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風立ちぬ、いざ生きめやも


山口百恵と三浦友和主演で映画化されたこともある堀辰雄『風立ちぬ』に登場する一説。フランスの詩人ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』から引用されています。原詩の意味は“風が吹いた!我々は生きていかなくてはいけない!”です。
めやも…というとまず思い出す
“むらさきの匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも”
という歌を参考にするならば、“生きめやも”の現代語訳は“どうして生きていくことができるだろうか。とてもそんなことはできない。”というような意味になると思います。
この『風立ちぬ』という作品は、結核にかかった恋人を看病する私(主人公)が恋人との幸福を見つめたさりげない日常を描いている作品です。閉ざされたサナトリウムで二人はどんな幸福な日々を送ったか、そして恋人が日に日に弱り逃げていこうとする幸福を、私は必死にノオトに書き留める。彼女の死ゆえに私は雪山に閉じこもり、彼女の死のこと、自分が生きていること。静かに考えはじめます。
“どうやって生きていこうか”から“生きていきたい”に、そして恋人が亡くなり、リルケの『レクヰエム』を口ずさむ寂しい時でも生きている。「そんなことがこの意気地なしのおれに出来ていられるのは、本当にみんなお前のお蔭だ」と私は言っています。
最愛の人が亡くなってもその人との日々が自分を生かしてくれる。漠然と感じていた思いがハッキリと認識できたとき、それが“生きめやも”だったのだと。
愛する人を失ったという避けられない現実と苦しみを抱えて、それでも生きていかなくてはいけない私の背中を静かに押してくれるのも愛する人だったんだと確信したとき、風が立ったのだと思います。
“風立ちぬ いざ生きめやも”は堀辰雄の誤訳とも言われていますが、私はそうは思わない。
この作品は淡々と、だけれどまっすぐに生と死を見つめている。彼はこの美しく繊細な響きの中に、不安とも希望とも変わる繊細な人の心を映し出しています。作者自身も不治の病だった結核に侵され、また婚約者を同じ病で亡くしました。そんな彼だから込められた様々な思いがこの言葉なんだと思いたい。

風が吹き立った。今私は生きていこうと思う。

レスリー、お誕生日おめでとう。


(2005.9.12.)