろうと大した問題ではなかったのだろうと、これは『泉光院江戸日記』の著者石川英輔氏の解説である。
 萩を過ぎて笹波(山口県阿武郡旭村佐々並)では、天草の女性五人連れに会っている。四国巡礼の帰りにここで泊まったが、一人が疱瘡にかかった。天草の島などでは疱瘡が流行すると、島人は島を捨てて移住するようなことがあったらしい。手当てのしようがなく、逃げ出すよりほかなかったのである。ここでも病人を残して四人で帰るというので、宿の主人が、そんなことは許せないといって、お上へ問い合わせると、治るのを待って帰国させよというお達しだった。萩から御典医が派遣されて養生させたが、結局全員が感染して二人亡くなったという。この間、お上では、病人に一日米一升(一・五キロ)を支給し、介抱人二人をつけ、介抱の手当てとして銭六貫文(約一両)を支払ってくれた。回復した三人の女には二人の者をつけて天草まで送りとどけたという。当時の領主が搾取一辺倒ではなく、きめ細かい福利策をとっていたことがわかるし、女性だけのグループが四国巡礼に出て、帰りには長州の山の中まで回り道をしている。結構、現代並に、当時の女性も気ままな旅をしていたのではあるまいか。その後、防府では宿がなくて困っていたところ、通りかかった女性が長崎で会った人で、尋ねると、夫と子供の三人で四国西国の巡拝に出てきて、ここに住んでいる義姉の家に滞在しているという。こうして泉光院たちもその家に泊めてもらうことになった。江戸時代の庶民は移動の自由がなかったようにいわれてきたが、かなり自由に行動していたらしいのだ。
 芸州(広島県)はすべて一向宗(備前法華安芸門徒という)で、托鉢など一切できないだけでなく、経済合理主義の発達した土地であった。たまたま一軒の家に立ち寄りお茶を飲ませてもらっていたところ、出てきた主人に狼藉者呼ばわりされた。慌てて外へ出たら、娘が追っかけてきて、一人三文ずつの茶代を請求された。弱い立場の托鉢者にとって、これではたまらない。帰りには芸州を避けて四国へ渡っている。
 旅の宿では、夜になると近所の人が大勢訪ねてきて、「旅中日記聞きに集まって」きた。日記を見ながら各地の様子を面白く話して聞かせたのであろう。情報も娯楽も乏しかった人々にとって、遠い国々を歩いてきた珍しい話を聞くのは、大きな楽しみであったようだ。回国修行者が一般に受入れられたについては、こうした面もあったことがわかる。
 鉱山の現場などにも足を向けている。石見銀山では、「日雇い坑夫に三十歳以上の者はいない(坑夫が短命であることをいう)。それを承知で掘りに行くのだから、命をへちまの糸とも思っていないのだ」と書いている。そうして、ここでは「女は、男を三、四人ずつ持っている」とある。
 泉光院の回国は、主君佐土原島津忠将の了解になる旅でもあったから、江戸・大坂では藩邸に出向いている。江戸藩邸では主君から、虚空蔵菩薩に疱瘡よけの祈願をしたのが満願になったので、日本三虚空蔵への代参をおおせつけられ、白銀を受けとった。
 奥女中たちからは、泉光院が笈に入れて担いで歩いている本尊へ初尾(賽銭)をもらった。また主君と世子二人の武運長久の祈祷を頼まれ、修法を行った。文化十三年三月であった。
 江戸を発って、秩父札所の一番から三十四番までの札所巡りを六日間で終え、高崎では高僧徳本の説法に出会っている。例幣使街道の宿駅境では東照宮への勅使日野大納言の通行に出会い、輿の中から御包物を道々まき散らし「男女群集し拾う」という面白い記録をしている。これまでの道中で坂東観音霊場の寺々を巡り、古峰神社・東照宮へ参詣、信濃へ入って戸隠・立山に登山、出羽国へ向かい、出羽三山へ詣でた。
 翌年四月、再び江戸へ帰り、御屋敷に着到の報告(父に会うため江戸にきていた長男に会う)、代参で受けてきた守り札を差し出した。
 泉光院が座間の星谷寺へ来たのは、この年五月十三日で、十一日、相模一の宮寒川神社に参詣した彼らは、相模川を舟で渡って平塚に至り、四の宮(前鳥神社)・平塚八幡宮に参詣した。坂東札所金目観音では、納経印をもらいに行くと、住職に笈仏を開帳してほしいと頼まれ、笈を開いて長々と読経を受けた。当日は石田村(伊勢原市)の浄心寺に泊まる。十二日、大雨なので、
 憂きことのはてや旅路の五月雨      一葉
 と一句作ったら、住職が見て、それほど雨が難儀ならもう一日いなさい、といってくれた。「かようなる時には、発句も役に立つものなり」と、もう一日泊まった。 十三日、厚木へ出て相模川を渡り、相模国分寺参詣。夜は坂東札所星谷寺の門前に泊まったとある。
 そろそろ心が帰途に向いてか、あれほど詳細に土地土地の風習や宿の様子を書いていた泉光院が、座間や星谷寺について何も書いていないらしいのが残念だ。
 文化十四年(一八一七)当時の星谷寺住職は誰だったのだろう。『座間むかしむかし 第一集』によると、星谷寺観音堂は文化十年ころに再建とあり、同十一年の川柳奉納額・十三年の古流挿花会の奉納額もあるから、寺は再建間もなくの華やぎのあるころであった。星谷寺の歴代僧墓塔にはこの年代のものが見当たらないが、参道脇に木食観正の石塔があり、基壇側面の土を払ってみると、文政二年八月の創建であることがわかり、また現住周應代とあり、文政二年(一八一九)はこの二年後だから、おそらくこの周應が当時の住職であったと思える。同じ当山派であったのに、語ることはなかったのであろうか。
 天保十年(一八三九)の『相中留恩記略』絵図によると、星谷寺観音堂は仁王門(現在なし)のほかはだいたい現容と同形である。門前は数軒の家屋が見えるだけで、門前町と呼べるほどには描かれていない。伝承によると、屋号を『丸屋』・『夷(えびす)屋』などという宿屋があったそうで、そのどちらかに泉光院と平四郎は泊まったのであろう。
 前記絵図の其二は外記宿遠望で、遠く相模川岸に二、三軒の屋根が描かれている。翌日、二人はまた相模川を渡って、六番札所飯山観音・日向薬師へ向かうが、外記宿がこの道の渡船場だったことを暗示するものであろう。対岸から飯山への道の辻々に左星谷寺道・右飯山寺道と彫られた道標地蔵が現在も立っている。
 その日は薬師の門前に泊まり、翌十五日は大山不動尊へ参詣した。菖蒲団子というものを売っていて、これは供養のため野良犬に食わすものであったという。
 文政元年(一八一八)十一月六日、泉光院と平四郎は六年二か月ぶりに故郷の土を踏み、翌日、山伏たちを引き連れて威風堂々と安宮寺に着いた。歳暮一句、
 峠にも休み所なし年の坂         一葉
 泉光院は天保六年(一八三五)八十歳で没した。佐土原の大光寺に大きな自然石の墓碑があり、安宮寺は明治の弾圧であとかたもなくなったが、寺跡には九峰修行供養塔が今も残されている。
 『日本九峰修行日記』を世に問うたのは、泉光院から五代の孫、杉田直(作郎)であった。明治二年に国学者野田丹彦の三男として生れ、十五歳のとき都萬神社宮家杉田ナカの養子となった。勉学して眼科医となり、昭和三十五年九十一歳で没した。作郎は自由律俳句の号で、荻原井泉水門。私には先輩にあたる。
 柿の赤さは包みきれない         作郎
 泉光院は『日本九峰修行日記』を三部作り、一は醍醐寺三宝院へ納め、一は佐土原島津家へ献上し、一は自家にとどめた。しかし、島津家のものも自家のものも西南戦争で散逸して行方が知れなくなっていた。作郎は父祖の業績を顕彰するため、たいへんな努力をして散逸した『日本九峰修行日記』を集めた。全六巻のうち五巻までは十数年の歳月をかけて収集できたが、第三巻だけはどうしても見つからなかった。昭和九年、泉光院没後百年にあたるため、氏は法要を営むとともに日記を活字本として刊行したい意向であったのに、遂にこれを断念した。 ところがこの年の九月、室戸台風で本山醍醐寺の宝庫が大破し、収蔵されていた古文書類を整理していたところ、かねて問い合わせても不明であった日記の清書本が、全巻揃って見つかったのである。十一月、その印刷が成り、翌年(昭和十年)二月、泉光院百一回忌にあたり、日記の出版報告が墓前でおこなわれた。作郎は昭和三十五年、九十一歳で没した。
 作郎の長男正臣は父の医業を継ぎ、層雲派の自由律俳人で井蛙と号し、親子揃って層雲寿老賞を受賞した。彼は『日本九峰修行日記』を初め、家伝の蔵書・書画をまとめて県立宮崎図書館に寄贈、『杉田文庫』を作った。 正臣の長男幸雄は宮崎市の杉田眼科医院を継承、二男(久留米)、三男(宮崎大塚)もそれぞれ眼科医となっている。正臣の弟秀夫は画家となり瑛九と号した。正臣は昭和六十三年、八十七歳で没している。
               (平7・4・7)
[参考文献]
 『泉光院江戸日記』石川英輔著・講談社刊
 『野田泉光院』宮本常一著・未来社刊
 宮崎日日新聞記事
  「泉光院『日本九峰修行日記』のこと」山口保明筆  「先達逍遥」山口保明筆
 『杉田文庫』資料(山口保明氏提供による)
 『版画事典』室伏哲郎著・東京書籍発行
[注]
*1 座間も修験が盛んであった。本山派では谷戸の大   坊、新田宿の昌清寺(諏訪明神社の別当)があり、   当山派には星谷寺の末寺羽根沢の南光坊(寺伝で   は南坊)があり、また四ッ谷に大覚院があった。*2 皇子・皇族が就くならわしであった。
*3 古代中国の陰陽五行説に起源する哲理。万物は陰   陽の二気によって生じるとし、天地の変異、人事   の吉凶を説くもの。
*4 当山派の場合大峰山脈を縦走しながら、三途八難   の苦しみを体験する荒行をいう。
*5 文化10年4月2日、野母半島沖樺島での記録に、   家々に不自然なほど大勢の人がいるので尋ねると、   天草の人たちだといい、島に疱瘡がはやって島に   いれば全滅するので、病人をおいて逃げてきたの   だと聞いたことが書かれている。
*6 寺に納める銀貨であろう。
*7 紀州の人、文化年間関東の諸方を巡りひたすら念   仏に終始する捨世の僧。徳本の行くところ、熱狂   した大衆が集まった。また独特の書体の六字名号   碑が知られる。泉光院たちが星谷寺へ参詣したの   は文化14年5月、その11月に徳本は当麻の無量光   寺に入った。泉光院はこの年、紀州で徳本の生家   をわざわざ訪ねている。
*8 例幣とは朝廷から毎年決まった時に神前に奉納す   る幣帛で、例幣使はそのための勅使。御包物とは   お札のようなものであろう。
*9 三峰神社(秩父)、岩船地蔵(栃木県岩舟町)に   も参詣している。
*10 文化文政のころの修験者。木食とは米穀を断ち、   木の実のようなものを食して厳しい修行を行うこ   と、または行う僧をいう。観正は徳本のあとを受   けるように、相模を中心に加持祈祷と念仏による   熱狂的な布教活動をおこなった。
*11 リトグラフ、エッチング、フォト・デザインなど   を手掛けた画家。彼の助言で池田満寿夫はエッチ   ング制作を始めたという。宮崎からのち浦和に移   る。(唐沢柳翁調査による)
      (『つづれ草』37号H7・6・1発行)