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The One and Only

長くかかってしまいましたが、先月ようやく昨年発売された「The One and Only」をすべて読み終えました。
そして書こうか書くまいか悩んでいました。

これは難しい。どう表現すればいいのか悩んでしまう。

なかなかページが進まなかったのは、あまりにも濃厚な思いが詰まっているからで、なんと言いますか、私のような彼との思い出を持たない人間からしてみると、若干疎外感を感じてしまう内容だったのです。
気持ちがあまりにもストレートに綴られているため、この思いを共有できない人間からするととても重く辛いものに感じてしまうのです。同じ時を経なかったために、どうしても温度差を感じずにはいられない。
彼がいないという現実に、私が抱えている言葉にし難い大きな穴と、ずっとずっと彼を見てきた人たちの抱えている思いは決定的に違うのだと思い知らされました。
だから出てくる涙の意味も全然違う。

これはどうしようもないことなんですよね。
レスリーに対する思いは100人いれば100通りあるわけで、それを否定するつもりはまったくなく、ただ私の気持ちは…。
非難覚悟で書きますが、後半のファンからの追悼文に関して改めてこういった書籍にする意味に戸惑いました。
でも今は、この書籍の出発点がファンの思いが大いに関わった編集によるものだったということから考えると、その思いが後半の追悼文に集約されてるのかなぁ、とも感じています。まさに、彼を愛してやまないファンの有難うの気持ちが集まった彼へ贈ったメッセージ。

この「The One and Only」は、レスリーと時を同じくした人たちの抑えがたい愛情がとめどなく、とても誠実です。
だから彼が亡くなって少し時間を経ている今、私のような彼の没後にファンになった人間からすると、この書籍と向き合うには少々覚悟がいるのだと思います。
そのくらいレスリーへの鮮烈で消すことなんて出来ない強い思い出が溢れているのです。そしてそれが正真正銘のレスリーと彼らとの絆であるがゆえに、それに触れてしまった私はぽつんと一人取り残され、どうやっても埋められないレスリーと自分との距離感を受け止めざる得なくなり、耐え難い虚けた心に直面しなくてはいけなくなるのです。
これは私がレスリーのコンサート映像を見られない気持ちと少し似ているかもしれません。
映画とステージの決定的な違いは、一つの瞬間を共有するか否か。
その場にいなかったことは映像では埋められません。どうやっても。だから、その時を経験しなかった私には、永遠に味わうことができない苦しみと悲しみと、そして喜びがあるということなのだと、感じずにはいられませんでした。

昨年復刊された「慶−ディレクターズ・エディション」は言葉はとても少ないけれど、彼からのメッセージに溢れていて、彼の目指した世界はまだまだ途切れてはいないと感じずにはいられないものでした。
私にとっては「慶」が復刊されたことがレスリーへの追悼になったような気がしています。それは、慶復刊が私にとってレスリー対自分という初めての繋がりを感じる出来事だったからかもしれません。

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この文章によって気分を害された方がおられましたらお詫びいたします。
他意はなく、ただ私の思いをどこかに記しておきたくて。ただそれだけです。何か不都合がありましたらこちらからお知らせいただければ幸いです。

(2006.02.17.)