私の通っていた高校では1学年で地理と政経、2学年は日本史、そして3学年は世界史と、学年ごとに社会科の教科が変わった。
決してできの良い高校ではなかったが、クラスのほとんどが進学を目指していた。
高校も3年になると、理系組と文系組は分かれて授業を受ける事がある。受験に関係する教科に集中して効率よく授業を受けるためだ。こうなると理系組、文系組を問わず自分の受験科目に無い教科の授業は邪魔者でしかない。
こんな状況だから、例えば高校3年の時の世界史の授業などはほとんど誰も聞いていない。大学受験で世界史を専攻する者にしても、彼らはとっくに、より突っ込んだ勉強を済ませてしまっているので、全員対象の世界史の初歩的な授業などは別に有難いわけではない。
但し、このあたりの事情は教える先生も心得ており、「何が何でも、世界史の勉強をしなくていかん」みたいな圧力を掛けたりするようなことは無かった。
授業中も、世界史に関係の無い学生は、先生の話を聴かないどころか、堂々と別の参考書を広げて勉強していたりすることもある。
大学受験も終わり進学先が決まると、(と言っても大学進学を目指した学生の約7〜8割は浪人という選択を余儀なくされるのだが)高校の授業は生徒、先生ともに益々気合の入らない日々が続くことになる。
浪人とは言え、人間、自分の方向性が明確になると安心するものである。また来年に向けて苦労することになるのだが、未だ1年も先の話だ、しかも時は春。
周りは浪人ばかりだから、誰も肩身の狭い思いなんて感じておらず。「あー春だぁー」みたいにのんびりしてしまい、これはこれでいいものである。
結局、世界史の先生はこの1年間、3年生からは、完全に無視されたまま、最後の授業を向かえることになる。
世界史の先生は鈴下(スズモト)といい、背も低く見るからに風采の上がらない40歳半ばの男性だ。授業中に気の利いた冗談を言ったりすることもなければ、こちらがグッと惹きつけられるような瞬間をほのめかすこともなかった。
鈴下先生は、最後の授業に教科書を持たずに教室に入って来た。いつもなら、先生が教室に入ってきても友人とのお喋り止めない連中も、最後の授業に先生が手ぶらで現れたことでいつもと違う雰囲気を感じたか、先が読めない。
「みんな、最後の授業になって、初めて集中してくれましたね」鈴下は言った。
クラス内部から、クスクスと笑い声が漏れた。
「僕が、大学生だったころの話をします。もう、卒業まで何日もないけど、これから君たちの人生には色んな事が起こります。君たちに2つのことを守ってもらいたい。1つは、たくさん本を読んで欲しい。もう1つは絶対に死なないで欲しい。この2点です。」
クラス中は、水を打ったように静かになり、誰もが話の展開に集中している。
「僕は、せっかく大学に入ったのに始めのうち少し授業に出ただけで、だんだん授業に出なくなり途中からはほとんど学校に行かなくなってしまったんです。それでも入学当時に知りあった友人がいて、学校には行かなくても時々一緒に食事をしたり、話をしたりすることはあったんです。
彼は、僕とは違いとても社交的な人間で、背も高くハンサムでお洒落で、そのうえ車も持っていたんです。いつもみんなの真ん中で楽しそうにしていたんだけれど。なぜか、こんな僕によく気を使ってくれ、しばらく学校に行かないでいるとアパートまで話に来てくれて、『明日、○○○の試験があるぞ』とか『■■■のレポートを今週中に出せば単位はもらえるらしいぞ』等と色々親切にしてくれました。僕は、彼のおかげで卒業できたと言ってもいいかも知れない。
とは言え成績は惨憺たる物で、AからEまでの5段階評価(もちろんAが一番良い)なんだけど、Eにも満たない場合は『×』が付くんですね。僕の成績表には『×』がたくさんあって、それを見た親が『なんだ、これはひどすぎるじゃないか』と嘆いたものです。でも、『×は学校の校章(ペンが交差した、慶応の校章?)の略号で、Aよりも良いことをあらわしているんだ』と在学中は嘘をついて通したんです。
相変わらず僕の生活は、ほとんど学校にも行かず、たまに行っても図書館で本を借りるぐらい。暗いアパートにこもって本ばかりを読んでいたんです。
そんなある夜、同じアパートの学生が僕の部屋のドアをノックしたんですね。彼は僕に、親切だったそのハンサムな友人が首を釣って自殺したと言う内容を告げました。
僕はビックリして、アパートを飛び出したんだけど、結局何もできずアパートの周りをアタフタと2周ほどして戻ってきただけだったんです。
もう、大学も4年で、彼は就職先も内定していたはずなのにどうして自殺してしまったかわからない。結局彼の自殺の原因はなんだったのか未だに解らない。
でも、今となってはどうしようもない。死んでしまったら、どうしようもないんだ。もし生きていれば、何でもできたと思う。相談に乗ることも、一緒に酒を飲んでいるうちに考えを変えることもできたかも知れない。でも死んでしまったらそれで、全てが終わってしまう。誰も、何もできなくなってしまう。だから、どんなことがあっても死んではいけないんだ。同じ言葉を繰り返しているだけになってしまうけど、他に思い当たらない。だから、みんなも絶対に死なないで欲しい。くどいようだけど、これだけは絶対に約束して欲しい。。。」
ここまで話すと鈴下先生は、みんなの方を見つめたまま少しの間黙っていた。まるで皆にお願いしているかのように。。
皆は黙ったまま、先生が話の続きを話し始めるのを待っていた。
「僕は、それから、就職活動を開始したんです。今まで、本しか読んでいなかったので、就職活動と言っても何をして良いのか解らない。当時一番人気があった『東京海上火災』という会社の試験を受けに入ったんですね。試験会場に入ると、説明員が『うちは、 Aが20個以上無い人は採点しません』と開口一番に言ったんです。
隣にいた早稲田の学生は『俺そんなにAねェーから駄目だ』と、言ってその場で試験も受けずに出て行ってしまいました。
僕は『×』の数なら20個はあったかも知れないがAの数は20には到底足らない。それでも、早稲田の学生のように椅子を蹴って出て行く勇気は無かった。そのとき早稲田の学生は格好いいなぁ、と思ったんです。
結局、『東京海上火災』は端にも棒にもかからず落ちました。
その後、某精密機械メーカーの試験を受けたんです。そこの会社はAの数でふるいに掛けるようなことはしないことが解っていたからですね。
そこでの試験は論文だけだったんです。僕は学生時代にたくさん本を読んでいたおかげで、論文のテーマに即した内容を即座に導く出すことができ、どうにか合格することができたんです。その後、色々あって、まぁ、今こうして高校の世界史の教師をしているんだけど。。。」
結局、先生は60分のうち45分間話し続けると、15分を余して教室を去った。
居眠りをしたり無駄口を叩く者はだれ一人としていない最後の45分間の授業だった。
後日、同窓会の場で、鈴下先生と話をする機会があった。
その時は、別の学校でやはり世界史を教えているとのことであった。
「先生、あの時の最後の世界史の授業の話、3年の一番最初にしてくれれば、もっと皆先生に対する見方は良い意味で変わってたと思いますよ」
「冨村君、最初に良い印象をみんなに与えて、その評判を維持しながら1年間過ごすのは並大抵のことじゃないんだ。それよりも、最後に大事なことを述べて、良い印象だけを残して去っていくほうがよっぽど簡単で格好いいんだ。」