『渇くけもの』





[2002年10月3日未明――]





夏が過ぎ去った空の下を、駆けていた。
必死に、懸命の思いで。
激しい動悸。乱れる呼吸。どうということはなかった。
あちこちに秋の色が見え始めた街並。少しだけ冷たさを増した空気。
朝。あふれる人の波。
走る。
ただひたすらに、走る。
胸のうちから湧き上がる異常な熱に、狂おしいまでの熱情に、走らされている。
煮えるようだ。
そこで止まってしまえば、行き場を失った熱が、自分のなにもかにもを溶かしてしまう。
熱い。

――落ち着け。

脚を止める。
自分に言い聞かせる。
大きく息を吸い込む。吐く。
止まらない。収まらない。
胸をかきむしりたくなる。滅茶苦茶に腕を、体を動かしたくなる。
どくどくどくどくと鼓動は乱れ打ち、心の中では、何か、溶岩でできた灼熱のけもののよ
うなものが暴れ狂っている。

もう一度、息を吸う、大きく、長く。
体の奥底から四肢の先、心臓、脳漿に至るまで。
熱に犯された全ての隅々にまで冷気を送るように。
さらに、一息。
収まらぬけものを無理矢理に押さえ込み、呼吸を整え、心を休ませ、空を仰ぐ。
小さくつぶやいた。

「シスプリ」



それが、けものの正体。



――シスプリ!
思い出す。可憐。その名を思い出す。
可憐。
可憐。
可憐可憐可憐可憐、可憐。可憐。可憐、可憐――可憐可憐可憐可憐、……可憐!
もう、駆けていた。
疾走。
熱い。巡る血が、体中の肉という肉に擦れてひどい熱を生じさせる。
煮えたぎる濁流。どろどろに溶けた鉄の瀑布。
とめられない。どうしていいかわからない。
ただひたすらに走る。ほかになにもできない。

――シスプリ!
心の中で、叫ぶ。幾度も叫ぶ。
どうしてしまったのだろう。

シスプリ。
シスタープリンセス。
思い出す。シスプリ。俺のシスプリ。
還ってきた。俺のシスプリ。
――還ってきた!


昨夜。まだ数時間前。思い出せる。全て思い出せる。
己がかつて出逢ってきたシスプリ。
幾度も己を熱くさせ、高め、昂ぶらせ、今に至る。
最高のシスプリが、昨夜。
否、最高などない。
究極はなく、至高もない、そういうものなのだ。
しかし最高だった。

それに出逢ってしまったならば、あとは、走るしかない。
ありえないものだったからだ。
己の持つ理想の脆さ、あやふやさに絶望する。
その絶望が、実は喜ばしいものであることを否定できなかった。
この思いを、どうしていいか分からない。
内に暴れるけものを、自分の心を形作る器にぶつけ、粉々に打ち砕いてしまいたかった。

あいつは――どう思っているだろう。

かろうじて残る理性と意識が思い浮かべた、友の顔。
同じ思いをシスプリに抱く者。同士であり、友。
穴兄弟。
お前はどう思っている。
己と同じ思いに悶え苦しんでいるのか。
煩悶も快楽も乗り越え、さらなる高みに達したのか。

逢いたい。逢って知りたい。今すぐにでも。
だから駆けた。街を。シスプリを知らぬ人々の中を。

駆け抜けた。



・
・
・



「――鮎川」
「春日か」

 早朝の、暗いアパートの一室だった。
 男が一人、まだあげていない布団の上にたたずんでいた。寝ていたわけではない。部屋
着のジャージ姿のままで、ただ腕を組んで座っている。
 春日は断ることもなく、部屋にあがりこんだ。

「来るだろうと、思っていた」

 鮎川は春日のことを一瞥すると、再び視線を元の方向に戻した。
 14型のフラットテレビ。電源が入っていないそれを、鮎川はただ見つめている。
 春日は何か言葉を捜そうとした。それが必要ではないことを知っている。言わなくても
分かることだからだ。しかし、それでも何かを言いたかった。

「まあ座れ」

 鮎川は立ち上がって、流しの方に向かった。春日は遠慮せず、布団の端のほうに腰を下
ろした。冷蔵庫から、紙パックが取り出される。来客のあるとき、鮎川はいつも飲み物を
出すことを欠かさない。
 ギムレットと洒落込みたいところだが、と言いながら、鮎川は、来客用の紙コップに飲
み物を注いだ。チョコレートドリンクだった。次いで、自分用のマグカップになみなみと
注ぐ。
 出されたそれを、春日は一気に仰いだ。走ってきたので、息があがっていた。喉を通る
チョコレートの苦々しさが不快だった。
 ちびちびとチョコレートを啜る鮎川に、水をくれ、と言おうとして、止めた。

「鮎川、俺は」
「何も言わなくていい。多分、お前が思っているのと同じ事を、俺も思っている」

 言葉が遮られた。何を言っていいか分からないまま放ったものだったから、上手い言葉
になったとも思えない。
 二人の間にシスプリがある。それ以上の言葉はやはり必要ではない。
 水なら汲み置きのものがある、と言って、鮎川はチョコレートをぐい、と仰いだ。春日
はやはり喉の渇きを覚え、言われたとおり、ペットボトルに汲まれていた冷水を喉に流し
込んだ。ガラナの味が少し残っていたが、気にはならなかった。
 一息ついた。そんな心地だった。
 しかし、心に残る激情まではやはり静まらない。
 鮎川がふと口を開いた。

「いいシスプリだった。シスプリを知って早三年、ようやく、これはというものに巡り逢
えた気がする」

 鮎川は、いつも淡々と語る。春日は時にそれが気に障ることがあった。
 その通りだ。しかし、そんな簡単に言葉にしてしまえるものなのか。

「鮎川、俺の顔を見てくれ」

 自分でも、唐突な言葉だとは思った。

「笑っちゃいないだろうか。いや、笑っているはずなんだ。ゆうべからずっと、ニヤニヤ
が浮いてきて、それが消えていないんだ」

 歓喜の表情。それがまだ、かき消えているとは思えなかった。

「お前の顔はいつも見ているが、今日もいい顔をしているとは思うぞ。寝不足なのも出て
いるが」
「笑っているか、って聞いたんだ」
「あいにく、鏡はなくてな」
「真面目に答えてくれ」

 部屋には、姿見はおろか、手鏡もなかった。洗面所にはあるだろうが、そこまで見に行
くのも道化じみていた。

「俺は――」

 言おうとして、言葉に詰まった。具体的にどう、という話ではない。言葉のあやだ。し
かし、笑っているはずなのだ。それが表情に出てしまっているに違いない。
 可憐。ゆうべの『可憐』を思い出す。
 もぞり。
 ――居る。けものは、まだ、すぐそこに。
 春日はうつむき、押し黙った。ちらり、と、テレビの画面を覗いてみる。薄暗くて、自
分の表情はよく分からなかった。

「同じことを思っている、と言ったろう」

 鮎川も画面を見ていた。言葉の調子は同じままで、淡々としていた。
 春日が部屋に入ったときにも、鮎川はテレビを見つめていた。あれは、どのくらいの間
そうしていたのだろう。朝早く起きたのか。昨夜からずっとそうしていたのか。
 ビデオの電源がついていることに、春日は気がついた。

「お前が笑っているというのならば、きっと、俺も笑っている」

 鮎川の顔を見上げる。笑顔だ。穏やかな顔をしていると思った。
 いつも泰然としていて、どこか人を寄せ付けない男だった。心の中に、とても深いもの
を秘めている、そう思わせるところがある。だが、春日に対しては、心の胸襟を開いてい
ると思えた。
 この男は、けものを飼いならせたのだろうか。

「リ・ピュアか。最初は、そう大きな期待を寄せていたわけでもなかったが、大違いだっ
たな。あれこそがシスプリだ。余計なものがない、純粋な萌えだ。シスプリというものは
それでこそいい」
「純粋な、萌え」
「萌えだ。萌えるからこそのシスプリだ」

 鮎川の言っていることは正しい。正しいが、正しいことのほんの一部分でしかない。そ
して鮎川自身も、それを分かっているはずだ。
 シスプリのことを語るのは難しい。
 シスプリとは何なのか、たとえシスプリを知り、楽しんでいる人でも、それを共有でき
るとは限らない。
 萌え、という言葉の本質に関わることなのだ。シスプリを語るということは、すなわち、
萌えとは何か、と説明することに他ならない。
 春日は、萌えることが好きだった。ギャルゲーをするのも、エロゲーをするのも、萌え
のためだった。美麗な絵も、素晴らしい物語も、それらが萌えを演出できる、ということ
にこそ価値を見出すべきだと思っている。
 鮎川が同じように思っているかは分からない。鮎川が見ている萌えというものは、もっ
と深いところにあるという気もする。
 大事なのは、作品そのものではなく、それを受け取る側の感情が、どれほど揺り動かさ
れるか。その余地があるか。どれほどの悦びを心の内に作り出せるか。作品そのものに必
ずしも縛られない、超越したところにある何か、それを何よりも重んじる。
 二人とも、そういう思いを持っている。それを知ったことが、友情の発端だった。
 萌えを、シスプリのことを、分かってくれている。
 それは、たまらなく嬉しいことだった。

「鮎川は、どうだった」
「どうだった、とは」
「放送中だ。どんなことを思った。どんな風に感じた」

 どこか詰問しているような口調になった。春日はもう一口だけ、水を飲んだ。どこかや
きもきしている、そういう自分を見つめることはできた。

「俺は暴れたぞ。床で、ベッドで。見終わった後は廊下で、風呂で、トイレで。ジタバタク
ネクネした。抑えられなかった。顔が、顔が崩れてきた。笑っていた。めちゃくちゃな顔を
していたと思う」

 叫び出してしまいそうなのを抑えるので精一杯だった。このままでは、何をするか自分
でわからなかった。そんな心地だった。その激情が静まらず、ここまで走ってきたのだ。

「そうか」
「お前は、どうだったんだ」
「どうと言われても、難しいが――」

 言葉を選んでいるようには見えなかった。鮎川の萌えの表し方は、春日ほど顕著なもの
ではなかった。暴れたり、叫んだりする類のものではない。今まで付き合ってきて、そう
だと分かる。しかし、その熱さ、濃さは、決して春日に劣らぬ激しいものだということも
知っていた。
 鮎川が言葉を放った。

「ニ度観た」

 ――二度。
 春日は、思わず復唱していた。

「つい、二度目をな」

 少しだけ、照れくさそうな色が、鮎川の顔に表れていた。
 二度目。
 鮎川。お前が、二度目を観たというのか。
 春日は、そう思ったのを、しかし言葉としては発せなかった。
 気に入った作品を、録画なりして何度も観る。それは、どうという行為ではない。
 鮎川の場合だけは、それは特別なことだった。
 鮎川は、同じ作品を二度は観ない。プレイしない。それは、鮎川をよく知る人間には有
名な話だった。
 つまらないから、という理由ではない。これは、という作品ほど、鮎川は何度もプレイ
することを厭う。
 一期一会。
 なぜそうするのかと聞かれたとき、鮎川は、決まってそう答えていた。
 その機会は一生に一度のものと心得て、主客ともに互いに誠意を尽くす――という意の
その言葉に、いかなる存念が込められているのか。それは、春日にも、なんとなくにしか
理解できなかった。
 分からないでもない。しかし、幾度もプレイすることによって初めて見えてくるものは、
確実にある。そういう機会を全て捨てるまでの価値があるというのか。
 少なくとも、そうすることで鮎川の知識が曖昧になっている、ということはなかった。
幾度もプレイしてようやく考え至るようなゲームの考察も、問題なく行っているように思
えた。しかし、だからといって、そこまであっさりと割り切れるものなのか。
 そのことに触れられると、鮎川はいつも、複雑な表情を見せ、小さく笑うだけだった。
表情に、何か深いものがあった。悲しみのようにも、憤りのようにも見えた。だから春日
も、それ以上触れようとは思わなかった。
 ひとつだけ春日が知っているのは、鮎川がそうするようになったきっかけは、『加奈』
というゲームにある、ということだった。直に尋ねたのではない。仲間内でゲームの話を
しているとき、たまたまそのゲームの話になり、本人がぽろりと漏らしたのだ。
 妹ものの作品であるという。評判もすこぶる良い。だが、春日はプレイしていない。強
い興味は持ったが、鮎川がそうするようになった、ということが、どこかで引っかかって
いるのかも知れない。少なくとも、鮎川から『加奈』をプレイすることを勧められた記憶
はなかった。
 春日はテレビ台の中に目をやった。電源の入ったビデオデッキ。[29:31]と表示され
ていた。鮎川は録画は行う。だが二度は見ない。録画は不測の事態に備えてであり、それ
は次々と上書きされていく。保存はしない。鮎川の部屋は、オタクの部屋とは思えないほ
どモノが少なく、すっきりとしていた。
 その鮎川が、二度目を観たというのか。信念を曲げてまで。

「敗北、なのだろうな」

 鮎川が、ぽつりと、しかし、春日の正面に向かって言った。その顔を覗き見た。笑って
いる、と春日には思えた。
 タバコの灰を足に落としたんだ、と鮎川は言った。ジャージの膝の部分に、黒い焦げ跡
のついた穴があった。一瞬でも目をそらした、それが理由なのか。

「つまらないこだわりだった、と言う気はない。それだけの理由が俺にはあった。しかし、
どこか驕っていたのだろう。自分の妄想が万能と信じた。それだけが純粋なものだと思っ
ていたが、しかし」

 鮎川はそこで言葉を止めた。マグカップに残っていたチョコレートを一気に仰いだ。ふ
は、と息をつく。その顔はどうだろう、やはり笑っているのだろうか、春日には判断がつ
かなかった。

「シスプリはいいな、春日。俺は今、改めて、シスプリで萌えることができて良かったと
思っている」
「鮎川」

 春日はその言葉で、鮎川の心の中を垣間見たような気がした。
 鮎川は、けものに陵辱されたのだ。
 犯されることで解き放たれるものがある――そんなことが果たしてあるのだろうか。
 自分はどうなのだろう。春日は思う。やはり、自分も犯されていた。その先になにが
あったか。自分は、鮎川の家にやってきた。それはまるで、助けを求めるかのようだった。

「もう一度、観ようか」

 鮎川がとんでもないことを口にした。

「今から、ここでか」
「ああ、それも、お前も一緒にだ」
「馬鹿な」

 シスプリは、一人で楽しむものだ。春日はそう思っていた。あれを複数人で観るのは、
あまりにも抵抗がある。ぐちゃぐちゃどろどろに溶かされた自分をさらけ出すことになる
からだ。

「俺はな、お前と一緒に観てみたいんだ。唐突ですまないが、今、そう思った」

 鮎川が、まるでそれがなんでもないことかのように言った。

「お前はいいのか」
「二度観たのだ。三度もそう変わらない」

 しれっと答える鮎川に、春日はしかし、すでに乗り気でいる自分に気がついた。ただ、
やはり恥ずかしいのだ。そうやすやすと受け入れられることではない。

「可憐のスカートが翻ったシーンで、俺は何度もテープを巻き戻すかも知れんぞ。それで
もいいのか」
「好きにしろ」
「衛が香水をつけたときのあのセリフ、あれを聞いてしまったら、叫び出してしまうかも
しれない」
「できるだけ抑えればいい。実際に叫んだとしても、俺は文句を言わん」

 鮎川はあくまで泰然としている。

「俺とお前だから、大丈夫だ」

 ――そうか。
 春日は、それ以上言わなかった。
 鮎川はそんな春日を見て、ビデオを巻き戻した。
 俺もお前もシスプリを知っている。気にしなければいい。つまりは、そういうことだっ
た。

「飲み物がいるな」

 鮎川が再び、自分のマグカップにチョコレートを注いだ。どうだ、と促されたので、春
日も紙コップを差し出した。
 甘ったるいチョコレートの喉越しを、欲しいと思った。
 テープが完全に巻き戻った。テレビをつけ、そのまま再生させる。
 チョコレートを喉に流し込んだ。
 体の内が、早くも渇きを覚えていた。